宰相
その言葉どおり、全ては一瞬であった。
クラリスが見たのは弧を描く剣筋の閃き、そして砕け散っていく水晶が放つ輝きで、彼が動いた気配すら察することが出来ぬうちに、パシャの悲鳴だけがあたりを震わせた。
(今のは……なんだ……)
みぞおちに冷たいものがこみ上げてくる。速すぎて全く目が追いつかなかった。
いや、あれを動きと言っていいのか。踏み込む気配すら察知させず、気がつけば《魔導回路》が破壊されていた。もはや動きが速いという次元の話ではない。人の技を越えているなにかだった。
魔法とは違う。まるで世の理を歪めているような……。
パシャがわめきながら床をのたうち回る。這いずり回る姿はまるで死にかけた虫のようだ。
そんな彼を見下ろすトーマの視線は、相変わらず氷のように冷たい。尊大さと無慈悲さを隠そうともせず、銀色の瞳をパシャへと注ぎ続ける。
死神の目だった。
人の姿をした人ならざるモノがすぐそこにいて、それは触れたものに平等に死を振りまく。彼の刃が動く気配を見せ、クラリスは思わず叫んでいた。
「止めろトーマ、そいつを殺すな!」
なぜ止めたのか、クラリス自身も分からない。ただもし彼がパシャをこの状態で殺してしまったら、この先、自分はトーマを化け物としてしか見られないだろう――そんな懸念が心の片隅にあった。
トーマの動きがとまり、彼が顔をクラリスへと向ける。ゆっくりとこちらへ歩み寄り、剣尖を鼻先へと突きつけた。
「なぜ止める。殺した方が後腐れがない」
「ここは、エルフリーデさまか通われる学院だ。死体で汚したくない」
発言の矛盾は承知の上だ。クラリスとてトーマを本気で殺そうと思っていたのだから。
「殺さなければ面倒なことになる。それでもいいのか」
「もう、こいつは再起不能だ。死んだも同然の」
「そうか。お前がそこまで言うのなら仕方ない」
クラリスへ突きつけた剣尖が鼻先から喉元へと下がり、皮膚へと食い込んだ。
「分かっているだろうが、このことは他言無用だ。命が惜しければ言うとおりにしろ」
無言で頷くよりほかない。銀色の瞳が細められ、ようやく剣が喉元を外れる、と同時に莫耶がその輪郭をぼやけさせ、あっというまに消えていった。
彼が目を閉じ、呼吸を整える。再びまぶたを開くと、そこにあったのはいつもの青い瞳で、彼は自分の両手をじっと見つめ、信じられないという表情でクラリスの方へと顔を向けた。
「クラリス……」
そう呟くと膝から崩れ落ち、床に両手をついた。
「なんとか……やったみたいだな……」
背中を波打たせ、速い呼吸を繰り返す。初めての勝利に興奮して、身体が過剰反応を起こしている。戦場では珍しくない現象だ。クラリスにも覚えがある。立ち上がり、トーマの背中に手を当てて
「ゆっくり深呼吸をしろ」
と声を掛けた。いったい、こいつはどこまで覚えているのか――クラリスはそう考え、慎重に様子をうかがう。もう一人のトーマが何を考え、何を目的としているかは分からないが、もしそれがエルフリーデにとって害であれば……。
「ありがとう、クラリス」
ようやく呼吸の落ち着いたトーマが口を開いた。
「俺一人じゃ、ぜったい勝てなかった」
「トーマ……」
「クラリスと莫耶がいたから勝てた。感じたんだ、俺のなかに莫耶を、はっきりと」
「そうか……」
この様子では、クラリスを剣で脅したことは記憶から消えているらしい。瞳が銀色に変ったことも知らないのだろう。
「立てるか、皇太子殿下とお嬢さまたちがどうなったか気になる」
「うん、こうしてる場合じゃないよな。行かないと」
ふらつきながらも立ち上がり、横たわるパシャへと視線を投げた。すでに悲鳴を上げることもなく、かろうじて死んでいない状態の彼を見て、哀れむ表情を浮かべる。その反応に、クラリスはそっと安堵のため息を吐いた。
* * *
中央ホールにたどり着くと、
「トーマ、クラリス!」
エルフリーデが反対方向から駆け寄ってくる。脇目も振らずにトーマへと向かい、
「お嬢さま……って!?」
いきなり抱きつかれた。両手が首にまきつき、柔らかな胸元の感触が押し当てられる。
「無事で……本当によかった……」
声がかすかに震えていたのは、泣くのをこらえていたからだろうか。 愛おしさが込み上げて、もしクラリスがいなければ同じように抱きしめていただろう。
「約束しましたから、必ず勝つって」
「そうね、約束したわ」
少し遅れて皇太子とリチャードも姿を現した。だきつくエルフリーデと赤面しているトーマを見て、安堵の表情を浮かべ、顔をほころばせる。
「どうやらお邪魔だったようだね」
「おいおい、お二人さん、続きは帰ってからにしてくれよ」
「殿下、リチャードさま、ご無事でなによりです」
クラリスがすかさず膝を折り、頭を垂れる。
「パシャは、私とトーマでなんとか倒せました。殿下のお命を狙った不届き者は、闘技室に倒れています。反逆者として、正当な裁きを下されますよう」
「もちろんだ。クラリスもトーマも、僕の命の恩人だよ。どれだけ礼を尽くしても足りないくらいだ」
「もったいないお言葉です」
「クラリス、顔を上げてくれ」
フェリックスがクラリスの手を取り、ゆっくりと立たせた。
「トーマ、クラリス、この時から君たちは僕の友人だ。生まれや育ちは関係ない。だから君たちもそのつもりで接してくれ」
「そんな、もったいない……私のような者が」
クラリスが恐縮する一方、フリーデはようやくトーマから身体を離して口を開いた。
「それよりフェリックス、今度こそ外に出られるのではなくて?」
「たしかに先ほどと雰囲気が違う。どうやら、パシャが倒されたことと、なにか関係があるらしい」
二人の会話を聞いて、クラリスとトーマが顔色を変えた。
「お嬢さま、それでは今までずっと」
「迷ってたってことですか」
フェリックスはトーマに頷いた。
「そのとおりだ、どうやらこの学内のセキュリティがおかしくなったらしい。僕たちはずっと同じところをぐるぐると歩かされていた」
「まったく、おかげで足が痛くなっちまったぜ。せっかく一張羅の靴だってのによ」
「もしかしてパシャの身体に埋め込まれた《魔導回路》の仕業かもしれません」
クラリスがホールの天井を見上げた。
「あれが砕かれたことで、セキュリティのシステムが正常に戻った可能性があります」
「でも、ここを出る前に莫耶を回収しなくちゃ」
トーマの発言にフェリックスもうなずく。
「たしかに、彼女をあの箱から出してやらなくては」
「殿下、闘技室にはまだあの男がいます。なかば死んだも同然ですが、念のためご用心なさってください」
「そうだねクラリス。リチャード、トーマ、行こう」
エルフリーデが途端に不満を顕にした。
「あら、私は仲間はずれ?」
「フリーデ、君はクラリスとここで待っていてくれ」
「冗談じゃないわ。こんな所に置いて行かれても困るのよ」
「しかし、万が一の時は危険だ、君にもしものことがあったら」
「まあフリーデが行きたいって言うんならいいんじゃねえの。なんたってトーマとクラリスがいるんだからよ」
「殿下、恐れながら、パシャが倒れても油断はなりません。いまは二手に分かれるより、固まって行動した方がよろしいかと」
クラリスの進言に、フェリックスはうなずいた。
「分かった。ではみんなで行こう」
フェリックスが闘技室の方へ歩き始めると、光る誘導線が足元に現れた。
「これ、正しいのかしら」
「とりあえず進んでみよう」
「デタラメはもうたくさん。早く帰ってお風呂に入りたい」
闘技室には拍子抜けするほど簡単にたどり着いた。やはりセキュリティが正常に戻ったらしい。観音開きの扉は、トーマとクラリスが出たときと同じ、開かれたままだった。
先頭を歩いていたリチャードが用心深く、扉の影からなかを伺う。隅々まで見渡すリチャードが息を呑み
「おい……嘘だろ?」
かすかに声を震わせた。
「どうした?」
「パシャがいない」
「そんな……」
顔色を変えたクラリスが闘技室へ飛び込み、視線を一巡させる。リチャードの言葉どおり、パシャの姿は影もかたちもなく、砕け散った水晶のかけらも消えていた。
「逃げたってことかよ。あの状態から?」
トーマも信じられないという表情で観覧席へと視線をやる。もし何処かに隠れて、不意打ちでもされたら――。しかしその可能性をクラリスは即座に否定した。
「いや、逃げたとしたら、あの砕けた《魔導回路》も消えているというのはおかしい。それに、とても逃げられるような状態じゃなかった」
「じゃあ、誰かがパシャを連れ出したってことかしら」
「あるいは魔法を使って移動させた……」
厳しい面持ちでフェリックスがつぶやいた。この件に《王立神秘協会》が噛んでいるのは間違いない。皇太子の暗殺に関わったとあれば、国家反逆の大罪を犯したことになる。協会を政治から排除したいフェリックスにはまたとない好機と言えた。
しかし、証人となるパシャが消えてしまっては、こちらから打つ手がなくなってしまう。たとえパシャに襲われたと訴えたところで、協会は関与を否定するだろう。名誉貴族とはいえ、協会にとってはトカゲのしっぽでしかない。
「つまり、俺たちには手札がないってことか。やってくれるぜ」
リチャードが不快さを露わに吐き捨てた。一同が暗い表情で沈むなか、いち早くエルフリーデが顔を上げる。
「仕方ないわ。とにかく莫耶をだして、ここを出ましょう」
「そうだね。今は出来ることをやろう」
フェリックスが小走りで封印箱へと近づいた。《魔導回路》へと手のひらをかざすと、中央の水晶がほのかな明るみを帯びた。
カチャリ――解錠の音があたりに響く。なかの莫邪は入れた時と変わらない様子で、一同は胸を撫で下ろした。
「どうだい、彼女の様子は」
トーマが試しに話しかけてみたが返事はなかった。鞘に耳をあててみると、静かな寝息が聞こえる。どうやら眠っているらしい。
「おそらく封印箱の影響だろう。でも無事でなによりだ」
「それならもうここに用はないわね」
* * *
校門までたどり着くと、来た時にいたはずの守衛が姿を消していた。外へ出る格子扉はすんなりと開いたが、すぐそばに停車した見慣れぬ黒塗りの大型車を見て、フェリックスが息を呑む。
ボンネットの先には、六枚の翼をかたどったエンブレム。
周囲をかためる護衛は皆一様に長身で、額に大きな《魔導回路》が埋め込まれていた。白い軍服を着こなし、一人残らず帯剣している。
虚空を見つめた視線には一切の感情がうかがえず、精巧なマネキンめいた様子がただただ不気味であった。
「おいおい、厄介な奴が出てきたぜ」
「レオンハルト、なぜこんなところに」
ああそうか。トーマは莫邪を掴んだ手に力を込めた。
つまり、このなかに居るのが例の――。
運転席から降りた黒ずくめの男が、後部座席へと回って扉を開けた。降りてきたのは杖をついた七十代くらいの老人だ。
長い白髪に白い帽子、まとった法衣も輝くような純白で、袖口には金の縁飾り、肩から下がる飾り帯には、豪華な金の刺繍が施されていた。
これが例の宰相だろう。大厄災の生き残りで、《王立神秘協会》初期メンバー。どう低く見積もっても、年齢は百歳に近いはずだ。
それにしては肌つやはよく、全身から溢れた精気は、とても老人のそれではない。老化で衰えているとはいえ、顔立ちは若いときの美貌をうかがわせる。
老人は柔和な笑みを浮かべながら、ゆっくりとフェリックスに近寄った。
「皇太子殿下、ご無事でしたか」
「宰相殿に出迎えを頼んだ覚えはないが。城でなにか異常でもあったのか」
「とんでもございません。ただ、学院の警備主任から緊急の連絡が入りましてね。皇太子殿下が格技室に入られてから、セキュリティがシステム暴走を起こしていると。何か御身に危険が及んだのではないかと、いてもたっても居られなくなり……」
「そうか、それは心配をかけたな。このとおり私は無事だ、なにも問題は無い」
「それはなによりです。ところでそこの東方人は」
柔和な笑みを崩さないままだったが、投げられた視線に一瞬、トーマは肌が粟立つのを覚えた。冷淡や嫌悪とは違う。まるでこれから殺すつもりの虫を眺める、無邪気な子どものような目だった。
「レオンハルト、この二人は私の友人だ。私と同じ礼節を持って接してくれ」
「御意。では城に戻られますか。ところでエルフリーデさま、こんな時間に夜遊びとは、さぞやお父上もご心配では? よろしければこの車でお送りいたしましょう」
エルフリーデはにっこりと微笑み
「お気遣いありがとうございます、宰相さま。ですが今ちょうど迎えの車が来たようです。また後日、何処かでお会いしたいものですわ」
スカートの両端をつまみ、深々と会釈した。非の打ち所のない優雅さに、宰相の顔がほころぶ。
「お父上にもよろしくお伝えください」
「ええ、もちろんですわ。さ、行きましょう、トーマ、クラリス」
* * *
アッシェンバッハ邸に帰ったのは、まもなく日が変わろうかという時刻だった。
公爵夫妻は起きて娘たちを待っていたが、ただならぬ様子に何が起きたのかを察したらしい。夫人は娘を抱きしめ、
「お風呂を入って休みなさい。トーマ、クラリス、あなたたちもお湯を使うことを許可します。身体をきれいにすれば、疲れも取れるわ」
そう言って寝室へと引き上げる。ギュンターは
「詳しい話は明日に聞こう。とりあえずゆっくり休みなさい。メイソンには私から言っておく」
そう告げた。
トーマが風呂からあがり部屋に戻ると、カートはすでに寝た後で静かな寝息を立てていた。いろいろ話したいことがあるのだか、眠りの浅い彼の邪魔をしたくない。
トーマはベッドに横たわり目を閉じる。気持ちが昂って眠れないと思っていたのに、眠りはあっさりと訪れた。




