出立の前夜(一)
シルヴァ族自治区への出立前夜。
ギュンターとエリザベス、エルフリーデの主人一家は、いつもより早い晩餐で水入らずの時を過ごした。
場は和やかで、一見するといつもと変わりない。しかし表向きは穏やかでも、公爵夫妻の心中穏やかならざることは明らかであった。
特にエリザベスはときおり食事の手を止め、なにかを飲み込んだような表情で、娘の顔を不安そうに見つめては口元を引き締める。
なにしろ、これほど長く娘が屋敷を留守にするのは初めてだ。しかも南東の地ミッテはいまでも治安が回復せず、物騒な話ばかりが聞こえてくる。
旅慣れたセトとアディのガイドが付くとはいえ、娘を溺愛している彼らが心配するのは無理もない。
そんな彼らの心配を他所に、エルフリーデは旅への期待を口にした。王都以外を見たことのない彼女にとって、初めての本格的な旅なのだから当然だろう。
ミッテは古から南の大陸との中継地点にあたる。一時期は拝火教徒たちが都を置いた歴史もあり、街には彼らが建立した寺院も多い。
大市場には南から来る商人や旅人たちが集い、連日賑わっている。
珍しい異国の品物は香辛料、砂漠のガラスを使った装飾品、樹脂香、金銀の細工物などなど――。
――どれも本で知るだけだったわ。実際にこの目で見られるなんて。ほんとうに楽しみ。
エルフリーデは明るい口調でそう言うのだった。
ミッテまでの旅路はカートが運転する車で行く。宿の主はセトの旧知であり、信頼できる人物だと太鼓判を押されている。
――だから何も心配することはないわ。クラリスとトーマもいるのだもの。お土産を楽しみに待っていて、お母さま。
娘にそう言われて、エリザベスは静かに微笑み、ギュンターは妻の手をそっと握りしめた。
この屋敷で旅の本当の目的を知るのはごく一部に限られている。使用人たちのほとんどは、こう考えていた。
お嬢さまが退屈な屋敷を飛び出して、夏休みの課題にかこつけ、ちょっとした冒険をするのだと。
だからこそ、エルフリーデもギュンターもエリザベスも、貴族的平静さを保ち、あくまで旅行に出かける娘を心配する両親と、そんな彼らを心配しすぎだと笑う娘を演じなければならなかった。
なにも知らないメイドや従僕たちは、想像すら出来なかっただろう。
これが最後の晩餐になるかもしれない。
大切な娘が二度と屋敷に戻れないかもしれない――。
そんな恐れを隠しながら、和やかに笑いあっていたことなど。
* * *
一方、その頃。
温室番のところにいたクラリスを莫耶が訪ねていた。
老いて身よりもない老人は、クラリスを孫のように可愛がっている。最近は身体のあちこちが痛むようになり、夕食を取りに行けない彼に代わって、クラリスが差し入れを持っていくようになっていた。
荒れ地で生まれ育ったためか、クラリスは草花が好きだ。特に温室で育てている苗を観察すると、時間を忘れてしまう。
この屋敷に来たばかりの頃、そんなクラリスに温かな茶を入れ、いつまでも好きなだけいて良いと受け入れてくれた。
夕食を済ませた老人は、暖炉脇の肘掛け椅子にもたれ、ぐっすりと眠り込んでいる。空になった食器を盆に乗せ、立ち上がったところに莫耶がゆらりと姿を見せた。
「こんなところまで訪ねてくるなんてな。よほど暇なのか」
「なに、トーマのやつ、明日が出立のせいか辛気臭い顔ばかりしておってな。酒が不味くなってかなわん。ここで一献傾けようと思うただけじゃ」
袖の下から出したのは、いかにも上物のワインだ。恐らく地下のワイン倉庫から失敬したもので、クラリスは不快そうに顔をしかめた。
「見てのとおり、ぐっすり眠っている。起こさないで欲しい」
「は、妾の声はその爺には聞こえんよ。姿とて見えんじゃろうて」
そう言いながら、これまた袖の下から出したグラスにワインを注ぎ始める。
「つまみはないが仕方ない。しかし、お主はお主で、これまた心配ごとが顔に出ているの。トーマと大して変わりがないぞ」
「あいつと一緒にするな、不愉快だ。だいたい――」
言いかけて口をつぐみ、椅子で眠りこける温室番を振り返る。いくら耳が遠くなってきているとはいえ、起こしてしまうかもしれない。莫耶を無視して温室へ続く扉を開け、濃い緑と水の匂いを吸い込んだ。
ここには少ない水でも葉をしげらせ、花を咲かせる草木の苗がいくつもある。故郷に豊かな緑をと望むクラリスのために、温室番が育てさせてくれているのだ。
近くの魔灯をつけ、苗のひとつを手に取り、まだ小さな葉を眺めた。肉厚なそれは大きくなると大人が雨宿りをできるくらいまで育つらしい。
「なるほど、懸念は故郷にありか。先ほど自治区からお主に手紙が届いておったな」
背後の声に、振り向かぬままクラリスは答えた。
「手紙は従兄弟からだ。叔父の息子で小さい時から仲が良かった。自治区は総じて歓迎ムードだが、叔父たちのことは注意した方がいいと」
「ふむ、その従兄弟は信用できるのか。叔父の息子なら」
「その点は心配ない。彼は――リオンは、私のことを、妹のように大切に思ってくれている。優しい人だ。叔父に似なくて良かった」
「それは僥倖じゃ」
「以前も言ったが叔父は《民族の誇り》とやらに異常に執着する。国境戦でカルタリアと手を組むことも反対だった。皇国の手駒になるくらいなら、潔く民族自決を選ぶと宣言した。
もちろん、長である父は許しはしなかったが、今でも、叔父の主張に同調する輩が少なからずいる。おかしな事を仕掛けてこないとも限らない。
お嬢さまはこのことをご存知で、それでも自治区に行くと仰ってくれた。公爵の娘が訪問する――その事実が、皇国と皇太子がシルヴァ族へ敬意を払っているという、何よりの証になると」
「しかもエルフリーデは、皇太子の密命を帯びておる。その彼女を送り込むことで、シルヴァ族への二心ない信頼を表しておるというわけか」
「その通りだ。だからこそ、お嬢さまは私が必ず守る。命にかえても」
クラリスは唇を引き締め、目を閉じてトーマの顔を思い浮かべた。
いまは旅の仲間だが、正直なところ、一度は真剣に殺したいと思った相手だ。背中を任せられるのは分かっていても、いまひとつ頼れない。
しかし、それが己の甘さであることも、クラリスは充分にわきまえていた。いまは己の感情に縛られるべき時ではないのだから。
「お主が一人気張ったところで、どうにもなるまいよ。わが主も、ようやく使い物になる程度には育っておる。おまけにセトとアディは魔法と剣技の達人、トーマはともかく、お主らだけでも一騎当千の凄腕であろう。
楽観は禁物だが、虎の狩りをあれこれ心配するのは愚かというもの。なので妾もこうして、安らかな心地で酒をたしなむことができる」
「なんだかよく分からない例えだな。お前のお気楽さが正直うらやましい」
「どう足掻いても、こちらの手持ちの札は限られておる。こないだの調べものについても、結局収穫は皆無じゃった。あの塔の主は、よほど厳重に秘密を隠したようじゃ」
エルフリーデとトーマ、アディが白鳥島の邸宅に招かれた日、莫耶は北の塔に入らせてもらい、こもって調べものに精を出した。
塔の封印はエルフリーデにしか反応しない。彼女が塔から出てしまうと、再び扉は固く閉ざされ、入ることも出ることも叶わない。魔法の結界により、莫耶ですら、扉を抜けることは不可能だった。
普通の人間なら、閉じ込められることは危険を伴う。しかし人工精霊である莫耶に心配は無用だ。地下倉庫から失敬したワインを片手に、壁一面に並んだ古い魔法書を片っ端から漁り始めた。
もちろん用があるのは中身ではない。こういった貴族の屋敷では、貴重品を本の中に隠すことが多い。
これだけ蔵書があれば、どれかに何かしら隠し物がある――。
そう言ったはいいものの、どれだけ探してもただの本がうず高く積み上がるばかりで、途中で面倒になった莫耶はボトルを空にして、そのまま寝椅子で眠りこけてしまった。
蔵書を本棚に戻したのはトーマとクラリスである。
「呆れた。けっきょく探しきれてないんじゃないか。もっと探せば――」
「ないない。そもそもだ、誰かに後を引き継いでもらうつもりの場所に、見られて困るようなものは置いとかんだろ。
エルフリーデが見つけたあのノート、我々に託されたものはそれだけだと、妾は確信しておる」




