出立の前夜(二)
クラリスはますます怪訝な表情で訊ねた。
「それが分かっていながら、なぜわざわざ手間のかかることをした?」
「ふむ。ちとあの塔を封印していた魔導回路とやらに興味があっての。何処かに術者が残した痕跡がないか探ってみたが、無駄骨に終わった」
「なにか気になることが?」
「フリーデが言っておったのを覚えているか? あの室内は、鉢植えの植物が青々と鉢に茂っていた。ホコリひとつ落ちておらず、長い間封印されていたとはとても思えなかった。まるで時間が止まっていたみたいだと」
「そうだ。おそらくヴィルヘルムさまか、賢者べドガーが、そのような封印を施したのだろう。貴重な蔵書や薬草を守るために」
「ふむ、妾が引っかかったのはそこじゃ。アディに尋ねたところ、この大陸に、例え閉鎖的な空間であっても時間を止める魔法など存在しないそうじゃ」
クラリスがそれを理解するのに、ほんの僅かな間を要した。動揺を押し殺すように、静かに息を飲み込む。
「それは……一体どういう……」
「お主らが気が付かなかったのは無理もない。魔術には詳しくないのだからな。
しかしこの西側の人間なら、魔術が四大元素を基礎とし、それら無数の複雑な組み合わせで成り立っておる……それくらいくらいは知っておろう」
急に温室が寒くなったような気がして、クラリスは手にしていた鉢を置いた。どこかの窓が空いているのか。
「時間というのは、それとは全く異質なものじゃ。アディに言わせれば、もし時間を魔術でどうにかできるのなら、神に近い存在らしい。同時にこの世の理を曲げる、えらく邪悪なものだと。
しかし、そんな魔術は今まで公式には存在しなかった。もし《協会》がそんなものを開発しておれば、真っ先に軍事転用されておるはず」
「カートはなにか知っていたか」
「あの男曰く、そんな技術はなかったと。少なくとも自分は見ていないとな」
「そうだろうな。もしそんなものが軍事転用されていたら、紅蘭民などひとたまりもない。
つまり……昔も今もあるはずのなかった魔術が、たしかにあった――そういうことか」
「そういうことじゃ。ちなみに今の話は、絶対にエルフリーデには話すなとアディに言われとった。気味悪がらせては良くないのでな」
一瞬。クラリスの目に殺気が宿り、莫耶を睨みつける。
「そんな誤魔化しが通用すると思うなよ。本当のことを言え」
「なあ、エルフリーデは母御にまったく似ておらんが。噂は本当なのであろうか」
もし近くに眠りこける老人がいなければ、果たして理性を保てただろうか。
頭に上った血を鎮めるために瞑目し、クラリスはゆっくりとまぶたを開く。
「そのようなくだらない噂を、お前が気にするとはな。あの高潔な旦那さまのことだ。そんなことは有り得ない、絶対に」
屋敷に務めていればいやが上にも耳に届いてしまう。お嬢さまと奥さまはまったく似ていない。実はお嬢さまは旦那さまが他で産ませた娘に違いない――と。
メイソンは噂話を固く禁じていたが、人の口に戸は立てられない。新入りのメイドすら、務めの初日に、誰かによって聞かされる。
「たしかに、謹厳実直を体現してたような男じゃ。妾もそれには同感じゃ。だからこそ、こう考えたことはないか。もしかしたら、公爵とも血が繋がっておらぬ――とな」
「な……」
頭を殴られたような顔だった。どうやら一度も考えたことがないらしい。
「もしそうだとしたら、フリーデとはいったい何者なのかの。あの塔の封印をとき、秘蔵されていた白紙の帳面に文字を浮かべる。
妾ははじめ、彼女のなかに流れる血がなせる技と考えていた。しかし、もし妾の推測が当たっていたら、そんな前提は崩れ去ってしまうが、それゆえ――」
「何者でもいい」
低く、押し殺した声だった。だからこそ、クラリスのあらゆる感情を孕んでいる。
莫耶を真っ直ぐに見つめた双眸には、冷たい炎が渦を巻いていた。ふと、莫耶はこんな目をどこかで見た気がした。忘れてしまった遠い昔に。
「お嬢さまは、お嬢さまだ。私が命をかけてお守りするだけのこと」
「そうしてもらわぬと困る。我々の手札は少ないが、フリーデは取っておきの切り札だからな」
「もう私は行く。ここで飲むのは構わないけど、ハンスさんを起こすな」
「ではそうさせてもらう。ここは緑の匂いが濃くてよい」
立ち去るクラリスを見送り、ふと、莫耶は懐かしさにとらわれた。濃い緑の匂いは、山深くにあったあの寺を思わせる。
厳格な戒律のもと、多くの僧が暮らすそこは莫耶と干将の故郷であった。
人ではないから故郷というのもおかしいが、かの寺にいた僧侶によって、干将・莫耶は生み出され、秘蔵されてきたのだ。
生みの親のことを、いまの莫耶は思い出せぬ。遣い手であった蒼眼の忌皇子たちのことも。
物心つかぬうちから僧たちに育てられ、やがて干将・莫耶の主となり、まだ幼さののこる歳に寺をでて、己の剣を弱きもののために振るった。
そして戦いに疲れ、剣を手放すと決めると、再び寺に戻って余生を過ごしたのであった。
おそらく、彼らとは強い結び付きがあったのであろう。剣とその遣い手は背中を預け合う間柄、どうしたって絆は生まれる。
しかし干将は遣い手とのそうした繋がりを快く思ってはいなかった。
――俺たちはあくまで道具だ。それを弁えろ。
なんどそう言われただろう。
――お前はいささか人間臭すぎる。酒を飲むのもやめろ。絡まれるこっちの身にもなれ。
思えば生まれてこのかた、これほど長いあいだ彼と離れていたことはなかった。いったい自分たちの身に何が起こったのか。
(まったく、あいつは何処でなにをしておるのじゃ)
問いかけても答えが出る訳もなく、莫耶はグラスの酒を飲み干した。瞑目し、干将の顔を思い浮かべた。
浅黒い肌、うなじでまとめた長い髪は、つややかな白銀だった。
彫りの深い容貌は、端正かつ、人を寄せつけない厳しさをただよわせていたものだ。
そして、瞳は。
夜空に煌々と輝く満月のような――。
* * *
白雪の亡骸が見つかり、悲嘆にくれた久遠は寝込んでしまった。食事ものどを通らず、泣いてばかりいる。
慌てたのは楼主の因業ババアだ。所詮はたかが畜生と木で鼻をくくっていたが、徐々にやせ細っていく彼女に、ようやく事の深刻さを理解した。
医者を呼び、あれこれ手を尽くしたが、久遠の壊れてしまった心が元に戻る訳もなく。
殺鼠薬を飲んで血を大量に吐き、久遠は死んだ。姿を消していた阿姨の死体が川から上がったのは、それより二日後のこと。主従揃って同じ毒を飲んだらしい。
ただ一つ、少年にとって幸いだったのは、久遠の表情が安らかだったことだ。苦しみ抜いただろうに、口元には薄い笑みを浮かべ、眠っているようにすら見えた。
このような場所で娼妓が死ぬのは、さほど珍しくはない。しかし《長三》の自尽はさすがに衝撃が大きい。
憶測、邪推、勘ぐり、怨嗟と悲嘆。
あらゆる雑音が飛び交うなか、久遠の遺体は慌ただしく荼毘に付され、なにごともなかったように妓楼は商いを続けていた。
もちろん少年も客を取らされ続けている。
不思議なことに、あれほど辛い咳や熱が、今となってはそれほど苦痛ではなくなっていた。
久遠の死から、自分の心と身体が切り離されてしまったのか、務めも淡々とこなしている。どれほど屈辱的なことをされても、心は身体の外にあって、ただじっと事が済むのを待っているだけだ。
客が寝てしまい、一人になると、必ず胡麻団子が来た。
にゃあとも鳴かず、満月を思わせる銀眼でじっと少年を見つめる。黙って寄り添ってくれるのがありがたく、抱き上げ、黒い毛に顔を埋めている時だけは、少し泣くことが出来た。本当なら号泣したいのに、涙すらあまり出てこないのだ。
その夜も。
客がかく大きないびきを聴きながら、少年はマーチュウを抱いてペタリと床に座り、ぼんやりと天井のシミを眺めていた。
音もなく扉が開き、顔を出したのは珠璃娃だ。手に小ぶりの木箱を抱え、開口一番こう言った。
「お別れだ。あたしは今夜、ここを出ていく」




