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出立の前夜(三)

 公爵一家が和やかな晩餐に興じているあいだ、トーマはフラウ・マイヤーとリーゼロッテに呼び出され、作業室にいた。


 作業室という名称こそ堅苦しいが、使用人たちが好きに過ごすための部屋だ。

 素朴な造りの大きなテーブルと、椅子が十脚。忙しい務めの合間に、新聞や本を読んだり、あるいはおしゃべりに興じながら、縫い物やアイロンかけをして、家族に手紙を書く。 


 トーマはたいていここで読み書きの勉強をしていた。カートとリーゼロッテに教わったおかげで、簡単な文章なら読むことも書くことも出来る。以前ロベルト・フランク医師にもらった絵本は、ページの端がめくれるほど使い込んだ。


「いろいろ忙しいでしょうに、呼び出してごめんなさいね」


 フラウ・マイヤーはいつもと変わらぬ穏やかさでそう言った。彼女は旅の本当の目的を知る数少ない一人だ。内心はどうであれ、表向きは平静さを保ちながら、旅の支度で浮き足立つメイドたちをしっかりと束ねてくれた。


「あのね、トーマくん」


 リーゼロッテが差し出したのは、小さな白いハンカチだ。


「これ旅のお守りにあげる。広げてみてくれる?」


 白い布面には不思議な図柄が刺繍されていた。金色の編んだ髪が、ブレスレットのように弧を描いている。


「これは伝統的な図柄なの。昔の船乗りはね、長い航海に出る時、奥さんや恋人、家族の髪をこうしてブレスレットに編んで身につけ、無事に帰ってこられるよう祈ったんですって」


「へえー」


「もちろん、今は廃れた風習だけど。こうしてハンカチにひと針ひと針、祈りを込めて刺繍するの。みんなにお願いしたら、快く協力してくれたわ」


 たしかに、よく見れば刺繍の刺し方が明らかにちぐはぐで、上手い下手がはっきり分かる。

 逆に言えば、苦手にもかかわらず刺してくれた人がいたわけで、トーマは胸の奥を締め付けられる思いだった。


「もちろんメイソンさんも手伝ってくれたわ。侍従の経験もあるから、意外と縫い物とか刺繍が得意なの」


「リーゼロッテ、余計なことは言うんじゃない」


 扉を開け開けて入ってきたのは他ならぬメイソンだ。これにはトーマは飛び上がるくらい驚いた。今は晩餐の時間で、メイソンはそこでの給仕を何より神聖視していたからだ。大規模な災害でもない限り、抜け出すことなど有り得ない。


「メイソンさんはね、どうしてもあなたに言いたいことがあるんですって」


「フラウ・マイヤー、君も余計な口出しはせぬよう」


「余計なんかじゃないでしょう。道を作ってさしあげてるんです」


 笑顔で返したフラウ・マイヤーに、メイソンは顔をしかめて見せた。

 しかし、トーマも短い付き合いながら分かる。メイソンのしかめっ面は、笑顔を隠すためのカモフラージュだ。


「うむ……その……なんだ。長い旅だ、身体には充分気をつけたまえ。君の責任は重大だ。そのことをしっかり心に刻まなければな」


「はい。心得てます」


「もう、メイソンさん」


 フラウ・マイヤーが呆れた表情になった。


「本当に言いたいことは、そんなことじゃないでしょう」


「ふむ……」


 メイソンがしばし沈黙する。そして

「トーマくん。君がここに来たとき、嫌な態度を取ってしまったこと、許して欲しい」


 そう言った。


「君が東方人(イシュト)というだけで、偏見を持って接してしまった。下僕たちを束ねるものとして、良くないことだった」


「いえ、俺は……そのことは、もうあんまり気にしてなくて」


「とりあえず、言いたいことはそれだけだ。仕事に戻る」


 足早に退室する背中を眺めたあと、フラウ・マイヤーとリーゼロッテと視線をかわし、自然と笑顔がこぼれた。


「本当に素直じゃないんだから」


 フラウ・マイヤーが苦笑を浮かべた。


「トーマ、メイソンさんも私も、あなたとお嬢さまの帰りを信じて待ってるわ」


「はい、必ず」


「でも寂しくなるわ。いつもここで勉強していたものね。あなたがいないと、メイドたちも退屈するわ、きっと」


 フラウ・マイヤーの言葉に、リーゼロッテがクスリと笑う。


 ここに来たばかりのころ、文字を勉強していると、ほかのメイドたちが興味津々といった体で寄ってきたものだ。

 なかにはからかうように身体を密着させたり、胸を押し付けたりと、積極的なアプローチをしては、トーマを大いに困惑させた。


 フリーデからあらぬ誤解されると厄介で、フラウ・マイヤーに相談した翌日には、メイソンから


 ――トーマに読み書きを教えるのはカートとリーゼロッテに任せる。他のものは余計な世話を焼かないように。


 とのお達しがあり、ようやく落ち着いて勉学に励むことが出来たわけだ。


 まるで遠い昔のことのように思えるが、わずか数ヶ月前なのが信じられない。いまではこの屋敷、人々、すべてがかけがえのない大切な居場所だった。


「俺も皆さんと離れるのは寂しいです。だけど……必ずみんな無事で戻って来ますから」


 フラウ・マイヤーが指先で目尻をぬぐい、大きく息を吐いた。


「じゃあ私は仕事に戻るわね。トーマ、今日はもう仕事はいいから、好きなように過ごしなさい」


「ありがとうございます。あの、リーゼさん……」


 フラウ・マイヤーに続こうとしたリーゼロッテが、怪訝な表情になった。


「よろしければ、ちょっとお話してもいいですか」


 リーゼロッテが顔を向けると、フラウ・マイヤーが無言でうなずき、部屋を出ていった。リーゼロッテは手近の椅子を引いて掛け


「なんでも訊いてちょうだい。私に答えられることなら」


 そう言って卓上で指を組む。


「すみません」


 トーマはひとつ離れた椅子にかけ、


「リーゼさんは、軍にいた時のことは覚えてないんですよね?」


 と訊ねた。


「うん。脳の一部が壊れちゃってね。ほとんど何も覚えてない」


 左の手袋を外し、手のひらに埋め込まれた《魔導回路(シジル)》を見つめる。

 どうやって埋め込んでいるのだろう。隙間なく皮膚に馴染んだ金属質のフレームと、丸く透明な晶石。


《最も効率的に魔法を兵器として扱える道具》を研究した結果、協会が出した答えがこれだ。フェリックスと《真の愛国者たち》が協会を嫌悪する、最大の理由でもある。


「それでも……トーマくんのモヤモヤを吐き出して欲しいな」


「単刀直入に言います。俺……」


 数秒ためらった後、トーマがリーゼロッテを正面から見据えた。


「やっぱり怖いんです。人を殺すかもしれないって思うと。クラリスには甘いって怒られるでしょうし、俺自身もそう思う。頭では分かってます。殺らなきゃ殺られる。お嬢さまを守るなら、そんなつまらないことに囚われている暇なんかないって。だけど……」


 トーマの視線がリーゼロッテの顔から《魔導回路(シジル)》へと注がれる。


「俺が殺そうとしている兵士たちは、カートさんやリーゼさんと同じ人たちだ。貧しさや色んな理由から、兵士になった。望んだわけじゃない。それを考えると、覚悟ができないんです。みんなの期待に応えたいのに」


「そう……」


 リーゼロッテは手早く手袋をはめ直し、開いては握る。まるで自分の手が本当に自分のものか、確かめているみたいに。 


「トーマくん。その話、カートにしてみるといいわ。きっと導いてくれる。カートはね、戦争のことは何も話したがらないけど、本当に必要なことなら話してくれる。私ね」


 ホワイトブリムへと指先を遣り、隠れた魔導回路に触れて、言葉をついだ。


「何も覚えてなくて、病院で目が覚めた時は身体が動かなくて、混乱していた。でもカートがそばにいてくれて、教えてくれたの。

 私がとっさにカートを相手の攻撃から守って、それでひどい怪我をしたって。脳も損傷して、回復するか分からないほどだったって」


 カートとリーゼロッテは魔導装甲(ファランクス)操縦士(ファビエンダー)だった。二人一組で魔導装甲を動かし、カートがメイン操縦、リーゼロッテは索敵と兵装系統担当。

 当時のことを思い出しているのだろう。リーゼロッテの視線が遠くを見つめた。


「自分のせいでこうなったって、だから私のことも、ちゃんと面倒見るって言ってくれた。私たち、二人とももう兵士としては役に立たない。なんとか《廃棄処分》だけは免れて、自分はだめでも、私だけでもちゃんと退役させるって」


 そんな折、皇太子とアッシェンバッハ公爵が病院を視察に来ると聞いて、カートは賭けに出た。戦争被害に心を痛めている二人の温情に期待し、なんとか処分を逃れられないか、大胆にも直談判したのだ。


 その結果、今こうしてカートとリーゼロッテは屋敷に職を得た。ほかの傷病者のほとんどが廃棄処分にされたことを考えれば、まさに僥倖という他ない。


「彼はきっと、私に言っていないことも沢山あると思う。でもきっといつか、必要な時に話してくれる。トーマ、あなたが彼に答えを求めるなら、ためらわないで、訊きたいことを単刀直入に訊ねて欲しい。もしかしたら、それが彼の救いになるかもしれないから」


 リーゼロッテは立ち上がり、スカートの裾をはらった。


「私に言えるのはこれくらい。カートはいま車庫にいるから行くといいわ」


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