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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
3.黒い翼
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15/28

3-5.三羽の目

 雛だった頃、巣の中には自分を含めて5羽の兄弟姉妹がいた。


 誰よりも早く食べ物へ嘴を伸ばす者。


 親鳥が帰ってくる気配を感じると、ほかの雛を押し退けて首を持ち上げる者。


 巣の縁へ近づくことを怖がり、中央へ潜り込もうとする者。


 同じ巣で生まれても、性格はそれぞれ違っていた。


 その中で、俺が気にかけていた雛が一羽いる。


 卵から孵った直後、巣の端へ転がりかけていた妹だ。


 まだ自分の身体さえ満足に動かせなかった俺は、妹へ身体を寄せ、巣の中央へ押し戻した。


 助けなければならない理由など、当時は思い出せなかった。


 ただ、一羽で生きてはいけないという思いだけが残っていた。


 妹は兄弟の中でも身体が少し小さかった。


 食べ物を奪い合えば、後れを取る。


 親鳥へ向かって鳴いても、ほかの雛の声に埋もれる。


 俺は自分が先に食べ物を得たとき、嘴の端から小さな肉片を落とした。


 妹は初め、それが食べ物だと分からなかった。


 何度か嘴で触れたあと、ようやく飲み込む。


 それからは、俺が食べ物を落とすと、すぐに近づくようになった。


 もう一羽、気になる弟がいた。


 身体の大きさは兄弟の中ほど。


 食べ物を得るのが下手なわけでもない。


 だが、ほかの雛が親鳥の嘴しか見ていないとき、弟だけは巣へ運ばれた枯れ草を引っ張っていた。


 獣の毛を嘴で持ち上げる。


 曲がった小枝を転がす。


 巣の外から差し込む光を追い、何度も首を傾ける。


 食べられない物ばかりを触っている。


 そのせいで食事へ出遅れ、空腹になってから大声で鳴く。


 他の兄弟とは、何かが少しずれていた。


 だが、俺にはその姿が理解できた。


 食べ物ではない物を見る。


 形を確かめる。


 動かしてみる。


 弟がしていることは、道具を覚え始めた頃の俺と似ていた。


     ◇


 羽毛が生え揃い、巣から飛び立てるようになると、兄弟姉妹は少しずつ行動範囲を広げていった。


 初めは同じ木。


 次は隣の木。


 やがて親鳥の後を追い、森の向こうまで飛んでいく。


 俺は飛び方を教える必要がなかった。


 カラスとしての本能が、翼の動かし方を知っている。


 それでも兄弟姉妹の飛行は不安定だった。


 枝へ腹からぶつかる。


 風に流される。


 着地するときに爪を滑らせる。


 俺だけは、初めから空の動きを理解していた。


 翼を傾ける。


 尾羽で速度を落とす。


 風を受け流す。


 狭い枝の間を抜ける。


 前の生で得た飛行の技能が、新しい身体にも残っている。


 兄弟姉妹は、俺の飛び方を見て真似た。


 特に妹は、俺が飛び立つとすぐ後ろを追った。


 大胆ではない。


 俺と同じ道を選び、同じ枝へ止まろうとする。


 危険そうな場所へは自分から近づかない。


 弟は反対だった。


 俺が右へ飛べば、途中で左へ曲がる。


 木の上へ降りると思えば、地面に落ちている何かへ近づく。


 風に舞う布。


 光る石。


 獣の骨。


 食べられない物を見つけるたび、進路を変えた。


 そのたびに俺が迎えに行く。


 弟は叱られていることを理解しているのか、首を傾ける。


 しばらくは俺の後を飛ぶ。


 だが、また何かを見つけると離れていった。


 やがて、巣立ちの時期が来た。


 親鳥は、以前ほど食べ物を運ばなくなった。


 自分で餌を探せ。


 自分のねぐらを見つけろ。


 鳴き声と行動が、そう告げている。


 兄弟姉妹のうち一羽が、最初に森の向こうへ消えた。


 数日後には、もう一羽も戻らなくなった。


 別の群れを見つけたのか。


 自分の縄張りを探しに行ったのか。


 カラスとして生まれた身体は、それを自然なこととして受け入れている。


 同じ巣で育ったからといって、いつまでも一緒にいるわけではない。


 一羽で生きられるようになれば、それぞれの場所へ離れていく。


 俺も前の生まで、そうしてきた。


 巣立ったあとは、一羽だった。


 一羽で飛び。


 一羽で考え。


 一羽で準備した。


 だから今回も、兄弟姉妹はいなくなると思っていた。


 最後の一羽が山の麓へ向かって飛び去った日、俺は巣の近くにある高い木へ止まった。


 これから、じいちゃんの痕跡を探し直す。


 山を観察する。


 ヌシの力が及ぶ条件を調べる。


 そのための生が、ようやく始まる。


 翼を広げようとした。


 すぐ後ろで羽音がした。


 妹が、同じ枝へ降りてくる。


 少し遅れて、弟も近くの枝へ止まった。


 俺が飛び立つのを待っている。


「お前たちは行かないのか」


 声にすれば、短い鳴き声にしかならない。


 妹は俺へ近づき、嘴で首の羽毛へ触れた。


 弟は返事もせず、枝の先に付いた苔を剥がしている。


 どうやら、二羽とも俺と別れるつもりはないらしい。


 胸の奥へ、死後の暗闇で見た文字が蘇る。


 同種個体との継続的な共同生活。


 目的を共有した役割分担。


 成果または食料の共有。


 危険時の相互支援。


 個体間の意思伝達。


 統率連携。


 ニホンザルへ進むために必要な技能。


 だが、その条件がなくても、俺は二羽を追い払えなかっただろう。


 妹は、雛の頃から俺のそばにいた。


 弟は、ほかの兄弟には見えない物を見ている。


「分かった」


 俺は二羽へ鳴きかけた。


「一緒に来い」


 妹が翼を開く。


 弟は苔を咥えたまま飛び立った。


 こうして、三羽での生活が始まった。


     ◇


 最初に覚えなければならなかったのは、食料の分け方だった。


 俺には、餌を見つける知識がある。


 どの木に実が付くか。


 朽木のどこに虫がいるか。


 人間の生活圏へ近づかずに、何を食べられるか。


 前の生までに、十分な経験を積んでいた。


 一羽分の食料なら、簡単に見つけられる。


 三羽分となれば話が違う。


 弟は好奇心へ従って飛び回るため、餌探しへ集中しない。


 妹は慎重すぎて、知らない場所へ一羽で降りられない。


 初めの頃は、俺が見つけた食料へ二羽を呼んだ。


 木の実を割る。


 朽木から虫を追い出す。


 獣が残した肉を、食べられる部分だけ切り取る。


 二羽が食べ終えるのを見てから、自分の分を得る。


 だが、それでは俺がいなければ何もできない。


 仲間と生きることと、仲間を養い続けることは違う。


 俺は二羽の行動を見るようになった。


 妹は、食料を見つけるのが下手なのではなかった。


 危険を感じると、近づけないだけだ。


 一度安全だと理解した場所は、正確に覚えていた。


 どの木に実があるのか。


 どの岩の隙間へ食料を隠したのか。


 どの沢なら水を飲めるのか。


 俺よりも迷いが少ない。


 数日前に通った道でも、妹は正しい枝を選んだ。


 霧が出て周囲が見えにくいときも、鳴き声と木の形を頼りにねぐらへ戻る。


 慎重さは弱さではない。


 安全な道を覚えるための力だった。


 弟は、食料へ集中しない。


 だが、誰も見ようとしない場所へ目を向けた。


 落ち葉の下。


 岩の裏。


 沢へ流れ着いた異物。


 人間が通らない古い道。


 ある日、弟は倒木の下へ何度も嘴を入れていた。


 食べ物がある様子はない。


 俺は離れるよう鳴いた。


 弟は応じない。


 倒木の横へ回り、地面を掻き始めた。


 しばらくすると、小さな空洞が現れた。


 中には乾いた木の実がいくつも残っている。


 ネズミかリスが蓄えたものだろう。


 持ち主の姿はない。


 食べ切れないほど多い。


 俺たちは必要な分だけを取った。


 弟は餌を探していたわけではない。


 地面の一部だけ、落ち葉の重なり方が違うことへ気づいたのだ。


 別の日には、川原から丸い金属片を拾ってきた。


 俺は以前の生で、人間の道具を求めすぎて撃たれた。


 金属を見た瞬間、胸の奥に危険が蘇る。


 人里へ近づいたのかと思い、弟を強く叱った。


 弟は金属片を落とし、山の上流を見た。


 そこへ行けとでもいうように鳴く。


 弟に従って沢を遡ると、土砂に埋もれた古い小屋が見つかった。


 人間が長い間使っていない山小屋。


 屋根は半分崩れている。


 壁も腐っている。


 人の匂いは残っていない。


 中には、錆びた金属や切れた縄があった。


 人里へ行かなくても、必要な素材を得られる場所。


 弟が拾った金属片は、雨で小屋から沢へ流されたものだった。


 好奇心は危険を招く。


 だが、誰も知らない物を見つける力にもなる。


 俺は二羽へ役割を決めた。


 妹は、帰る道と安全な場所を覚える。


 弟は、見慣れない物や変化を探す。


 俺は周囲を観察し、進むか戻るかを決める。


 もちろん、言葉で説明したわけではない。


 同じ鳴き声を使う。


 短く二度鳴けば、集まる。


 低く一度鳴けば、動かない。


 鋭く三度鳴けば、すぐに飛び立つ。


 妹が安全な道を見つければ、俺たちを呼ぶ。


 弟が何かを発見すれば、落ち着かない声で鳴き続ける。


 最初は何度も間違えた。


 弟は集合の合図を聞いても、目の前の物へ夢中になった。


 妹は危険の合図を聞くと、俺たちを待たず先に逃げた。


 俺も、二羽が自分の思った通りに動かないと苛立った。


 だが、無理に従わせようとすれば、二羽は俺の顔を見るだけになる。


 自分で周囲を見なくなる。


 それでは、一羽で動くのと変わらない。


 俺は命令するのではなく、二羽の合図を聞くようにした。


 妹が戻ろうと鳴けば、理由を探す。


 弟が立ち止まれば、その視線の先を見る。


 俺が進む方向を決め。


 二羽が異変を知らせる。


 三羽の意思が少しずつつながっていった。


     ◇


 罠作りは、いったん止めた。


 道具の使い方は分かっている。


 枝を加工できる。


 蔓を結べる。


 針金を曲げられる。


 複数の仕掛けを連動させることもできる。


 前の生で、道具使用はLv.3へ上がった。


 これ以上複雑な罠を作ることが、今の俺に必要な成長ではない。


 ヌシの眷属へ勝てなかった原因は、罠が単純だったからではない。


 ヌシの領域の中では、山そのものが敵へ味方した。


 風。


 枝。


 白い霧。


 身体から抜ける力。


 あの現象を理解しなければ、どれほど強い罠を作っても無駄になる。


 俺たちは山を見ることにした。


 深部へ挑むのではない。


 外側から、境界を探る。


 山の変化を記録する。


 一羽では見落としたものを、三羽の目で確かめる。


     ◇


 最初に調べたのは、生き物の分布だった。


 山の麓には、人間の畑がある。


 小さな鳥。


 ネズミ。


 蛇。


 タヌキ。


 多くの生き物が暮らしている。


 中腹へ入ると、人間の気配は減る。


 木々が太くなり、沢の水も冷たくなる。


 鹿。


 イノシシ。


 猿。


 大型の獣が増える。


 さらに奥。


 じいちゃんの野営跡を越えた先では、生き物の姿が急に減った。


 以前の生でも分かっていた。


 森が静かになる。


 小鳥が鳴かない。


 虫の音も消える。


 だが、それだけでは境界がどこにあるのか分からなかった。


 俺は上空から森を見る。


 妹は低い枝を進み、動物たちの通る道を追う。


 弟は地面へ降り、足跡や羽毛を調べる。


 同じ場所を、高さと方向を変えて何度も通った。


 妹が、ある一本の沢を越えようとしなかった。


 俺が先へ進むと、枝へ残って鳴く。


 危険な獣の匂いはない。


 猛禽の姿もない。


 水の流れも浅い。


 それでも、妹は羽毛を逆立てている。


 俺は沢の向こうへ降りた。


 空気が重い。


 翼を動かすたび、わずかな抵抗を感じる。


 前の生でクマタカと戦った場所ほどではない。


 だが、確かに違う。


 沢のこちら側へ戻る。


 身体が軽くなる。


 もう一度越える。


 重くなる。


 目には見えない何かが、沢を境に変化していた。


 弟は沢の石を一つ拾った。


 こちら側の石と、向こう側の石。


 二つを並べる。


 形も色も変わらない。


 嘴で叩く。


 音も同じ。


 弟は次に、水を飲んだ。


 向こう側。


 こちら側。


 何度も飲み比べる。


 そして、向こう側の水を嫌がるように頭を振った。


 俺も嘴を入れた。


 味はほとんど変わらない。


 だが、舌へわずかな痺れが残る。


 水にも、何かが混じっている。


 白い霧と同じものかもしれない。


 その日は、それ以上進まなかった。


 沢の位置。


 周囲の木。


 上空から見える岩。


 すべてを覚え、戻った。


     ◇


 別の日。


 妹が、鹿の群れを見つけた。


 鹿たちは山の中腹で草を食べている。


 しばらく観察すると、一頭が深部へ向かう獣道へ入った。


 ほかの鹿も後を追う。


 だが、途中で先頭の鹿が止まった。


 前方の匂いを嗅ぐ。


 耳を動かす。


 危険な姿は見えない。


 それでも鹿は道を外れ、横の斜面へ向かった。


 群れ全体が同じように進路を変える。


 一本の古い杉を避けていた。


 俺たちは杉へ近づいた。


 幹は太い。


 何百年も生きているように見える。


 根元には白い苔が広がっていた。


 普通の苔とは色が違う。


 弟が近づこうとする。


 危険察知が強く働いた。


 俺は弟の前へ降り、翼で進路を塞いだ。


 細い枝を拾う。


 白い苔へ投げる。


 枝が触れた瞬間、苔の隙間から薄い霧が立ち上った。


 風はない。


 それでも霧は杉の幹へ沿って上昇する。


 やがて枝の間へ消えた。


 前の生で、クマタカの傷を塞いだ白い霧。


 同じものだった。


 白い霧は、ヌシの眷属が呼び出したのではない。


 最初から山の中に存在している。


 古い木。


 沢。


 岩。


 特定の場所から、少しずつ漏れ出している。


 俺たちは杉へ印を付けなかった。


 触れること自体が危険かもしれない。


 代わりに、離れた木へ黒い石を置いた。


 妹が帰る道を覚える。


 弟は周囲を歩き、同じ白い苔がないか探す。


 その日から、白い苔のある場所を数え始めた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 古い木の根元。


 深い岩の割れ目。


 水が地面から湧き出す場所。


 点をつなぐと、深部を囲むように並んでいる。


 完全な円ではない。


 地形に沿って曲がり。


 沢を渡り。


 尾根を越えている。


 ヌシの領域の境界。


 そう考えると、すべてがつながった。


     ◇


 だが、境界はいつも同じ場所にあるわけではなかった。


 晴れた昼。


 乾いた風が吹く日。


 俺たちは白い苔の近くまで進めた。


 身体の重さも弱い。


 小鳥が境界近くの木へ止まることもある。


 雨の前。


 霧の濃い朝。


 山から冷たい風が吹き下ろす日。


 境界は外へ広がった。


 普段は安全な木でも、白い霧が流れ込む。


 翼が重くなる。


 妹が怯える。


 弟さえ好奇心を抑え、俺の近くへ戻った。


 季節でも変わる。


 夏は狭い。


 秋の雨が増えると広がる。


 冬には沢沿いを通って、山の中腹近くまで下りてきた。


 白い霧は、ただの霧ではない。


 湿気とともに動く。


 水の流れへ沿う。


 風が深部から外へ吹けば、領域も広がる。


 逆に乾いた風が外から深部へ向かう日は、力が押し戻される。


 一羽で観察していた頃には、ここまで分からなかった。


 俺が上空から風と森全体を見る。


 妹が安全な道と動物の反応を覚える。


 弟が地面にある小さな変化を見つける。


 三羽の情報を重ねることで、山の動きが形になっていく。


 ヌシの力は、山全体へ均等に及んでいるわけではない。


 白い苔。


 沢。


 古い木。


 岩の割れ目。


 それらを通して流れている。


 そして、天候によって強さが変わる。


 前の生でクマタカへ挑んだ日は、深部から冷たい風が吹いていた。


 山の力が外へ向かう日。


 最も不利な条件だったのかもしれない。


 急いで準備し。


 罠を完成させ。


 すぐに挑もうとしていたら、また同じことを繰り返していただろう。


 俺は道具を作ることには慣れている。


 だが、道具を使う時と場所を選ぶことは、それ以上に重要だった。


     ◇


 最初の冬が近づいた頃、弟が姿を消した。


 朝には同じねぐらにいた。


 妹と俺が食料を探している間に、一羽で飛び去ったらしい。


 普段なら、好奇心のまま近くを探している。


 集合の合図を鳴らせば、しばらくして戻ってくる。


 その日は返事がなかった。


 妹が落ち着きを失う。


 枝から枝へ移り、何度も鳴く。


 俺も空へ上がった。


 周囲を見渡す。


 黒い翼は見えない。


 弟が興味を持ちそうな場所を考える。


 山小屋。


 沢。


 白い苔。


 昨日、俺たちは境界近くで光る物を見つけた。


 白い霧の中に、一瞬だけ青い光が見えた。


 危険だから近づくなと伝えた。


 弟は何度も、その方向を振り返っていた。


「まさか」


 俺は深部へ向かって飛んだ。


 妹も後を追う。


 境界へ近づくと、冷たい風が吹いていた。


 昨日より霧が濃い。


 身体が重くなる。


 妹が警告の声を上げた。


 それでも進む。


 沢の近く。


 白い苔のある岩場。


 かすかな鳴き声が聞こえた。


 弟。


 岩の割れ目へ足を挟まれている。


 そこから白い霧が湧き出していた。


 弟は何か光る物を取ろうとし、奥へ足を入れたらしい。


 爪が細い根へ絡まっている。


 翼を動かしても、身体を引き抜けない。


 俺は岩へ降りた。


 霧が羽毛へ触れる。


 力が抜ける。


 長くはいられない。


 根を嘴で噛む。


 硬い。


 前の生から残る顎の力を使っても、すぐには切れない。


 妹が近くの枝へ止まり、激しく鳴いた。


 戻れという声。


 危険が近づいている。


 空を見上げる。


 遠くに、大きな影があった。


 クマタカ。


 まだこちらへ気づいていない。


 だが、風へ乗って近づいている。


 弟を置いて逃げれば、俺と妹は助かる。


 弟は眷属に見つかる。


 前の生の俺なら、どうしただろう。


 一羽で生きることを当然と思い。


 目的のために、自分の生存を優先したかもしれない。


 だが、今は違う。


「妹」


 短く二度鳴く。


 妹が俺を見る。


 地面に落ちている長い枝を示す。


 妹はすぐに意味を理解しなかった。


 俺は枝を嘴で持ち上げ、岩の割れ目へ差し込む。


 片側を押さえるよう鳴く。


 妹が枝へ降りる。


 両足で押さえた。


 支点ができる。


 俺は反対側へ体重をかける。


 絡まっていた根がわずかに持ち上がる。


 弟が足を引く。


 まだ抜けない。


 クマタカの影が大きくなる。


 妹が警告を鳴らす。


 俺は枝へさらに力をかけた。


 一羽では動かなかった。


 二羽なら動く。


 根が持ち上がる。


 弟の足が抜けた。


 すぐに飛べと鳴く。


 弟が翼を広げる。


 霧で力が落ち、上手く浮かばない。


 俺は下から身体を押した。


 妹が先へ飛び、安全な方向を示す。


 三羽で沢を越える。


 背後から鋭い声が聞こえた。


 クマタカがこちらを見つけた。


 追ってくる。


 だが、俺たちは境界の外へ近づいている。


 妹が先頭。


 安全な木々の隙間を選ぶ。


 弟が中央。


 俺が最後尾。


 クマタカの爪が迫る。


 身体を下へ落とす。


 枝の間を抜ける。


 前の生では、深部へ進むほど翼から力が抜けた。


 今は反対だ。


 境界から離れるほど、空気が軽くなる。


 翼が風を掴む。


 速度が上がった。


 クマタカは境界の手前で翼を広げた。


 追ってこない。


 淡く光る目で、こちらを見ている。


 外へ出られないのか。


 それとも、役目のために領域を離れないのか。


 新しい事実だった。


 俺たちはそのまま、遠くのねぐらまで飛んだ。


     ◇


 弟は右足を痛めていた。


 骨は折れていない。


 だが、しばらくは強く枝を掴めない。


 俺と妹は食料を運んだ。


 弟が食べ終えるまで、近くにいた。


 妹は弟の羽毛を整える。


 俺はねぐらの入り口を補強した。


 以前なら、怪我をした仲間を養うことを遠回りだと思ったかもしれない。


 今はそう思わなかった。


 弟が見つけたものによって、山について多くを知ることができた。


 妹が道を覚えていたから、霧の中でも戻れた。


 俺一羽の力では、弟の足を救えなかった。


 三羽のうち、誰が欠けても帰れなかった。


 数日後。


 弟はねぐらの奥から、嘴に何かを咥えてきた。


 岩の割れ目で取ろうとしていた物。


 逃げる間も離さなかったらしい。


 青白く光る、小さな石だった。


 霧の中にあったにもかかわらず、触れても力は抜けない。


 妹は警戒して近づかない。


 俺は細い枝で石を動かした。


 表面には、爪で引っかいたような筋がある。


 自然にできた形ではない。


 誰かが削った。


 あるいは、何かの一部だった。


 じいちゃんが残した物ではないだろう。


 もっと古い。


 ヌシ。


 眷属。


 白い霧。


 この山の力に関係する物かもしれない。


 弟の無謀さが危険を招いた。


 だが、同時に新しい手掛かりを持ち帰った。


 俺は弟を叱るだけでは駄目なのだと理解した。


 好奇心を消せば、弟の良さまで失われる。


 危険な場所へ一羽で行かせない。


 見つけた物を、三羽で確かめる。


 それが俺の役割だった。


     ◇


 冬が来た。


 三羽で同じねぐらに入る。


 妹が覚えた食料の隠し場所を巡る。


 弟が見つけた古い山小屋から、使える布と縄を持ち帰る。


 俺は必要な量を判断し、取りすぎないようにする。


 道具を新しく作るよりも、三羽で運ぶ方法を考えた。


 一羽が端を咥える。


 もう一羽が反対側を持つ。


 俺は中央を支え、飛ぶ高さを合わせる。


 初めは布が風を受け、三羽とも別の方向へ引かれた。


 鳴き声で合図する。


 上がる。


 下がる。


 右へ曲がる。


 速度を落とす。


 何度も失敗しながら、同じ物を運べるようになった。


 一羽では持ち上げられなかった網も、三羽なら動かせる。


 手はない。


 指もない。


 それでも、役割を分ければできることがある。


 俺は道具使用を強くしようとは思わなくなった。


 必要な知識は、すでにある。


 今必要なのは、俺の考えを二羽へ伝えること。


 二羽の見つけたことを、俺が受け取ること。


 誰か一羽の命令ではなく、三羽で一つの行動を作ることだった。


     ◇


 春。


 俺たちは山を上空から見下ろしていた。


 妹が覚えた安全な道。


 弟が見つけた白い苔。


 俺が確かめた風と霧の流れ。


 三つの記憶を重ねる。


 山の深部を囲む、見えない境界。


 力が強くなる場所。


 弱くなる天候。


 眷属が追ってこなかった線。


 そして、青白く光る石。


 まだ分からないことは多い。


 クマタカの傷が、なぜ白い霧で塞がったのか。


 ヌシの力が、何によって眷属へ届くのか。


 青い石が何なのか。


 じいちゃんが、この境界をどう越えたのか。


 だが、一羽だった頃より、山の形ははっきりと見えていた。


 俺には空から見る目がある。


 妹には道と危険を覚える目がある。


 弟には、誰も気づかない違いを見つける目がある。


 一羽の目では見えないものも。


 三羽なら見つけられる。


 俺は二羽へ鳴きかけた。


 妹が右へ飛ぶ。


 弟が左へ飛ぶ。


 俺は中央から二羽を見る。


 離れすぎれば呼び戻す。


 何かを見つければ集まる。


 危険なら、誰か一羽を置いて逃げない。


 今度は、一羽で山へ挑むのではない。


 三羽で山を理解する。


 三羽で戻る。


 そのための生き方を重ねていく。


 黒い翼が、春の風を捉えた。


 深部へは向かわない。


 今日は、境界の外を一周する。


 明日は、沢の流れを調べる。


 その次は、青い石と同じものを探す。


 急がない。


 道具も。


 罠も。


 力も。


 使うべき時が来るまで待つ。


 じいちゃんが教えてくれたように。


 山では、待つことも生きることなのだから。


 三羽の影が並び、深い森の上をゆっくりと進んでいった。

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