乗馬訓練(下)
「最近、ありがたいことに平和でさ。でもちょっと腕が鈍ってきたかな。これの具合も確かめたいし、ボクとしてはトーマとぜひ手合わせ願いたいものだね」
翠眼を楽しそうに細め、左手をローブの下にしまう。
「エルフリーデから聞いて楽しみにしてたんだ。すっごく強いってね。父さんは『もうお前に教えることはない』って言うし、クラリスは相手にしてくれないしさ。お互いの実力を知るのは、旅をする上で無駄じゃないだろ?」
「は、なるほど、そういう事か。たしかにお主の言うことも一理あるな。実力の分からぬ相手に背中を預けることは出来ん」
「そういうこと。ああ、どうやらララアも落ち着いたみたいだね。特訓はそろそろ終わりかな。じゃあボクは先に鍛錬場に向かっているよ。トーマにそう伝えておいてくれないかな」
「待って」
きびすを返したアディを、クラリスが呼び止めた。
「さっきのはどういうことだ。エミリア・ローゼンクロイツは、血筋を残すためにゲルド族を隠れ蓑にした訳じゃないのか?」
「うん、でもそれについては込み入った事情があるんだ。詳しいことは後で、晩餐の時でも話すよ」
にっと笑みを浮かべ、突き立てた人差し指と中指を顔の横で降ってみせる。途端に姿が魔法のように消えたが、莫耶には種も仕掛けも見えていた。
気配を消し、周囲の死角に巧みに入り込む。暗殺を生業とするものがよく使う技だが、聴勁に優れたものならすぐに見破れる。
莫耶がすがめた視線の先、ここよりはるか遠くにアディの姿はあった。どうやら軽功の心得もあるらしい。
「なんともとらえどころのない娘っ子じゃ」
「知っていると思うが、ゲルド族はどこの国にも属さない。彼らが頼るのは彼らの《記憶》と金のみだ。
アディ親子と協力関係なのも、それが彼らにとって利となるからに過ぎない。ローゼンクロイツと協会の因縁はあるが、そんなものに命をかけるほど彼等はバカじゃない」
「なるほど、身が危うくなれば裏切る可能性もあるということか」
「私はそう考えている。義侠とは全く無縁な連中だ」
莫邪は黙ってグラスを干し、遠い目になった。
「だがそれにも利点はある。金や損得で動く相手の方が分かりやすくてよい。人の心を知れば知るほど、義理だの人情だのはあてにならんのだ。
人は変わる。たとえその時に心から忠義を誓ったところで、一年後に同じとは限らんからな」
手にしたニシンをクラリスへ突き出し、言葉を継ぐ。
「損得で動くというなら、金でもなんでも、奴らの利になるような条件を差し出せばよい。真っ当な商人なら、取引相手への、最低限の礼儀はわきまえておるじゃろ」
「やっぱり、あなたとは合わない」
ため息をひとつ吐いて、クラリスが言った。視線の先に、エルフリーデとトーマを乗せたララアがのんびりと歩いている。
「私のお嬢さまへの忠誠はこれからも揺らぐことは無い。これは絶対だ」
* * *
「どうやら少しは馬に慣れたようね」
興奮が収まり、のんびりと歩みを進める馬上で、エルフリーデは涼しい顔で訊ねる。
「いつ振り落とされるか心配だったけど、初日にしては大したものね。悔しいけど褒めてあげる」
「はあ……」
トーマは息を吐いて莫邪の方へと視線をやる。相も変わらず、莫邪は酒とつまみを楽しみ、クラリスは厳しい視線をこちらへ注いでいた。
手にしたクロスボウは護衛のためであるが、正直、いつ矢がこっちに飛んでこないか内心ビクビクしている。さっきの会話が彼女まで届かなかったのは幸いといえた。
そういえば……。
トーマはある疑問を思い出し、
「あの、お嬢さま。聞きたいことがあるんですが」
エルフリーデに尋ねた。
「なによ、改まって」
「その、東の砂漠のことなんですが。考えたんですけど、あの砂漠ってずっと昔からあるんですか。俺は自然とか地形とかそこまで詳しいわけじゃないですけど、なんか変な場所にあるなって」
地図で見るとその不自然さがよく分かる。
草木もまばらな山々が円環状に連なり、砂漠を囲んでいる。それはまるで隕石が落ちたあとのように、トーマの目には写ったのだ。
「たしかに……そうね。記録によれば、もともとあの場所は緑豊かな湿地帯だったらしいの。それがあることをきっかけに、あんな砂漠と荒地に様変わりしてしまった」
「あることって?」
「アシリング皇国と神聖カロリング帝国。カルタリアはこの二つが併合してできた国なのは、前にも言ったわよね」
たしかにそんなことを言われたような覚えがある。
「皇国はずいぶん長いこと、帝国と戦争をしていた。だからアシリングは、膠着した戦況を打開するために、かつてないほど強力な魔術を実用化する必要に迫られていたのよ」
一体それがどのような魔術だったのか、今となっては知る由もない。しかしその強大な力は広大な湿地を炎に包み、周囲の森を焼き払った。
湿地を広大な砂漠に変え、禿山にはかろうじてわすがな草を残すのみ。三百年あまりがたった今でも、未だに自然は回復していない。
なぜこの話が公に知られているかと言うと、まだアシリング皇太子であった賢王カルタゴスが、その計画に関わったある魔法使いから聞いたことを、《カルタゴの勅令》に記しているからだ。
まだ十代前半であったが、賢しい皇太子はその話にひどく心を痛め、魔法を軍事利用することへの嫌悪を募らせたのだという。
のちに神聖カロリング帝国の王女アリアを娶り、長きに渡った争いに終止符を打ったカルタゴスは、東の砂漠を《嘆きの記憶》と名付けた。
勅令を発し、魔術を国の繁栄と平和のために使うことはあっても、人と自然を害することを禁じた。
「だからあの砂漠は、私たち皇国の民にとって負の遺産ってわけ。もっとも、あの砂漠があったから国境戦を有利に戦えた――という事実はあったけど」
トーマ、これはここだけの話だけど――。
エルフリーデは声を潜めた。
「フェリックスの考えは正しい。べドガーが理想としたように、誰もが魔術の恩恵を受けるべきだし、それを簡単に使えるようになれば、この国はもっと発展するでしょうね。だけど……少し怖くなるのよ」
「怖い?」
「誰もが簡単に魔術を扱えるようになる。それはきっと、最初の頃はとても喜ばれるでしょうね。だけどそのうち、全く有り難がられなくなる。
慣れれば当然のものとして受けいられて、それが長い時間と、多くの人々による英知の結晶という事実も、どうでも良くなってしまうわ」
確かにそうかもしれない。それをもっともよく表しているのは携帯端末だろう。知らない昔の人が見たら、魔法を使っているとしか思えないことを、機械がやってくれている。
あれがどういった理屈で動いているのか。トーマは疑問に思ったことなどない。気になるのは主に毎月の通信費と消費ギガバイトのこと、プレイしていたソシャゲの日課のこと。
「簡単に手に入った物の扱いなんて軽いものよ。それがひとつ間違えば、人を傷つける恐ろしい力であっても。
だからねトーマ、多くの人々に魔術が普及したとき、それが当たり前になってしまったとき、きっといろいろなことが変わってしまうと思うの。たぶん悪い方向に。《魔術の濫用》を禁止する協会の建て前は、正しいのかもしれないわね」
「それでも、行くんですか? グダニスク城に」
「ええ、行くわ。たとえ悪い予感が現実になったとしても、今よりもマシだと思うから。
《協会》の正しさは、本当のところ私たちを守るのではなくて、民たちを狭い場所に閉じ込める檻でしかない。そろそろ私も皇国民たちも、自由になるべきだわ」
それから短い沈黙のあと、ふたたびエルフリーデが口を開いた。
「でもそれなら、お前のこともきちんとしなくてはいけないわね。いつまでもお前を奴隷のままにしておけない。旅から無事に戻れたら、改めてお前の処遇を考えましょう」




