ハレム
「なぜ妾が同行出来ぬのだ、おかしいであろう。妾とそなたは一心同体、運命を共にする仲ではないか」
ベッドの上で無造作に胡座をかき、莫耶はふくれ面をした。
「だから、莫耶は目立ちすぎるんだよ。エルフリーデひとりでも人目を引くのに、そのうえ莫耶まで同行したらさ……。言いたいこと分かるだろ」
「ふん、ベールで顔を隠せばよかろう。フリーデもそうすると聞いておるぞ? 市場にはさまざまな異国の酒に、珍しき酒肴が溢れているというではないか。
このような享楽の都に来て、大人しくしていろとは、あまりにも理不尽じゃ」
「それでもダメ。ええと、顔を隠したって……莫耶の美人な雰囲気は、とうてい隠せないから」
「ふん、アディにそう言えと言われたのか」
「うっ……」
ミッテにいる間、莫耶は人の姿で誰かの目に触れぬよう、アディに進言された。
なるべく目立たぬよう行動しなければならないなか、莫耶は容姿や格好、言動、全てが際立ちすぎているからだ。
それ故に、今日一日は剣の姿でカートのそばにいる羽目になった。トーマ相手には口の軽い彼も、莫耶だとなぜか寡黙になる。
退屈で仕方のない莫耶が、トーマに抗議するのも無理はなかった。
「剣の姿でもだめなのか。お主が妾を背負って行けば」
「帯剣なんてしてたら、変な連中に目をつけられるってアディが言ってただろ。だからミッテにいる間は、一緒に連れて行けないんだよ。
それについては、莫耶も承知してたよな? 明日はカート、明後日はセトさんと一緒にって……」
「王都にいたときのことなど、もう忘れたわ。そもそも、この街の活気を目にしたら、そんな約束なぞ最初からする気にもなれんかったじゃろうな」
そして、いまにもヨダレを垂らさんばかりの表情になる。
「お主、ここの厨房から漂う匂いを嗅いだか? なんとも言えぬ、肉と香辛料の――」
「ちょちょ、ちょっと待って」
トーマは慌ててさえぎった。
「いくらなんでも、厨房の食料を失敬することだけはやめてくれよ。ここはお屋敷とは違うんだから」
「ふん、お主、妾のことをネズミかなにかみたいに。――そうじゃ、ネズミの仕業ということにすればよいのだ。まずは大きな羊肉の塊を」
「おい、人の話をだな……」
困りきった表情のトーマを見上げ、莫耶がニヤリと笑う。
「冗談じゃ。お主の困った顔を見るのは、退屈を紛らわす何よりの娯楽。おかげで少しばかり気が晴れたわ。なに、妾は明日、カートと一緒に茶館でセト殿と会う約束をしておるからな」
「え? ほんと?」
「もちろん、妾は剣の姿のままじゃ。表向き、セト殿とは、妾の売り手を探して欲しいとの理由をつけて会う。その本意はもちろん、我が弟の手がかりを探すためだ」
「それで……なにか分かったのか」
「セト殿にはゲルド族の巫女や預言者に協力を願い、前の持ち主のことを探ってもらった。
つまり、その者の情報がある程度つかめれば、干将についても何か分かるであろうとな。結果は明日、セト殿から聞かされよう。あまり期待はしておらんが」
「そうか、朗報だといいな」
そのとき隣室に続く扉が開き、クラリスが顔を出した。
「トーマ、ハレムに行くから、あなたも同行しろとお嬢様が」
「ええっ? 男子禁制じゃないのか?」
「貴賓の従者は認められている。どうしても嫌なら無理にとは言わないけど」
「良いではないか。ハレムを訪問できるなぞめったにない機会じゃ。秀でた剣士になるには、腕っ節だけでは事足りぬ。見聞を広め、世間を知ることも必要だからの」
そう言われてしまえば行くしかない。
正直なところ、ハレムというものにも興味があった。本当にライトノベルに出てくるような、淫靡な雰囲気なのだろうか。健康な青少年であるトーマは、ついよからぬ事を妄想してしまう。
「で……どうなの? なんか気持ち悪い顔してるけど」
気がつけばクラリスが眉根を寄せて、蔑んだ表情で見つめていた。思いきりドン引きされている。
「ご、ごめん。うん、行くよ行く。待ってていまジャケットを……」
「はあ……ハレムのもてなしとくれば、さぞ美味いものがたくさん出されるのだろうな。それなのに妾は……」
大袈裟にため息をついた莫耶に、クラリスが言った。
「あとで差し入れ持ってくるから。それまで大人しくカートといて」
「頼んだぞ。酒は最低でも二種類は頼む。珍しき、王都では飲めぬものが良いのお」
「残念だけど、ハレムのもてなしにお酒は出ないの」
「チッ、つまらん」
* * *
来なきゃよかった――。トーマは内心深々とため息をついた。
広く天井の高い応接は、きらびやかな装飾で溢れ、この家が豊かであることを客人に示している。
招いた女たちとエルフリーデたちは、この地方の作法に従って床に座り、菓子や果物を囲んでいた。
大きな皿に盛られたのは、みずみずしい杏や梨。他にはまだ熱い油の匂い漂わせる揚げ菓子と、ナッツを混ぜ込んだ焼き菓子の数々、干したぶどうにナツメヤシ。
応接間の中央に座るのは、第一夫人のタマラだ。その隣が第二夫人のヤサミンで、大きな腹をかかえながら、窮屈そうに座っている。
この二人から少し離れたところに座っているのが、第三夫人のファティマだった。あまりに若いので、初めはウサーマの娘かと思ったほどだ。どう見てもトーマやエルフリーデとそう変わらない。
タマラは白髪の上品な老婦人だが、ウサーマよりかなり年上に見えた。
拝火教徒は第一夫人を必ず従姉妹か、それに近い血族のものから選ぶ。そこに本人の意向はない。
おそらくタマラも、そうした為来りにしたがって年下の夫に娶わせられたのだろう。
第二夫人のヤサミンは二十代のなかごろといったところか。褐色の肌に金色の髪が良く似合う。身重のせいなのか丸々と太っていたが、くっきりとした顔立ちは美しく、濡れたような唇がどこか肉感的ですらある。
そしてファティマ。第三夫人の彼女は一年ほど前に嫁いできたという。まだ幼さの残る顔立ちで、容姿も決して悪くない。
しかしその表情は固く、エルフリーデが呼びかけてもニコリともしなかった。見かねたタマラが水を向けても、《はい》か《いいえ》としか答えない。
おそらく。
トーマたちが気に入らないという訳ではないのだ。ただこのハレムという空間に、まだ馴染めていない。彼女が一刻も早くここから立ち去りたい――そう思っているのが態度から明らかだった。
タマラがにこやかに、侍女の入れた黒茶をすすめる。表向きなごやかだか、どこか噛み合わないこの雰囲気に、トーマは覚えがあった。
帰りてえ……。
まだ小学生のとき、母方の遠縁が亡くなり、葬式に呼ばれたことがあった。亡くなったのは母の叔母の夫にあたる人で、代々続く豪農の家系だったらしい。
葬儀のあとの食事会は自宅の大広間で行われたのだが、ホテルの宴会場みたいに広かった。
トーマはいまでも覚えている。
表向きはいかにも和やかだが、叔母とその息子、孫夫婦のあいだに流れていた、なんとも殺伐とした空気を。
出された食事のことなどまったく記憶にないのだが、大叔母に恐怖したことは鮮明だ。
口元に微笑みを浮かべているのに、まったく目が笑っていなかった。
数年後に叔母が亡くなったあと、母から聞いた話では、叔母は後妻で、あの葬儀にいた息子は先妻の長男だった。二人の仲は険悪で、遺産をめぐって争っている最中だったようだ。
しかも叔父が、溺愛していた孫娘に遺産の全額を譲ると遺言書に残したせいで、まるで《犬神家の一族》をリアルで行くような一触即発の状況だったらしい――。
そんなことを思い出していたら、
「トーマ、だったわね。遠慮なく召し上がれ」
タマラが微笑んで、近くの揚げ菓子を皿ごとよこした。
「ロクマというお菓子なの。お口に合うとよろしいけれど」
ひとつ取り、かじると甘さが口に広がった。
「どう? 美味しい?」
ヤサミンの問いに無言で頷く。きれいな人なのだが、なんだか値踏みされているような視線が妙に落ち着かなかった。
茶会は主にタマラが会話の中心となり、エルフリーデに王都のことをいろいろ尋ねた。
一方、エルフリーデの方は、ミッテに来た感想を当たり障りのない言葉で述べる。この辺りのそつのなさはいつもの事だが、風向きが変わったのは
「そういえば、そちらの奴隷、ずいぶんと大金をはたいて購入されたそうですが」
ヤサミンが好奇心をあらわにたずねた時だ
「青い目の東方人はたいそう貴重と聞いております。たしかに、これは所有欲をくすぐるものですわね。
実は私も、以前から一人欲しいと思っておりまして。失礼ですが、払われた金額から上乗せしてお支払いするとしたら、そちらの奴隷を、譲っていただけます?」
* * *
場の雰囲気が凍りついた。タマラが厳しい表情でヤサミンを睨みつけるが、当人は平気な顔だ。
トーマがそっとエルフリーデの方を伺うと、彼女は彼女で、平然と笑みを浮かべている。王都の社交で鍛えられれば、この程度では動揺などしないのだろう。
「たしか……ハレムの従者は男子禁制とうかがっておりますが。残念ですが、他をあたっていただけませんこと?」
エルフリーデがそう答えると、ヤサミンは弾かれたように笑った。
「そんな、ご存知ないのですか? 男なら閹割を施せば良いだけのこと。こちらでは普通に行われております」
――閹割。
言葉の意味は分からないが、ヤスミンが何を言わんとするのかは理解出来る。
つまりそれは――。
その瞬間、浮かべた笑みはそのままに、エルフリーデから凄まじい殺気が放たれた。
隣のクラリスが、そっと隠し持った短剣を手で押さえる。エルフリーデが抜き去って、ヤサミンの喉を掻き切ることを恐れたからだ。
「ヤサミン……あなた、お客さまに向かってなんてこと。口を慎みなさい」
青ざめたタマラの叱責に、ヤサミンは唇を引き締め、侍女の手を借りながらのろのろと立ち上がった。
「気分がすぐれませんのでこれで失礼いたします。それでは」
両手で大きな腹を抱えながら、立ち去って行った。ぎこちない空気のなか、タマラが
「本当に申し訳ありません。この上なく失礼なことを」
胸もとの高さで下に向けた手のひらを重ね合わせ、深く頭を下げた。拝火教徒が礼拝のときに行う仕草であり、深い陳謝を表している。
「しかしヤサミンは……あの子も苦労したのです。まだ幼い頃、弟と二人で売られたそうで。そのせいでしょう、人買いをひどく憎んでおりまして。奴隷を売るのも買うのも、蛇蝎のごとく嫌っています」
売られた彼女を買ったのは、旅芸人の親方だった。厳しく芸を仕込まれ、いつの間にか愛人にされていたのだ。
「たしかに、そのような経緯を聞けば、なるほどと思います」
「ご存知の通り、ここがまだ王国だった頃は、奴隷売買は当たり前のことでした。
カルタリアに併合されたとき、奴隷売買も禁じられましたが、それでも人々の意識は、そう簡単には変わりません。摘発する側の軍も、見て見ぬふりですから」
冷めた茶に口をつけ、タマラが顔を曇らせた。
「それに……お聞きおよびかもしれませんが、売買を裏で手引きする、悪どい生業のものたちがおります。どうかお気をつけて」
タマラの言葉を、アディが継いだ。
「ミッテには奴隷売買の情報網があってね。それを仕切っているのが、《鷹》や、《蠍》などの裏世界を束ねる元締だ。とにかく関わらないのが一番さ。
奴隷商人のなかには、悪質極まりない奴もいるからね。人の親切心に漬け込んで、気がついたら攫われて売り飛ばされるなんてことだってある。
トーマは特に気をつけてくれよ。青い目の東方人を欲しがる連中は多いから」
ようやく場が和んで、トーマはちらりとファティマの顔をうかがう。目があい、慌てて顔を伏せる少女は、その後も借りてきた猫のようであった。




