4-2.悪い獣
人里へ向かうのは、俺一匹だけだった。
6匹の仲間を連れていけば、できることは増える。
重い物を運べる。
危険があれば助け合える。
人間に囲まれても、複数の方向へ逃げられる。
だが、7匹の猿が人里へ現れれば、それだけで騒ぎになる。
畑を荒らしに来た群れ。
人を襲う危険な獣。
人間には、そう見えるだろう。
カラスだった頃。
俺は、自分に害意がないことを理由に、人間も分かってくれると思っていた。
だが、人間には俺の目的など見えない。
今度は同じ失敗をしない。
人里へ入るのは俺だけ。
仲間たちには、山で準備を続けてもらう。
◇
俺たちは、白尾と別れた翌朝から役割を決めた。
大柄な雄には、罠に使った縄と網の管理を任せる。
クマタカは解放した。
次に現れたとき、同じ罠は通用しないかもしれない。
それでも、使える材料を残しておけば、別の仕掛けへ作り替えられる。
片耳の雄は、山の境界を見張る。
白い霧が広がっていないか。
クマタカが報復に来ないか。
深部から別の眷属が現れないか。
高い木から山全体を観察する。
小柄な雌と細身の雌には、保存できる食料を集めてもらう。
木の実。
乾かした果実。
古い山小屋へ残されていた容器。
破邪のお守りを手に入れても、すぐにヌシのもとへ向かえるとは限らない。
山の奥へ進むための準備が必要だった。
残る2匹は、白尾との連絡役。
雌狼が現れたときに、俺の帰りを待っていることを伝える。
白尾から新しい情報があれば、覚えておく。
俺は地面へ神社の形を描いた。
鳥居。
石段。
社。
そこへ向かう自分。
山に残る6匹。
俺が戻るまで、深部へ近づかない。
クマタカへ挑まない。
人里にも降りない。
大柄な雄は不満そうだった。
俺と一緒に行くつもりだったらしい。
胸を叩き、自分を示す。
次に人里の方向を指した。
「駄目だ」
俺は首を横へ振る。
人間の目には、一匹の猿と猿の群れはまったく違う。
一匹なら、迷い込んだ獣と思われるかもしれない。
複数なら、群れが移動してきたと判断される。
すぐに追い払い。
猟師。
罠。
人間の警戒を招く。
俺は大柄な雄の肩へ手を置いた。
次に、罠の材料を示す。
ここで待つことも役割だ。
以前の俺は、すべてを自分でしようとした。
今は違う。
人里へ向かう俺も。
山で準備を進める仲間も。
同じ目的のために動く。
統率連携Lv.3。
命令するだけではない。
離れた場所で、互いに役割を果たすことも連携だった。
大柄な雄は、しばらく俺を睨んでいた。
やがて、地面へ置かれた太い縄を持ち上げる。
罠の材料を肩へ担ぎ、山の中腹へ戻り始めた。
残る5匹も、その後へ続く。
細身の雌だけが、一度振り返った。
短く鳴く。
戻ってこい。
そう言われた気がした。
「分かっている」
俺も短い声を返した。
今度は、急がない。
人間の道具を盗まない。
警告を無視しない。
必ず山へ戻る。
6匹の姿が木々の向こうへ消える。
俺は反対方向。
山の麓へ向かって歩き始めた。
◇
すぐには人里へ入らなかった。
まず、山と人里の境界にある高い木を探した。
太い枝。
葉が多く、地上から姿を見つけられにくい。
そこから、家々と道を見下ろす。
朝。
人間が家から出てくる。
畑へ向かう者。
小さな子どもの手を引く者。
車という鉄の箱へ乗り込む者。
犬を連れて歩く者。
昼。
人通りが減る。
畑には年老いた人間が残る。
道を走る車の数は多い。
夕方。
子どもたちが戻ってくる。
家々から食べ物の匂いが流れる。
夜。
窓から光が漏れる。
人間は家の中へ入り、道を歩く者は少なくなる。
一日。
また一日。
同じ場所から観察した。
カラスだった頃は、人間がいなくなった時間だけを探していた。
物を持ち去るため。
見つからないため。
今は違う。
人間が何をしているのか。
どこへ集まるのか。
誰なら獣へ近づくのか。
誰が猿を見れば、すぐに追い払おうとするのか。
人そのものを見る。
畑の近くへは降りない。
家の庭へも入らない。
食べ物の匂いがしても近づかない。
人里の端を流れる川で水を飲み。
山に近い木の実を食べる。
人間の物には手を出さなかった。
◇
神社を見つけたのは、人里を観察し始めて4日目だった。
山の麓。
家々から少し離れた場所に、石の鳥居が立っている。
その先には、長い石段。
左右を古い杉に囲まれている。
石段の上には、小さな社。
大きな神社ではない。
人間が何人も集まる様子もない。
それでも境内は掃き清められ。
注連縄は新しく。
社の前には、花と水が供えられていた。
白尾が言っていた場所。
生と死の境を見守る神が祀られている社。
俺は境内から離れた杉へ登った。
社を見下ろす。
不思議な感覚があった。
風は弱い。
白い霧もない。
それなのに、毛の奥へ何かが触れてくる。
ヌシの力とは違う。
身体を押さえつけない。
命令もしない。
ただ、こちらを見ている。
死後の暗闇で聞いた声を思い出す。
『個体の死亡を確認しました』
『次の生を選択してください』
同じ存在なのか。
木の上からでは分からない。
社へ近づきたい。
だが、すぐには降りなかった。
神社にも人間がいる。
どのような者が管理しているのか。
まず確かめなければならない。
◇
朝になると、一人の男が社から出てきた。
年齢は、じいちゃんより若い。
だが、髪には白いものが混じっている。
白い着物。
薄い色の袴。
境内の扉を開け。
供え物を整え。
社へ向かって深く頭を下げた。
神主。
人間だった頃の知識が、男の役目を教えた。
神社に仕え。
神事を行い。
守り札やお守りを人へ授ける者。
白尾の言葉を思い出す。
破邪守は、盗んでも意味がない。
社の神に認められ。
人の手から授けられなければならない。
あの男から受け取る必要があるのかもしれない。
だが、いきなり姿を見せても、猿にお守りを渡すはずがない。
まず、人間が自分をどう見るか。
それを知る必要がある。
神主を観察した。
朝と夕方に、境内を回る。
落ちた枝を拾う。
社の扉を開け閉めする。
訪れた人間へ頭を下げる。
子どもが騒げば、厳しい顔をする。
野良猫が境内へ入ると、手を叩いて追い出した。
動物が好きな人間には見えなかった。
神主が社の奥へ入ったあと、別の人間が現れた。
若い娘。
白い着物。
赤い袴。
長い黒髪を後ろで束ねている。
巫女。
そして、神主が娘へ向ける声から、二人が親子であることも分かった。
神主の娘。
娘は、父親とは少し違った。
境内へ入った猫を追い払わない。
社の裏で丸くなっている猫へ、小さく手を振る。
掃除をしながら鳥の声を真似る。
石段へ落ちていた虫を見つけると、踏まれない場所へ移した。
動物を恐れていない。
少なくとも、見つけただけですぐに追い払う人間ではない。
俺は、しばらく娘を観察することにした。
◇
最初に姿を見せたのは、神社を見つけてから7日目だった。
神主は人里へ出ている。
境内には、巫女だけ。
竹箒で落ち葉を集めている。
俺は杉の幹をゆっくり下りた。
地面へは降りない。
石段の脇にある、低い屋根の上へ移る。
音を立てる。
娘が振り返った。
目が合う。
一瞬。
娘の身体が固まった。
悲鳴を上げるか。
神主を呼ぶか。
俺は逃げられるよう、屋根の端へ立った。
だが、娘は驚いた顔のまま、少しずつ笑った。
「おさるさん?」
人間の言葉。
意味がはっきりと分かる。
ニホンザルの知能。
戻りつつある人間の記憶。
以前より、人間の言葉を理解できるようになっていた。
「山から遊びに来たの?」
遊びに来たわけではない。
お守りを受け取りに来た。
だが、猿の口では答えられない。
俺は娘を見たまま、動かなかった。
娘も急には近づかない。
箒を地面へ置く。
両手を見える位置へ出す。
ゆっくり、社務所のほうへ下がった。
逃げるべきか迷う。
だが、娘はすぐに戻ってきた。
手には、小さな皿。
その上に、切った果物が載っている。
「食べる?」
娘は境内の中央まで来なかった。
屋根から離れた石の上へ皿を置く。
そして、自分から数歩下がる。
無理に近づかない。
捕まえようともしない。
食べるかどうかを、こちらへ任せている。
甘い匂いがした。
空腹ではある。
だが、人間から与えられた物をすぐに食べてよいのか。
毒。
罠。
眠らせる薬。
危険察知は、強く反応していない。
娘にも害意はない。
俺は屋根から降りた。
すぐに皿へは向かわない。
周囲を見る。
神主はいない。
ほかの人間もいない。
逃げ道も確かめる。
それから果物へ近づいた。
一つだけ拾う。
匂いを嗅ぐ。
口へ入れる。
甘い。
山で食べる果実より、柔らかい。
娘が嬉しそうに笑った。
「食べた」
俺は残りをすべて取らなかった。
一切れだけ。
それで十分だった。
娘を見る。
頭をわずかに下げる。
人間だった頃、感謝を示す動作。
娘の目が大きくなった。
「お礼したの?」
偶然ではないと伝えるため。
もう一度、頭を下げる。
娘は口元へ手を当てた。
「賢いね」
その日は、それ以上近づかなかった。
果物を一切れだけ受け取り。
屋根へ戻り。
杉を伝って山へ帰った。
◇
翌日も、神社へ向かった。
神主がいる間は姿を見せない。
娘一人になったときだけ、屋根へ降りる。
娘は、俺が来ることを待っていた。
「今日も来た」
今度は果物だけではなく、木の実も用意していた。
皿を置く。
距離を取る。
俺が食べるのを見守る。
数日経つと、娘は少し近い場所へ皿を置くようになった。
俺も、すぐには逃げなくなった。
それでも手の届く距離へは入らない。
娘が急に動けば、屋根へ上がれる位置を保つ。
人間を信じることと。
警戒を捨てることは違う。
娘は、俺へいろいろなことを話した。
「あなた、群れから離れたの?」
「山には仲間がいるの?」
「畑は荒らしちゃ駄目だよ」
「お父さんに見つかったら、追い払われるからね」
俺は言葉へ反応した。
山という言葉には、山の方向を見る。
仲間には、指を6本立てようとして諦める。
猿の両手ならできる。
だが、数字を示せば、さらに不自然に思われるかもしれない。
代わりに、何度か山を指し。
自分の周囲へ複数の石を並べた。
娘は首を傾げた。
「家族がいるの?」
完全ではない。
だが、近い。
俺は頷いた。
娘が息を呑んだ。
「やっぱり、言葉が分かるんだ」
それから娘は、簡単な問いを試すようになった。
「山へ帰る?」
頷く。
「明日も来る?」
少し迷い、頷く。
「触ってもいい?」
首を横へ振る。
娘は残念そうな顔をしたが、無理に手を伸ばさなかった。
「分かった。まだ駄目なんだね」
その態度が、ありがたかった。
◇
神社へ通い始めて、十日ほど経った。
俺は社務所の横に並ぶ物を見つけた。
小さな袋。
木札。
紙。
色の異なる紐。
お守り。
人間たちが代金を置き、神主や巫女から受け取っていく。
健康。
学業。
交通安全。
さまざまな願いに合わせた物がある。
その中に、一つだけ空気の違う守りがあった。
白い布。
中央に赤い糸。
小さな木札を包んでいる。
表には、見覚えのない古い文字。
だが、それを見た瞬間。
身体の奥に残っていた白い霧の感覚が、わずかに遠のいた。
破邪のお守り。
白尾が言っていたもの。
あれを、人の手から受け取らなければならない。
俺は近づかなかった。
盗んでも意味がない。
娘が見ていないときに持ち去ることもできる。
神主がいない時間も分かっている。
それでも手を出さない。
人間から授けられる必要がある。
問題は、どうやって娘へ欲しいと伝えるかだった。
◇
その日。
娘がいつもの皿を置いた。
俺は食べ物へ向かわなかった。
社務所の前へ移動する。
お守りが並んでいる。
娘が警戒する。
「そっちは駄目だよ」
俺は手を出さない。
白い守りを指す。
次に自分の胸を指す。
もう一度、白い守り。
娘の目が動いた。
「これが欲しいの?」
頷く。
娘は驚いた。
俺とお守りを交互に見る。
「でも、おさるさんがお守りを?」
俺は山を指した。
深部。
両腕で大きな狼の形を示す。
牙。
爪。
次に白い霧を表すよう、指を揺らす。
身体が重くなる動作。
娘には伝わらない。
それでも、何度も繰り返す。
山。
危険。
守り。
自分。
「山で、何か怖いものがいるの?」
近い。
俺は強く頷いた。
娘の表情から、笑みが消えた。
冗談ではないと理解したらしい。
白いお守りへ手を伸ばす。
だが、すぐには取らなかった。
「これは、破邪守っていうの」
破邪。
やはり、これだ。
「悪いものを遠ざけるお守り」
娘は俺を見る。
「あなた、これを知ってるの?」
頷く。
娘が白い守りを手に取った。
その瞬間。
社の奥から、低い音が響いた気がした。
鐘でも。
風でもない。
死後の暗闇で声が響く直前に似た感覚。
娘には聞こえていない。
首を傾げる様子もない。
俺だけが感じている。
娘は守りを両手で持った。
「本当に必要なら――」
「何をしている」
背後から、男の声がした。
◇
娘の身体が固まる。
振り返る。
石段の下に、神主が立っていた。
いつもより早く戻ってきたらしい。
神主の視線が、娘の手。
白い破邪守。
そして、俺へ移る。
顔色が変わった。
「離れなさい!」
神主が叫ぶ。
娘が驚いて守りを落としかけた。
俺も屋根へ逃げるため、身体を低くする。
「お父さん、待って。この子は――」
「山から降りてきた獣だ!」
神主は娘の前へ出た。
両腕を広げ、俺との間へ立つ。
娘を守る姿勢。
その顔にあるのは、嫌悪だけではない。
恐怖だった。
「でも、何日も前から来てて。人を襲ったり、物を盗ったりしてないよ」
「だから危険なんだ」
神主は俺から目を離さない。
「普通の猿が、何日も神社を窺うものか」
その通りだった。
俺は神社を観察した。
神主の行動を覚え。
娘が一人になる時間に姿を見せ。
お守りの存在を理解している。
人間から見れば、不自然な獣。
「言葉も分かるみたいなの」
「山のものが、人の言葉を真似ることはある」
「真似じゃない。ちゃんと分かってる」
「なおさら近づいてはならん!」
神主の声が境内へ響く。
「ヌシの山から降りてくるものに、良いものなどおらん」
ヌシの山。
神主も知っている。
「昔から言われている。あの山の獣は、ヌシの目と耳だ」
「この子が?」
「人の暮らしを探りに来たのかもしれん」
違う。
俺はヌシへ挑むために来た。
山を救うため。
じいちゃんの願いを確かめるため。
神社の神から力を借りるため。
だが、言葉にできない。
「この子、お守りを欲しがったの」
娘が白い破邪守を見せる。
神主の顔から、さらに血の気が引いた。
「それを渡すな」
「どうして?」
「破邪守を欲しがる獣など、まともなはずがない」
「でも、悪いものから守ってほしいんじゃ――」
「悪いものが、守りを壊すために持ち出そうとしているのかもしれん」
同じ出来事でも、受け取り方が違う。
娘は、助けを求めていると思う。
神主は、神社を狙う悪い獣だと思う。
俺の目的を知らなければ、どちらも推測にすぎない。
だが、神主には山への恐怖がある。
ヌシの山から来たというだけで。
俺は、悪い獣として見られていた。
「帰って」
娘が俺を見る。
悲しそうな顔。
「今日は帰って。また、ちゃんとお父さんと話すから」
神主が娘を睨む。
「二度と近づけるな」
俺は白い破邪守を見た。
あと少しだった。
娘は渡そうとしてくれた。
社の奥から、何かの反応もあった。
だが、今奪えば、すべてが終わる。
俺は神主へ背を向けた。
屋根へ飛び上がる。
杉の枝へ移る。
神主は石を投げなかった。
棒を振り回すこともしない。
ただ、娘を自分の後ろへ隠し。
俺が山へ消えるまで、厳しい目で見ていた。
◇
翌日。
俺は神社へ行かなかった。
人里から離れた木の上で、境内を観察する。
神主は、いつも通り掃除をしている。
娘の姿はない。
社務所の戸も閉じていた。
その次の日。
娘が境内へ出てきた。
何度も山の方向を見る。
小さな皿を、いつもの石の上へ置く。
神主に見つからないよう、周囲を確認している。
俺を待っている。
すぐに行きたかった。
だが、神主は俺を警戒している。
娘一人に見えても。
どこかから見ている可能性がある。
危険察知は、強くはない。
だが、完全に安全とも感じなかった。
俺はその日も姿を見せなかった。
娘は夕方まで皿を残していた。
◇
3日目。
神主が人里へ出ていった。
娘が社の裏から顔を出す。
俺を探している。
境内に、ほかの人間の気配はない。
屋根。
木の陰。
社務所。
観察眼で確かめる。
犬もいない。
車もない。
猟銃の匂いも感じない。
だが、胸の奥に小さな違和感が残る。
カラスだった頃。
最後の金属の輪を求めて広場へ降りた朝。
人の姿は見えなかった。
それでも猟師は、木の陰で待っていた。
同じ失敗はしない。
今日は戻るべきか。
迷っていると。
娘が白い破邪守を取り出した。
胸元へ隠していたらしい。
こちらから見えるよう、両手で持ち上げる。
「おさるさん」
小さな声。
「渡したいものがあるの」
白い守り。
人の手から授けられる必要がある。
娘は、渡そうとしている。
社の神に認められるかは分からない。
だが、ここで離れれば。
神主によって守りは隠されるかもしれない。
娘が神社へ出られなくなる可能性もある。
焦るな。
警告を無視するな。
そう思う。
同時に、機会を見極めろという考えもある。
危険だからと、永遠に近づかなければ何も得られない。
俺は杉の枝から降りた。
◇
屋根へ移る。
娘が笑った。
「来てくれた」
俺はすぐに地面へ降りない。
周囲を見た。
変化はない。
娘が白い守りを持ったまま、石段の中央へ来る。
「お父さんには内緒ね」
俺は首を横へ振った。
内緒で受け取ってよいのか。
白尾は、人の手から授けられなければならないと言った。
神主ではなく、巫女でもいいのかもしれない。
だが、父親へ隠して渡された物が、神に認められた守りとなるのか。
娘は、俺の迷いを別の意味に取った。
「怖くないよ」
一歩近づく。
「すぐ渡すから」
俺は屋根から降りた。
娘との距離は、これまでで最も近い。
手を伸ばせば、お守りへ届く。
娘は白い袋を両手で持つ。
俺へ差し出した。
社の奥から、また低い響きを感じた。
今度は明確だった。
自分を呼んでいる。
死後の声と同じではない。
だが、同じ存在の気配。
俺は両手を伸ばした。
娘の手から、白い破邪守を受け取る。
指先が布へ触れた。
その瞬間。
危険察知が、強く鳴った。
「伏せて!」
娘が叫んだ。
◇
乾いた音。
猟銃とは違う。
小さい。
空気が弾けたような音。
左肩へ、何かが刺さった。
細い筒。
後ろには、色の付いた羽のようなもの。
矢。
違う。
麻酔弾。
人間の知識が戻る。
俺はすぐに筒を引き抜こうとした。
だが、娘が近い。
暴れれば傷つける。
屋根へ逃げる。
身体を向ける。
石段の下から、一人の男が姿を現した。
猟師。
長い銃を構えている。
カラスだった頃に見た猟銃より、銃身が太い。
血の匂いはしない。
火薬の煙も弱い。
「お父さん、どうして!」
娘が叫ぶ。
社務所の陰から、神主も現れた。
隠れていた。
俺が戻ってくることを予想し。
娘が餌とお守りで呼び寄せることまで利用した。
「下がりなさい!」
「撃たないって言ったじゃない!」
「殺してはいない」
神主は俺を見ている。
「神聖な境内で、血を流すことは避けてもらった」
猟師が銃口を下げる。
「麻酔だ。すぐには効かん。近づくな」
殺生を避ける。
神社で命を奪わない。
そのための麻酔弾。
俺は白い守りを握ったまま走った。
石段の横。
杉の木。
登れば逃げられる。
腕へ力を入れる。
指が幹を掴む。
一歩。
二歩。
身体が重い。
白い霧の中とは違う。
力を奪われているのではない。
手足の感覚そのものが薄くなっていく。
麻酔。
早い。
人間の銃は、獣の大きさに合わせて薬の量を変える。
俺を事前に観察し。
体格を見て。
逃げ切れない量を用意した。
杉の幹へ爪を立てる。
右手が滑る。
地面へ落ちた。
受け身を取る。
立ち上がろうとする。
脚が動かない。
視界が揺れた。
「おさるさん!」
娘が駆け寄ろうとする。
猟師が腕で止めた。
「まだ危険だ」
「この子は危険じゃない!」
「野生の猿だ。薬が効く前に噛まれれば、指を失うぞ」
猟師の言葉は冷静だった。
俺を憎んでいるわけではない。
危険な獣を捕らえる仕事をしている。
神主から頼まれ。
神社で殺さない方法を選んだ。
以前、カラスだった自分を撃った猟師と同じ。
人間にも、人間の事情と掟がある。
だが、今は殺されなくても。
捕らえられれば、山へ戻れない。
仲間たちが待っている。
罠。
食料。
白尾。
ヌシ。
じいちゃん。
俺は地面を掻いた。
前へ進もうとする。
指に力が入らない。
白いお守りが手から落ちた。
娘が拾う。
「これを渡そうとしただけなの」
神主が娘の手から守りを取った。
「だからこそ、放ってはおけない」
「この子、助けてほしかったんだよ」
「山の獣の考えなど、人には分からん」
神主の言葉。
それは、以前の死でも突きつけられたものだった。
俺の目的は、人間には見えない。
言葉を理解していても。
感謝を示しても。
人を襲わなくても。
俺は、猿だった。
ヌシのいる山から降りてきた、悪い獣。
神主の中では、最初からそう決まっていた。
視界が暗くなる。
猟師が厚い手袋を着ける。
縄。
網。
運搬用の檻。
用意されている。
最初から、逃がすつもりはなかった。
娘が泣いている。
「どこへ連れていくの」
「人のいない山へ放す」
猟師が答える。
神主が短く言った。
「この山以外へ」
遠くへ連れていかれる。
仲間のもとへ戻れない場所。
白尾にも会えない。
ヌシの山から引き離される。
俺は最後の力で、娘の手にある白い守りを見た。
正確には、神主が取り上げたもの。
俺の指は一度触れた。
人の手から、確かに受け取った。
だが、すぐに落とした。
授けられたことになるのか。
神に認められたのか。
それすら確かめられない。
社の奥から感じていた気配が、遠ざかっていく。
意識が沈む。
その直前。
これまで聞こえなかったほど近くで。
低い声が響いた気がした。
『まだ、ここで終わりではありません』
死後の暗闇で聞く声。
だが、俺はまだ死んでいない。
問い返すこともできず。
俺の意識は、完全な闇へ落ちた。
◇
次に目を開けたとき。
最初に見えたのは、鉄の棒だった。
縦。
横。
狭い間隔で並んでいる。
身体を起こす。
頭が重い。
左肩には、麻酔弾が刺さった痕が残っている。
周囲が揺れていた。
車。
俺は檻ごと、車の荷台へ載せられている。
外の景色が後ろへ流れる。
神社。
人里。
山。
すべてが遠ざかっていく。
手元に、白い破邪守はなかった。
仲間もいない。
白尾も。
自分で作った道具もない。
あるのは、二本の手と。
これまでの記憶だけ。
人間と獣の境界を越えるつもりだった。
だが、越える前に。
俺は人間の側へ、檻の中で連れ去られていた。




