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山のヌシ  作者: つぶつぶみかん
3.黒い翼
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3-3.手を持たない職人

 殻を破り、黒い雛として生まれたときから、胸の奥には警告が残っていた。


 挑むな。


 まず、見ろ。


 何に挑んではいけないのか。


 何を見なければならないのか。


 幼い頃には分からなかった。


 ただ、淡く光る目と、白い霧だけが、眠りの中へ何度も現れた。


 強い風。


 塞がれる逃げ道。


 空気を掴めなくなる翼。


 背中へ食い込む巨大な爪。


 夢から目覚めるたび、まだ羽毛も生え揃っていない身体が震えた。


 親鳥の羽の下へ潜り込む。


 温かい。


 安全だ。


 それでも、胸の奥に残った恐怖は消えなかった。


     ◇


 成長するにつれ、夢だったものが少しずつ記憶へ変わっていった。


 飛び方を覚えた。


 木の実を割った。


 枝を使って、朽木の穴から虫を追い出した。


 そうした動作を重ねるたび、以前にも同じことをしていた感覚が戻ってくる。


 やがて、じいちゃんという言葉を思い出した。


 木へ刻まれた鉈の印。


 火の跡が残る岩場。


 使い終えた薬莢。


 イノシシの牙。


 それらを追い、山の深部へ向かったこと。


 6年をかけて準備したこと。


 そして、淡く光る目を持つ巨大なクマタカに敗れたこと。


「俺は、またカラスになったのか」


 口から出たのは、低い鳴き声だった。


 人間の言葉を話すことはできない。


 それでも頭の中には、確かな自我があった。


 前の生より、記憶が戻るのが早い。


 すべてを覚えているわけではない。


 人間だった頃の名前は分からない。


 家の形も。


 病院で過ごした日々も。


 じいちゃんの顔さえ、まだ霧の中にある。


 だが、何をしなければならないのかは分かっていた。


 クマタカへ再び挑む。


 ただし、前と同じ戦い方はしない。


 正面から飛び。


 骨を突き刺し。


 力任せに逃げる。


 それでは勝てない。


 尖らせた骨は、確かにクマタカの胸へ刺さった。


 血も流れた。


 普通の生き物なら、あれで傷を負う。


 少なくとも、動きは鈍る。


 つまり、道具は通用した。


 問題は、その後だ。


 白い霧が傷を塞いだ。


 風が逃げ道を断った。


 深部へ入るほど、自分の身体から力が抜けた。


 クマタカ自身の力だけではない。


 ヌシの領域が、あの鳥を助けていた。


 ならば、眷属を領域の力から切り離せばいい。


 正面から戦う必要もない。


 こちらが用意した場所へ誘い込み、動きを封じる。


 白い霧が傷を治すとしても、飛べなければ追ってこられない。


 巨大な翼を広げられなければ、風を起こすこともできない。


 そのために必要なもの。


 罠。


 言葉を思い出した瞬間、頭の中にいくつもの形が浮かんだ。


     ◇


 最初に作ったのは、単純な落とし罠だった。


 斜面の途中に、大きな石がある。


 その下へ細い枝を差し込み、石が転がらないよう支える。


 枝には蔓を結びつける。


 蔓を引けば支えが外れ、石が斜面を転がり落ちる。


 仕組み自体は簡単だった。


 だが、作るのは簡単ではなかった。


 石は重い。


 嘴で押しても動かない。


 足で掴むこともできない。


 俺は近くにあった太い枝を、石の下へ差し込んだ。


 支点になる小石を置く。


 枝の反対側へ体重をかける。


 石がわずかに浮いた。


 そこへ別の石を押し込む。


 一度休む。


 また枝を差し込む。


 少しずつ位置を変える。


 何度も失敗した。


 嘴から枝が外れ、胸を地面へ打ちつけた。


 支えにしていた石が転がり、足のすぐ横を通り過ぎたこともある。


 それでも作業を続けた。


 半日をかけ、ようやく大きな石を斜面の縁まで移動させる。


 次は、石を支える枝だ。


 太すぎれば引き抜けない。


 細すぎれば、準備中に折れる。


 何本も試し、ちょうどよい太さを選ぶ。


 蔓を巻きつける。


 嘴で端を押さえる。


 足で蔓を掴む。


 巻く。


 引く。


 また嘴へ持ち替える。


 結ぼうとするたび、どちらかが緩んだ。


 人間なら、両手で簡単にできることなのだろう。


 片方の手で支え。


 もう片方で紐を回す。


 指先で押さえたまま、結び目へ通す。


 その光景が、霧の向こうに浮かんだ。


 自分にも、それができた時代があった。


 だが、今の身体に手はない。


 あるのは、二本の足と一本の嘴だけだ。


 足の片方で枝へ掴まらなければ、姿勢を保てない。


 残る足と嘴だけで、蔓を結ばなければならない。


「不便だな」


 苛立ちを覚えながら、何度もやり直した。


 蔓を枝へ一周させる。


 足で輪を押さえる。


 嘴で端を引く。


 別の細い枝を輪へ通し、緩まないよう固定する。


 人間の結び方とは違う。


 美しくもない。


 だが、引いても外れなかった。


 石から十分に離れた場所まで、蔓を伸ばす。


 俺は斜面の下へ石を一つ置いた。


 クマタカの代わりだ。


 蔓を足で掴み、翼を広げる。


 飛び立つ勢いで引いた。


 支えの枝が外れる。


 大きな石が傾いた。


 一度止まり。


 次の瞬間、斜面を転がり始めた。


 地面を削る。


 小石を弾く。


 速度を増しながら、目印の石へ激突した。


 鈍い音が山へ響いた。


 目印にしていた石は砕けた。


 使える。


 だが、クマタカは地面を歩く獣ではない。


 空から来る。


 落石の進路へ正確に誘い込むのは難しい。


 飛び立たれる前に作動させる必要もある。


 これだけでは足りなかった。


     ◇


 次に、翼を絡め取る罠を考えた。


 クマタカは大きい。


 広い翼を持つ。


 木々の間では、その翼が弱点になる。


 強い蔓を枝から枝へ渡し、飛行経路へ張る。


 ただ一本を張るだけでは、気づかれて避けられる。


 何本も高さを変えて張る。


 中央には、細い蔓で作った輪を垂らす。


 翼や足が入れば締まる仕組みだ。


 だが、これも作るのは難しかった。


 枝から枝へ蔓を運ぶ。


 片方を固定する。


 反対側へ引っ張る。


 十分な張力を保ったまま、結びつけなければならない。


 一羽のカラスが、嘴と足だけで行う作業ではない。


 嘴で蔓を引く。


 足で枝を掴む。


 もう片方の足で蔓を押さえる。


 翼を広げて身体の均衡を取る。


 少しでも力を緩めれば、蔓が元へ戻る。


 何度も途中で外れた。


 顔へ蔓が跳ね返った。


 足へ絡まり、枝から逆さに吊られかけたこともある。


 嘴で蔓を切り、どうにか脱出した。


 罠を作っている自分が、罠にかかっている。


 それでも諦めなかった。


 太い蔓を直接結ぶのではなく、先端に小枝を括りつける。


 枝の分かれ目へ小枝を通す。


 横へ回転させれば、引っかかって抜けなくなる。


 反対側も同じように固定する。


 張りが足りなければ、中央へ別の枝を差し込み、回転させて蔓を巻き取る。


 少しずつ張力が増す。


 それを枝へ固定する。


 足と嘴だけで行える仕組みへ、作り方そのものを変えていった。


 完成した罠へ、自分で近づくことはしなかった。


 長い枝の先へ枯れ葉を束ねる。


 鳥の身体ほどの大きさにする。


 高い場所から落とし、罠の間を通した。


 枯れ葉の束が輪へ触れる。


 蔓が締まった。


 複数の線が絡まり、束を空中へ吊り下げる。


 完全ではない。


 強く暴れれば、細い枝が折れるかもしれない。


 嘴で蔓を切られる可能性もある。


 だが、一瞬でも翼を封じられれば、その上から石や尖った骨を落とせる。


 前の生では、一度しか攻撃できなかった。


 今度は違う。


 一つ目の罠で動きを止める。


 二つ目で翼を絡める。


 三つ目で攻撃する。


 複数の道具と罠を組み合わせる。


 それなら、眷属の身体が大きくても戦えるかもしれない。


     ◇


 罠を作り始めてから、一年が過ぎた。


 俺はすぐに深部へ戻らなかった。


 普通の生き物を相手に、罠の働きを確かめることもしなかった。


 山の掟が、胸の奥に残っていたからだ。


 必要のない命を、試しのために傷つけるな。


 獣や鳥を捕らえれば、罠が使えることは分かる。


 だが、そのためだけに命を奪う理由はない。


 代わりに、石。


 枯れ枝。


 羽毛を詰めた布。


 人間が捨てた古い袋。


 重さと形の異なる物を用意し、何度も罠へ通した。


 軽いものには反応しない。


 一定以上の力が加われば作動する。


 強く引かれても、すぐには壊れない。


 相手が暴れたとき、さらに締まる。


 試すたびに問題が見つかった。


 雨で蔓が伸びる。


 乾けば縮む。


 枝が腐る。


 風で罠が勝手に作動する。


 葉が茂れば見つかりにくいが、枯れれば蔓が目立つ。


 小さな鳥が誤って触れる危険もある。


 俺は罠を作り直した。


 使わないときは外す。


 小さな力では作動しないよう、支えを重くする。


 目印を付け、自分が近づいたときに忘れないようにする。


 単に敵を捕らえるだけではない。


 狙った相手だけへ働き。


 自分や他の生き物を傷つけない罠。


 それを目指した。


 道具を使うほど、考えることが増えた。


 長さ。


 重さ。


 角度。


 強度。


 動く方向。


 一つの物を変えると、別の部分も変えなければならない。


 嘴で枝を削る。


 足で押さえる。


 蔓を引く。


 石を動かす。


 作業の途中で、何度も思った。


 手があれば。


 指があれば。


 片方で押さえながら、もう片方で動かせる。


 複数の物を、同時に扱える。


 嘴は強い。


 足も物を掴める。


 だが、どちらも本来は道具作りのためのものではない。


 嘴で物を持てば、周囲を見るために顔ごと動かさなければならない。


 足で物を掴めば、立つことも飛ぶことも難しくなる。


 飛行に優れた身体と、物を作るのに優れた身体は違う。


 俺に足りないのは、頭ではない。


 何を作るべきかは考えられる。


 仕組みも理解できる。


 足りないのは、その考えを形にする身体だった。


     ◇


 ある日、山の中腹で奇妙な音を聞いた。


 石と石がぶつかる音。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 獣が歩く音ではない。


 俺は高い枝から見下ろした。


 地面に数頭の猿がいた。


 ニホンザル。


 群れの中の一頭が、大きな石の前へ座っている。


 手には、硬い木の実があった。


 木の実を石へ置く。


 別の小石を持ち上げる。


 振り下ろす。


 殻へ亀裂が入った。


 もう一度。


 木の実が割れる。


 猿は中身を指で摘まみ、口へ運んだ。


 俺はその姿から目を離せなかった。


 道具を使ったことに驚いたのではない。


 自分も石で木の実を割る。


 枝で穴を探る。


 骨を尖らせる。


 猿がしていること自体は、特別ではない。


 違うのは、身体だった。


 片方の手で木の実を押さえる。


 もう片方の手で石を持つ。


 位置がずれれば、指先で直す。


 石を持ち替える。


 殻が割れれば、破片を避けて中身だけを摘まむ。


 すべての動きが滑らかだった。


 嘴と足で何度も持ち替える必要はない。


 枝へ身体を固定する必要もない。


 物を二つ、同時に扱える。


 別の猿は、倒木の皮を両手で剥がしていた。


 一頭が太い枝を持ち上げる。


 その下へ、もう一頭が手を入れる。


 互いに支え合いながら、虫を探している。


 手。


 指。


 直立に近い姿勢。


 物を作るために使える前足。


 あの身体なら、今考えている罠をもっと正確に作れる。


 蔓を結ぶ。


 枝を固定する。


 石を削る。


 複数の部品を組み合わせる。


 カラスの身体では数日かかる物を、短い時間で完成させられるかもしれない。


 胸の奥に、強い羨望が生まれた。


 空を飛べなくなるとしても。


 あの手が欲しい。


     ◇


 猿の群れを観察する日が増えた。


 食料の取り方。


 枝の使い方。


 石の動かし方。


 仲間とのやり取り。


 子どもが大人の行動を真似る様子。


 指先を使い、相手の毛から小さな虫や汚れを取り除く姿。


 人間の捨てた容器の蓋を回し、中身を取り出す個体もいた。


 知能だけなら、俺も大きく劣ってはいない。


 人間だった頃の知識も、断片的には残っている。


 だが、知識と身体が噛み合っていなかった。


 俺は、死後の暗闇で見た選択肢を思い返した。


 前の生で死んだとき、進化先として現れたのはトビとフクロウだった。


 どちらも鳥。


 飛び方や狩り方の違う鳥類。


 猿はなかった。


 狼も。


 人間も。


 これまでの進化先は、自分が積み重ねた経験に影響されていた。


 蟻として生きたあとには、地上を這う生き物が現れた。


 カブトムシとして飛行技能をLv.3まで高め、長距離を飛び、鳥から逃げたことで、ハシブトガラスが現れた。


 飛ぶことを極めたから、鳥への道が開いた。


 ならば。


 鳥ではない生き方を積み重ねれば、別の道が開くのではないか。


 道具を使うだけでは足りない。


 前の生でも、6年にわたって道具を使った。


 ねぐらを作った。


 道標を設置した。


 骨を尖らせ、クマタカへ傷を与えた。


 それでも現れたのは鳥類だけだった。


 単に、物を利用するだけではない。


 鳥の身体が本来できないほど複雑な物を作る。


 複数の道具を組み合わせる。


 用途に合わせて加工する。


 罠という仕組みを完成させる。


 頭の中にある形を、山にある物から作り出す。


 それが必要なのかもしれない。


 飛行Lv.3が鳥類への鍵だったように。


 道具を作り、使いこなすことが、手を持つ生き物への鍵になる。


「特殊進化条件……」


 音にはならない。


 だが、その言葉ははっきりと理解できた。


 死後の世界でしか確認できないものを、生きている今から探す。


 成功したかどうかは、次に死ぬまで分からない。


 それでも試す価値はある。


 俺は猿たちの手を見つめた。


 いつか、自分もあのように物を掴めるかもしれない。


 だが、ただ願うだけでは進化先は現れない。


 飛ぶ力を得るために、何度も空を飛んだ。


 鳥から逃げた。


 沢を越えた。


 山の奥まで進んだ。


 手を得たいのなら、今の身体で、手を持つ生き物のように生きなければならない。


     ◇


 その日から、罠作りの目的が一つ増えた。


 クマタカを倒すため。


 ヌシの領域へ進むため。


 そして、鳥類以外の進化先を開くため。


 俺は以前より複雑な罠へ挑み始めた。


 一つの蔓を引く。


 支えが外れる。


 枝が跳ね上がる。


 別の蔓が締まる。


 上から網が落ちる。


 最後に、固定していた石が転がり、逃げ道を塞ぐ。


 一つの動作が、次の動作を生む。


 部品は多い。


 作業は遅い。


 足と嘴だけでは、何度も失敗する。


 それでも続ける。


 枝を削る。


 蔓を結ぶ。


 石を運ぶ。


 試す。


 壊す。


 作り直す。


 昨日より少しだけ正確に。


 前の罠より一つ多く、仕組みを組み合わせる。


 やがて、嘴の付け根には細かな傷が増えた。


 蔓を引き続けた足の鱗も剥がれた。


 それでも、作業をやめなかった。


 手がないなら。


 手を得るに値するほど、道具を使えばいい。


 鳥の身体で作れる限界を越える。


 その先に、新しい進化がある。


 夕方。


 完成した罠を、高い枝から見下ろした。


 張り巡らされた蔓。


 葉で隠された輪。


 持ち上げられた石。


 枝の間へ折り畳まれた網。


 一羽の鳥が、山にある物だけを使って作り上げた仕組み。


 まだ、ヌシの眷属へ通用するかは分からない。


 白い霧に対抗できるかも分からない。


 だが、これは前の生にはなかった力だった。


 強い顎でも。


 速い足でも。


 自由に飛ぶ翼でもない。


 考えたものを、形にする力。


 俺は罠の上を一度旋回した。


 そのまま、猿たちの暮らす山の中腹へ視線を向ける。


 鳥として空を飛びながら。


 鳥ではない生き方を積み重ねる。


 次に暗闇へ戻ったとき、何が現れるのか。


 それを確かめるためにも、まずは生きなければならない。


 そして、あの光る目へ届かなければならない。


 黒い翼を広げる。


 山の奥から、冷たい風が吹いてきた。


 以前なら、その風へ力任せに逆らっていただろう。


 今は風を読み、少し角度を変えて受け流す。


 力で届かないなら、仕組みを使う。


 身体が足りないなら、道具で補う。


 それでも足りないのなら。


 次は、道具を作るための身体を手に入れる。


 俺は未完成の罠を背に、次の材料を探して山へ飛び立った。

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