女護(メゴ)の市
アンドレアスの件は、カートの口からギュンターに伝えてもらうことにした。そうすれば、自ずとフェリックスの耳にも伝わるはずだ。
想定外の重要機密ではあるが、しかし、エルフリーデたちになにか出来るかと問われれば、悔しいが、何もない。
「この件はいったん脇に置いて、予定通り女護市に行きましょう。リーゼロッテたちへのお土産も買わなくちゃ」
エルフリーデがそう言えば、アディも
「そうだよねえ。そろそろお腹もすぐ頃合だ。女護の屋台でいい店を知ってる。紹介するよ」
と相槌をうつ。
トーマも頷くより他ない。
なにしろ、ミッテを出れば厳しい旅路が待っているのだ。ここでは他のことに邪魔されず、エルフリーデを楽しませてやりたかった。
* * *
女護市は、中央市場から西へ行ったところにある。
屋根のない路地の両脇に、ずらりと店が並んでいるのだが、特筆すべきは店主が全て女性だということだ。
若干例外はあるものの、男は店主の近親者のみが許されていた。つまり、女だけの露店街なのである。
その歴史は古く、今より二百年ほど前のこと。
当時の王妃は心優しく、貧しさにあえぐ未亡人たちの窮状に、たいそう心を痛められた。
彼女たちのために救護院を開き、そこで読み書きや手仕事を教えたのだが、物を完成させても売る場所がない。
そこで考え出されたのが、女護市である。
初めは救護院で完成させた品のみだったのが、やはり賑わいも必要と、女であれば誰でも参加できる市となった。
今では屋台やら女ばかりの大道芸などが加わり、たいそうな規模となった。
そしてなにより、治安がすこぶる良いのが評判だった。場所は旧王城広場の近く、かつては王宮護衛兵が常駐して、目を光らせていたという。
これには地回りのヤクザ連中もさすがに手が出せない。活気はあるが、いささか物騒なことの多いミッテだが、ここは例外と言えた。
しかし。
それも今では過去となった――とはアディの言だ。これには王国の崩壊と国境戦が大きく関係している。
王国がカルタリアに併合されると、女護市の警備は国境警備隊に任された。初めの頃はそれで良かったのだが、問題は国境戦のあとだ。
精鋭が配置されていた頃と違い、今となっては絞りカスのような人材しか残っていない状況で、まともな警備など期待する方が間違っている。
「そもそも、いまあの基地にいるのは間違いなく《蠍》か《鷹》から、何かしらの賄賂を受け取っているからね。
彼らに不利になるようなことはしないさ。だから最近、女護市に下っ端たちがウロチョロしてる。ひどい言いがかりを付けられることもあるらしい」
「ですからお嬢さま、なるべく目立つ行動はお控えください」
アディがこう言えば、間をおかずにクラリスが口を開いた。
「お嬢さまの義侠心は素晴らしいことですが、下手に突っ込むと何が出てくるか分からない場所です」
「分かっているわクラリス。今回は何があっても大人しくしてる。私たちの目的は別にあるのだもの。トーマ、お前もいいわね?」
念を押されて、トーマは無言でうなずく。
そうして。やがて一行は市場の端へとたどり着いた。
「これは確かに。すごい賑わいね」
一目見て、エルフリーデが感嘆の声をあげる。
旧王城へと伸びる一本道はその昔、王と近親者だけが通ることを許されたそうだ。
しかし、王妃はあえてその道を、未亡人たちのために解放した。その功績は今でも、市場の隅に置かれた彫像によって称えられている。
そしてその姦しさといったら。
――ナディア、あんたん家の猫が子を産んだんだって?一匹うちに分けておくれよ。さいきん台所にネズミが出てねえ。
――コーリャ、なに? あんた、まーた嫁さんと喧嘩したのかい。情けないねえ、いい加減追い出しちまいな。
――ねえねえこの眼墨どう思う? あの人、ぜんぜん気がついてくれないんだけど。もっと派手な方がいいかな?
強い訛りのせいで少し聞き取りにくいが、この市場がご婦人たちの一大社交場になっているのは理解出来た。
格好もさまざまで、当然、拝火教徒はヴェールをつけているのだが、みな生き生きと、目が輝いている。
「ミッテの女性たちは、あまり外に出ないんだ。裕福な家ほどね。特に結婚したら、夫は妻を家に閉じ込めたがる。
でも女護市への参加は別さ。だから、ここではみんな、思い切り羽を伸ばせるんだ」
たしかに。
昨日のハレムで感じたことだが、タマラもヤサミンもファティマも、どこか鬱屈したものを感じさせた。衣食住、全てを満たされて幸せなはずなのに。
「ここで他のみんなのお土産を買うわ。クラリスも手伝ってちょうだい」
エルフリーデの声も弾んでいた。そうして通りの端から一つひとつ店を眺めたのだが、どれひとつとして稚拙なものはなく、丁寧にこしらえたものばかりだ。
大きなものでは床の敷布やベッドカバー、小物は、腰に下げる煙草入れや室内ばき、肩掛けや手ぬぐい、祈祷書入れ。華やかなドレスや下着まである。
他には薬草を調合したお茶やはちみつ、万病に効くという軟膏。
古道具屋も多く、古着や宝石、調度品も豊富で、確かに見ていて飽きない。
旧王城広場には大道芸や屋台も出て、トーマたちはそこで少し遅い昼食を取った。
焼きたてのパンに羊肉をはさんだもので、アディの知り合いという女店主は
――あら、アディの友達かい。それならサービスするよ。
と笑って肉を一枚多く入れてくれた。エルフリーデは屋台でものを買うのも初めてで、その表情は、初めての遠足に来た幼い少女のそれだ。
考えてみれば。
国の命運を背負う使命を帯びているとはいえ、エルフリーデはまだ十七歳なのだ。
現代の日本であれば、アニメやゲーム、ユーチューバーに夢中になったり、推し活に精を出す年頃である。
実年齢より言動が大人びてはいても、やはり彼女もまた、トーマと同じ未完成な存在だった。
屋敷を遠く離れた、このミッテという古い街で、普段は押し殺している幼さを開放しているようにも見える。
この街を出立すれば、厳しい旅路が待っているのだ。
見るもの全てが珍しい――そんな顔で商品を眺めるエルフリーデに、改めて愛しさが募る。
そして決意を新たにするのだ。
――命に替えても彼女を守り抜く、と。
* * *
騒動があったのは、毛織のショールを売る店に立ち寄っていた時だった。以前から、フラウ・マイヤーが良いものを欲しがっていたからだ。
店主の女性は小さな男の子を連れていて、これらは全て、自分が糸から作ったのだと片言の公用語で話した。
「ふうん、良いわね。クラリスはどう思う?」
「毛もそこそこ質の良いものを使っていますね。模様も派手すぎませんし、フラウ・マイヤーにはよろしいかと」
「じゃあこれにする。クラリス、お代を払ってあげてちょうだい」
クラリスが懐から財布を出し、
「いくら?」
と相手の顔を見たとき、違和感を覚えた。
怯えきっていた。その視線はクラリスの肩越しを見つめ、出した財布にすら気がついていない。思わず振り返り、彼女の視線を追った。
通りの向かい側に、ガラの悪い二人連れ。周囲を睨むように闊歩していたが、やがて立ち止まると店番に因縁を付け始めた。
――おい、じいさん。ここは女しか店を出せないって決まりがあるのに、じいさんが店番をしてるってのはおかしいじゃねえか。
――申し訳ありません。本来なら娘がここに居るべきですが、なにしろ身重の身体でして。
――ああ!? 赤ん坊は堕ろさせろって言ったよなあ! 借金が返せないなら、娘を娼館に売るしかねえって言ったはずだがよ。このくそじじい、なめてんのか。
――ひっ!
ボスッ!
鈍い音とともに、小さな悲鳴がいくつも上がった。大げさに騒げば、何をされるか分からない――誰もがそう恐れながら、ことの成り行きを、固唾を飲んで見守っている。
「すまないがお代を……」
クラリスが言葉をかけると店主は強ばった笑みを浮かべた。
「あ、ああ……銀十枚でいいですよ。ありがとうございました」
――お、お願いです、それは娘が作った……
――るせえんだよ!
背後で皿かなにかが割れる音がした。
老人がいたぶられる光景は、見ていて気持ちのいいものでない。しかしクラリスはあえて無視を決め込んだ。
ただでさえ人目をしのぶ旅なのだ。目立つことはしないのが得策である。
しかも、老人とヤクザたちには、金の貸し借りまであるらしい。
ここで余計な首を突っ込んだところで、何の解決にもならない。わざわざ火中の栗を拾いに行くのは、余程の、救いようのない馬鹿だ。
「なんだお前! 余計な真似しやがって、怪我する前にすっこんでろ!」
「いや、その、おじいさんがあまりにも気の毒で……その、つい……」
弾かれたように声の方を見ると、トーマが老人とヤクザの間に割り込んで、気弱な笑みを浮かべている。
救いようの馬鹿がいた。
勝手な真似を――怒りの表情をエルフリーデへ向けると、彼女もまた困惑した様子なのだが、状況を面白がっているようでもある。
まったく、下僕が下僕なら、主人も主人だ。
「その、お怒りはもっともです。でもさすがにお年寄りを殴るのはその、つい見てられなくて、ですね」
「じゃあなんだ……」
兄貴分の方が顔をしかめて、腕を組んだ。
「てめえが代わりに殴られますってか!!!」
腹の底からドスの効いた一声――だったのだが。言われたトーマは
「えっ? それでいいんですか?」
と喜びの表情だ。
「じゃあ殴ってください。お好きなだけ、よろしくお願いします」
* * *
頭を下げられ、引っ込みがつかなくなったのはヤクザの方だ。
思いがけない反応に、一瞬たじろぐものの
「そこを動くんじゃねえぞ」
と恫喝して睨みつけた。気が弱いものなら、これだけで腰を抜かすには充分なのだが――。
怒鳴られた方は、涼しい顔で殴られるのを待っている。さあどうぞと言わんばかりの態度に、
——なにかがおかしい。
微かな違和感を覚えたものの、相手はまだ若いひよっこだ。
あるいは武芸の心得があるのかもしれないが、どう見てもそこまで強くなさそうで、体格腕力ともにどう見てもこっちが上。
舐めた真似をするとどういう目に合うのか、見せしめには丁度いい。二度と立ち上がれないくらいに痛めつけてやるつもりだった。
大きく振り回した右拳を顔面めがけて繰り出す。威力には申し分なく、当たった瞬間、たしかな手応えを感じた。同時に相手が大きく吹き飛んで、通りのはるか向こうまで飛ばされていく。
小さな悲鳴があちこちで上がる。ここでいつもなら、追いかけたあと蹴りの二、三発、いや十発くらいはお見舞いしてやるところだ。
しかし、もう遅かった。
右腕に激痛を覚えたときは既に時遅し。指先一つ動かせない状況に、ヤクザはただただ混乱する。
あとからわかったことだが、このとき、右腕の骨が粉々に砕けていた。
もう二度と元には戻らないと、医者が匙を投げるほどに。
* * *
異変に気がついたのは連れの手下だ。
いつもなら威勢よく追い打ちをかける兄貴が大人しい。それどころか。殴った方の腕を押さえ、肩で息をしていた。
「兄貴、腕が……」
呼びかけに振り向くと、土気色の顔に脂汗が浮いている。
「ど、どうしたんすか……顔色が……」
「うるせえ、なんともねえよ。行くぞ……」
口調だけは、なんとか虚勢を張っている。しかし、耐えがたい痛みを堪えているのが、傍目にも明らかだった。
訳が分からなかった。
殴られた方は地面に伸びていて、数人の女たちに介抱されている。いったい兄貴に何が起こったというのか。
「あ、兄貴、医者を呼びましょうか」
「うるせぇっ! とっとと行くぞ、命拾いしやがって……」
捨て台詞を吐いて立ち去るヤクザと手下。まるで下手な三文芝居だ。
――馬鹿なヤツ。
クラリスは心のなかで吐き捨てた。
おそらく。殴られる瞬間、練気をヤクザの拳に思い切りぶつけたのだろう。ご丁寧に吹き飛ばされる真似までして。
当てられた方はたまったものじゃない。優れた練気は、岩をも砕くと言われている。あの右腕は一生、使い物にならないはずだ。
いい気味ではあるが、これで終わるのだろうか。あのような連中が、やられて大人しく引き下がるとは思えなかった。
「あんた、大丈夫かい?」
「しっかりしな。ジニア、気付けのハッカ水を持ってきてくれな」
「それよりお水を……」
地面に伸びたまま、数人の女たちに介抱されているトーマにクラリスは声をかけた。
「いつまで寝ているつもりだ? あいつらはもう居ないけど。起きるつもりがないなら置いていく」
むくり。
上体を起こしたトーマが、バツの悪そうな笑みを浮かべた。
「ごめん、その……」
「謝るな、さっさと立て」
平気な顔で立ち上がったトーマに、女たちは驚きの声を上げた。
「あれまあ、あんた、痛くないのかい」
「おやおや、たまげたねえ」
「ゴーダのやつ、なんか痛そうな顔して帰っていったわ。いい気味。あれもあなたがやったの?」
「こんなこと初めてだよ。あいつにはみんな困ってたからね。あんた、良かったらうちに来ないかい? お礼のお茶くらいご馳走するよ」
「あ、ずるい。ねえあなた、どうせなら家に寄りなさいよ」
「なんですか、はしたない。あなたは――」
「す、すみません。お気持ちはありがたいんですが、主人の伴をしておりまして……」
女たちの壁をなんとかすり抜け、トーマはエルフリーデを探した。通りの向こうに彼女はいて、アディと一緒に件の老人を助け起こしていた。
水筒から出した水でハンカチを濡らし、血と埃まみれの顔を丁寧に拭っていく。
「しっかりなさいな。アディ、血止めを」
「この軟膏がよく効くよ。ノコギリソウを
たっぷり使ってある」
「ああ……なんとも……申し訳ない」
ようやく目を開いた老人と、エルフリーデの視線があった。
「お、お嬢さま!?」
驚愕に目を見開いた老人に、
「ヘルマン……!?」
エルフリーデが声を上げたのがほぼ同時で。
* * *
トーマはすっかり忘れていた。元々の事の発端、つまりエルフリーデ誘拐未遂事件以来、消息不明になっていた御者の存在を。
そしてこの老人こそがその御者、ヘルマン・ミュラーその人なのであった。




