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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
4.手を持つ獣
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17/28

4-1.眷属との取引

 ニホンザルとして生まれた俺は、以前までとは比べものにならないほど多くの記憶を持っていた。


 人間として病に伏せていたこと。


 じいちゃんが自分を救うため、山のヌシを探しに入ったこと。


 蟻として、何度も短い生を繰り返したこと。


 カブトムシとして空を知ったこと。


 ハシブトガラスとして、山の深部へ続く道を見つけたこと。


 すべてが完全につながっているわけではない。


 人間だった頃の名前は、まだ思い出せない。


 家の中の様子も。


 病院で過ごした日々も。


 じいちゃんと交わした言葉も、ところどころ霧に覆われている。


 それでも、これまでの転生とは違った。


 誰を探しているのか。


 なぜ山の奥へ進まなければならないのか。


 その目的を、幼い頃から失わずにいられた。


 母猿の腹へしがみつきながら、俺は何度も自分の手を見た。


 5本の指。


 曲げる。


 伸ばす。


 一本ずつ動かす。


 親指をほかの指へ合わせ、細い毛を摘まむ。


 小さな枝を握る。


 反対の手へ持ち替える。


 カラスだった頃、あれほど欲しかったもの。


 物を押さえながら。


 別の物を動かし。


 複数の材料を同時に扱える身体。


 今度こそ、あの罠を完成させられる。


 淡く光る目を持つクマタカ。


 ヌシの眷属。


 あれを倒す必要はない。


 力の届かない場所へ誘い。


 動きを封じ。


 その口から、ヌシの情報を引き出す。


 幼い俺は、母猿の毛を握りながら、何度もその光景を思い描いた。


     ◇


 群れには、多くの猿がいた。


 子を抱く雌。


 木の上で遊ぶ若い猿。


 互いの毛づくろいをする成獣。


 食料を探す者。


 周囲を警戒する者。


 群れの中心には、一匹の大きな雄がいた。


 年老いている。


 背中の毛はところどころ白くなり、右目の上には古い傷が残っている。


 それでも腕は太く、若い雄が近づけば、低い声だけで道を譲らせた。


 群れの長。


 すべての猿が、長の命令へ無条件に従うわけではない。


 食料を巡って争うこともある。


 勝手に群れを離れる者もいる。


 だが、移動する方向。


 危険な場所へ近づくか。


 ほかの群れと争うか。


 群れ全体に関わる判断では、長の意思が優先された。


 俺は、猿としての生き方を学びながら成長した。


 どの木の実が食べられるのか。


 硬い殻を石でどう割るのか。


 冬には、どの斜面へ行けば食料が残っているのか。


 危険を知らせる声。


 仲間を呼ぶ声。


 怒り。


 不安。


 服従。


 猿たちは、人間の言葉を話さない。


 それでも、表情。


 声。


 身体の向き。


 相手へ触れる手。


 それらを組み合わせ、多くの意思を伝えていた。


 俺には、人間だった頃の考える力がある。


 カラスとして群れを作った経験もある。


 猿たちの声を理解するまで、それほど長い時間はかからなかった。


 やがて、自分の意思を複雑な形で伝えられるようになった。


 棒で地面へ線を引く。


 石を置く。


 身振りを加える。


 危険の場所。


 進む方向。


 獲物の大きさ。


 一度にすべてを伝えることはできない。


 だが、相手が理解するまで何度も繰り返せば、意味は届いた。


     ◇


 成獣に近い身体へ成長した頃。


 俺は群れの長へ、山の深部について伝えた。


 場所は、群れが夜を過ごす岩場だった。


 地面の土を平らにする。


 一本の線を引いた。


 山の麓。


 もう一本。


 中腹。


 さらに奥へ、深い溝を作る。


 白い霧の境界。


 その先に、大きな鳥の形を描いた。


 翼。


 嘴。


 爪。


 目の場所には、青白い石を二つ置く。


 クマタカ。


 ヌシの眷属。


 長は、俺が作る図を黙って見ていた。


 周囲には、年老いた雌や大きな雄も集まっている。


 俺はクマタカの先へ、黒い石を置いた。


 さらに奥。


 山頂。


 じいちゃんがたどり着いた洞窟。


 そこに、クマタカよりも大きな狼の形を描く。


 ヌシ。


 俺は自分を示し。


 次に黒い狼を指し。


 進む動作を見せた。


 ヌシのもとへ行く。


 そのために、クマタカを越える。


 仲間の力を借りたい。


 長はしばらく動かなかった。


 やがて大きな手を伸ばし、地面に描いた狼の形を崩した。


 低い声を出す。


 俺は、その意味を理解した。


 近づくな。


 俺はもう一度、狼の形を描いた。


 じいちゃんを示すため、人間が杖をついて歩く姿も描く。


 この山へ入った人間。


 ヌシのもとへ行った。


 俺は、その後を追わなければならない。


 長は強く地面を叩いた。


 周囲の猿たちが身体を縮める。


「ヌシ様に逆らってはならぬ」


 実際に人間の言葉が聞こえたわけではない。


 だが、長の声と姿は、俺の頭の中でそういう意味を結んだ。


 ヌシは、この山の主。


 山の水。


 木の実。


 獣。


 天候。


 すべてを支配する存在。


 怒らせれば、群れ全体が滅ぼされる。


 白い霧の向こうは、ヌシが許した者だけが入る場所。


 眷属へ罠を仕掛けるなど、決して許されない。


 俺は、深部から白い霧が広がっていることを伝えようとした。


 以前よりも境界が下がってきている。


 動物たちが避ける場所も増えている。


 ヌシが山を守っているのではなく。


 その力が、山の生き物を遠ざけている。


 だが、長は聞かなかった。


 正確には、理解したうえで受け入れなかった。


 ヌシへ逆らう危険と。


 少しずつ生活の場所が狭くなる危険。


 長は前者を選んだ。


 今まで群れが生き延びてきた方法を変えない。


 白い霧へ近づかない。


 眷属を怒らせない。


 ヌシの名を恐れ。


 許された場所だけで生きる。


 長は最後に、俺の肩を強く押した。


 この話は終わりだ。


 そう告げていた。


     ◇


 長へ拒まれた夜。


 俺は群れから少し離れた木の下にいた。


 地面には、昼間に描いた跡が残っている。


 猿たちに踏まれ。


 風に削られ。


 狼の形も、人間の姿も崩れていた。


 この群れの力を借りることはできない。


 一匹で罠を作ることはできる。


 手がある。


 道具使用Lv.3も残っている。


 カラスだった頃より、はるかに複雑な仕掛けを組める。


 だが、完成した罠を同時に動かすには仲間が必要だった。


 網を落とす者。


 左右から縄を引く者。


 石の重りを動かす者。


 逃げ道を塞ぐ者。


 そして、眷属を罠まで誘う者。


 一匹では足りない。


 どうすべきか考えていると、背後で枝が揺れた。


 振り返る。


 若い猿が一匹、こちらを見ていた。


 額の毛がほかより赤い、大柄な雄。


 昼間、長の後ろで話を聞いていた猿だ。


 雄は地面へ降りた。


 俺が描いたクマタカの形を、指でなぞる。


 その爪の部分へ触れ。


 次に、自分の左腕を示した。


 毛の下に、長い傷があった。


 幼い頃、眷属に襲われた。


 隣にいた兄弟を奪われ。


 自分だけが逃げた。


 その意味が伝わってくる。


 雄は、地面へ唾を吐くような仕草をした。


 クマタカが気に食わない。


 ヌシも。


 ヌシを恐れるだけの長も。


 さらに、木々の間から別の猿が現れた。


 一匹。


 また一匹。


 全部で6匹。


 大柄な雄を含め、若い雄が3匹。


 若い雌が3匹。


 全員が、昼間の話を聞いていた。


 一匹の小柄な雌が、白い霧を示す線へ石を置いた。


 さらに別の石を、少し手前へ動かす。


 白い霧が、以前より群れの近くまで来ている。


 その雌が幼い頃に使っていた餌場も、今では霧の向こうにある。


 片耳の雄は、地面に描かれた長の姿を叩いた。


 何もしない長へ苛立っている。


 細身の雌は、俺が描いた罠らしき線へ興味を示した。


 どうやってクマタカを捕らえるのか。


 知りたい。


 6匹は、正義のために集まったわけではなかった。


 ヌシが山を苦しめていると、深く理解しているわけでもない。


 眷属に身内を奪われた。


 使える場所が狭くなった。


 長の言葉へ従うことが気に食わない。


 危険なことをしてみたい。


 理由は、それぞれ違う。


 それでも、目指すものは同じだった。


 ヌシの眷属へ一泡吹かせる。


「力を貸してくれるのか」


 俺は地面へ、7匹の印を描いた。


 自分。


 6匹の若者。


 その先に、クマタカ。


 大柄な雄が、クマタカの形を拳で潰した。


 残る5匹も、それぞれ手を重ねる。


 俺たちは、その夜から行動を共にするようになった。


     ◇


 最初にしたのは、眷属を捕らえる場所を選ぶことだった。


 深部の中では勝てない。


 白い霧が傷を塞ぐ。


 風が眷属へ味方する。


 侵入した者の身体からは力が抜ける。


 罠を仕掛けるなら、ヌシの力が届かない場所でなければならない。


 俺はカラスだった頃の記憶を頼りに、境界を探した。


 沢。


 白い苔。


 古い杉。


 青白い石。


 当時と同じ形の場所を、一つずつ確認する。


 長い年月が経っている。


 木は倒れ。


 沢の流れも一部変わっていた。


 それでも、白い霧が強くなる場所は残っている。


 7匹で境界を歩いた。


 俺が風と地形を見る。


 大柄な雄が、重い石を運ぶ。


 小柄な雌は細い岩場へ入り、霧の湧く穴を探す。


 片耳の雄は高い木へ登り、クマタカが飛ぶ時間を確かめる。


 残る3匹は、眷属の爪痕。


 羽毛。


 獲物を食べた跡を探した。


 何日も観察した結果。


 クマタカは、境界の外へまったく出られないわけではないと分かった。


 乾いた風が山の外から深部へ向かう日。


 白い霧が奥へ押し戻される。


 そのときだけ、眷属の行動範囲も狭くなる。


 クマタカは境界近くまで飛ぶ。


 だが、長く外へ留まろうとはしない。


 ヌシの力から離れれば、自分も弱くなることを知っている。


 普通に誘っても、境界を越えてはこない。


 無理に追えば、深部へ逃げる。


 外へ引きずり出すためには、眷属がどうしても取り戻さなければならない物が必要だった。


     ◇


 弟だったカラスが、白い霧の中から青白い石を持ち帰った記憶。


 石は、古い木。


 岩の割れ目。


 沢の源。


 ヌシの力が流れる場所にあった。


 あの石は、ただ光っていただけではない。


 境界を作るための一部。


 山へ力を流すための印だったのかもしれない。


 俺たちは、境界近くにある一つの石を狙った。


 直接手で触れない。


 長い枝を使う。


 枝の先へ、縄で小さな輪を付ける。


 石へ掛ける。


 岩の割れ目から引き抜く。


 試しに少し動かすと、周囲の白い苔が揺れた。


 薄い霧が立ち上る。


 クマタカの鋭い声が、深部から響いた。


 石を動かせば、眷属は気づく。


 予想は正しかった。


 俺たちはすぐに石を戻し、その場を離れた。


 罠を作る場所は、石のある境界から少し下った谷に決めた。


 両側に木が密集している。


 クマタカが大きく旋回できない。


 地面には倒木があり、その下を猿なら潜れる。


 谷の出口を越えれば、白い霧はほとんど届かない。


 乾いた風が吹く日なら、完全に力の外へ出られる。


 そこへ、カラスだった頃に完成させられなかった罠を作った。


     ◇


 古い山小屋から、太い縄を運んだ。


 人里へは行かない。


 使われなくなった物だけを集める。


 腐っている部分を切り捨て。


 強いところだけを残す。


 蔓を編み込んで補強する。


 7匹なら、一匹では持ち上がらない縄も運べた。


 大きな網は、自分たちで作った。


 長い蔓。


 人間が残した縄。


 細い枝。


 俺が形を考える。


 細身の雌と小柄な雌が、結び目を作る。


 大柄な雄が縄を強く引き、緩みを取る。


 片耳の雄が木へ登り、高い位置へ固定する。


 残る3匹は材料を集め、完成した部分が絡まないよう広げた。


 カラスの足と嘴では、数日かかっていた作業。


 猿の手なら。


 7匹の役割があれば。


 同じ時間で、何倍もの大きさを作ることができた。


 網は谷の上へ折り畳んで隠した。


 左右には、しなる若木。


 縄を強く引き、地面近くへ曲げる。


 木の力を蓄える。


 一本の留め具を外せば、若木が元へ戻ろうとする。


 その力で網が左右から締まり、翼を包む。


 さらに、大きな石を重りとして使った。


 斜面の上へ置く。


 支えとなる丸太。


 縄。


 引き金。


 クマタカが網へ入ったあと、石を落とす。


 重りが網を地面へ引く。


 大きな翼を広げられなくする。


 爪のための輪も用意した。


 金属の針金を重ね。


 蔓で包む。


 直接脚を切らない。


 だが、暴れるほど締まり。


 爪を使えなくする。


 殺すための罠ではない。


 捕らえるための罠。


 山の掟を破り、必要以上に傷つけるつもりはなかった。


 俺たちが欲しいのは命ではない。


 情報だった。


     ◇


 何度も試した。


 枝を束ね、クマタカほどの重さにする。


 高い場所から谷へ落とす。


 小柄な雌が合図を出す。


 左右の猿が留め具を外す。


 網が落ちる。


 若木が跳ねる。


 縄が締まる。


 大柄な雄が丸太を外す。


 重りの石が斜面を滑る。


 網が地面へ引きつけられる。


 最初は失敗した。


 網の片側しか閉じない。


 石が途中で止まる。


 縄が木へ絡まる。


 若木の反動が強すぎて、網そのものが破れた。


 作り直す。


 結び目を変える。


 縄の長さを揃える。


 重りを小さくする。


 一度に全部を動かさず、順番を決める。


 俺が合図する。


 最初に網。


 次に左右の若木。


 最後に重り。


 7匹が、それぞれの役割を覚えた。


 大柄な雄は、最初の頃には俺の合図を待てなかった。


 クマタカの束が落ちる前に重りを動かす。


 片耳の雄は、網が閉じる様子を見たくて、担当の縄を離した。


 小柄な雌は、失敗するとすぐ別の方法を試そうとした。


 一匹ずつなら、罠は動かない。


 自分の役割を果たし。


 相手が動くまで待ち。


 決められた順番を守る。


 カラスとして学んだ統率連携Lv.3が、身体の奥で働いた。


 俺がすべてを命令するのではない。


 それぞれの猿が見た問題を聞く。


 役割を変える。


 力の強い者。


 素早い者。


 細かい作業が得意な者。


 高い場所を恐れない者。


 適した場所へ置く。


 何十回目かの試験。


 枝の束が谷へ落ちる。


 合図。


 網。


 若木。


 重り。


 すべてが正しい順番で動いた。


 枝の束は翼を広げることもできず、地面へ固定された。


 暴れる代わりに縄を強く引く。


 締め具合を確認する。


 それでも罠は壊れない。


 完成した。


     ◇


 あとは、クマタカを外へ誘い出すだけだった。


 乾いた風が、山の外から深部へ吹き込む日を待った。


 空に雲が少なく。


 沢の水位が低く。


 白い苔から霧が出ない日。


 3日。


 5日。


 十日。


 待つ。


 若い猿たちは、何度も今すぐ試そうとした。


 完成した罠を使いたい。


 眷属を捕らえたい。


 だが、俺は止めた。


 カブトムシだった頃。


 人里へ通ったカラスだった頃。


 急ぎすぎて死んだ。


 道具が完成したからといって、使う時が来たとは限らない。


 最も有利な日を待つ。


 山では、待つことも生きること。


 じいちゃんの教えを思い出す。


 その日が来たのは、秋の初めだった。


 朝から乾いた風が吹いている。


 白い霧は、境界の奥まで押し戻されていた。


 青白い石の光も弱い。


 俺たちは役割の場所へ向かった。


 6匹が罠で待つ。


 俺だけが境界へ進む。


 眷属を誘う役。


 最も危険な役だった。


 だが、クマタカは俺を知っている。


 以前、カラスとして2度その領域へ入った。


 骨を胸へ突き刺した。


 俺の姿が変わっても。


 魂まで見えるのなら。


 眷属は追ってくる。


     ◇


 青白い石のある場所へ近づく。


 長い枝を使う。


 先端に付けた輪を、石へ掛ける。


 ゆっくり引く。


 石が、岩の割れ目から外れた。


 周囲の空気が震えた。


 白い苔の隙間から、わずかな霧が立ち上る。


 深部の木々から、鋭い声が響いた。


 来る。


 俺は石を抱えた。


 重い。


 両手で持つ。


 カラスの身体では、運べなかった大きさ。


 猿の腕なら持てる。


 木々の間を走る。


 枝へ飛びつく。


 石を片手で抱え。


 もう片方の手で枝を掴む。


 背後で、大きな翼の音がした。


 振り返らない。


 谷へ向かう。


 クマタカの声が近づく。


 頭の奥へ、怒りが押し込まれた。


 返せ。


 石を戻せ。


 侵入者。


 今度こそ殺す。


 俺は走り続けた。


 境界を越える。


 身体が軽くなる。


 白い霧は追ってこない。


 背後のクマタカが、境界の手前で一度速度を落とした。


 追うか。


 戻るか。


 迷っている。


 俺は立ち止まった。


 青白い石を、両手で持ち上げる。


 地面へ叩きつけるような動きを見せた。


 実際には落とさない。


 だが、眷属には意味が伝わった。


 追ってこなければ、この石を壊す。


 クマタカの目が強く光った。


 翼を一度羽ばたく。


 境界を越えた。


     ◇


 風が爆発する。


 俺は石を抱えたまま、倒木の下へ滑り込んだ。


 直後。


 クマタカの爪が、頭の上を通り過ぎる。


 谷の奥へ走る。


 眷属は追ってくる。


 以前の生より、動きが鈍い。


 ヌシの力から離れている。


 それでも、普通のクマタカとは比べものにならない。


 低い木を蹴る。


 斜面へ上がる。


 飛びかかる。


 大きな嘴が、肩のすぐ横を掠めた。


 罠の中央が見える。


 地面には、目印となる白い石。


 あそこまで。


 あと少し。


 俺は青白い石を前方へ投げた。


 石が罠の向こうへ転がる。


 クマタカの視線が、俺から石へ移った。


 大きな翼を広げる。


 地面すれすれを飛び、石へ向かう。


 罠の中央へ入った。


 俺は鋭く鳴いた。


 合図。


 小柄な雌が、留め具を外す。


 頭上から網が落ちた。


 クマタカが気づく。


 翼を羽ばたかせる。


 網の一部が持ち上がる。


 次の合図。


 左右の若木が跳ね上がった。


 縄が引かれる。


 網が両側から締まる。


 クマタカの翼を包む。


 眷属が鳴いた。


 風が谷へ吹き荒れる。


 猿たちの身体が揺れる。


 それでも、縄を離さない。


 大柄な雄が、支えの丸太を蹴った。


 斜面の上で、重りの石が動く。


 地面を削りながら落ちる。


 網が下へ引かれた。


 クマタカの身体が地面へ叩きつけられる。


 片耳の雄と2匹の雌が飛び出す。


 針金を包んだ輪を、太い脚へ掛ける。


 クマタカが爪を振るう。


 一匹の頬を掠めた。


 血が飛ぶ。


 それでも離れない。


 輪を引く。


 別の縄へ固定する。


 もう片方の脚も。


 クマタカが嘴を振り回す。


 大柄な雄が太い枝を押しつけ、首の動きを抑えた。


 殺さない。


 首を折らない。


 呼吸を妨げない。


 だが、嘴が届かない位置へ固定する。


 俺も飛びかかり、網の端を地面の杭へ巻きつけた。


 7匹が同時に縄を引く。


 翼。


 脚。


 首。


 巨大な眷属の動きが止まった。


     ◇


 白い霧は現れなかった。


 地面からも。


 木々の間からも。


 クマタカの羽毛からも。


 何も湧き出さない。


 網へ擦れた翼から、赤い血がにじんでいる。


 傷は塞がらなかった。


 ヌシの力は、ここまで届いていない。


 クマタカの目が淡く光った。


 次の瞬間、怒りに満ちた意思が頭の中へ流れ込んできた。


『猿ごときが』


 若い猿たちの身体が震える。


 耳から聞こえた声ではない。


 それでも、眷属の怒りは全員へ伝わっていた。


『我を謀ったか』


 クマタカが翼を動かす。


 網が大きく膨らんだ。


 縄が軋む。


 若木がしなる。


 大柄な雄が歯を食いしばり、両手で縄を引いた。


 ほかの猿たちも、それぞれの持ち場から離れない。


 罠は壊れなかった。


「話を聞きたい」


 俺はクマタカの前へ立った。


 猿の口から出たのは、短い鳴き声と身振りにすぎない。


 だが、俺の意思も眷属へ届いていた。


『放せ』


「答えを聞いたら放す」


『我を捕らえ、ヌシ様を脅すつもりか』


「違う」


 俺は首を横へ振った。


「ヌシのところへ行く方法を知りたい」


 クマタカの目が細くなる。


『何のために』


「じいちゃんが、ヌシへ何を願ったのか確かめる」


 クマタカの目から、わずかな揺れが伝わってきた。


 やはり、何かを知っている。


「俺は何度も死んだ」


 胸を指す。


 次に、両腕を広げて翼の形を作る。


 黒い鳥。


 尖らせた骨。


 クマタカの胸へ突き刺した動作。


 眷属の身体が、わずかに強張った。


『あの黒い鳥か』


「そうだ」


『姿が変わろうとも、同じ魂の匂いがする』


「なら、俺が何者なのかも知っているのか」


 クマタカは答えなかった。


「じいちゃんの願いと、俺の転生は関係しているんだろ」


 沈黙。


 だが、その沈黙そのものが答えに近かった。


「白い霧の影響を受けずに、洞窟まで行く方法を教えろ」


『断る』


 迷いのない返答だった。


「お前を殺したいわけじゃない」


『ならば放せ』


「話せば放す」


『話すことはない』


 俺は尖った石を拾った。


 クマタカの首元へ近づける。


「このまま置いていけば、お前は死ぬ」


『それがどうした』


 クマタカの意思に、恐れはなかった。


 怒り。


 侮蔑。


 そして、揺るぎない忠誠。


『我はヌシ様の翼』


『ヌシ様の空を守り』


『ヌシ様へ牙を向ける者を屠るために生きる』


「ヌシの力で、お前の傷は治る」


『それもヌシ様より賜ったもの』


「だが、ここにはその力が届かない」


『ならば、ここで死ぬまで』


 クマタカは淡く光る目で、俺を見据えた。


『ヌシ様を陥れるために我が口を開くことはない』


『情報が欲しければ、我を殺せ』


 大柄な雄が低く唸った。


 兄弟を眷属に奪われた猿。


 殺せという言葉を待っていたかのように、太い枝を持ち上げる。


 ほかの若者たちも、クマタカを睨んでいた。


 眷属を殺せば、仇を討てる。


 群れを襲う危険も一つ減る。


 だが、情報は得られない。


 殺すために罠を作ったわけでもない。


「お前が死んでも、ヌシは困らないのか」


『代わりの翼が選ばれる』


「お前は、それでいいのか」


『ヌシ様のために死ぬならば、我が生に不足はない』


 埒が明かない。


 脅しても意味がない。


 苦しめれば口を割る相手でもない。


 ヌシへの忠誠が、生きることよりも優先されている。


 俺は尖った石を下ろした。


 どうする。


 解放すれば、何も得られない。


 殺しても、必要な答えは手に入らない。


 捕らえ続ければ、やがてクマタカは本当に死ぬ。


 取引そのものが成立していなかった。


 そのとき。


 谷の奥から、低い唸り声が聞こえた。


     ◇


 7匹の猿が、一斉に振り返る。


 木々の間。


 深い影の中から、一頭の狼が現れた。


 大きい。


 だが、記憶の中でじいちゃんを導いた獣よりは細く見える。


 灰色と白が混じった毛。


 耳の先には、小さな傷。


 左の脇腹にも、古い爪痕が残っている。


 雌だった。


 年老いている。


 それでも歩みには乱れがなく、深い森を自分の庭のように進んでくる。


 淡く光る目。


 クマタカと同じ。


 そして、じいちゃんをヌシのもとへ導いた獣とも同じ光。


 若い猿たちが身構えた。


 大柄な雄が枝を持ち直す。


 小柄な雌たちが縄を引き、クマタカをさらに地面へ押さえつける。


 新しい眷属。


 そう思った。


 だが、クマタカの反応は違った。


『なぜ、ここにいる』


 怒りの中に、警戒が混じる。


 狼は答えず、捕らえられたクマタカへ近づいた。


 網。


 縄。


 若木。


 重り。


 俺たちが作った罠を一つずつ見る。


 最後に、俺へ目を向けた。


『ようやく、ここまで来たか』


 静かな声が、頭の中へ届いた。


 クマタカのものとは違う。


 低く。


 疲れていて。


 それでも、どこか温かさがあった。


「俺を知っているのか」


『長い間、見ていた』


「いつから」


『お前が黒い翼で、この山の境を探り始めた頃から』


 カラスだった頃。


 白い霧。


 青白い石。


 妹と弟。


 集団ねぐら。


 あの頃から、この狼は俺を見ていた。


「お前も、ヌシの眷属か」


 狼はすぐには答えなかった。


 深部の方向へ顔を向ける。


『かつては、そう呼ばれても否定しなかった』


「かつて?」


『あれがヌシとなる前』


 狼の目に、遠い記憶が浮かぶ。


『まだ一頭の狼として、この山を駆けていた頃』


『私は、あれの番だった』


 周囲の空気が止まったように感じた。


 山のヌシ。


 巨大な狼。


 今は願いを歪め。


 白い霧を広げ。


 山の生き物を深部から遠ざけている存在。


 そのヌシにも、ただの狼だった時代があった。


 そして、目の前の雌狼は、その頃から隣にいた。


「お前は、ヌシの妻なのか」


『人の言葉で呼ぶなら、それに近い』


 狼は捕らえられたクマタカを見る。


『だが、今のあれの隣に、私の居場所はない』


『愚かな裏切り者が』


 クマタカが網の中で暴れた。


『ヌシ様の番でありながら、ヌシ様へ背くか』


『背いたのは、私ではない』


 狼の声は静かだった。


『あれが、山から背いた』


 クマタカが鋭く鳴く。


『ヌシ様こそ山そのもの』


『ヌシ様の意思に従うことが、山へ従うことだ』


『違う』


 狼の低い声が、谷へ響いた。


『ヌシは山の上に立つ者ではない』


『山の命をつなぎ』


『水を巡らせ』


『弱きものと強きものの間を保つ者』


『山を生かすために、力を預かる者だ』


 狼は足元の土を見た。


 乾いている。


 谷を流れる水も、以前より細い。


『白い霧は年々広がっている』


『深部では、木々が実をつけなくなった』


『水の湧く場所も減った』


『獣は子を産まず』


『鳥は巣を捨て』


『虫さえ、霧の届かぬ場所へ逃げている』


 カラスだった頃に調べた境界。


 生き物が消えた森。


 外側へ広がる白い霧。


 すべては気のせいではなかった。


『このままでは、山そのものが死ぬ』


 雌狼はヌシを憎んでいるのではない。


 声の奥にあるのは、怒りよりも悲しみだった。


 かつて隣を走った相手。


 番だった狼。


 その存在が、自分たちの山を壊していくことを見続けている。


「どうして止めなかった」


『止めようとした』


 狼の脇腹に残る古い傷。


 耳の裂け目。


 それが、どのようにできたのか分かった。


『幾度も言葉を尽くした』


『山の声を聞けと』


『霧を広げるなと』


『願いを己の都合で歪めるなと』


「それで、襲われたのか」


『今のあれには、私の声は届かない』


 狼はクマタカへ視線を向けた。


『周囲には、忠誠だけを示す者が残った』


『あれの決定を疑わず』


『あれが山を殺していることすら認めない者たちが』


『黙れ!』


 クマタカが叫ぶ。


『ヌシ様を侮辱するな!』


『あれは今も、山を守っておられる』


『守ろうとして、殺している』


『違う!』


 網が激しく揺れる。


 縄へ血がにじむ。


 それでもクマタカは暴れることをやめなかった。


 忠誠が偽りなのではない。


 本気でヌシを信じている。


 だからこそ、話は通じない。


     ◇


「俺に何をさせたい」


 雌狼へ尋ねた。


『ヌシのもとへ行け』


「そのために、こいつから方法を聞こうとしていた」


『この鳥は決して話さぬ』


 狼は断言した。


『殺されても』


『翼をもがれても』


『ヌシへ不利になることは口にしない』


 クマタカは何も言わなかった。


 否定しない。


 狼の言う通りなのだ。


「なら、お前が教えてくれるのか」


『教える』


 若い猿たちが狼を見る。


 罠を握る手はまだ緩んでいない。


「どうして俺を信じる」


 雌狼は、俺の目を長く見つめた。


『お前は幾度も死んだ』


『小さな命として山を知り』


『空から山を見て』


『群れを作り』


『手を得て』


『今は、眷属を殺さずに捕らえた』


「殺せなかっただけかもしれない」


『殺すだけなら、罠へ刃を仕込めた』


『お前はそうしなかった』


 その通りだった。


 情報が欲しかったからだけではない。


 無用に命を奪う必要はないと思った。


『そして今も、この鳥が口を開かないからといって、すぐには殺さなかった』


『お前には、あれが失ったものが残っている』


「何を」


『山の命を、力のためだけに使わぬ心』


 じいちゃんが教えた山の掟。


 必要以上に奪わない。


 食べる分だけを得る。


 弱い命を、理由なく傷つけない。


 命を得たなら無駄にしない。


 蟻。


 カブトムシ。


 カラス。


 何度生まれ変わっても、身体の奥へ残っていたもの。


『お前なら、あれを正せるかもしれない』


「倒せる、ではなく?」


『殺せば山が救われるとは限らない』


 雌狼は深部を見た。


『あれの命と、山へ流れる力は深く結びついている』


『ただ殺せば、白い霧とともに山の水まで絶えるかもしれぬ』


「じゃあ、どうすればいい」


『ヌシとしての座から引きずり下ろす』


『あるいは、あれが自ら力を手放すようにさせる』


『それができなければ――』


 狼の声が、わずかに震えた。


『そのときは、私も覚悟を決める』


 かつての番を殺す。


 その覚悟なのだろう。


 だが、本当はそうしたくない。


 今でも、ヌシとなる前の狼を覚えている。


 隣を走った日々を。


 同じ獲物を追い。


 同じ場所で眠った相手を。


 だからこそ、俺に託そうとしている。


     ◇


「ヌシの力を受けずに、洞窟まで行く方法はあるのか」


『ある』


 狼は山の麓へ顔を向けた。


『人の住む場所に、小さな社がある』


 石の階段。


 鳥居。


 注連縄。


 朧げな人間の記憶が浮かぶ。


「神社か」


『そこには、ヌシとは異なる神が祀られている』


『山のヌシより古く』


『生と死の境を見守る神』


 生と死。


 その言葉を聞いた瞬間。


 死後の暗闇で、何度も聞いた声が蘇った。


『個体の死亡を確認しました』


『次の生を選択してください』


 感情がないようで。


 それでも、何度も俺へ道を示してきた声。


「その神は……」


 言葉が続かなかった。


 確信はない。


 だが、無関係とは思えない。


『社には、破邪の守りがある』


「それを持てば、白い霧の影響を受けないのか」


『ヌシの息がお前の身体へ入り込むことを防ぐ』


『力を奪われず』


『風に道を曲げられず』


『一時なら、ヌシの目からも外れられる』


 破邪のお守り。


 それがあれば、クマタカを倒さなくても深部へ進める。


 白い霧の中で身体が重くならない。


 ヌシの洞窟まで行ける。


「社から持ってくればいいんだな」


『盗んだものでは意味がない』


 雌狼が首を横へ振った。


『守りは、ただ持てば力を示すものではない』


『社の神に認められ』


『人の手から授けられなければならぬ』


「人間から?」


『そうだ』


 カラスだった頃。


 俺は人間の道具を求め、人里へ通った。


 目的を急ぎ。


 警告を無視し。


 危険な害鳥と見なされ。


 猟師に撃たれた。


 今度はニホンザル。


 畑を荒らす。


 人間の家へ入る。


 人を襲う。


 カラス以上に危険な獣として扱われるかもしれない。


 それでも、人間と関わらなければならない。


 盗むためではない。


 奪うためでもない。


 人の手から守りを受け取るために。


「どうすれば、人間は猿にお守りを渡す」


『それは、私にも分からぬ』


 狼は静かに答えた。


『人の心は、山の獣より複雑だ』


『だが、お前はかつて人であった』


「知っていたのか」


『お前の魂には、人の匂いが残っている』


 クマタカも、同じ魂の匂いがすると言っていた。


 この山の古い存在には、姿の奥にあるものが見えるらしい。


『だからこそ、お前にしかできぬ』


 人と獣。


 山と里。


 生と死。


 その間を行き来してきた自分。


 すべての転生が、この先へつながっているように思えた。


     ◇


「このクマタカはどうする」


 俺は罠の中の眷属を見た。


 クマタカは、雌狼を強く睨んでいる。


『裏切り者の言葉へ従うな』


『ヌシ様は山を救っておられる』


『この猿こそ、ヌシ様の願いを汚す者だ』


 雌狼は反論しなかった。


 ただ、俺を見ている。


 判断を委ねている。


 クマタカを殺せば、一つの脅威は消える。


 だが、ヌシへの忠誠まで消えるわけではない。


 代わりの眷属が選ばれるだけだ。


 そして、クマタカは最後まで情報を渡さなかった。


 敵ではある。


 だが、約束を裏切ったわけではない。


 最初から、取引を拒んでいただけだ。


「放す」


 大柄な雄が強く地面を叩いた。


 納得していない。


 兄弟の仇。


 目の前で殺せる相手。


 逃せば、また群れを襲うかもしれない。


 俺は雄の前へ立った。


 目を合わせる。


 長く。


 相手が手にしていた枝へ、ゆっくり手を添える。


「こいつを殺しても、兄弟は戻らない」


 言葉は伝わらない。


 それでも、俺の意思は届いた。


「俺たちが倒すべきなのは、この鳥一羽じゃない」


 大柄な雄の腕から、少しずつ力が抜ける。


 最後には枝を下ろした。


 俺たちは罠を順番に解いた。


 最初に嘴。


 次に片方の脚。


 もう片方。


 翼。


 最後に網を外す。


 クマタカはすぐには飛び立たなかった。


 傷ついた翼を開く。


 血が落ちる。


 白い霧は来ない。


 自分の力だけで戻らなければならない。


『情けをかけたつもりか』


「違う」


『次に会えば、お前を殺す』


「そのときは、また捕まえる」


 クマタカの目へ、激しい怒りが宿る。


 だが、襲いかかる力は残っていなかった。


 大きく翼を動かす。


 一度。


 二度。


 身体が地面から離れる。


 低い枝へ止まり。


 雌狼を睨んだ。


『ヌシ様へ、すべてを伝える』


『裏切り者が猿へ道を示したことも』


『構わぬ』


 雌狼は答えた。


『今のあれが私の声を聞かぬなら』


『この者が届くまで、私は何度でも道を開く』


 クマタカは鋭く鳴いた。


 翼を広げ。


 境界へ向かって飛んでいく。


 白い霧が届く場所へ入った瞬間。


 その身体が霧へ包まれた。


 羽毛の下の傷が塞がっていく。


 弱っていた羽ばたきに力が戻る。


 クマタカは一度だけ旋回した。


 淡く光る目が、俺と雌狼を見下ろす。


 そして、深部へ消えた。


     ◇


 俺たちは青白い石を元の場所へ戻した。


 岩の割れ目へ置く。


 白い苔の間から、薄い霧が立ち上る。


 境界が再び閉じていく。


 若い猿たちは、罠を片づけ始めた。


 縄。


 網。


 針金。


 使える物は持ち帰る。


 壊れた枝と蔓は、山へ返す。


 雌狼は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


「これからも力を貸してくれるのか」


『必要なときは』


「群れの近くまで来られるのか」


『私は眷属ではない』


『ヌシの命令へ縛られてもいない』


 それでも、その目には淡い光がある。


「その目は?」


『長くあれの番であったため、力の一部が残っている』


『だが、白い霧に傷を治されることも』


『山へ命令することもできぬ』


 ただの狼ではない。


 だが、ヌシの力へ従う存在でもない。


 山の深部を知り。


 ヌシの過去を知り。


 それでも山を救うため、ヌシへ背こうとしている。


「名前はあるのか」


 狼は少し考えた。


『獣に、人のような名はない』


 それから、わずかに目を細めた。


『あれは昔、私を白尾と呼ぶような声を出した』


 灰色の身体。


 尾の先だけが白い。


「白尾」


 俺が心の中で呼ぶと、狼は一度だけ耳を動かした。


『好きに呼べ』


 白尾。


 かつてヌシの番だった雌狼。


 今後、深部の情報を得るための協力者。


 そして、暴走するヌシを止めたいと願う者。


     ◇


 次に向かう場所は決まった。


 山の麓にある神社。


 ヌシよりも古く。


 生と死の境を見守る神。


 その神の印を宿す、破邪のお守り。


 ただ持ち去るだけでは力を得られない。


 人間の手から、授けられなければならない。


 以前の俺は、人間の道具を盗んだ。


 相手の事情を考えず。


 自分の目的だけを優先し。


 最後には猟師に撃たれた。


 同じ失敗はできない。


 今度は、奪ってはいけない。


 人間へ危害を加えず。


 人間の警戒を越え。


 一匹の猿として、お守りを受け取る。


 どうすればいいのかは、まだ分からない。


 だが、俺は以前より多くのものを持っている。


 二本の手。


 道具を使う知識。


 仲間と動く力。


 そして、山の深部から協力してくれる白尾。


 じいちゃんの願い。


 自分の転生。


 死後に聞こえる声。


 ヌシの暴走。


 神社に祀られた、生と死を見守る神。


 バラバラだったものが、少しずつ一本の道へつながっていく。


 俺は白尾を見た。


「神社へ行ってくる」


『気をつけろ』


 白尾は山の麓へ視線を向けた。


『人は、獣よりも深く恐れ』


『獣よりも長く恨みを覚える』


「知っている」


『だが、人は時に』


 白尾の声が、少しだけ柔らかくなる。


『獣にはできぬほど、見返りなく手を差し伸べる』


 じいちゃんの姿が浮かんだ。


 自分を救うため。


 命を懸けて山へ入った人。


「それも、知っている」


 白尾は何も言わなかった。


 木々の間へ身体を向ける。


 去る前に、一度だけ振り返った。


『お前があれのもとへ届く日を、私は待つ』


 その姿が、深い森へ消える。


 7匹の猿は罠の材料を背負い、山の中腹へ戻り始めた。


 次に越えるべきものは、白い霧ではない。


 人と獣の間にある境界。


 俺は木々の向こうに広がる人里を見た。


 そのどこかに。


 俺を何度も転生させてきた声の主が、祀られているのかもしれない。

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