3-6.群れを継ぐ
三羽で山を飛ぶ日々は、長く続いた。
俺。
慎重で、道を覚えることに長けた妹。
好奇心が強く、誰も見ようとしないものを見つける弟。
それぞれの役割は、誰かが決めたものではなかった。
妹は安全な道を見つける。
弟は変化を探す。
俺は二羽から得た情報をまとめ、進むか戻るかを判断する。
危険があれば鳴き声で知らせる。
食料を見つければ分け合う。
一羽で運べない物は、三羽で持ち上げる。
誰かが遅れれば待つ。
誰かが怪我をすれば、回復するまで食料を運ぶ。
初めは、ニホンザルへ進化するためだった。
統率連携という技能を得るため。
群れで生きる経験を積むため。
だが、いつしか、その目的を考えることは減っていった。
三羽でいることが、俺たちにとって自然になっていたからだ。
◇
春が巡る。
夏が過ぎる。
秋には木の実を集め、冬に備えた。
何度目かの春。
妹が、一羽の雄を連れてきた。
森の中腹で暮らしていたカラスだった。
身体は大きくない。
だが、周囲の変化へ敏感で、妹が警告の声を上げるとすぐに反応した。
妹と似ている。
慎重で、無理をしない。
安全な木。
猛禽が近づきにくい枝。
冬でも水が凍りにくい沢。
二羽は同じ場所を選んだ。
やがて、山の中腹に巣を作った。
俺が教えたわけではない。
妹は自分で場所を選び。
雄と協力して枝を運び。
風の当たりにくい位置へ巣を組み上げた。
卵が生まれる。
妹は巣へ残り、雄が食料を運ぶ。
俺と弟も、近くで餌を見つければ分けた。
妹の雛が孵る。
小さな嘴。
まだ黒くない身体。
かつての俺たちと同じように、食べ物を求めて首を伸ばしている。
俺にとっては、妹の子ども。
人間だった頃の言葉で呼ぶなら、甥や姪になるのだろう。
その言葉を思い出したとき、胸の奥へ奇妙な温かさが広がった。
自分が直接残した命ではない。
それでも、守りたいと思った。
◇
弟が番を見つけたのは、その翌年だった。
相手も、弟と同じように落ち着きのない雌だった。
食べられない物へ興味を示す。
光る石を拾う。
獣が通ったあとの地面を調べる。
弟が古い山小屋へ向かえば、雌も迷わず後を追った。
二羽で行動すると、見つける物がさらに増えた。
崩れた小屋の床下から、錆びた金属片。
沢の中から、人間が落としたガラス。
倒木の根元から、古い骨。
使える物と危険な物を見分けることは、まだ得意ではない。
俺が止めなければ、触れるべきではない物まで持ち帰ろうとした。
それでも、弟一羽だった頃よりは無謀さが減った。
片方が先へ進めば、もう片方が周囲を見る。
危険を感じれば呼び戻す。
互いの好奇心を、互いが抑えている。
二羽も巣を作った。
巣の周囲には、どこから集めたのか分からない物が混じっていた。
白い布。
曲がった針金。
青い紐。
巣として必要なのかは分からない。
だが、弟たちは満足しているようだった。
その巣にも雛が生まれた。
妹の子どもたち。
弟の子どもたち。
俺たちの周囲に、若いカラスが増えていった。
◇
俺にも、番ができた。
彼女は、別の山から飛んできた雌だった。
俺よりわずかに小さい。
気が強く、初めて会ったときには、餌場を巡って激しく鳴き合った。
俺が食料を分けても、すぐには近づかない。
離れた枝からこちらを見ている。
安全だと判断すると、ようやく降りてきた。
何度か同じ餌場で出会ううち、彼女は俺たち三羽の行動を見るようになった。
妹が警告すれば、俺と弟が戻る。
弟が何かを見つければ、三羽で確かめる。
食料を独占しない。
怪我をした個体を置き去りにしない。
普通のカラスの群れとは、少し違う。
彼女は、いつの間にか俺たちと行動するようになった。
最初は、俺の指示へ従うことを嫌った。
俺が進む方向を示しても、別の道を選ぶ。
危険を知らせても、自分の目で確かめなければ戻らない。
俺も、彼女を無理に従わせることはしなかった。
妹や弟と暮らす中で学んだからだ。
従わせるだけでは、相手の目を失う。
彼女には、彼女の判断がある。
俺が見落としている危険へ、先に気づくこともあった。
やがて、俺たちは同じ巣を作った。
彼女は枝を選ぶことに厳しかった。
曲がった枝を俺が運ぶと、巣の外へ放り出す。
もっと真っ直ぐで、太さの揃った物を持ってこいということらしい。
作り直す。
また捨てられる。
何度も繰り返し、ようやく彼女が納得する巣ができた。
卵が生まれた。
俺は餌を運んだ。
彼女が巣を離れるときは、代わりに周囲を見張った。
雛が孵った。
その一羽が、初めて目を開いたとき。
俺の胸の奥へ、遠い記憶が浮かんだ。
病院のベッド。
小さな写真。
じいちゃんの大きな手。
自分も、こうして見守られていたのだろうか。
記憶はすぐに霧へ消えた。
それでも、じいちゃんが山へ入った理由を、以前より少しだけ理解できた気がした。
自分の子どもを守るためなら。
その命が失われようとしているなら。
何かに縋りたくなる。
何でも差し出すと言ってしまう。
正しいかどうかではない。
そうせずにはいられないのだ。
◇
俺たちの子どもが巣立つ頃には、妹や弟の子どもたちも大きくなっていた。
若いカラスたちは、すぐに山を離れなかった。
親の近くで餌を探す。
幼い兄弟を見守る。
危険が近づけば、鳴き声を上げる。
俺たちの行動を、雛の頃から見ていた。
食料を見つけた個体が、すべてを食べない。
周囲へ知らせる。
一羽では持ち上がらない物を、複数で運ぶ。
猛禽が現れれば、弱い個体を中央へ置く。
怪我をした者がいれば、ねぐらへ食料を持ち帰る。
教えたつもりはなかった。
だが、若いカラスたちは同じように行動した。
最初は、俺たちの家族だけだった。
冬になると、別の群れのカラスが加わった。
山の麓から。
別の沢から。
遠い森から。
夜を安全に過ごせる場所を求め、多くのカラスが集まってくる。
大きな杉の林。
風を避けられる斜面。
周囲を見渡せる高い木。
そこが、集団ねぐらになった。
夕方になると、黒い翼が次々と山へ戻ってくる。
十羽。
二十羽。
さらに増える。
木の枝が、黒い鳥で埋まった。
鳴き声が山へ響く。
すべてのカラスが、俺の仲間というわけではない。
食料を奪う者もいる。
小さな争いも起きる。
俺たちの合図を理解しない者もいる。
それでも、夜になれば同じ場所で羽を休めた。
危険が近づけば、一羽の警告が全体へ伝わる。
猛禽が現れる。
最初に見つけた者が鳴く。
近くの者が同じ声を上げる。
警告が、木から木へ広がる。
何十羽ものカラスが一斉に飛び立つ。
大きな黒い群れとなり、猛禽の周囲を飛ぶ。
背後から鳴く。
進路へ回り込む。
攻撃するのではない。
近づけば危険だと知らせる。
単独なら狩られる側だった。
群れなら、追い払える。
◇
若い頃の俺は、群れの先頭に立った。
どこへ飛ぶか。
どこで食料を探すか。
どの沢を越えてはならないか。
どの天候で深部へ近づくべきではないか。
自分が先に飛び、進む方向を示す。
妹が安全な道を伝える。
弟が異変を知らせる。
その情報を俺がまとめ、群れへ合図した。
白い霧が広がる日は、深部から離れる。
乾いた風が吹く日は、境界近くまで観察へ向かう。
青白い石を見つけても、直接触れない。
若いカラスへ、枝を使って動かす姿を見せた。
人里へは近づきすぎない。
人間の畑。
家。
子どもが集まる場所。
そこには、人間の縄張りがある。
捨てられた物に見えても、勝手に持ち去らない。
人間へ追われたら、二度と同じ場所へ戻らない。
俺が猟師に撃たれた記憶を、ほかのカラスへ言葉で伝えることはできない。
だが、警告の声。
飛ぶ方向。
近づかない姿。
行動なら残せる。
群れは、少しずつ山の中での生き方を覚えた。
◇
年月が流れた。
俺の子どもたちも、番を持った。
その子どもも生まれる。
妹や弟の子孫も増えた。
最初の三羽から始まった関係は、何十羽もの家族へ広がっていった。
全員の顔を見分けることはできない。
それでも、鳴き声を聞けば分かる者がいる。
俺の子。
妹の子。
弟の子。
その孫。
同じねぐらで冬を越した仲間。
怪我をしたときに餌を運んだ相手。
猛禽から助けられた相手。
関係は、一本の線ではない。
何本もの線が絡まり、大きな群れを作っていた。
俺は、いつまでも先頭ではなかった。
翼の力が弱くなった。
高く飛び続けることが難しくなる。
嘴の先が欠け、硬い物を加工する力も落ちた。
若いカラスと同じ速度では飛べない。
急旋回すれば、身体の均衡が崩れる。
最初の頃は、それを認めたくなかった。
群れが動き始めれば、先頭へ出ようとした。
若い個体が別の道を選べば、自分のほうが正しいと鳴いた。
この山を最も長く見てきたのは自分だ。
白い霧も。
深部の境界も。
眷属のクマタカも知っている。
若い者へ任せれば、間違えるかもしれない。
そう思っていた。
◇
ある秋の日。
群れは山の西側へ食料を探しに向かった。
先頭を飛んでいたのは、俺の息子だった。
何羽もいる子どもの中で、最も長く俺のそばに残った雄。
身体は俺より大きい。
飛ぶ力も強い。
幼い頃から、妹のように道を覚え。
弟のように変化を見ることも学んでいた。
群れをまとめる声も持っている。
それでも俺は、自分が先に飛ぼうとした。
息子が南側の尾根へ向かう。
俺は北側の沢へ進むよう鳴いた。
北側のほうが近い。
以前から使っている道。
食料を隠した場所もある。
息子は進路を変えなかった。
短い声で、群れへ南へ進むよう知らせる。
若いカラスたちは息子へ従った。
俺は苛立った。
もう一度、北を示す。
そのとき、妹の娘が俺の前へ回り込んだ。
低く鳴く。
空を見ろ。
そう伝えている。
北側の沢。
木々の間に、薄い白い霧が流れていた。
前日まで雨は降っていない。
だが、山の上には厚い雲がかかっている。
深部から吹く風が、沢に沿って下りてきていた。
俺は気づかなかった。
飛ぶ力が落ちたことだけではない。
目も。
感覚も。
以前ほど鋭くなくなっている。
息子は、先に変化を見つけていた。
だから、遠くても安全な南側を選んだ。
俺の経験は間違っていない。
だが、今の山を見ていたのは息子だった。
若い頃の俺は、妹や弟の声を聞くことを学んだ。
相手を従わせるのではなく。
それぞれの見たものを受け取ることを。
だが、いつの間にか、自分の経験へ固執していた。
群れを率いることと。
いつまでも自分の判断を通すことは違う。
俺は北へ向かうのをやめた。
息子の後ろへ入る。
群れの一羽として、南側の尾根へ進んだ。
息子は振り返らなかった。
俺が従うことを、当然のように受け入れた。
それでよかった。
◇
その冬から、群れを動かすのは息子になった。
俺は先頭へ出ない。
息子の合図を聞く。
飛び立てと言われれば飛ぶ。
待てと言われれば枝へ残る。
若い個体が警告を発すれば、その声へ従う。
初めは、不思議な感覚だった。
自分が決めない。
誰かの判断へ命を預ける。
だが、それは弱くなることではなかった。
群れの一員になることだった。
若い頃は、群れを進ませるために前へ出た。
年老いた今は、群れを乱さないために後ろへ入る。
必要な役割が変わっただけだ。
息子は、俺が作った合図を使った。
短く二度鳴けば集合。
低く一度なら停止。
鋭く三度なら退避。
妹と弟と三羽で決めた合図。
それが子どもへ伝わり。
さらに若い世代へ伝わっている。
俺が先頭から退いても、積み重ねたものは消えなかった。
◇
妹が先に死んだ。
冬を越えた直後だった。
身体が弱り、ねぐらから飛び立てなくなった。
妹の番と子どもたちが、食料を運んだ。
俺も隣の枝へ止まった。
巣の端へ転がりかけていた、小さな雛。
俺の後ろを飛び。
安全な道を覚え。
白い霧の境界を、最初に感じ取った妹。
最後まで、群れが戻る方向を見ていた。
ある朝。
妹は枝の上で身体を丸めたまま、動かなくなった。
弟は、その翌年に姿を消した。
最後まで好奇心は変わらなかった。
見たことのない光を追い。
新しい沢へ向かい。
誰も知らない物を持ち帰った。
ある日、群れから離れたまま戻らなかった。
死んだのか。
別の山へ行ったのか。
分からない。
だが、弟の子どもたちは、今も集団ねぐらにいる。
地面の小さな変化を見つける。
見慣れない物を拾う。
危険を承知で近づこうとし、仲間へ止められる。
弟が群れの中に残っているようだった。
最初の三羽で始めた生活は、俺一羽になった。
だが、独りではなかった。
周囲には、俺たちの子ども。
孫。
仲間。
何十羽もの黒い鳥がいる。
◇
最後の春が訪れた。
自分の寿命が近いことを、身体が教えていた。
翼を広げても、以前のようには浮かない。
ねぐらから近くの沢まで飛ぶだけで息が上がる。
硬い木の実は割れない。
息子や孫が、柔らかい食料を運んでくる。
若い頃の俺なら、それを拒んだかもしれない。
自分で食べ物を得られないなら、生きる意味がない。
そう考えたかもしれない。
今は、素直に受け取った。
若い個体へ食料を分けた日があった。
怪我をした弟へ運んだ日もあった。
今度は、自分が支えられる番だった。
群れで生きるとは、与える側であり続けることではない。
必要なときには、受け取る。
相手の役割を信じる。
それもまた、群れの一員としての生き方だった。
ある夕方。
息子の合図で、群れが集団ねぐらへ戻ってきた。
夕焼けの空を、黒い翼が埋める。
一羽。
また一羽。
高い杉の枝へ降りる。
鳴き声が重なる。
若い鳥。
年老いた鳥。
今年生まれたばかりの鳥。
何十羽もの命が、同じ場所で夜を迎える。
俺は低い枝へ止まっていた。
もう、高い場所までは飛べない。
息子が近くへ降りてくる。
俺の羽毛へ嘴を入れ、乱れた部分を整えた。
かつて俺が、妹や弟へしたように。
役割は、完全に入れ替わっていた。
空が暗くなる。
遠くに、山の深部が見えた。
白い霧。
青い石。
淡く光る目を持つクマタカ。
じいちゃんが消えた場所。
この生では、眷属へ再び挑まなかった。
それでよかった。
罠を作るだけでは勝てないことを知った。
山の力が流れる境界を知った。
眷属が深部の外まで追ってこないことも知った。
そして、一羽ではできないことを知った。
次は、ニホンザルになる。
手を持つ身体。
道具を作れる指。
山の中腹に暮らす群れ。
カラスよりも地上へ近く。
眷属が守る境界を、木々の陰から観察できる。
クマタカへ勝つ必要はない。
罠で動きを封じ。
領域の外へ誘い。
その隙に奥へ進めばいい。
あるいは、戦わずに情報だけを得る。
じいちゃんが向かった場所。
ヌシの姿。
眷属が守っているもの。
それを知る。
「次こそ、奥へ行く」
鳴き声にはならなかった。
胸の中で、静かに誓う。
焦らない。
一匹ですべてを背負わない。
力だけで勝とうとしない。
カラスとして何年もかけて学んだことを、次の身体へ持っていく。
息子が、夜を迎える合図を鳴らした。
群れの声が静まる。
俺も羽毛へ嘴を入れ、身体を丸めた。
夜の空気は冷たい。
だが、周囲にいる鳥たちの体温が伝わってくる。
一羽で樹皮の隙間へ入り、冷たい雨の中で死んだ生もあった。
今は違う。
多くの命に囲まれている。
俺が作った群れではない。
俺たちが作り。
子どもたちが受け継ぎ。
これからも続いていく群れ。
目を閉じる。
じいちゃんの背中が浮かんだ。
その後ろへ、妹と弟の姿が重なる。
さらに、息子。
番。
子どもたち。
何十羽もの黒い翼。
すべてを胸の中へ抱いたまま。
俺は、静かに眠りへ落ちた。
次の朝。
群れが飛び立っても。
その身体が、目を覚ますことはなかった。
◇
『個体の死亡を確認しました』
感情のない声が響いた。
暗闇へ戻る。
人間だった頃の記憶。
蟻。
カブトムシ。
ハシブトガラス。
すべてが、以前より滑らかにつながっていく。
妹。
弟。
番。
子ども。
息子。
集団ねぐら。
死ぬ直前まで、一羽一羽の姿を覚えていた。
「長く生きたな」
前のカラス生では6年。
その次は、人里で撃たれるまでの2年余り。
今回は、それらよりも長かった。
何度も冬を越した。
子どもを育てた。
孫が生まれた。
群れの先頭に立った。
そして最後には、息子の指示へ従った。
暗闇の中に、白い文字が浮かび上がる。
――――――――――
【第9生 集計結果】
種族:ハシブトガラス
生存期間:18年173日
死亡原因:寿命
繁殖:成功
獲得EP:10
獲得SP:46
――――――――――
【達成した特殊条件】
兄弟姉妹との継続的共同生活
複数個体による役割分担
負傷個体の救助
番の形成
子育てへの参加
複数世代への知識継承
集団ねぐらの形成
群れの指揮
次世代への指揮権移譲
新たな指導個体への服従
寿命の達成
――――――――――
【現在の保有値】
EP:36
SP:77
――――――――――
『技能の形成を確認しました』
白い文字が切り替わる。
――――――――――
【新規技能】
統率連携 Lv.1
――――――――――
目的を共有する。
役割を分ける。
成果を分ける。
危険な個体を助ける。
意思を伝える。
ニホンザルへの進化に必要だった技能。
ようやく取得した。
そう思った直後、文字が再び変化した。
『経験量が技能形成基準を大幅に上回っています』
――――――――――
【技能成長】
統率連携 Lv.1 → Lv.2
――――――――――
家族だけではない。
異なる場所から集まったカラス。
複数の世代。
大きな集団。
それぞれの個体へ役割を持たせ、危険を共有し、群れとして行動した。
『追加条件の達成を確認しました』
――――――――――
【達成条件】
後継個体の育成
指揮権の移譲
指導者から構成員への役割転換
後継個体の判断への服従
――――――――――
【技能成長】
統率連携 Lv.2 → Lv.3
――――――――――
「Lv.3……」
必要だったのは、Lv.1だけだった。
それを得ようとして生き始めた。
だが、気づけば群れを作り。
家族を増やし。
次の世代へ役割を渡していた。
統率するだけではない。
連携する。
導く。
任せる。
従う。
群れの中で必要なすべての立場を経験した。
――――――――――
【保有技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
飛行 Lv.3
道具使用 Lv.3
観察眼 Lv.1
危険察知 Lv.1
統率連携 Lv.3
――――――――――
『特殊進化条件を満たしました』
――――――――――
【特殊進化候補】
ニホンザル 必要EP:24
【達成条件】
必要EP 達成
道具使用Lv.3 達成
統率連携Lv.1 達成
【現在の保有EP】
36
――――――――――
以前は灰色だった文字が、今度は白く輝いている。
選べる。
鳥ではない身体。
翼ではなく、二本の手を持つ生き物。
『次の生を選択してください』
――――――――――
【転生可能】
ハシブトガラス
【進化可能】
トビ 必要EP:10
フクロウ 必要EP:12
ニホンザル 必要EP:24
――――――――――
迷う理由はなかった。
「ニホンザルに進化する」
『確認します』
――――――――――
【進化先】
ニホンザル
【消費EP】
24
【失効SP】
77
【継承技能】
強靭な顎 Lv.2
脚力強化 Lv.1
飛行 Lv.3
道具使用 Lv.3
観察眼 Lv.1
危険察知 Lv.1
統率連携 Lv.3
――――――――――
『飛行技能は、ニホンザルの身体構造では使用できません』
『使用不能技能は休眠状態で継承されます』
飛べなくなる。
カラスとして何度も空を渡った。
沢を越え。
山を見下ろし。
家族と並んで飛んだ。
その力は、次の身体では使えない。
それでも、惜しいとは思わなかった。
空から見えるものは、十分に見た。
次は地上から。
木々の間から。
手で触れ。
道具を作り。
ヌシの領域を調べる。
『ニホンザルへの種族進化を実行しますか』
「実行する」
『EPを24消費します』
『未使用SPを破棄します』
――――――――――
【現在の保有値】
EP:12
SP:0
――――――――――
『種族進化を開始します』
『進化先――ニホンザル』
『知能段階の上昇を確認しました』
白い光が、暗闇の中へ広がる。
カラスへ進化したときにも聞いた言葉。
だが、今度はさらに明確な変化が起きている。
霧に覆われていた記憶が、少しずつ形を取り戻す。
じいちゃんの顔。
完全ではない。
だが、白い眉。
深い皺。
大きな手。
笑ったときの目元。
これまでより、はっきりと見えた。
「じいちゃん……」
『高知能種への進化を確認しました』
『山の記憶を解放します』
周囲の暗闇へ、冷たい風が吹き始める。
土。
血。
雨。
岩が砕ける音。
前回までとは違う。
山全体が唸っているような、低い振動。
『山の記憶――第三片を再生します』
◇
火の消えた岩場を離れ、じいちゃんは暗闇の中を歩いていた。
少し先に、二つの光が浮かんでいる。
獣の目。
じいちゃんが進めば、目も進む。
立ち止まれば、向こうも止まった。
姿の全体は見えない。
月の光が木々の間から差し込んだとき、背中の輪郭だけが浮かんだ。
大きい。
熊ほどの高さはない。
だが、身体は長く、四本の脚は太い。
尾が低く伸びている。
犬。
いや、狼。
それよりも、さらに大きい。
じいちゃんは猟銃を杖代わりにして進んだ。
残る弾は1発。
脇腹の傷は熱を持っている。
イノシシの皮で押さえているが、歩くたびに血がにじむ。
普通なら、目の前の獣へ銃を向ける。
だが、じいちゃんは撃たなかった。
「お前が、ヌシか」
獣は答えない。
数歩進む。
振り返る。
「違うなら、ヌシのところまで連れていけ」
じいちゃんの声は掠れていた。
「俺には、もう時間がない」
狼のような獣は、再び山の奥へ向かって歩き始めた。
じいちゃんも、その後を追う。
◇
夜が明ける頃、木々が少なくなった。
地面には岩が増える。
急な斜面。
崩れやすい小石。
上を見れば、山頂を覆う雲が近い。
じいちゃんは何度も足を滑らせた。
傷口を押さえる。
猟銃を岩へ立て。
一歩ずつ身体を持ち上げる。
前を歩く獣には、疲れた様子がない。
岩から岩へ。
音もなく進む。
ときおり立ち止まり、じいちゃんを待った。
「年寄りを、もう少し労れ」
じいちゃんが笑う。
苦しさを隠すための笑いだった。
返事はない。
獣はさらに上へ進む。
斜面の途中で、じいちゃんが胸元へ手を入れた。
写真を取り出す。
痩せた少年。
病院のベッド。
その横に立つ、自分。
写真の角は、雨と汗でふやけていた。
「もう少しだ」
写真へ語りかける。
「じいちゃんが、必ず連れて帰る」
何を連れて帰るのか。
薬か。
奇跡か。
ヌシとの約束か。
じいちゃん自身にも分かっていない。
ただ、孫を救うものを得る。
その思いだけで進んでいた。
◇
獣が、岩の多い斜面の前で止まった。
左右は切り立っている。
引き返す道は、後ろにしかない。
斜面の先には、巨大な岩壁が見える。
その中央に、黒い裂け目があった。
洞窟。
あるいは、山の内側へ続く門。
獣は斜面へ足を踏み入れた。
小石が転がる。
だが、大きな身体は沈まない。
どこへ足を置けば崩れないのか知っているようだった。
じいちゃんも後へ続く。
一歩。
岩が動く。
足を戻す。
別の場所へ踏み出す。
脇腹が痛む。
呼吸が浅くなる。
それでも、黒い裂け目から目を離さなかった。
あそこにいる。
ヌシが。
孫を救える何かが。
斜面の半ばまで進んだとき。
山の奥から、低い音が響いた。
獣が足を止める。
耳を立てる。
じいちゃんも周囲を見回した。
地面が揺れた。
最初は小さい。
足元の石が震える。
次に、岩壁の上から何かが砕ける音がした。
獣が斜面を駆ける。
じいちゃんへ向かってではない。
黒い裂け目のほうへ。
「待て!」
叫ぶ。
獣は振り返らなかった。
頭上から、岩が落ちてきた。
一つ。
二つ。
斜面へ激突する。
砕けた石が飛ぶ。
地面全体が崩れ始めた。
じいちゃんは猟銃を岩へ突き立てた。
身体を支える。
だが、足元の石ごと滑り落ちる。
横から大きな岩が迫る。
避ける。
脇腹へ激しい痛みが走った。
次の瞬間。
別の岩が、左脚へ落ちた。
鈍い音。
じいちゃんの身体が地面へ倒れる。
「ぐっ……!」
脚が岩の下へ挟まれている。
膝より下。
長靴が潰れていた。
猟銃が手から離れ、斜面を滑る。
銃床が岩へぶつかる。
木の部分が折れた。
残っていた一発の弾も、どこかへ飛んでいく。
周囲では、まだ石が落ち続けている。
じいちゃんは両手で岩を押した。
動かない。
もう一度。
脇腹の傷が開く。
血が服を濡らす。
それでも押す。
岩はわずかにも浮かなかった。
近くに、折れた猟銃がある。
じいちゃんは腕を伸ばした。
指が届かない。
身体を引く。
挟まれた脚へ激痛が走る。
それでも、さらに手を伸ばす。
銃身へ指が触れた。
引き寄せる。
折れた猟銃の銃身を、岩の下へ差し込む。
近くの小石を支点にする。
残った体重をかけた。
岩が、わずかに浮く。
じいちゃんは左脚を引いた。
動かない。
もう一度、銃身へ力をかける。
金属が曲がる。
岩が少し持ち上がった。
脚を引き抜く。
長靴が岩の下へ残った。
じいちゃんの身体が後ろへ転がる。
岩が再び落ちた。
◇
しばらく、じいちゃんは動けなかった。
落石の音が遠ざかる。
揺れも収まっていく。
斜面には、崩れた石と土が積もっていた。
左脚は、不自然な方向へ曲がっている。
長靴の中に残ったのか、足の先は裸だった。
皮膚が裂け。
血と泥にまみれている。
骨も折れていた。
脇腹の傷。
折れた脚。
壊れた猟銃。
弾もない。
案内していた獣の姿も消えている。
普通なら、そこで終わりだった。
歩けない。
戻れない。
助けを呼んでも、誰にも届かない。
じいちゃんは仰向けになり、曇った空を見上げた。
息を吐く。
目を閉じる。
胸元へ手を入れた。
写真は残っている。
少し破れていた。
それでも、少年の顔は見えた。
「……すまんな」
じいちゃんが呟く。
「約束、守れんかもしれん」
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
「もういい!」
記憶の中へ叫ぶ。
「戻れなくてもいい!」
「俺は、もうここにいる!」
届かない。
じいちゃんは写真を見つめたまま、荒い息を繰り返している。
やがて、目を開いた。
「いや」
小さく首を振る。
「まだ、会ってもおらん」
写真を胸元へ戻す。
周囲を見た。
折れた銃床。
曲がった銃身。
裂けた布。
イノシシの皮。
山へ入る前、猟師仲間から渡された紐。
残っている物を集める。
折れた銃床を、左脚の横へ当てた。
もう一本、近くから真っ直ぐな枝を拾う。
脚を挟む。
布と紐で固定する。
結び目を締めるたび、身体が震えた。
それでも手を止めない。
簡単な副木。
歩けるようにはならない。
だが、折れた脚が動くことは防げる。
じいちゃんはうつ伏せになった。
両手を地面へつく。
右脚で押す。
身体を少しだけ前へ進める。
左脚を引きずる。
一歩ではない。
這う。
腕で。
残った脚で。
山の上へ。
黒い裂け目へ。
「じいちゃん!」
止める声は届かない。
じいちゃんは、崩れた斜面を進んだ。
掌が石で裂ける。
肘から血が出る。
数歩分進んでは、息を整える。
それでも引き返さない。
写真を胸へ入れたまま。
孫との約束を、まだ手放していない。
◇
どれほど進んだのか分からない。
空は暗くなり始めていた。
黒い裂け目は、まだ遠い。
それでも少しずつ近づいている。
斜面の上。
大きな岩のそばに、二つの目が浮かんだ。
狼のような獣。
戻ってきた。
じいちゃんを見下ろしている。
「見てないで……少しは手伝え」
じいちゃんが、掠れた声で笑う。
獣は動かない。
ただ、その姿を見ている。
やがて背を向けた。
黒い裂け目へ歩いていく。
じいちゃんは、その後を這った。
獣が進む。
じいちゃんが追う。
距離は縮まらない。
だが、見失うこともなかった。
日が沈む直前。
じいちゃんは、ようやく岩壁の下へたどり着いた。
黒い裂け目。
中から、冷たい風が吹いてくる。
獣は入口に立っていた。
その奥。
闇の中に、さらに大きな影がある。
狼の形。
だが、入口にいる獣とは比べものにならない。
伏せていても、人間より大きい。
闇の中で、二つの目が開いた。
山全体を見下ろすような、淡い光。
じいちゃんの身体が止まる。
声が響いた。
耳からではない。
山の中から。
頭の内側へ、直接届く声。
『そこまでして、何を求める』
じいちゃんは顔を上げた。
血と泥に汚れている。
左脚は動かない。
身体も、もう限界に近い。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「孫を――」
じいちゃんが答えようとした瞬間。
景色が白く染まった。
◇
「待て!」
手を伸ばす。
山。
洞窟。
巨大な影。
這いつくばったじいちゃん。
すべてが光の欠片となって崩れていく。
「その先を見せろ!」
『山の記憶――第三片の再生を終了しました』
「じいちゃんは、ヌシに会ったんだろ」
『回答できません』
「今の声がヌシなのか」
『回答できません』
「じいちゃんは、何を差し出した」
『回答できません』
返事は変わらない。
だが、分かったことがある。
じいちゃんは山頂近くまで進んだ。
落石に巻き込まれた。
脚を折った。
猟銃も失った。
それでも、ヌシと思われる何かの前へたどり着いた。
そして、願いを伝えようとした。
次の記憶。
その先に、自分が転生を繰り返す理由がある。
『種族進化を継続します』
白い光が再び広がる。
カラスとして生きた記憶。
妹。
弟。
番。
息子。
群れ。
それらが遠ざかろうとする。
だが、完全には消えない。
以前よりも、強く残っている。
ニホンザルの知能。
統率連携Lv.3。
多くの個体と築いた関係。
記憶をつなぎ止めるものが増えていた。
◇
温かい。
身体全体が、柔らかな毛へ包まれている。
揺れている。
誰かの腹へ、しがみついている。
小さな手。
5本の指。
指先へ力を入れる。
毛を掴む。
落ちない。
もう片方の手も動く。
足にも、物を掴める指がある。
目を開ける。
茶色い毛に覆われた大きな身体。
母親。
その背中越しに、何頭もの猿が見えた。
若い猿。
年老いた猿。
子どもを抱えた雌。
周囲を警戒する雄。
群れ。
最初から、一匹ではない。
小さな指を開く。
握る。
もう一度開く。
人間だった頃にも持っていたもの。
カラスとして、何度も欲しいと思ったもの。
手。
頭の中には、まだ記憶が残っていた。
じいちゃん。
巨大なクマタカ。
白い霧。
青い石。
黒い裂け目。
そして、山の奥から響いた声。
すべてが完全に理解できるわけではない。
だが、これまでの転生よりも明確だった。
自分が何者なのか。
何を探しているのか。
なぜ、この山の奥へ向かわなければならないのか。
子猿は、母親の毛を強く握った。
翼はない。
だが、手がある。
一羽ではない。
群れもある。
今度こそ、眷属をいなし。
ヌシの情報を得る。
じいちゃんがたどり着いた場所へ進む。
黒い翼で築いたものを受け継ぎながら。
ニホンザルとしての、最初の生が始まった。
3章が終わりました




