星への道標(上)
皇国歴147年。
風読みが言ったとおり、砂漠には珍しい無風の夜だった。
星が尾を引きながら流れ、黒く浮かび上がる稜線の彼方へと消える。焚き木が爆ぜ、小さな火の粉が辺りへと散って闇へと吸い込まれていった。
エミリアは空を見上げ、頭上を埋めつくす星々に目を凝らし、考える。
この世でもっとも美しいものの一つが、砂漠の星空だ――と。
初めて彼らと旅をして、砂漠で野営をした時のことをはっきりと覚えている。
焚き火の明るさにも負けないほど、燦然と輝いていた星々。空を埋め尽くす様は、まるで大聖堂を飾るガラスのモザイクだった。
天の川は川というよりも、天を渡る巨大な雲のようで、あまりの荘厳さにエミリアはしばし言葉を失ったものだ。
見つめているうちに、自然と頬が濡れていた。涙をぬぐい、
――自分はなにも知らない子どもだったのだ。今ここから、本当の人生を始めよう。
そう誓った彼女の脳裏に、様々な光景が去来する。
物心ついた時には、きらびやかな宮殿で、贅を凝らした暮らしをしていた。
母が自慢していたいくつもの宝飾品を思い出す。大粒のダイヤに真珠、ルビーにサファイヤ。
クローゼットに並ぶドレスは紅蘭民の絹を惜しみなく使い、開けるたびにとてもいい匂いがしたものだ。
正装した母は咲きたての薔薇のように美しく、幼い頃は、無邪気に信じていたものだ。
――自分は世界でもっとも美しいものに囲まれた、幸せな少女なのだと。
金色の鳥かごに閉じ込められていることにも気が付かず、せっせと魔術と術式の勉強に勤しんだ。勉強をしていれば父の機嫌は良かったし、母にも優しかったから。
いつからだろう。その鳥かごが窮屈に思えたのは。
自分は名家の生まれで特別なのだ、不満に思うなど贅沢だと己に言い聞かせても、胸をさいなむ苛立ちは収まらず、それでもあからさまに父に反抗することも出来なかった。
なぜ父が自分をあの大賢者に預けたのか、今でもよく分からない。
心の乱れは術式の成功率を大きく損なう。娘の心が少しでも晴れるようにとの、父なりの親心だったのか。
あるいは、反抗期を迎えた娘に手を焼いて、とりあえず安全そうな名のある魔術師に世話を押し付けようと考えたのか。
父の真意はともあれ、もしべドガーと出会えなかったら、自分はきっと今もあの鳥かごのなかだった。
父の決めた結婚相手に嫁いで、父の顔色をうかがうだけの夫にいらつきながら、ローゼンクロイツのために子どもを産んでいたのだろう。
でもそうはならなかった。
いまのエミリアを学友たちが見ても、たぶんすぐには分からないだろう。
腰まであった髪は、首もとでバッサリと切り落とした。着ているものは山岳民族から手に入れた毛織のマントと、砂漠越えのために仕立てた腰履き。
爪も手も砂で荒れてごわつき、剣を握るせいで節が目立ってきている。
この姿のまま晩餐会に出たら、きっと面白いだろうな――エミリアはくすりと笑った。
王都の貴婦人たちは眉をひそめるに違いない。母と侍女のネリーは卒倒するだろう。
そして父は――。
思索を打ち切り、薪を取って火にくべた。
「ようやく戻ってきたな。ずいぶん長いこと、どっか行ってたみてーだが」
隣に座った男がからかうように言った。
愛用の曲刀を砂棒で磨きながら、眩しそうに目を細める。焚き火が照らす髪は燃えるような赤色だ。揺らめく炎に映えた色合いは、砂漠の地平に沈む夕日を思わせた。
額と頬、手足に刻まれた刺青はゲルド族の証であったが、それがどこか、暗闇に潜む獣めいている。あるいは、鋭利な光をたたえた翠眼のせいか。
「魔術師は考えごとが多いの」
すまし顔で答え、寝静まった天幕へと視線をやった。それほど遅い時間でもないのに、みな示し合わせたように早寝してしまった。なんだかおかしな気を遣われているようで、エミリアとしては居心地が悪い。
こうしてこの男と火を囲んでいるのは、彼が優秀な傭兵で、嘘か本当か分からない武勇伝が聞きたいだけなのに。
肩をすくめ、火を見つめるふりをしながら、そっと隣の様子をうかがった。
男は愛刀の手入れに余念が無い。炎が作る影が、くっきりとした端正な顔立ちをより際立せて、エミリアは慌てて目を逸らした。
時々、こうして彼といると笑いたいような泣きたいような、矛盾した感情に襲われるのだ。
彼は王都にいた紳士たちとは全く違っている。
皇太子のルートヴィヒ、幼なじみのヴィルヘルム。彼らとて王都の女性たちからその美と優雅さを称えられ、近しいエミリアはことある事に羨望の対象にされた。
特にヴィルヘルムもエミリア同様、ベトガーの弟子であったことから(ただし彼は魔法薬草学以外、全く才能がなかった)、周囲が勝手に妄想を膨らませてその度にうんざりさせられたものだ。
エミリアにとってはヴィルヘルムは弟のようなもの。それ以上の感情などないというのに。
彼らがよく手入れをされた血統書付きの猫だとしたら、この男は山猫だ。王都の男たちが何重もの薄紙に包んだ野性味を隠そうともせず、失礼なことも平気で言う。
己の闘争心も残虐性も全て理解し、それを生きるための道具として扱っていた。
いや生きるため――だけではない。
彼にとって剣を振るうことは、生きていることを実感するための手段なのだ。
彼と一年、行動を共にして分かった。賭博師が危うい賭けに燃えるように、命のやり取りは極上のゲームなのだと。
「長生きしないわね、ぜったい」
思わずそう呟いてしまい、彼の方を見ずに薪を足した。勢いをました炎と煙が、真っ直ぐに空へと上がっていく。
風がないのがありがたい。無風なら厳しい寒さも、こうして暖を取ればしのげるのだ。
手入れが終わったらしく、男が剣を鞘に収めた。翠眼をエミリアへと据え、微かに微笑む。感じたざわめきを無視して、さりげなく訊ねた。
「これから、どうするの?」
「決まってるさ。あんたを王都まで送り届ける。それが俺の仕事だ」
「私を王都まで送ったあとは?」
「たぶんシギリヤ王国に行くと思う。古い知り合いにも会いたいしな」
「ふうん」
彼は名をヨシュアといった。
エミリアをここに受け入れてくれた旅商の長の甥にあたる。剣に優れ、同じく傭兵だった母親から学び、すぐに追い越したという。
ゲルド族は自衛のため、みな格闘術を学ぶ。特に武に優れた者は一族を離れて傭兵となり、必要があれば戻ってきた。
彼らは旅商では得られない《記憶》を持ち帰り、時には《預言者》や《巫女》に託宣を求める。そして必要なものを得て、また旅立つのだ。
一年前。ヨシュアがふらりと伯父のもとへ帰ったのは、エミリアの護衛のためだった。聞けば、ある依頼人から多額の前金を受け取っているらしい。
彼女を護衛し、無事に王都まで送り届けること。それが彼と依頼人の契約であった。
それから一年。
エミリアはほどなくこの商隊を離れ、王都へ戻る。それはエミリアを受け入れた時、長が期限を五年と定め、五年たったら王都に帰ることを条件としたからだ。
本来、ゲルド族はよそ者を受け入れない。
長が同行を許したのは、エミリアがローゼンクロイツの生まれであることと、ベトガーの紹介状を携えていたことが大きい。
利に聡いゲルド族が、金の卵を産むガチョウを放っておくはずがない。それでもエミリアにとっては、実にありがたい厚意であった。
五年などまだまだ先のことと思っていたのに――。
過ぎてしまえばあっという間だった。特にこの一年、この男が現れてからは、特に時間の流れが早かったような気がする。
「シギリヤ王国、まだ行ったことない。絵で見たことがあるだけ。とても遠いって聞いてるわ。それに海が信じられないくらい綺麗だって」
はるか東の、目が覚めるほどに青く美しい海に浮かぶ孤島。そこに古くから栄えたのがシギリヤ王国だ。
鉱山が良質な宝石を産出し、海からは極上の真珠が採れた。シギリヤ産は色も形も他とは違う。出入りの宝石商が
――こちらのサファイアはシギリヤ王国産のもので……。
とひとこと言えば、宝石好きなご夫人たちは目の色を変えたものだ。母もそんな一人であり、胸元を飾る大粒のルビーを自慢げに見せびらかせていた。
幼いエミリアは母に一度訊ねたことがある。シギリヤとはどんなところなのかと。母は
――さあ、よく知らないわ。きっと大きな鉱山がたくさんある所なんでしょ。
と答えただけで、晩餐会の招待状に忙しくペンを走らせていた。どうやら宝石に心を奪われても、それを生み出した土地には一切の興味関心がないらしい。
父が母のことを、美しく善良だがそれだけの、砂糖菓子のような女と形容したことがある。
そのときは酷いことを言うものだと憤慨したが、こうして離れてみれば、父の言ったことはもっともであった。
「それで、そこにあなたを待つ女性が居るのかしら。一人か二人……あるいは五人くらい?」
そう言って小枝を炎にくべた。
「おいおい、古い知り合いってのは男だ。縁あって、こんなにちっせー時から、剣を教えたんだよ。もう八年くらい前かな」
「ふうん。別に言い訳なんてしなくてもいいわよ。興味ないもの」
「他人のことより、あんたはどうなんだ。親父さんに無断で家出したんだろ。王都に帰って、詫びでも入れるのか」
「まさか。私は勘当されてるのよ。今さらのこのこ家に帰れるわけないでしょ。でも先生にはお世話になったから。せめてお礼くらいは言わなきゃね」
「ふん。なら、そのままベトガーの助手に収まる……ってことになりそうか」
「先生はそれでも良いでしょうね。でも今あそこには東方人の男がいるのよ。それも住み込みで。オマケに最近、もう一人増えたって聞いたわ。先生はいったい何を考えているのかしら」
「はは、そんなところに住み着くようなあんたじゃないか」
鼻で笑ったヨシュアをにらんだ。
「分かったようなこと言わないで。たしかに私は先生の弟子だった。先生のことは今でも恩師と尊敬しているわ。でもね」
グッと反り返り、天窮を見上げる。
「弟子はいつまでも弟子じゃダメなの。独り立ちして、自分の道を歩かなきゃ。だから先生にはお礼だけ言って、王都を出るつもり。そのあとは……」
この先を言うべきか迷った。話せば、この男に易々と主導権を握られてしまうことは分かっているからだ。
「もったいぶらずに言えよ。なにを言われても驚かないぜ」
「船で大陸を離れたいの。外の世界を見たい。もっと別の色んな場所に行って、視野を広げたいと思ってる。って……なによその顔」
笑いを噛み殺したような表情に、エミリアは口を尖らせた。いつもこうなのだ。この男と話すと、なんだか自分が手のひらで転がされているような気分になる。
「いやさ、大したもんだよあんた。今までもいろんな魔術師に会ったが、あんたが一番度胸がある。それとも船旅ってものをよく知らないのか」
「そうね。船に乗ったことはないわ。でも忘れてないかしら。私は風を操ることができるのよ。雨だって降らせられる。そこんじょらの魔術師と一緒にしないでくれる?」
「まあ聞けよ。あんたの実力はよーく知っている。でもなあ、女の一人旅ってのはそれでも危険なんだ。どうだ? どうせなら……」
「けっこう。行かない」
「まだなにも言ってないだろ」
「言わなくても分かるもの。どうせシギリヤ王国に行かないか――でしょ」
「いやなのか? 断る理由がないだろ」
「別に嫌じゃないけど……」
正直なところ行ってみたい気がする。海がほんとうに絵で見たような青なのか、この目で確かめてみたかった。
「私にあなたと一緒に行くメリットがあるのかしら。護衛以外に」
「それがな……大ありなんだよ」




