イマジナル・ゼロ(上)
カートは眠りが浅い。原因は軍に在籍したときにかけられた、強力な暗示のせいだ。
軍の魔導兵士は強弱はあれど、みな精神改造を受けている。影響は睡眠にもおよび、暗示を掛けられたものは有能な兵士として、いついかなるときにも臨戦態勢をとれるよう、眠りも常に浅かった。
暗示は軍を退役したときに解かれているが、長く精神を縛った枷の痕跡は、そう簡単に消えるものではない。
しかしその夜。
カートは珍しく深い眠りについて、トーマが部屋に戻ってもまったく起きることなく、滅多にない安眠を享受していた。
そんな彼がたたき起こされたのはまだ夜明け前のことで、重いまぶたを開けてみると。
なんと莫耶がすぐ傍に立っている。
「な、なに……?」
事情ののみこめないカートに、莫耶が言った。
「トーマの様子がおかしい。高い熱がでて苦しんでおるのだ。妾の力でも癒やすことが出来ぬ。なんとかしろ」
「なんとかしろって……」
そうは言いながら、すかさずベッドを出て明かりを灯し、トーマの様子をうかがった。たしかに苦しそうな呼吸を繰り返し、ただごとではない。額に触れてみるとかなりの熱が出ている。
「風邪を引いたってわけじゃないよな」
「おそらく、力をつかったことの反動じゃ。慣れぬことをしたせいで、制御できぬ勁が熱となってトーマを苦しめておる」
「どうすりゃいいんだよ」
「鎮める薬の作り方は知っている。ただ材料がない。しかし北塔の研究室になら……」
「お嬢さまの力を借りるしかないってことか」
手早くカートは着替えを済ませ、
「とりあえず、俺はメイソンさんのところに行ってくる。氷嚢やらいろいろ必要だからな」
「頼む。妾はこれからフリーデを起こす。いそいで薬を作ってもらわねば」
* * *
早朝、フリーデは北塔の研究室に莫耶とともにこもり、解熱剤の調剤にとりかかった。
莫耶の言った材料はすべて東方独特の名称で、それがウェスティアで何と呼ばれているのか、まずは翻訳しなくてはいけない。
研究室にある文献をあさって、ようやくそれらをつきとめた。幸いなことに材料はすべて研究室でそろい、調剤が完成したのは夕刻になろうかという頃合だ。
そのあいだ、トーマは二階の客間にうつされ、クラリスによって看病されていた。事情をすべて聞いたギュンターの計らいであり、それについては、メイソンすら異を唱えることはなかった。
そろそろ夏に差し掛かろうかという西陽は、熱にうかされた病人には強すぎる。カーテンを引くためクラリスが立ち上がると、ちょうどエルフリーデと莫耶が部屋に入ってきた。
「ようやく出来たわ。トーマの様子はどう?」
「莫耶に言われたとおり、額と脇の下を氷枕で冷やしています。ですが、熱は相変わらずで……」
「早く飲ませなきゃ」
フリーデは右手の薬瓶からトーマへと視線を移した。薬瓶には澄んだ赤茶色の液体が満たされて、一見すると紅茶のように見える。
「莫耶、彼を起こしてくれる? 飲んでもらわないと」
「無理じゃ、いまのトーマは妾ではどうにもならん」
「どうやって飲ませるのよ」
「身体を少し起こしましょう、その姿勢から吸口などを使えば」
「だが、これでは薬を口からこぼしてしまうかもしれぬ。せっかく作った薬が、無駄になるおそれがある」
「もったいぶってないで、どうすればいいのか教えなさいよ」
噛みつくような表情のフリーデに、莫耶がにやりと笑ってみせる。
「一番いい方法がある。耳を貸せ」
フリーデの返事を待つことなく、莫耶がふわりと宙に浮いた。形の良い唇が耳朶へと近づけられ、なにごとかを――。
「……」
莫耶のささやきに、フリーデの顔がみるみるうちに赤くなる。
「ちょっと、そんなこと……」
「出来ぬのか」
「だ、だって、それって……」
「なるほど、トーマの命は救えぬと」
「そういう訳じゃないけど……」
「では仕方がない。妾がやろう」
莫耶は腕を組み、大げさなため息をついた。
「もっとも、妾にとっては造作もないこと。なにしろ大切な主人だからな、ではフリーデ、その薬をよこせ」
悠然と右手を差し出す莫耶を、フリーデはにらみつけた。
「お嬢さま、よく分かりませんが、早く莫耶に薬を渡した方がよろしいのでは」
「ほれ、クラリスもこう言っておる。ことは一秒を争うのだぞ、迷っている暇など」
「いいわよもうっ! 私がやるわよ!」
フリーデが薬瓶を握りしめ、ふんぞり返った。
「言っておくけど、トーマの主人は私なのよ。買い主としての責任があるんだから。べ、べつに、こんなこと、どうってことないわよ!」
「お嬢さま?」
頬を赤らめるフリーデに、怪訝な表情になるクラリス。そのクラリスの肩を押し、莫耶は
「さ、フリーデが薬を飲ませるから、妾たちは外に出ているか」
と扉へ向かう。
「そうよ、二人とも出ていってちょうだい。いいって言うまで入ってこないで」
「で、ですが、お嬢さま、ただ薬を飲ませるだけで」
「ささ、お嬢さまがああ言っておるのだ、行くぞ行くぞ」
「こ、こら、押すな」
クラリスを押し出した莫耶が後ろ手で扉を閉める。
「お前、ろくでもない事をお嬢さまに入れ知恵しただろう」
「さあ、なんのことかさっぱりじゃな。それよりクラリス、お主に改めて訊きたいことがある」
莫耶の瞳がすっと細められた。
「実際のところ、トーマはどうだったのじゃ。あやつは妾がなにかしたと思っているようだが、妾は封印箱のなかで眠っていたのだ。そのようなこと、出来るわけがない」
「あいつは……」
クラリスは素早く頭を回らせる。その結果、彼が銀色の瞳をした《なにか》に変ったことだけは伏せることにした。
「たしかに、お前がなかに入ったときと同じ感じがした。それに右手の剣はまちがいなく莫耶だった。あの波模様は間違えようがない。でもそうじゃないとしたら……」
「妾とは別の存在があやつを動かしていた。いったいそれがなんなのか……。一つ確かめたいが、その時のトーマは、パシャを殺そうとしたか」
「した。迷いがなかった。かろうじて私が止めたが。それがどうかしたのか」
「いや」
莫耶は腕を組んだまま、天井から下がる飾り燭台を見上げた。
「もしや干将かとも思ったが……。だがパシャを本気で殺そうとしたのならそれはあり得ん。妾たちに人は殺せんからな」
「たしかにそうだな」
「なんにせよ、しばらくは目を離せんな。ところでお主、兄弟はおるのか」
「いない。弟と妹がいたが、二人とも生まれてすぐに死んだ」
「そうか、余計なことを訊ねてしまったな」
クラリスは背後の扉をふりかえり、
「薬を飲ませるだけなのに、ずいぶんとかからないか」
と顔をしかめる。
「まあいい。それより莫耶、私がいぜんお前に訊ねたことを覚えているか。もし主人が道を外れてしまったときどうするかと。
世のために、主人を手に掛けることは出来ないのかと。お前は否定したが、そのあと、なにか思い出したようだったな」
「お主、よく覚えているの」
「記憶力はいいんだ。あのとき、お前はなにも言わないままだったが、なにか例外的な方法があるのか」
「ふむ、結論として言えばある。だが、それについては秘密厳守じゃ。お主には話せん」
「そうか……その方法を使う日がこないといいな」
「なんじゃ、心配してくれるのか」
「命を助けてもらった借りがある。借りを返すまでは死んで貰っては困る」
「ふうむ」
そのときようやく扉が開いた。
「薬を飲ませたら、熱が少し落ち着いたわ。この薬、よく効くのね。普通の解熱剤としては使えないのかしら」
「残念だが、勁の暴走を鎮める薬だからの」
「ふうん。ま、いいわ、とりあえずトーマは治りそうだし。このまま彼は私が看病するから」
「そんな、お嬢さま、いけません。下僕をご自身で看病するなど。私が」
「言っておくけど、クラリスだって怪我をしてるでしょ。せっかくメイソンにお休みをもらったのだから、しばらく静養しなさい。これは命令よ」
「はい……」
「そうは言っても、私も少し眠りたいわ。莫耶、トーマをお願いできるかしら」
「見るだけなら、いくらでも出来るぞ」
「クラリスも休みなさい。昨日の今日なのだから。夕食は部屋で取るわ。そしてお父さまにお話ししなくては。事態はけっこう深刻ね」
フリーデが両手を腰に当てる。
「奴らが仕掛けてきた以上、こちらも黙って手をこまねいているわけにもいかない」




