珠璃娃(ミリア)
少年は珠璃娃の顔を凝視した。出て行くとは、つまり《足抜け》のことであろうか。刹那、少年の脳裏をある少女の顔が過ぎった。
一度だけ、足抜けに失敗して連れ戻された娘を見たことがある。まだ幼さの残る顔立ちだったが、表情の消えたそれは、まるで仮面のように生気を失っていた。
ひと時の甘い夢と、冷酷な現実。
一緒に逃げようと言った客は待ち合わせの場所には来ず、しかも独り身と信じていた彼には妻子があった。
ひどい折檻を受けたらしく、顔に傷はないものの、立てないほどの責め苦を与えられたらしい。
その後も客を取らされていたが、そのうち寝付くようになり、いつの間にか妓楼から姿が消えていた。
やめた方がいい――。
口から出かけたのに、言葉にならなかった。珠璃娃にじっと目を覗き込まれ、しばし見つめ合う格好となる。
そのとき、少年の意識のなかに、誰かの影がゆらりと入り込んだ気がした。
姿も形も分からないのに、その影はたしかに自分のなかにあり、微かな恐怖を覚えると同時に消えていく。
しかし影の痕跡はゆっくりと尾を引いて、少年に見たこともない街やひとの姿を見せていた。
乾いた砂漠の風と、南国の濃い緑。古都にそびえる尖塔、どこまでも広がる海原――。
しかし、いちばん鮮明に映ったのは、ある少女の幻影だ。
少年のように髪を短くしていたが、額に珠璃娃と同じような入れ墨がある。それは巫女の印で……。
「アディ……」
躊躇なく出てきた名前に、少年は何故か懐かしさを覚えた。その感情は間違いなく、目の前の娼妓のものだ。
否。
正確には、かつて彼女のなかにあったが今は失われてしまったものの一つだった。
「あなたの……妹さん?」
「やっぱりあんた、ただもんじゃないね。その眼……」
女の顔が離れて、視線が床へと落とされる。
「蒼眼の忌皇子……もし、あの剣が失われてさえいなければ、あんたもこんな場所にはいなかったかもしれないが」
「なんなんですか……イミコ?」
「それは今のあんたには、もうどうでもいいことだ。いや、どうだろう……。もし昔のあたしなら、もっといろんなことを教えてやれたかもしれないが。あいにく全部失くしちまってね。してやれることは、これくらいだ」
小脇の箱を少年に差し出した。胡麻団子がするりと膝から降りて、受け取り、蓋を開けた。
中身は薬包だった。数はたくさん。きちんと油紙に包まれたそれらを見た少年が、なんと言ったら良いのか分からぬという表情を作る。
自分の身体が、もはや薬でどうにかなるとは考えていなかった。それなら、これらの薬はすべて無駄になってしまうのではないか――。
「これは、あんたの咳を和らげる薬だ。ひどくなって勤めができなくなると、あんたも困るだろう。
言っておくが、あんたの病はもう薬じゃどうこうならない。それは分かっているね」
無言で頷いた少年に、
「毎日一つずつ飲むんだ。ひと月分ある」
「ありがとう……ございます……」
「もうこれきり会うこともないだろうが。久遠のことは、本当に気の毒だった」
意外な言葉に、少年は珠璃娃の顔を見つめた。
燭台の光が照らす顔には、深い諦念がにじんでいる。ままならぬ人の宿命を嫌というほど見てきた――そんな表情だ。
「姐さんは、なぜ……」
小箱を抱える指先に力がこもった。
「僕じゃ、だめだったんでしょうか。結局、僕一人じゃ、姐さんを救うことが出来なくて……。
そんなに頼りなかったんでしょうか。約束したのに……いつか二人で、ここを出ようって……」
「あんたと同じくらい、白雪も大切な存在だった。右手と左手、どちらもなくせないのと同じようにね。それだけのことさ」
「白雪を殺したのは、あの人ですか?」
あの人と言ったのは、少年が楼主の名を知らず、久遠が彼女のことをそう呼んでいたからだ。
「あのババアは吝嗇で冷血だが、長三の飼い猫を殺すほど馬鹿じゃない。とくに白猫が死ぬのは凶兆として、東の方では忌み嫌われているからね。客の出足にもかかわる。
殺したのは恐らく、それを知らない娼妓だろう。西か南から来た連中だとあたしは考えている」
「どうして……。姐さんは恨みを買うような人じゃなかった。誰にも優しくて……」
「だからさ。こんな勤めなのに、久遠ははどこか高潔だっただろう? 聖女みたいにさ。それが客の人気にもつながっていた。
余計ほかの娼妓たちには面白くない、妬ましいって気持ちを起こさせるのさ。おそらく、犯人は一人じゃないね」
ここに勤める娼妓たちの顔を思い浮かべた。皆妍を競う、いずれ劣らぬ美しさだが、久遠にはとうてい及ばない。
久遠のあでやかさは、清らかな魂が放つ唯一無二の輝きだった。
娼妓たちは久遠のことを《姐さん、姐さん》とさも親しげに呼んでいたが、その内心は、妬み嫉みを募らせていたのか。
彼女たちはおおむね少年には親切で、ときおり菓子や果物をくれた。少年の境遇に心から同情してくれていた――と思う。
でももし本当に。
白雪を殺した人物が、彼女たちのなかに複数人、いたのだとしたら――。
だとしたら、いったい自分はこれから、何を信じたらいいのだろう。
「好きな人が亡くなって悲しいってのは、あんたがまだ自分を保っているからさ。本当に大切なものは、あんたの中にある。誰よりも何よりも、自分を信じるんだ」
「でも……珠璃娃さんは……」
「言ったろう、ぜんぶ失っちまったって。力も、名前も、帰るべき場所も」
「じゃあ、ここを出て、どこに行くんですか?」
「あんたに前言ったことがあっただろ。死にかけの病人を買い取る、物好きな連中がいるって」
そういえばと思い出す。
――このあたりの娼婦や、貧乏人が死にかけると、どこかから荷車をひいてやってくるんだ。
死んでしまったらダメ、明日にでも死にそうな病人を買ってくれるんだって。
買われた奴らがどこへ連れて行かれて、どうなるか、誰も知らないってさ。
「その連中を追う。いったい何の目的で裏に誰がいるのか、確かめたいからね」
「どうして」
「あたしから何もかも全部奪ったやつが、その道の先にいるような気がするんだ。確信はないが、あたしの勘はよく当たるからね。
じゃあもう行くよ。お互い命があったら、どこかでまた会おう」
立ち上がり、きびすをかえして、そのまま部屋を出ていった。
入ってきたのと同じくらい唐突で、取り残された少年はふたたび胡麻団子を抱き上げ、首元の毛に顔を埋めた。
みんな勝手すぎる。
怒りよりも虚しさが込み上げ、腹の底から深いため息をつく。
ここを出ていける彼女が羨ましくあり、そこまでの度胸も頑健さもない自分が恨めしい。
自分など。ここを抜け出ても走ることも出来ず、どこかで野垂れ死ぬのが関の山であろう。
このままここで朽ち果てるのだ。
母親の顔も知らず、自分が何者かもわからないまま……。
そういえば。
彼女は自分のことを《ソウガンノイミコ》と呼んでいた。そうがんとはこの蒼い目のことか。だとしたら《いみこ》とは――。
忌み子、すなわち、生まれるべきではなかった子のことか。
親に祝福されざる存在だったのか。それなら、あの寺にいた理由も何となく分かる。
自分がそれなりの名家の出自であろうことは、周囲の扱いから、なんとなく察してはいたが。
嘉殷と珠璃は、常にそばにいて、愛情と礼節をもって接してくれた。
そんな彼らでも、出自については話してくれず、とくに珠璃はとても悲しそうな顔をするので、それ以上なにも訊けなくなってしまった。
ただ母は死んだとだけ聞かされて、その答えに納得するしかなかった。しかし、もしかしたら、どこかで生きているのかもしれない。
忌まわしい赤子を捨てたことも忘れ、幸せに暮らしているのだろうか。
それも今となってはどうでもいいことだ。
「もうお前しかいないね。マーチュウ」
呼びかけると同時に、控えめに扉が叩かれた。細く開くと、男衆が哀れみと蔑みを含んだ視線で少年を見下ろし、上客の***が来たから相手をしろと口早に命じる。
無言で頷き、少しだけ安堵した。
***は客のなかではまだマシな男で、口での奉仕はさせるが、それ以上は望まない。
病身の少年を気遣って、来る度になにか差し入れをくれた。精がつくという熊の胆や、鯉の肉を干したもの、咳を止める蜂脂を。
人の情けにすがらざるを得ない今の自分を見て、あの二人はなにを思うだろう。きっと珠璃は悲しむに違いない。
それでも。
死ぬことも怖くて、こうして命を繋いでいる。無駄なあがきと知りながら、少年は珠璃娃がくれた薬包を一つ手に取った。
* * *
少年が客も取れないほど衰弱したのは、冬と春の境い目だ。勤めもできないなら邪魔だとばかりに、狭い納戸に敷いた硬い布団に寝かされていた。
ほとんど物も食べられず、元々痩せていた身体はいっそう痩せて、喉を通ったのは、ときおり誰か飲ませてくれる甘い水だけ。
咳をするたびに血を吐いて、口元と枕を汚したが、枕も敷布も汚れたままに捨て置かれていた。
楼主は苦々しくキセルの煙を吐き出し、男衆に命じた。
「あれはもう使い物にならないね。あいつらがここら辺をうろついていたら呼んどくれ。連中がお望みの死にかけだ。それまであいつを死なすんじゃないよ。売れるものが売れなきゃ、こっちが大損だからさ」




