第26話 偽りの羊たち
冷たい秋雨は夜が深まるにつれて勢いを増し、街の輪郭をぼやけさせていた。
駅前の喧騒から数キロ離れた、市外れの工業地帯。
かつては日本の高度経済成長を支え、精密部品を作り出していた巨大な町工場群は、今やそのほとんどがシャッターを下ろし、錆びついたトタン屋根が雨音を虚しく響かせるだけの廃墟と化していた。
その一角にある、とりわけ巨大な廃工場。
敷地の周囲は背の高い有刺鉄線のフェンスで囲まれ、「立入禁止」「私有地につき不法侵入は警察に通報します」という日本語の看板の上から、メギドの言語で書かれた威圧的なステッカーが何枚も重ねて貼られている。
ミコは、フェンスから少し離れた放置車両の陰に身を潜め、冷徹な視線で工場の入り口を監視していた。
「……ロキ。着いたわ。外観はただの廃工場だけれど、警戒態勢が異常よ」
ミコが骨伝導イヤホン越しに囁く。
彼女の視線の先、錆びた鉄門の裏側には、黒いレインコートを着た二人の大柄な男が立っていた。彼らはただ雨宿りしているわけではない。鋭い視線を絶えず周囲に走らせ、その懐には不自然な膨らみがある。
『熱源センサーの映像を受信した。……ビンゴだ。あの膨らみ、ただのナイフや拳銃じゃない。サブマシンガンを隠し持っている』
秋葉原の地下アジトで、ロキは周辺の防犯カメラや上空を飛ばしたマイクロドローンの映像を解析しながら低い声を出した。
『日本の警察すら拳銃を抜くのをためらうこの国で、堂々と自動火器で武装している。難民の顔をした「民兵」だ。……奴ら、本気でここを日本の法律が及ばない「独立領土」にするつもりだぞ』
「おあつらえ向きね。遠慮なく『害虫駆除』ができるわ」
ミコは冷たく微笑むと、雨の闇に溶け込むように動き出した。
正面ゲートを避け、工場の裏手へと回り込む。
そこはかつて資材の搬入口だった場所だが、分厚い鉄扉は内側から完全に溶接され、窓ガラスはすべて黒い塗料で塗りつぶされていた。光一つ外に漏らさない徹底した隠蔽工作だ。
しかし、どんな堅牢な要塞にも必ず「呼吸」のための隙間がある。
ミコが目をつけたのは、地上からおよそ十メートルの高さにある、錆びついた巨大な換気扇だった。
彼女は音一つ立てずに工場の外壁に取り付き、わずかな足場と指先だけを頼りに、垂直の壁を蜘蛛のように登り始めた。雨で滑りやすくなった外壁も、古武術の「柔の歩法」を体得している彼女にとっては障害にならない。
あっという間に換気扇の前に辿り着くと、ミコはライダースジャケットの内側から、ワイヤーソーを取り出した。
換気扇のブレードの隙間からワイヤーを通し、金属の摩擦音を雨音に紛れさせながら、固定用のボルトを静かに切断していく。
数分後、重い金属のカバーが外れそうになった瞬間、ミコはそれを片手で受け止め、音もなく工場の屋根裏へと滑り込んだ。
「……潜入成功。内部の様子を探るわ」
屋根裏の点検用通路に降り立ったミコは、眼下に広がる異様な光景に息を呑んだ。
広大な工場のフロア。かつて日本の職人たちが汗を流した油臭いその場所は、今や異国の狂気で満ちていた。
数百人の屈強な男たちが、床に敷かれた粗末な絨毯の上に膝をつき、祭壇のような場所に向かって祈りを捧げている。彼らの背中には、狂信的なまでの熱と、暴力の匂いが色濃く漂っていた。
祭壇の前に立っているのは、豊かに髭を蓄え、黒いローブを纏った長身の男だ。
『偉大なる唯一神の御名において! 我ら選ばれし民よ!』
男が母国語で叫ぶと、数百人の群衆が一斉に地の底から湧き上がるような雄叫びで応える。
ミコはウェアラブル端末のカメラを男に向け、音声をロキに転送した。
『……こいつは驚いた。ただの集会じゃない。完全な「決起集会」だ』
ロキのタイピング音が微かに聞こえ、すぐに男の演説のリアルタイム翻訳がミコのコンタクトレンズに表示される。
『聞け、同胞たちよ! この穢れた多神教の島国は、我々が浄化しなければならない! 異教徒の政府は我々を恐れ、警察は手出しができない! 人権団体という愚かな盾が我々を守っている間に、力を蓄えるのだ!』
男が祭壇の背後にある防水シートを乱暴に剥ぎ取ると、そこには目を疑うような代物が鎮座していた。
木箱の中にぎっしりと詰められた、ロシア製の旧式アサルトライフル(AKシリーズ)。さらには、手榴弾や、パイプ爆弾などの即席爆発装置の山だ。
「ロキ……見ているわね。武器庫よ。しかも、かなりの数」
ミコが息を潜めて囁く。
『ああ。どこから密輸したかは後で徹底的に洗うが、奴らはすでに「次のフェーズ」へ移行する準備を終えている。地方都市で暴動を起こし、警察を無力化し、そこを『自治区』として宣言する。……ヨーロッパのいくつかの国が、これで内部から破壊された』
ロキの声に緊張が走る。
「放置すれば、埼玉や東京の郊外が市街戦の戦場になるわ」
『そうはさせない。奴らの計画の全貌と、背後にいる資金源のデータを根こそぎ奪い取る。ミコ、祭壇の横を見てくれ。通信用のノートパソコンと、暗号化用のモデムがあるはずだ』
ミコが視線を凝らすと、確かに祭壇の裏側に、不自然に真新しい電子機器のセットが置かれているのが見えた。
『奴らのネットワークは、外部からのハッキングを完全に遮断する物理的な閉鎖網になっている。俺が外からどれだけノックしても扉すら見つからない。……ミコ、お前が直接あのパソコンに俺のデバイスを繋いでくれ。そこから『ヤタガラス』を流し込む』
「数百人の狂信者の真ん中に降りていって、パソコンにUSBを挿せと?」
『難しいか?』
「……いいえ」
ミコは背中の日本刀の柄に手をかけ、暗闇の中で妖しく、そして冷たく微笑んだ。
「神域を荒らす害獣どもに、日本の影の恐ろしさを教えてやるには、ちょうどいい舞台だわ」




