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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
4.手を持つ獣
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18/28

4-2.悪い獣

 人里へ向かうのは、俺一匹だけだった。


 6匹の仲間を連れていけば、できることは増える。


 重い物を運べる。


 危険があれば助け合える。


 人間に囲まれても、複数の方向へ逃げられる。


 だが、7匹の猿が人里へ現れれば、それだけで騒ぎになる。


 畑を荒らしに来た群れ。


 人を襲う危険な獣。


 人間には、そう見えるだろう。


 カラスだった頃。


 俺は、自分に害意がないことを理由に、人間も分かってくれると思っていた。


 だが、人間には俺の目的など見えない。


 今度は同じ失敗をしない。


 人里へ入るのは俺だけ。


 仲間たちには、山で準備を続けてもらう。


     ◇


 俺たちは、白尾と別れた翌朝から役割を決めた。


 大柄な雄には、罠に使った縄と網の管理を任せる。


 クマタカは解放した。


 次に現れたとき、同じ罠は通用しないかもしれない。


 それでも、使える材料を残しておけば、別の仕掛けへ作り替えられる。


 片耳の雄は、山の境界を見張る。


 白い霧が広がっていないか。


 クマタカが報復に来ないか。


 深部から別の眷属が現れないか。


 高い木から山全体を観察する。


 小柄な雌と細身の雌には、保存できる食料を集めてもらう。


 木の実。


 乾かした果実。


 古い山小屋へ残されていた容器。


 破邪のお守りを手に入れても、すぐにヌシのもとへ向かえるとは限らない。


 山の奥へ進むための準備が必要だった。


 残る2匹は、白尾との連絡役。


 雌狼が現れたときに、俺の帰りを待っていることを伝える。


 白尾から新しい情報があれば、覚えておく。


 俺は地面へ神社の形を描いた。


 鳥居。


 石段。


 社。


 そこへ向かう自分。


 山に残る6匹。


 俺が戻るまで、深部へ近づかない。


 クマタカへ挑まない。


 人里にも降りない。


 大柄な雄は不満そうだった。


 俺と一緒に行くつもりだったらしい。


 胸を叩き、自分を示す。


 次に人里の方向を指した。


「駄目だ」


 俺は首を横へ振る。


 人間の目には、一匹の猿と猿の群れはまったく違う。


 一匹なら、迷い込んだ獣と思われるかもしれない。


 複数なら、群れが移動してきたと判断される。


 すぐに追い払い。


 猟師。


 罠。


 人間の警戒を招く。


 俺は大柄な雄の肩へ手を置いた。


 次に、罠の材料を示す。


 ここで待つことも役割だ。


 以前の俺は、すべてを自分でしようとした。


 今は違う。


 人里へ向かう俺も。


 山で準備を進める仲間も。


 同じ目的のために動く。


 統率連携Lv.3。


 命令するだけではない。


 離れた場所で、互いに役割を果たすことも連携だった。


 大柄な雄は、しばらく俺を睨んでいた。


 やがて、地面へ置かれた太い縄を持ち上げる。


 罠の材料を肩へ担ぎ、山の中腹へ戻り始めた。


 残る5匹も、その後へ続く。


 細身の雌だけが、一度振り返った。


 短く鳴く。


 戻ってこい。


 そう言われた気がした。


「分かっている」


 俺も短い声を返した。


 今度は、急がない。


 人間の道具を盗まない。


 警告を無視しない。


 必ず山へ戻る。


 6匹の姿が木々の向こうへ消える。


 俺は反対方向。


 山の麓へ向かって歩き始めた。


     ◇


 すぐには人里へ入らなかった。


 まず、山と人里の境界にある高い木を探した。


 太い枝。


 葉が多く、地上から姿を見つけられにくい。


 そこから、家々と道を見下ろす。


 朝。


 人間が家から出てくる。


 畑へ向かう者。


 小さな子どもの手を引く者。


 車という鉄の箱へ乗り込む者。


 犬を連れて歩く者。


 昼。


 人通りが減る。


 畑には年老いた人間が残る。


 道を走る車の数は多い。


 夕方。


 子どもたちが戻ってくる。


 家々から食べ物の匂いが流れる。


 夜。


 窓から光が漏れる。


 人間は家の中へ入り、道を歩く者は少なくなる。


 一日。


 また一日。


 同じ場所から観察した。


 カラスだった頃は、人間がいなくなった時間だけを探していた。


 物を持ち去るため。


 見つからないため。


 今は違う。


 人間が何をしているのか。


 どこへ集まるのか。


 誰なら獣へ近づくのか。


 誰が猿を見れば、すぐに追い払おうとするのか。


 人そのものを見る。


 畑の近くへは降りない。


 家の庭へも入らない。


 食べ物の匂いがしても近づかない。


 人里の端を流れる川で水を飲み。


 山に近い木の実を食べる。


 人間の物には手を出さなかった。


     ◇


 神社を見つけたのは、人里を観察し始めて4日目だった。


 山の麓。


 家々から少し離れた場所に、石の鳥居が立っている。


 その先には、長い石段。


 左右を古い杉に囲まれている。


 石段の上には、小さな社。


 大きな神社ではない。


 人間が何人も集まる様子もない。


 それでも境内は掃き清められ。


 注連縄は新しく。


 社の前には、花と水が供えられていた。


 白尾が言っていた場所。


 生と死の境を見守る神が祀られている社。


 俺は境内から離れた杉へ登った。


 社を見下ろす。


 不思議な感覚があった。


 風は弱い。


 白い霧もない。


 それなのに、毛の奥へ何かが触れてくる。


 ヌシの力とは違う。


 身体を押さえつけない。


 命令もしない。


 ただ、こちらを見ている。


 死後の暗闇で聞いた声を思い出す。


『個体の死亡を確認しました』


『次の生を選択してください』


 同じ存在なのか。


 木の上からでは分からない。


 社へ近づきたい。


 だが、すぐには降りなかった。


 神社にも人間がいる。


 どのような者が管理しているのか。


 まず確かめなければならない。


     ◇


 朝になると、一人の男が社から出てきた。


 年齢は、じいちゃんより若い。


 だが、髪には白いものが混じっている。


 白い着物。


 薄い色の袴。


 境内の扉を開け。


 供え物を整え。


 社へ向かって深く頭を下げた。


 神主。


 人間だった頃の知識が、男の役目を教えた。


 神社に仕え。


 神事を行い。


 守り札やお守りを人へ授ける者。


 白尾の言葉を思い出す。


 破邪守は、盗んでも意味がない。


 社の神に認められ。


 人の手から授けられなければならない。


 あの男から受け取る必要があるのかもしれない。


 だが、いきなり姿を見せても、猿にお守りを渡すはずがない。


 まず、人間が自分をどう見るか。


 それを知る必要がある。


 神主を観察した。


 朝と夕方に、境内を回る。


 落ちた枝を拾う。


 社の扉を開け閉めする。


 訪れた人間へ頭を下げる。


 子どもが騒げば、厳しい顔をする。


 野良猫が境内へ入ると、手を叩いて追い出した。


 動物が好きな人間には見えなかった。


 神主が社の奥へ入ったあと、別の人間が現れた。


 若い娘。


 白い着物。


 赤い袴。


 長い黒髪を後ろで束ねている。


 巫女。


 そして、神主が娘へ向ける声から、二人が親子であることも分かった。


 神主の娘。


 娘は、父親とは少し違った。


 境内へ入った猫を追い払わない。


 社の裏で丸くなっている猫へ、小さく手を振る。


 掃除をしながら鳥の声を真似る。


 石段へ落ちていた虫を見つけると、踏まれない場所へ移した。


 動物を恐れていない。


 少なくとも、見つけただけですぐに追い払う人間ではない。


 俺は、しばらく娘を観察することにした。


     ◇


 最初に姿を見せたのは、神社を見つけてから7日目だった。


 神主は人里へ出ている。


 境内には、巫女だけ。


 竹箒で落ち葉を集めている。


 俺は杉の幹をゆっくり下りた。


 地面へは降りない。


 石段の脇にある、低い屋根の上へ移る。


 音を立てる。


 娘が振り返った。


 目が合う。


 一瞬。


 娘の身体が固まった。


 悲鳴を上げるか。


 神主を呼ぶか。


 俺は逃げられるよう、屋根の端へ立った。


 だが、娘は驚いた顔のまま、少しずつ笑った。


「おさるさん?」


 人間の言葉。


 意味がはっきりと分かる。


 ニホンザルの知能。


 戻りつつある人間の記憶。


 以前より、人間の言葉を理解できるようになっていた。


「山から遊びに来たの?」


 遊びに来たわけではない。


 お守りを受け取りに来た。


 だが、猿の口では答えられない。


 俺は娘を見たまま、動かなかった。


 娘も急には近づかない。


 箒を地面へ置く。


 両手を見える位置へ出す。


 ゆっくり、社務所のほうへ下がった。


 逃げるべきか迷う。


 だが、娘はすぐに戻ってきた。


 手には、小さな皿。


 その上に、切った果物が載っている。


「食べる?」


 娘は境内の中央まで来なかった。


 屋根から離れた石の上へ皿を置く。


 そして、自分から数歩下がる。


 無理に近づかない。


 捕まえようともしない。


 食べるかどうかを、こちらへ任せている。


 甘い匂いがした。


 空腹ではある。


 だが、人間から与えられた物をすぐに食べてよいのか。


 毒。


 罠。


 眠らせる薬。


 危険察知は、強く反応していない。


 娘にも害意はない。


 俺は屋根から降りた。


 すぐに皿へは向かわない。


 周囲を見る。


 神主はいない。


 ほかの人間もいない。


 逃げ道も確かめる。


 それから果物へ近づいた。


 一つだけ拾う。


 匂いを嗅ぐ。


 口へ入れる。


 甘い。


 山で食べる果実より、柔らかい。


 娘が嬉しそうに笑った。


「食べた」


 俺は残りをすべて取らなかった。


 一切れだけ。


 それで十分だった。


 娘を見る。


 頭をわずかに下げる。


 人間だった頃、感謝を示す動作。


 娘の目が大きくなった。


「お礼したの?」


 偶然ではないと伝えるため。


 もう一度、頭を下げる。


 娘は口元へ手を当てた。


「賢いね」


 その日は、それ以上近づかなかった。


 果物を一切れだけ受け取り。


 屋根へ戻り。


 杉を伝って山へ帰った。


     ◇


 翌日も、神社へ向かった。


 神主がいる間は姿を見せない。


 娘一人になったときだけ、屋根へ降りる。


 娘は、俺が来ることを待っていた。


「今日も来た」


 今度は果物だけではなく、木の実も用意していた。


 皿を置く。


 距離を取る。


 俺が食べるのを見守る。


 数日経つと、娘は少し近い場所へ皿を置くようになった。


 俺も、すぐには逃げなくなった。


 それでも手の届く距離へは入らない。


 娘が急に動けば、屋根へ上がれる位置を保つ。


 人間を信じることと。


 警戒を捨てることは違う。


 娘は、俺へいろいろなことを話した。


「あなた、群れから離れたの?」


「山には仲間がいるの?」


「畑は荒らしちゃ駄目だよ」


「お父さんに見つかったら、追い払われるからね」


 俺は言葉へ反応した。


 山という言葉には、山の方向を見る。


 仲間には、指を6本立てようとして諦める。


 猿の両手ならできる。


 だが、数字を示せば、さらに不自然に思われるかもしれない。


 代わりに、何度か山を指し。


 自分の周囲へ複数の石を並べた。


 娘は首を傾げた。


「家族がいるの?」


 完全ではない。


 だが、近い。


 俺は頷いた。


 娘が息を呑んだ。


「やっぱり、言葉が分かるんだ」


 それから娘は、簡単な問いを試すようになった。


「山へ帰る?」


 頷く。


「明日も来る?」


 少し迷い、頷く。


「触ってもいい?」


 首を横へ振る。


 娘は残念そうな顔をしたが、無理に手を伸ばさなかった。


「分かった。まだ駄目なんだね」


 その態度が、ありがたかった。


     ◇


 神社へ通い始めて、十日ほど経った。


 俺は社務所の横に並ぶ物を見つけた。


 小さな袋。


 木札。


 紙。


 色の異なる紐。


 お守り。


 人間たちが代金を置き、神主や巫女から受け取っていく。


 健康。


 学業。


 交通安全。


 さまざまな願いに合わせた物がある。


 その中に、一つだけ空気の違う守りがあった。


 白い布。


 中央に赤い糸。


 小さな木札を包んでいる。


 表には、見覚えのない古い文字。


 だが、それを見た瞬間。


 身体の奥に残っていた白い霧の感覚が、わずかに遠のいた。


 破邪のお守り。


 白尾が言っていたもの。


 あれを、人の手から受け取らなければならない。


 俺は近づかなかった。


 盗んでも意味がない。


 娘が見ていないときに持ち去ることもできる。


 神主がいない時間も分かっている。


 それでも手を出さない。


 人間から授けられる必要がある。


 問題は、どうやって娘へ欲しいと伝えるかだった。


     ◇


 その日。


 娘がいつもの皿を置いた。


 俺は食べ物へ向かわなかった。


 社務所の前へ移動する。


 お守りが並んでいる。


 娘が警戒する。


「そっちは駄目だよ」


 俺は手を出さない。


 白い守りを指す。


 次に自分の胸を指す。


 もう一度、白い守り。


 娘の目が動いた。


「これが欲しいの?」


 頷く。


 娘は驚いた。


 俺とお守りを交互に見る。


「でも、おさるさんがお守りを?」


 俺は山を指した。


 深部。


 両腕で大きな狼の形を示す。


 牙。


 爪。


 次に白い霧を表すよう、指を揺らす。


 身体が重くなる動作。


 娘には伝わらない。


 それでも、何度も繰り返す。


 山。


 危険。


 守り。


 自分。


「山で、何か怖いものがいるの?」


 近い。


 俺は強く頷いた。


 娘の表情から、笑みが消えた。


 冗談ではないと理解したらしい。


 白いお守りへ手を伸ばす。


 だが、すぐには取らなかった。


「これは、破邪守っていうの」


 破邪。


 やはり、これだ。


「悪いものを遠ざけるお守り」


 娘は俺を見る。


「あなた、これを知ってるの?」


 頷く。


 娘が白い守りを手に取った。


 その瞬間。


 社の奥から、低い音が響いた気がした。


 鐘でも。


 風でもない。


 死後の暗闇で声が響く直前に似た感覚。


 娘には聞こえていない。


 首を傾げる様子もない。


 俺だけが感じている。


 娘は守りを両手で持った。


「本当に必要なら――」


「何をしている」


 背後から、男の声がした。


     ◇


 娘の身体が固まる。


 振り返る。


 石段の下に、神主が立っていた。


 いつもより早く戻ってきたらしい。


 神主の視線が、娘の手。


 白い破邪守。


 そして、俺へ移る。


 顔色が変わった。


「離れなさい!」


 神主が叫ぶ。


 娘が驚いて守りを落としかけた。


 俺も屋根へ逃げるため、身体を低くする。


「お父さん、待って。この子は――」


「山から降りてきた獣だ!」


 神主は娘の前へ出た。


 両腕を広げ、俺との間へ立つ。


 娘を守る姿勢。


 その顔にあるのは、嫌悪だけではない。


 恐怖だった。


「でも、何日も前から来てて。人を襲ったり、物を盗ったりしてないよ」


「だから危険なんだ」


 神主は俺から目を離さない。


「普通の猿が、何日も神社を窺うものか」


 その通りだった。


 俺は神社を観察した。


 神主の行動を覚え。


 娘が一人になる時間に姿を見せ。


 お守りの存在を理解している。


 人間から見れば、不自然な獣。


「言葉も分かるみたいなの」


「山のものが、人の言葉を真似ることはある」


「真似じゃない。ちゃんと分かってる」


「なおさら近づいてはならん!」


 神主の声が境内へ響く。


「ヌシの山から降りてくるものに、良いものなどおらん」


 ヌシの山。


 神主も知っている。


「昔から言われている。あの山の獣は、ヌシの目と耳だ」


「この子が?」


「人の暮らしを探りに来たのかもしれん」


 違う。


 俺はヌシへ挑むために来た。


 山を救うため。


 じいちゃんの願いを確かめるため。


 神社の神から力を借りるため。


 だが、言葉にできない。


「この子、お守りを欲しがったの」


 娘が白い破邪守を見せる。


 神主の顔から、さらに血の気が引いた。


「それを渡すな」


「どうして?」


「破邪守を欲しがる獣など、まともなはずがない」


「でも、悪いものから守ってほしいんじゃ――」


「悪いものが、守りを壊すために持ち出そうとしているのかもしれん」


 同じ出来事でも、受け取り方が違う。


 娘は、助けを求めていると思う。


 神主は、神社を狙う悪い獣だと思う。


 俺の目的を知らなければ、どちらも推測にすぎない。


 だが、神主には山への恐怖がある。


 ヌシの山から来たというだけで。


 俺は、悪い獣として見られていた。


「帰って」


 娘が俺を見る。


 悲しそうな顔。


「今日は帰って。また、ちゃんとお父さんと話すから」


 神主が娘を睨む。


「二度と近づけるな」


 俺は白い破邪守を見た。


 あと少しだった。


 娘は渡そうとしてくれた。


 社の奥から、何かの反応もあった。


 だが、今奪えば、すべてが終わる。


 俺は神主へ背を向けた。


 屋根へ飛び上がる。


 杉の枝へ移る。


 神主は石を投げなかった。


 棒を振り回すこともしない。


 ただ、娘を自分の後ろへ隠し。


 俺が山へ消えるまで、厳しい目で見ていた。


     ◇


 翌日。


 俺は神社へ行かなかった。


 人里から離れた木の上で、境内を観察する。


 神主は、いつも通り掃除をしている。


 娘の姿はない。


 社務所の戸も閉じていた。


 その次の日。


 娘が境内へ出てきた。


 何度も山の方向を見る。


 小さな皿を、いつもの石の上へ置く。


 神主に見つからないよう、周囲を確認している。


 俺を待っている。


 すぐに行きたかった。


 だが、神主は俺を警戒している。


 娘一人に見えても。


 どこかから見ている可能性がある。


 危険察知は、強くはない。


 だが、完全に安全とも感じなかった。


 俺はその日も姿を見せなかった。


 娘は夕方まで皿を残していた。


     ◇


 3日目。


 神主が人里へ出ていった。


 娘が社の裏から顔を出す。


 俺を探している。


 境内に、ほかの人間の気配はない。


 屋根。


 木の陰。


 社務所。


 観察眼で確かめる。


 犬もいない。


 車もない。


 猟銃の匂いも感じない。


 だが、胸の奥に小さな違和感が残る。


 カラスだった頃。


 最後の金属の輪を求めて広場へ降りた朝。


 人の姿は見えなかった。


 それでも猟師は、木の陰で待っていた。


 同じ失敗はしない。


 今日は戻るべきか。


 迷っていると。


 娘が白い破邪守を取り出した。


 胸元へ隠していたらしい。


 こちらから見えるよう、両手で持ち上げる。


「おさるさん」


 小さな声。


「渡したいものがあるの」


 白い守り。


 人の手から授けられる必要がある。


 娘は、渡そうとしている。


 社の神に認められるかは分からない。


 だが、ここで離れれば。


 神主によって守りは隠されるかもしれない。


 娘が神社へ出られなくなる可能性もある。


 焦るな。


 警告を無視するな。


 そう思う。


 同時に、機会を見極めろという考えもある。


 危険だからと、永遠に近づかなければ何も得られない。


 俺は杉の枝から降りた。


     ◇


 屋根へ移る。


 娘が笑った。


「来てくれた」


 俺はすぐに地面へ降りない。


 周囲を見た。


 変化はない。


 娘が白い守りを持ったまま、石段の中央へ来る。


「お父さんには内緒ね」


 俺は首を横へ振った。


 内緒で受け取ってよいのか。


 白尾は、人の手から授けられなければならないと言った。


 神主ではなく、巫女でもいいのかもしれない。


 だが、父親へ隠して渡された物が、神に認められた守りとなるのか。


 娘は、俺の迷いを別の意味に取った。


「怖くないよ」


 一歩近づく。


「すぐ渡すから」


 俺は屋根から降りた。


 娘との距離は、これまでで最も近い。


 手を伸ばせば、お守りへ届く。


 娘は白い袋を両手で持つ。


 俺へ差し出した。


 社の奥から、また低い響きを感じた。


 今度は明確だった。


 自分を呼んでいる。


 死後の声と同じではない。


 だが、同じ存在の気配。


 俺は両手を伸ばした。


 娘の手から、白い破邪守を受け取る。


 指先が布へ触れた。


 その瞬間。


 危険察知が、強く鳴った。


「伏せて!」


 娘が叫んだ。


     ◇


 乾いた音。


 猟銃とは違う。


 小さい。


 空気が弾けたような音。


 左肩へ、何かが刺さった。


 細い筒。


 後ろには、色の付いた羽のようなもの。


 矢。


 違う。


 麻酔弾。


 人間の知識が戻る。


 俺はすぐに筒を引き抜こうとした。


 だが、娘が近い。


 暴れれば傷つける。


 屋根へ逃げる。


 身体を向ける。


 石段の下から、一人の男が姿を現した。


 猟師。


 長い銃を構えている。


 カラスだった頃に見た猟銃より、銃身が太い。


 血の匂いはしない。


 火薬の煙も弱い。


「お父さん、どうして!」


 娘が叫ぶ。


 社務所の陰から、神主も現れた。


 隠れていた。


 俺が戻ってくることを予想し。


 娘が餌とお守りで呼び寄せることまで利用した。


「下がりなさい!」


「撃たないって言ったじゃない!」


「殺してはいない」


 神主は俺を見ている。


「神聖な境内で、血を流すことは避けてもらった」


 猟師が銃口を下げる。


「麻酔だ。すぐには効かん。近づくな」


 殺生を避ける。


 神社で命を奪わない。


 そのための麻酔弾。


 俺は白い守りを握ったまま走った。


 石段の横。


 杉の木。


 登れば逃げられる。


 腕へ力を入れる。


 指が幹を掴む。


 一歩。


 二歩。


 身体が重い。


 白い霧の中とは違う。


 力を奪われているのではない。


 手足の感覚そのものが薄くなっていく。


 麻酔。


 早い。


 人間の銃は、獣の大きさに合わせて薬の量を変える。


 俺を事前に観察し。


 体格を見て。


 逃げ切れない量を用意した。


 杉の幹へ爪を立てる。


 右手が滑る。


 地面へ落ちた。


 受け身を取る。


 立ち上がろうとする。


 脚が動かない。


 視界が揺れた。


「おさるさん!」


 娘が駆け寄ろうとする。


 猟師が腕で止めた。


「まだ危険だ」


「この子は危険じゃない!」


「野生の猿だ。薬が効く前に噛まれれば、指を失うぞ」


 猟師の言葉は冷静だった。


 俺を憎んでいるわけではない。


 危険な獣を捕らえる仕事をしている。


 神主から頼まれ。


 神社で殺さない方法を選んだ。


 以前、カラスだった自分を撃った猟師と同じ。


 人間にも、人間の事情と掟がある。


 だが、今は殺されなくても。


 捕らえられれば、山へ戻れない。


 仲間たちが待っている。


 罠。


 食料。


 白尾。


 ヌシ。


 じいちゃん。


 俺は地面を掻いた。


 前へ進もうとする。


 指に力が入らない。


 白いお守りが手から落ちた。


 娘が拾う。


「これを渡そうとしただけなの」


 神主が娘の手から守りを取った。


「だからこそ、放ってはおけない」


「この子、助けてほしかったんだよ」


「山の獣の考えなど、人には分からん」


 神主の言葉。


 それは、以前の死でも突きつけられたものだった。


 俺の目的は、人間には見えない。


 言葉を理解していても。


 感謝を示しても。


 人を襲わなくても。


 俺は、猿だった。


 ヌシのいる山から降りてきた、悪い獣。


 神主の中では、最初からそう決まっていた。


 視界が暗くなる。


 猟師が厚い手袋を着ける。


 縄。


 網。


 運搬用の檻。


 用意されている。


 最初から、逃がすつもりはなかった。


 娘が泣いている。


「どこへ連れていくの」


「人のいない山へ放す」


 猟師が答える。


 神主が短く言った。


「この山以外へ」


 遠くへ連れていかれる。


 仲間のもとへ戻れない場所。


 白尾にも会えない。


 ヌシの山から引き離される。


 俺は最後の力で、娘の手にある白い守りを見た。


 正確には、神主が取り上げたもの。


 俺の指は一度触れた。


 人の手から、確かに受け取った。


 だが、すぐに落とした。


 授けられたことになるのか。


 神に認められたのか。


 それすら確かめられない。


 社の奥から感じていた気配が、遠ざかっていく。


 意識が沈む。


 その直前。


 これまで聞こえなかったほど近くで。


 低い声が響いた気がした。


『まだ、ここで終わりではありません』


 死後の暗闇で聞く声。


 だが、俺はまだ死んでいない。


 問い返すこともできず。


 俺の意識は、完全な闇へ落ちた。


     ◇


 次に目を開けたとき。


 最初に見えたのは、鉄の棒だった。


 縦。


 横。


 狭い間隔で並んでいる。


 身体を起こす。


 頭が重い。


 左肩には、麻酔弾が刺さった痕が残っている。


 周囲が揺れていた。


 車。


 俺は檻ごと、車の荷台へ載せられている。


 外の景色が後ろへ流れる。


 神社。


 人里。


 山。


 すべてが遠ざかっていく。


 手元に、白い破邪守はなかった。


 仲間もいない。


 白尾も。


 自分で作った道具もない。


 あるのは、二本の手と。


 これまでの記憶だけ。


 人間と獣の境界を越えるつもりだった。


 だが、越える前に。


 俺は人間の側へ、檻の中で連れ去られていた。

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