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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
4.手を持つ獣
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19/28

4-3.猿廻しの山吉

 鉄の檻を載せた車は、山から離れていった。


 見慣れた木々が後方へ流れる。


 じいちゃんが歩いた山。


 6匹の仲間が待つ山。


 白尾がいる山。


 ヌシの白い霧に覆われた山。


 追いかけようにも、檻の扉は閉ざされている。


 鉄格子を両手で掴む。


 引く。


 押す。


 鍵の形を確かめる。


 道具があれば外せるかもしれない。


 だが、檻の中にあるのは、水を入れた容器と敷かれた布だけだった。


 麻酔の影響も残っている。


 指先へ力を込めると、肩から腕へ鈍い痛みが走った。


 今、無理に逃げようとしても成功しない。


 車が止まったとき。


 人間が扉を開けたとき。


 森の近くを通ったとき。


 機会を待つ。


 山では、待つことも生きること。


 何度も思い出した言葉を胸の中で繰り返す。


 車は人里を抜けた。


 山とは反対の方向へ進む。


 このまま遠くの森まで運ばれれば、帰る道が分からなくなる。


 上空から地形を見る翼はない。


 移動した距離も。


 曲がった道も。


 車の速さでは正確に覚えられない。


 焦りが強くなる。


 そのとき。


 運転席から、短い音が聞こえた。


 人間が使う通信機。


 猟師が何かを話している。


「……今からか?」


 車の速度が落ちた。


「もう村を出たところだぞ」


 相手の声は聞こえない。


 猟師はしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「分かった。一度戻る」


 車の向きが変わった。


 俺は鉄格子から外を見た。


 流れていく景色が、先ほどとは逆になっている。


 人里へ戻っている。


     ◇


 車が止まったのは、神社ではなかった。


 村の外れにある広場。


 古い倉庫。


 数台の車。


 色鮮やかな布を張った小さな天幕。


 その前に、何人かの人間が立っていた。


 神主。


 巫女。


 猟師。


 そして、見覚えのない一団。


 年老いた男。


 腰には太い布の帯。


 頭へ手拭いを巻いている。


 隣には、中年の女と若い男。


 さらに、彼らの足元には一匹の猿がいた。


 短い縄が首輪につながれている。


 小さな着物。


 手には細い棒。


 猿廻し。


 人間だった頃の知識が、目の前の一団の正体を教えた。


 猿へ芸を教え。


 人前で披露し。


 町から町へ移動する者たち。


 車の後部扉が開く。


 猟師が檻を下ろした。


 巫女がすぐ近くまで来る。


「ごめんね」


 鉄格子越しに、俺を見る。


「遠くの山に捨てられたら、もう帰ってこられないと思って」


 巫女は、俺が捕らえられたあとも諦めなかった。


 村に滞在していた猿廻しの一座を探し。


 野生の猿を扱えるか頼み。


 猟師へ連絡を入れた。


 神主は、苦い顔で娘の後ろに立っている。


「この獣を村へ残すわけにはいかん」


「村には残さないよ」


 巫女が答える。


「この人たちと一緒なら、人を襲わないよう見てくれる」


「野生の猿だぞ」


「だから、いきなり遠い山へ放すよりいいでしょう?」


 神主は猿廻しの座長らしい老人を見る。


「本当に扱えるのですか」


「見てみんことには分からん」


 老人が檻の前へしゃがんだ。


 目が合う。


 俺を面白がる顔ではない。


 怯えてもいない。


 猿の動き。


 手。


 目。


 呼吸。


 細かな部分を見ている。


 老人は手にしていた木の棒を、地面へ置いた。


 俺へ届く位置ではない。


 次に、小さな木の実を一つ見せる。


「取ってみろ」


 檻の隙間から投げ入れた。


 俺はすぐには拾わなかった。


 木の実。


 老人。


 外にいる猿。


 檻の鍵。


 周囲の人間。


 順番に見る。


 老人の眉が少し動いた。


「食わんのか」


 俺は木の実を拾った。


 すぐ口へ入れず、老人へ差し出す。


 これはお前の物か。


 食べてもよいのか。


 そう尋ねるつもりだった。


 老人が手のひらを上へ向ける。


「やる」


 俺は頭を下げてから、木の実を食べた。


 周囲が静かになる。


 若い猿使いが檻へ近づいた。


「今、礼をした?」


「偶然だろう」


 神主が言う。


 老人は答えず、次に右手を上げた。


 俺も右手を上げる。


 左手。


 同じように動かす。


 両手を頭の上。


 真似る。


 老人が地面を一度叩く。


 俺も檻の床を叩く。


 最後に、老人は両腕を組んだ。


 俺も腕を組む。


 若い男が息を呑んだ。


「教えてないんですよね」


「見れば分かる」


 俺の頭の中では、老人の動きに意味がある。


 真似ろ。


 止まれ。


 待て。


 単純な指示。


 猿としての知能。


 人間だった頃の理解力。


 カラスとして仲間の合図を作った経験。


 それらがあれば難しくなかった。


 だが、人間たちには、野生の猿が初めから指示を理解したように見える。


 老人が立ち上がった。


「こいつは賢い」


 神主へ向き直る。


「少なくとも、いきなり人へ飛びかかる目はしとらん」


「引き取るのですか」


「すぐに芸猿にするとは言わん」


 老人は、もう一度俺を見る。


「人に慣れるか」


「ほかの猿とやれるか」


「逃げようとするか」


「しばらく見てからだ」


 巫女が俺へ笑いかける。


「この人たちと一緒なら、いつかまた村に戻ってくるって」


「一年後の祭りには呼ばれとる」


 老人が言った。


「それまで生きとればな」


「生きています」


 巫女は強く答えた。


「この子は、山へ帰りたいんです」


 老人は巫女を見た。


 次に俺を見る。


「山へ帰るまで、一座へ来るか」


 俺に、人間の言葉で尋ねた。


 今すぐ山へ戻れる道ではない。


 一年。


 長い。


 仲間たちは待っている。


 だが、遠くの山へ放されるよりはいい。


 一座は一年後、村へ戻る。


 その間、人間と暮らせる。


 人の言葉。


 噂。


 ヌシの伝承。


 神主を説得する方法。


 学べることは多い。


 俺は一度、巫女を見た。


 次に老人を見る。


 そして、頷いた。


 老人の目が細くなる。


「やっぱり、分かっとるな」


     ◇


 俺は猿廻しの一座へ加わった。


 一座の名は、山吹一座。


 座長は宗一。


 妻のミツ。


 若い猿使いの信吾。


 ほかにも、道具や車を扱う者が数人いる。


 すでに一座で暮らしていた猿は二匹。


 年老いた雄の太郎。


 若い雌の小梅。


 俺には、山吉という名前が付けられた。


「山から来た吉兆の猿になるかもしれん」


 宗一はそう言った。


 神主だけは、吉兆という言葉へ顔をしかめた。


 檻から出された俺の首には、短い縄が付けられた。


 逃げられないように。


 人へ飛びかからないように。


 野生の猿を預かる以上、必要なものだった。


 俺は縄を外そうとしなかった。


 宗一たちを信じ切ったわけではない。


 外す方法がないわけでもない。


 結び目。


 金具。


 棒。


 道具があれば解ける。


 だが、今逃げれば、また害獣として追われる。


 一座にも迷惑がかかる。


 戻るためには、まず信頼を得なければならない。


     ◇


 最初の数日は、ほかの猿と同じ場所で過ごした。


 太郎は、俺へ近づこうとしない。


 長く人間と暮らしているため、野生の猿とは匂いも動きも違った。


 小梅は好奇心が強い。


 俺の周囲を回る。


 手を伸ばす。


 近づきすぎれば逃げる。


 弟だったカラスを思い出した。


 宗一たちは、すぐに芸を教えなかった。


 食べ物を与える。


 人間の声へ慣れさせる。


 縄を持ったまま歩く。


 車へ乗る。


 決められた場所で眠る。


 人の手から物を受け取る。


 返す。


 単純なことから始めた。


 俺は、ほとんど一度で覚えた。


「待て」


 止まる。


「来い」


 近づく。


「返せ」


 持っていた木の棒を渡す。


「座れ」


 腰を下ろす。


 宗一が頭を掻いた。


「気味が悪いほど早いな」


 信吾は楽しそうだった。


「太郎のとき、ここまでで何か月かかりました?」


「比べるな。太郎が怒る」


 太郎が不満そうに歯を見せる。


 俺は手にしていた木の実を半分に割り、太郎の前へ置いた。


 太郎は警戒した。


 やがて拾い、食べる。


 宗一たちは、その様子も見ていた。


「芸だけじゃない」


 ミツが言った。


「相手が何を嫌がってるか分かってるみたい」


 統率連携Lv.3。


 相手の役割。


 感情。


 距離。


 カラスの群れで、何年もかけて学んだこと。


 人間と暮らす猿にも通じた。


     ◇


 芸の稽古が始まった。


 最初は、礼。


 舞台へ出る。


 観客へ頭を下げる。


 宗一の合図で顔を上げる。


 棒を持つ。


 回す。


 肩へ担ぐ。


 小さな台へ乗る。


 輪をくぐる。


 太郎が見本を見せる。


 俺は観察する。


 一度目。


 動きを覚える。


 二度目。


 同じように行う。


 三度目には、太郎より速く終えた。


「待て、待て」


 信吾が俺を止める。


「早ければいいってものじゃない」


 観客へ見せる。


 間を作る。


 失敗したように見せる。


 もう一度挑戦する。


 成功したとき、胸を張る。


 芸は、動作を正確に行うだけではなかった。


 人間を笑わせる。


 驚かせる。


 期待させる。


 そのための流れがある。


 俺は人間の顔を見るようになった。


 どの動きで笑うのか。


 どこで手を叩くのか。


 失敗を本気で心配するのか。


 わざとだと気づくのか。


 観察する。


 少し変える。


 子どもが多ければ、大きく転ぶ。


 年老いた人間の前では、ゆっくり動く。


 笑い声が小さければ、宗一の真似をして首を傾げる。


 稽古を始めて十日。


 宗一は俺を小さな市へ連れていった。


「まだ早い」


 ミツは心配した。


「逃げるかもしれない」


「こいつは逃げるなら、とっくに逃げとる」


 宗一が答えた。


「舞台へ出たがっとる目だ」


 出たいわけではない。


 人間の中へ入る必要がある。


 話を聞く。


 神社。


 ヌシ。


 山の伝承。


 そのためには、一座の猿として受け入れられたほうがいい。


     ◇


 初めての舞台は、山から少し離れた町の朝市だった。


 野菜。


 魚。


 布。


 金属の道具。


 多くの店が並ぶ。


 人間の声と匂い。


 子どもたちが集まる。


 太郎が最初に芸をした。


 長年続けてきた動き。


 安定している。


 観客も笑う。


 次に小梅。


 最後に俺。


「新人、山吉!」


 信吾が声を上げる。


 俺は舞台へ出た。


 頭を下げる。


 顔を上げない。


 観客が静かになる。


 信吾が合図を出す。


 それでも動かない。


「山吉?」


 もう一度。


 ゆっくり顔を上げる。


 観客を見る。


 信吾を見る。


 首を傾げる。


 笑い声が起きた。


 計画通りだった。


 棒を担ぐ。


 台へ上がる。


 輪をくぐる。


 途中で足を引っかけ、前へ転がる。


 子どもが声を上げる。


 俺はすぐに立たない。


 痛そうに腰を押さえる。


 信吾が心配する。


 その手から木の実を取る。


 一口で食べる。


 何事もなかったように立ち上がる。


 大きな笑い。


 拍手。


 身体の奥に、何かが積み重なる感覚があった。


 動作。


 観察。


 人間との意思疎通。


 集団の中での役割。


 経験が、SPへ変わっている。


 俺は猿廻しとして、最初の舞台を終えた。


     ◇


 山吉という猿は、すぐに評判になった。


 言葉が分かる。


 合図より先に動く。


 観客の反応を見て芸を変える。


 子どもが泣けば、舞台の端まで行き、顔を隠してから覗く。


 老人が杖を落とせば、拾って渡す。


 投げられた硬貨を勝手に取らず、信吾の箱へ入れる。


「中に人が入ってるんじゃないか」


 何度も言われた。


 人だった。


 その記憶は、完全ではなくても残っている。


 だが、説明できない。


 俺は猿として芸を続けた。


 町。


 市。


 寺の縁日。


 収穫祭。


 山の周囲を、一座の車で巡る。


 人間たちは、舞台を見ながら多くの話をした。


 山の近くへ行くな。


 最近、獣が人里へ下りてくる。


 沢の水が減った。


 山菜が採れなくなった。


 霧の日には、道が変わる。


 呼ばれても振り返るな。


 大きな黒い狼を見た。


 帰ってこなかった猟師がいる。


 話のすべてが真実ではない。


 酔った人間の誇張。


 子どもを怖がらせる昔話。


 別の山の出来事。


 それらも混じっている。


 それでも、同じ内容が何度も現れた。


 ヌシの山は、以前と変わった。


 昔は、必要以上に恐れられていなかった。


 山へ入る前に礼をし。


 得た命を無駄にせず。


 持ち帰れる量だけを取れば。


 ヌシは人間を害さなかった。


 道に迷った者を、狼が麓まで導いたという話さえ残っている。


 だが、近年は違う。


 獣が消える。


 森が静かになる。


 白い霧が広がる。


 ヌシは願いを叶える代わりに、人の大切なものを奪う。


 ある者は金を願い、家族を失った。


 ある者は病の治癒を願い、別の病を得た。


 ある者は長寿を願い、老いても死ねなくなった。


 どれも噂だった。


 実際に願った者を知っている人間はいない。


 だが、願いを言葉通りに叶え。


 その心を汲まないヌシ。


 その姿は、じいちゃんの願いを歪めた存在と重なった。


     ◇


 今のヌシが、どのようにヌシになったのか。


 その伝承を初めて聞いたのは、冬を前に訪れた町だった。


 山吹一座は、古い寺の境内で芸を行った。


 舞台が終わったあと。


 火の近くで身体を温めていると、年老いた男が宗一へ話しかけた。


「山吉は、あの山から来たんだってな」


「村の神社近くで捕まったらしい」


 宗一が答える。


「なら、黒狼様の眷属かもしれんな」


 黒狼。


 俺は眠ったふりをしながら耳を澄ませた。


「今は、ヌシ様と呼ぶ者も減ったが」


 老人は火を見つめる。


「昔は、山を救った狼として祀られとった」


「狼が山を救った?」


 信吾が尋ねる。


「大昔、大きな日照りがあった」


 雨が降らない。


 沢が枯れる。


 木々が実をつけない。


 獣も人も、水を求めて争った。


 山火事まで起きた。


 そのとき。


 一頭の黒い狼が、山の奥にある泉を見つけた。


 狼は番の白い雌とともに、獣たちを泉まで導いた。


 だが、火と落石で泉へ続く道が塞がれた。


 黒い狼は、崩れる岩場へ残った。


 土を掘り。


 岩の隙間を広げ。


 水が山全体へ流れる道を作った。


 爪が剥がれ。


 牙が折れ。


 身体が焼けても、やめなかった。


 最後には、水が沢へ戻った。


 獣も。


 人里の田畑も救われた。


「それを見ていた社の神が、狼へ山を預けた」


 老人が語る。


「山の命を守る限り、老いぬ身体と、山を動かす力を与えるとな」


 神社の神。


 生と死の境を見守る神。


 死後の声の主かもしれない存在。


 その神が、黒い狼をヌシにした。


「白い雌はどうなったんです」


 信吾の問い。


 老人は首を振る。


「話によって違う」


「ヌシの番となり、今も山にいるとも」


「力を恐れて逃げたとも」


「黒狼様がヌシとなった日に死んだとも言う」


 白尾は生きている。


 ヌシの番だった。


 人間の伝承には、その存在が正しく残っていない。


「最初の黒狼様は、願いを正しく聞いたそうだ」


 老人は続けた。


「子を授けてほしいと願われれば、親になれる縁を結び」


「豊作を願われれば、その年に必要な雨を降らせた」


「ただし、山を傷つける願いだけは決して叶えなかった」


「それが、どうして今みたいになったんでしょう」


 宗一が尋ねる。


 老人は山の方向を見た。


「長く生きすぎたんだろう」


「人も獣も、長く力を持てば変わる」


「願う者の欲を見続け」


「感謝を忘れる人間を見続け」


「いつしか、願いの心ではなく、言葉の隙を探すようになった」


 白尾の言葉とつながる。


 ヌシは最初から、願いを歪める存在ではなかった。


 山を救った狼。


 命を守るために力を得た。


 だが、長い年月の中で変わった。


 それでも白尾は、かつての姿を覚えている。


 だから、ただ殺すのではなく。


 正してほしいと願っている。


     ◇


 一座と旅を始めて半年。


 人間の言葉は、ほとんど理解できるようになった。


 文字も少しずつ思い出した。


 町の名前。


 店の看板。


 祭りの日付。


 神社。


 守。


 山。


 簡単な字なら、意味が分かる。


 信吾が紙へ字を書くと。


 俺は指でなぞった。


「山吉、字も分かるのか?」


 信吾が冗談半分で尋ねる。


 俺は紙の上に、一本の線を引いた。


 その下へ、曲がった形を重ねる。


 山。


 正しい形ではない。


 それでも、信吾には伝わった。


「山に帰りたいのか」


 頷く。


 信吾の表情が変わる。


「一年後の祭りまでだ」


 彼は周囲に誰もいないことを確かめてから、俺の首輪へ触れた。


「約束する」


「村へ戻ったら、宗一さんにも話す」


「お前が逃げずに一年付き合ったなら」


「俺たちにも、お前の望みを聞く義理がある」


 俺は信吾の手へ、自分の手を重ねた。


 人間の約束。


 猿と人。


 言葉は交わせなくても、意味は分かった。


     ◇


 春になると、俺は一座の中心になっていた。


 太郎は年老いている。


 小梅は身軽だが、人前へ出ると緊張する。


 俺は新しい芸もすぐに覚えた。


 綱渡り。


 太鼓。


 扇。


 小さな台車。


 信吾と棒を使った立ち回り。


 人間の着物を着せられることには、最後まで慣れなかった。


 だが、衣装を着れば、人間は俺を野生の猿としてではなく。


 芸をする山吉として見る。


 子どもは近づく。


 老人は笑う。


 畑を荒らす害獣でも。


 ヌシの目と耳でもない。


 一座の仲間。


 そう見られる。


 人間の認識は、姿だけで変わる。


 それは不公平にも思えた。


 同時に、利用できるものでもあった。


 俺は舞台へ出るたび、人間を見る。


 人間も、俺を見る。


 その繰り返しの中で。


 獣と人の間にある境界は、少しずつ薄くなっていった。


     ◇


 村へ戻る日が近づいた。


 宗一は、荷物を車へ積みながら俺を見た。


「山吉」


「お前、あの村へ戻ったら逃げるつもりだろう」


 俺は動きを止めた。


 宗一は笑わなかった。


「一年も一緒におれば分かる」


「村の近くへ行くほど、山の方向ばかり見とる」


 否定できない。


「逃げるだけなら、今までに何度も機会があった」


「それでも残った」


「祭りへ戻るためか」


 俺は頷いた。


 宗一が長く息を吐いた。


「お前を渡されたとき」


「野生へ戻せる猿とは思わんかった」


「人に慣れすぎれば、山で生きられん」


「芸を覚えれば、人里へ食い物を求める」


「そうなる前に、一座の猿として飼うつもりだった」


 宗一の手が、俺の頭へ伸びる。


 触れる直前で止まる。


 俺が嫌がることを知っている。


 そのまま手を下ろした。


「だが、お前は人の物を盗らん」


「食い物を見ても、許されるまで待つ」


「人の近くで暮らしても、山を忘れんかった」


「戻れるかもしれんな」


 宗一は俺の首輪を見た。


「祭りが終わったら、話をしよう」


     ◇


 一年後。


 山の麓の村では、神社の祭りが開かれていた。


 石段には幟。


 境内には屋台。


 子どもたちの声。


 太鼓。


 笛。


 一年前。


 麻酔弾を受け。


 檻へ入れられた場所。


 今度は、一座の車に乗って戻ってきた。


 首には縄。


 身体には芸の衣装。


 それでも檻の中ではない。


 俺は自分の足で境内へ入った。


 社の奥から、懐かしい気配を感じる。


 死後の暗闇へ似た静けさ。


 こちらを見ている存在。


 以前より、はっきりと分かった。


 何かがいる。


 この社に。


 俺を知っているものが。


     ◇


 山吹一座の芸は、祭りの昼過ぎに始まった。


 境内の中央。


 多くの人間が集まる。


 太郎。


 小梅。


 そして山吉。


 俺が舞台へ出ると、大きな拍手が起きた。


 村の人間たちは、俺が一年前に捕らえられた猿だとは知らない。


 神主は気づいていた。


 社の前。


 ほかの人間より少し離れた場所から、険しい顔で見ている。


 その隣に、巫女がいた。


 俺を見た瞬間。


 彼女の目が大きく開いた。


「おさるさん……?」


 舞台の上から、その声が聞こえた。


 一年前より髪が少し伸びている。


 巫女の装束。


 白と赤。


 白い破邪守を差し出してくれた手。


 俺は信吾の合図を待たず。


 巫女のほうへ身体を向けた。


 深く頭を下げる。


 いつもの芸よりも長く。


 彼女へだけ分かるように。


 顔を上げる。


 巫女の目に涙が浮かんでいた。


「やっぱり、あなたなんだ」


 神主が娘を見る。


 次に俺を見る。


 俺は芸へ戻った。


 祭りを止めるわけにはいかない。


 棒。


 輪。


 台。


 太鼓。


 信吾の合図。


 観客の笑い。


 すべてを一年かけて覚えた通りに行う。


 最後の芸。


 信吾が俺へ小さな箱を渡した。


 観客から受け取った硬貨を入れる箱。


 俺は人々の前を歩く。


 硬貨が入れられる。


 一枚。


 また一枚。


 自分の物ではない。


 一座が得た対価。


 舞台へ戻る前。


 俺は箱の中から、一枚の硬貨を取り出した。


 信吾が気づく。


 止めなかった。


 俺は社へ向かって歩いた。


 神主が身構える。


 巫女が父親の腕を掴んだ。


「待って」


 石段を上がる。


 社の前。


 賽銭箱。


 俺は硬貨を入れた。


 金属の音が鳴る。


 次に、鈴の縄へ手を伸ばす。


 強く振らない。


 一度だけ揺らす。


 鈴が響いた。


 人間たちが静かになる。


 俺は、一年の旅で何度も神社を見た。


 人間が神へ願う姿を観察した。


 深く二度、頭を下げる。


 両手を合わせる。


 二度叩く。


 もう一度、頭を下げる。


 完全に正しい作法かは分からない。


 それでも、盗みに来た獣の動きではない。


 俺は山の方向を指した。


 次に自分の胸。


 白い霧に身体を押さえられる動作。


 大きな狼。


 爪。


 牙。


 最後に、社務所に置かれた白い破邪守を指す。


 一年前と同じ願い。


 だが、今は違う。


 ただ欲しがるのではない。


 人の社会で一年働いた。


 芸をし。


 対価を得て。


 その一部を神へ納め。


 人間の作法で願っている。


 破邪守を授けてほしい。


 俺は神主の前へ両手を差し出した。


     ◇


「お父さん」


 巫女が言った。


「この子は、戻ってきた」


「一座に連れられてきただけだ」


「逃げようと思えば逃げられたはず」


「一年間、人と暮らして」


「芸を覚えて」


「それでも、山へ帰るためにここへ来た」


 神主は黙っている。


「一年前も、この子はお守りを盗らなかった」


「手が届く場所にあったのに」


「私が渡すまで待った」


「今も、お金を入れて」


「神様へお願いした」


「悪い獣が、こんなことをする?」


「賢い獣だからこそ、人を欺くこともある」


「だったら」


 巫女は神主の前へ立った。


「神様にお伺いしましょう」


 父親の顔を見上げる。


「この子へ、破邪守を授けてもいいか」


「駄目なら、神様が教えてくださる」


 神主の目が揺れた。


 彼は社へ仕える者。


 山を恐れている。


 ヌシを恐れている。


 だが、それ以上に、神社の神を信じている。


 神主は俺を見た。


「お前は、ヌシの使いではないのか」


 俺は首を横へ振る。


「山へ何をしに戻る」


 大きな狼の姿を作る。


 次に、自分と狼の間へ手を置く。


 戦う。


 止める。


 正す。


 言葉にできない。


 神主は理解しきれない。


「ヌシへ牙を向けるつもりなのか」


 俺は迷ったあと、頷いた。


 周囲の人間がざわめく。


 神主の表情が厳しくなる。


「ならば、なおさら守りを渡すわけには――」


 社の奥で、音がした。


 風はない。


 誰も鈴へ触れていない。


 それでも、拝殿の鈴がゆっくり揺れた。


 一度。


 澄んだ音が境内へ響く。


 人々が静まる。


 神主が社を振り返る。


 巫女も。


 宗一たちも。


 音は一度だけだった。


 だが、俺の頭の中には声が届いた。


『願いを確認しました』


 死後の暗闇で何度も聞いた声。


 同じだった。


『破邪の加護を付与します』


 白い文字は現れない。


 姿も見えない。


 だが、間違いない。


 この神社に祀られた神が。


 俺を転生させ。


 技能と進化の道を示してきた声の主。


 すべてを問い返したかった。


 なぜ自分を助けたのか。


 じいちゃんの願いを知っているのか。


 ヌシを止めてほしいのか。


 だが、声はそれ以上答えなかった。


 神主には、声が聞こえていない。


 それでも、鈴の意味は理解したらしい。


 長い間、社を見つめる。


 やがて。


 深く息を吐いた。


     ◇


 神主は社務所へ入った。


 白い破邪守を一つ持って戻ってくる。


 一年前、巫女が俺へ渡そうとしたもの。


 同じ白い布。


 赤い糸。


 古い文字。


 神主は、すぐに差し出さなかった。


 社の前へ座る。


 破邪守を両手で持ち。


 祝詞を唱える。


 人間の言葉でありながら。


 すべての意味は分からない。


 山。


 命。


 災い。


 道。


 正しき願い。


 断片だけが聞き取れた。


 祝詞が終わる。


 神主は立ち上がり、俺の前へ来た。


「神が認められた」


 まだ迷いは残っている。


 それでも、神主は自分の恐れより、神の意思を選んだ。


「ならば、私が拒むことはできない」


 白い守りを差し出す。


「ただし」


 俺の目を見る。


「山の災いを、人里へ持ち込むな」


「人を憎み、襲う獣になるな」


「そして」


 神主の声が、わずかに弱くなる。


「娘の信頼を裏切るな」


 俺は両手で破邪守を受け取った。


 一年前と同じ。


 だが、今度は取り上げられない。


 正式に。


 神主の手から。


 社の神に認められて。


 授けられた。


 白い布へ指が触れた瞬間。


 温かなものが胸の奥へ流れ込む。


 白い霧へ触れたときの重さが、記憶の中から遠ざかる。


 守りの表面へ、淡い光が一瞬だけ走った。


 周囲の人間には見えていない。


 俺だけが分かった。


 これは、ただの布ではない。


 破邪の力を宿している。


 俺は神主へ深く頭を下げた。


 次に巫女へ。


 彼女は涙を拭きながら笑った。


「今度こそ、渡せたね」


 俺は頷いた。


     ◇


 祭りが終わった夜。


 宗一たちと話す時間が来た。


 正確には、言葉を交わすことはできない。


 だが、一年を共に過ごした。


 俺の意思は、十分に伝わっていた。


 信吾が首輪の金具を外す。


 縄が地面へ落ちた。


 一年ぶりに。


 俺の身体から、人間につながるものがなくなる。


「山へ帰るんだな」


 信吾が尋ねる。


 頷く。


 小梅が俺の腕へ触れる。


 太郎は少し離れた場所から見ている。


 俺は二匹へ、持っていた木の実を分けた。


 最初に一座へ来た日と同じように。


 宗一は腕を組んでいた。


「芸を覚えすぎた」


「人の食い物の味も知った」


「野生へ戻れるか、まだ心配だ」


 俺は山を指す。


 次に、複数の石を並べる。


 6匹の仲間。


 群れ。


 待っている者がいる。


「一匹で戻るんじゃない、か」


 宗一は石を見る。


「なら、行け」


 短い言葉だった。


「ただし、二度と人へ捕まるな」


 俺は宗一の前へ立った。


 頭を下げる。


 芸としてではない。


 一年間。


 食べ物を与え。


 人間の言葉を教え。


 町を巡り。


 村へ戻してくれたことへの礼。


 宗一は最後まで、俺の頭へ手を伸ばさなかった。


 代わりに、自分の胸を一度叩いた。


「達者でな、山吉」


     ◇


 翌朝。


 一座の車で、山の麓まで送られた。


 神社から少し離れた森。


 人間の家が見えなくなる場所。


 車の扉が開く。


 俺は地面へ降りた。


 首には、赤い紐。


 その先に、白い破邪守。


 巫女が落ちないよう結んでくれた。


 信吾。


 宗一。


 ミツ。


 太郎。


 小梅。


 一座の者たちが見ている。


 巫女と神主も、少し離れた場所へ来ていた。


 俺は全員へ向き直った。


 深く頭を下げる。


「また来てもいいからね」


 巫女が言う。


「でも、今度は捕まらないように」


 神主が娘を見る。


 何か言おうとした。


 最後には、俺へ向けて短く告げた。


「成すべきことを、成してこい」


 俺は山へ向き直った。


 木々の匂い。


 土。


 沢。


 風。


 一年離れていた故郷。


 走り出す。


 両手で枝を掴む。


 身体を持ち上げる。


 木から木へ。


 斜面を登る。


 人間の声が遠ざかる。


 車の音も。


 祭りの太鼓も聞こえなくなる。


 代わりに、山の音が戻ってくる。


 鳥。


 虫。


 水。


 風。


 その奥。


 微かに白い霧の匂い。


 首元の破邪守が、温かくなる。


 俺は止まらなかった。


 仲間たちが待っている。


 白尾へ伝えることもある。


 ヌシが、どのようにヌシになったのか。


 山を救う狼だったこと。


 社の神から、山を守る力を預かったこと。


 そして。


 今は、その力で山を死なせようとしていること。


 俺は猿廻しの山吉として一年を生きた。


 人間の輪へ入り。


 笑われ。


 受け入れられ。


 伝承を聞き。


 神の加護を得た。


 もう、人里から物を盗む獣ではない。


 人間の手から、願いを託された存在として。


 俺は再び、ヌシの山へ戻った。

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