イマジナル・ゼロ(下)
夕食後、ギュンターはフリーデとクラリス、カートとリーゼロッテを書斎へと呼んだ。もちろん莫耶も同席し、書き物机にふんぞりかえってワインをのんびりとたしなんでいる。
熱の落ち着いたトーマはフラウ・マイヤーが見てくれている。正直なところ、莫耶よりはずっと安心できた。
「皇太子殿下から今朝がた連絡があってね。トーマとクラリスの活躍がなければ、大変なことになっていただろう。改めてクラリスには感謝する」
ギュンターが頭を垂れるとクラリスは恐縮した。
「もったいないお言葉です。私はやるべきことをしたまで。感謝されるほどのことでは」
「皇太子は昨夜のことに危機感を覚えている。《協会》があのような手段にでるとは、私も予想していなかった。事態は我々が考えていたより、急を要している。そこで……」
ギュンターはそこで言葉を切り、視線に力を込める。
「なるべく早く《真の愛国者》たちを招集しようと思う。連絡はいつものとおり、カートとリーゼに頼んだよ」
「分かりました。迅速に手配いたします」
「それならお父さま、アディは来るのでしょ」
「もちろん、彼らの存在は欠かせないからね」
顔を輝かせるフリーデと対照的に、クラリスは仏頂面だ。どうやらそのアディとやらの存在をあまり良く思っていないらしい。
「なんじゃ、そのアディとやらは、それほどの美男子なのか」
「残念だけどアディは女の人よ。私より二つくらい年上のね」
「アディと父親のセトは、ゲルド族の商人だ。実を言えば彼らは正式な『真の愛国者たち』のメンバーではない。しかし先祖代々続く《協会》との因縁から、我々に協力してくれている」
「なるほど、そなたが言うからには信頼出来るのだろうな」
「それについては太鼓判を押すよ。そもそも我々の活動も、彼らの情報なしでは成り立たないのだから」
「アディは世界じゅうを旅して、珍しいお土産を持ってきてくれるの。お土産だけじゃないわ。いろんな情報もね」
「ほう、ではこないだの情報源とやらは、彼らのことか」
「その通り。アディについてはトーマの目が覚めたらいろいろ話してあげる」
「しかし、差し出がましいことを申し上げますと、彼らがどこまで信用できるのか、俺は今でも疑問です」
そう口を開いたのはカートだった。
「セトとアディはともかく、ほかのゲルド族にとっちゃ、彼らの因縁なんて他人事です。何処かから情報が漏れたりしないか」
「その点は、彼ら親子も特に気をつけている。二人の用心深さを信頼するしかないだろう。ところで」
ギュンターは娘のフリーデに顔を向けた。
「お前からも皆に知らせたいことがあるらしいね」
「はい、お父さま。みんなもこれは知るべきだと思う」
フリーデは手元に置いていた一冊のノートを取り上げた。ひどく古びた革表紙だったが、特に変わったところもない。
「これはあの北塔の研究室にあったノート。書き物机の引き出しに入っていたわ。これを見てほしいのだけど」
フリーデは皆が見ている前でパラパラとページをめくった。何も書かれていない、白紙ばかりである。
「私がこれを見つけた時、初めの数ページが破られて、残りはぜんぶ白紙だった。でも薬を作り終わってから、何となく気になって見てみたの。それがこれ……」
いちど閉じたノートを再び開く。表紙を開いたすぐの紙面の中央に数行、黒いインクで文字が記されていた。
「私が初めてみた時は、こんなものはなかったのよ」
「しかし、これはいったいなんの文字なのでしょう。見たことがないのですが」
クラリスが困惑したのも無理はない。書かれた文字はこの大陸には存在しない。南や極地と呼ばれる地方の文字とも違っていた。
リーゼが身を乗り出し、書かれた文字を眺める。そしてカートと視線を交わして頷くと
「これはマレカ文字ですね。昔、魔術師たちの間で使われていた神聖文字です」
そう言って文字をなぞった。
「魔術師以外には分からないよう、秘密の文字で手紙や記録を書いたそうです。実はいま、軍でも暗号に使われています。私も解読したことが何度か」
「じゃあ分かるのね」
「これくらいなら……少し待ってください」
ギュンターがペンと紙をリーゼに渡す。リーゼは数分かけてそれを翻訳し、
「恐らく、このような内容かと」
そう言いながら書いたものを文字列の下に置いた。一同は身を乗り出して、書かれたものを凝視する。
イマジナル・ゼロ。
それは万物の起源であり、全てを無へと還す無限の虚数である。
「なんじゃこれは」
莫耶が呟いた感想は、そこにいた全員のそれだった。
「フリーデ、このイマジナル・ゼロとやらを知っているか」
「初めて聞く言葉ね。リーゼは?」
「いいえ。でも、この文字が浮かび上がったことと、今回のパシャの一件に、なにか関係があるのかもしれません」
その場にいた一同のなかで、その言葉の意味を理解できたのはクラリスだけであったろう。
彼女の前に姿を現した、銀色の瞳を持つ誰か。その彼の顕現と、白紙に文字が浮かび上がったことに、関連があるとすれば――。
しばし一同は沈黙した。万物の起源であり、全てを無へと還すものについて思考を巡らせる。だがどれほど考えても答えが出るはずもなく、
「あるいはセトなら、なにか知っているかもしれない」
ギュンターが口を開いた。
「ずっと以前の古い記憶を受け継いでいる彼らだ。探ってみればなにか分かるかもしれない」
「そうね、彼らには近々会うことになるのだし」
「なにやらその親子、ずいぶんと訳ありのようだの。ただの商人ではあるまい」
そう訊ねた莫耶にフリーデが答える。
「彼ら親子は表向き、ゲルド族の姓であるベトレヘムを名乗っている。でも本当の名はローゼンクロイツ」
「は、あの学院と同じ名前か」
「そう。彼らはあの大賢者ローゼンクロイツの子孫なの。でも《協会》と対立してから、大陸を追放された。
表向き、ローゼンクロイツの家系は途絶えたとされているけど、ゲルド族に紛れ込んで、細々と生きながらえている。そうは言っても、もうセトとアディの二人だけになってしまったわけだけど」
「トーマと莫耶も二人に会うといい。きっと驚くだろうからね」
ギュンターはそう言って立ち上がる。
「これから慌ただしくなるだろう」




