変容
エルフリーデはトーマを見つめた。もしかしてまだ薬の効果が残っていたのか。無言で見つめ合い、理解した。これは間違いなくいつものトーマだ。その証拠に重ねた手から震えが伝わってくる。
恐怖に対峙しながら、逃げ出したいのをこらえ、必死で踏みとどまっていた。その理由はただひとつ。だからエルフリーデは頷いた。
「分かったわ。あなたを信じる。いいこと、必ず勝ちなさい」
「無茶だ、トーマ、その身体でいくら――」
クラリスが言いかけ、触れあう手を見つめて口をつぐんだ。エルフリーデが手をひいて、フェリックスへと顔を向ける。
「行きましょう。クラリスとトーマが時間を稼いでくれる」
「分かった」
「やれやれ、デートをキャンセルしてこれじゃ割があわねーぜ。フェリックス、あとで埋め合わせしろよ」
「ここから無事に出られたらな」
リチャードの軽口に答え、フェリックスはトーマとクラリスを見つめた。絶対に生き残れ――そんな願いを視線にこめながら。
「大きく出たな。死に損ないが」
三人だけになった闘技場に、パシャの声が響く。
「まあいい、ネズミがどれだけ逃げ回れるか、お手並み拝見といこうか」
突きだした手のひらからまばゆい閃光が放たれる。クラリスとトーマが左右に散った。
「はっ! どこまで逃げられる!?」
パシャが両手のひらを握りしめる。胸前であわせた両拳から再び雷光がひらめき、同時にパシャがトーマとの距離を詰めた。
稲光をまとった拳がみぞおちへと食い込んだ。吹き飛んだトーマが、盛大に壁に叩きつけられる。
「おおっと、ついやり過ぎちまった。わりいな」
額にかかった髪をはらいのけ、パシャはクラリスを眺めて口元を歪めた。
「残念だな、素直になりゃ、一回くらいは抱いてやったのによ」
「ふざけるな、ゲス野郎」
「まあいい、野郎三人を始末したら、エルフリーデとお前で楽しんでやる」
「お嬢さまに手を出したら殺す」
「じゃあやってみろよ!」
パシャの挑発にクラリスはのらなかった。奴はトーマがやられたと思い込んで、油断しきっている。だが――。
あいつなら大丈夫。クラリスは確信した。それほど簡単にやられるほどヤワじゃない。
「なんだ来ないのか、だったらこっちから行かせてもらう」
言い終わらぬうちに、パシャがクラリスのすぐ傍に居た。
(!?)
視界の外から繰り出された回し蹴りを、防衛本能がいちはやく捉えた。軸を床へと落とし、背筋をしならせながら、紙一重の距離で蹴りの軌道をかわす。
「はっ!」
がら空きの上体にむけて隠し持っていた短剣を放つ。
軌道も速度も申し分なかった。短剣はまっすぐ喉元を狙い、切っ先が柔らかな皮膚を貫くかと思われた。
パシャの手が剣身をつかんだ。
「なっ!?」
「お返しするぜ!」
雷光をまとった短剣が放たれる。回避は間に合わず、防ぐには徒手でなぎ払うしかない。反射的に身体が動いて、クラリスの作った手刀が迫る白刃を振り払おうと――。
「あーーーーーーーーっ!!!」
触れた刃から電流が走り抜け、クラリスの絶叫が響く。内臓を焼かれるような痛みにのけぞり、床に倒れ込んだ。額をしたたかに打って意識が途切れかけるが、髪の毛をわしづかみにされ、頭皮をむしられる痛みで現実に引き戻される。
かすむ視界のなか、なすすべもなく髪の毛をつかまれ引きずり回された。
「やーれやれ、あっけなさすぎてつまんねえな、それじゃ次は外のあいつらを……」
パシャの嘲笑に歯がみする。それなのに、指先ひとつ動かせなかった。倒れたときに頬裏を切ったのか、鉄くさい血の味が口の中に広がっていく。髪を無造作に引かれる痛みなどどうでもよい。せめて、命と引き替えにしても彼女を守らなくては。
やめろ、お嬢さまに手を出すな。
そう言いたくても唇が動かなかった。
それでも、このままやられる訳にはいかない。
ならば——。
渾身の力を振り絞り、髪をひきずるパシャの手首を両手でがっしりとつかんだ。
「ああ? なんだこいつ、それで抵抗してるつもりかよ」
脇腹を思いきり蹴られる。また意識がとびかけたが、それでも掴んだ手首は離さなかった。
今しかない。
あいつは必ず来る。
「てめえ、いいかげんに……」
「こい……」
カッと目を見開いたクラリスが、鬼神の形相でパシャをにらみつけ、叫んだ。
「来い! トーマっ!」
* * *
背後の違和感に気がついたときは既に遅かった。
背中に放たれた短剣を察知し、振り向きざまに剣身を掴もうと手を伸ばす。それを囮と察したときには、トーマはすでにパシャの右脇へと迫っていた。
手には折れた東方剣の先端。割いた稽古着を手に巻き付け、しっかりと握ったそれを、クラリスが掴んだ手へと振り下ろす。
「なっ!?」
勁をのせた剣先が《魔導回路》の水晶を深く穿った。
パリン。
涼やかな破裂音がひびいて、砕けた晶石があたりへと散る。
「うがあああああああああああああああ!!!」
臓腑を抉るような叫びがパシャの口からほとばしる。カートに聞いたことがあった。《魔導回路》は全身の神経と密接に繋がっている。もし破壊されれば、気が狂うほどの苦痛を味わうと。
床に投げ出されたクラリスを抱き上げ、トーマは出口を目指して必死に駆けた。全身が苦痛で悲鳴を上げている。骨だってあちこち折れているに違いない。だがそれがどうした。今はここから逃げることだけを考えろ。
大丈夫だ、こっちだって来る日も来る日も、莫耶にしごかれていたのだ。あの毎日は絶対に無駄じゃない。かならずここから逃げ延びる。ほら、もうすぐ出口だ。あともう少し――。
ミギヘトベ。
誰かの声が耳元でして、瞬時に右へと跳躍する。雷光のすさまじい奔流が背中をかすめ、かろうじて直撃を免れたものの、トーマはクラリスごと床に倒れ込んだ。
手足が痺れて思うように動かせない。視界もかすんでよく見えなかった。それでもなんとか出口に少しでも近づこうとあがく。
ぜったいに逃げ延びてみせる。
エルフリーデに再会して、そして……。
鋭敏になった聴覚が迫る足音を捉え、危険を知らせる。なんとか上体を起こそうともがき、ようやく床に手をついて身体を起こした。はやく、はやく動かなければ。
背中を思いきり蹴られた。背骨をきしませるほどの衝撃が激痛となって、一瞬、目の前が真っ白になる。
「やりやがった、やりやがった、やりやがったやりやがったやりやがったやりやがった……」
目を開けると、鼻先にパシャの顔があった。両目が血に染まり、膨れあがった憎悪が呪詛となって口から漏れ出している。
動く片手がトーマの首根っこを掴んだ。怪物じみた膂力がトーマの身体を持ち上げ、床へと叩きつける。
「トーマ……っ!」
クラリスの悲鳴が弱々しく空気を震わせた。トーマに加勢したくても満身創痍の身で、もはや身体を起こすことすら難しい。
「トーマ……逃げて……」
「逃げろだってよ、トーマ、ほら」
《シジル》が光を帯び、再び稲光をまとい始めた。広げた手のひらが、猛禽類の爪のようにトーマの後頭部をがっしりとつかみ、放出された電流が脳を直撃する。もはや悲鳴も上がらず、身体を痙攣させるトーマを、パシャは興ざめした表情で眺めた。
「なんだ、もう逝っちまうのかよ、つまんねえな。そうだな」
クラリスへと視線を転じ、唇を歪めた。
「そうだな、このまま殺すんじゃもったいねえ。お前の目の前で、この女を犯してやるよ。この女が泣きわめくのをそこで指をくわえて見てな」
舌なめずりをしながら動けないクラリスに近づいた。メイド服のブラウスを引きちぎり、スカートをまくり上げ、タイツを乱暴に裂いた。クラリスの屈辱に引きつった顔を眺め、壮絶な笑みを浮かべながら、ゆっくりと下着を取り去る。
クラリスは絶望した。舌をかみ切りたくても痺れて動けない。このままこの男に思う存分陵辱され、終わったら殺されるのだ。母のように。
パシャの手が膝頭を掴む。ひっと小さな悲鳴があがり、苦痛をこらえるため、クラリスはきつく目を閉じた。
「いい加減にしろ」
パシャの身体が飛んで壁に叩きつけられる。おそらく、当の本人もなにが起こったのか分からなかっただろう。
クラリスの首筋に温かな手のひらが当てられ、しびれと痛みが引いていくのを感じた。ようやく身体の自由がきいて、クラリスは急いで乱れた服を整え、こちらに背を向けて立ち上がったトーマを見つめる。
いや、本当にあれはトーマなのか。まとった空気がまるで違う。それに右手に掴んだ剣は……。
「ト、トーマ?」
「お前は手を出すな、クラリス。あいつは俺がやる」
感情のこもらない口調だった。驚いたことに背中のえぐれた傷が治っている。そして右手に握った剣には、見覚えのあるきらめく波模様が。
「莫耶? でも……」
彼女は封印箱のなかで眠っているのではなかったか。それに、いまのは明らかに治癒魔法だ。いったい、いつのまにそんなものを。
「う、ううう……」
低いうなり声の方へ視線を転じた。
壁に叩きつけられ、床に倒れ込んだパシャが立ち上がる。力を失った片手をだらりとさげ、もう片方の手をこちらへと突き出しながら歩いてきた。その姿はさながら幽鬼そのもので、血に染まった両目も屈辱に歪めた唇も、この世のものとは思えぬほど禍々しい。
「トーマ、お嬢さまがお前を待っている。だから……」
無茶な戦い方はするなと言いたかった。でもなんだろう、この言葉にしがたい、皮膚がひりつくような感覚は。
彼が首をひねり、こちらを見た。
それは間違いなくクラリスの知っていたトーマであったが、
(銀色の……眼……?)
夜空に煌々と輝く満月のような白銀色だった。冷たく、どこか無慈悲な光を帯びた瞳がクラリスを見下し、ひと言、簡潔にこう告げる。
「すぐすむ」




