猫の化けの皮(下)
端からはクラリスが襲われているとしか見えず、観客席の三人が血相を変えて立ち上がり、席を後にした。
「き、きさま、殺す、ぜったいに殺す!」
ようやく自由になった両手で、トーマの身体を押しのける。こんどはクラリスが馬乗りになったが、そこで彼の異変に気がついた。全身から放たれていた闘気がすっかり失われ、苦痛に顔をしかめて額の傷を抑えている。
「い、いてて……」
口調がもとのトーマに戻っていた。手のひらについた血を見て目を丸くし、
「なんだよ、あれ、血が出てる? っていうか、ク、ク、クラリス!?」
馬乗りになられた状況が飲み込めないらしく、ぱくぱくと口を魚のように動かしていた。どうやら薬の効果が切れたらしい。すばやくトーマが握っていた短剣を奪い返し、あご下へとくい込ませた。
「あ、あの……これはいったい、どういうことで……」
一瞬、殺してしまおうかと本気で思った。もし、この男が世界に厄災をふりまく存在だとしたら……。
クラリスはトーマの顔を見つめる。訴えかけるような瞳は、屠殺される山羊の目に似ていた。シルヴァ族はめったに肉を食べないが、毛の質がおちた老山羊をつぶして食糧にする。
苦しまぬよう注意を払い、祈りながら屠ること。それが部族の掟だが、おのれの運命を悟った時に見せる山羊たちの目が、クラリスは苦手だった。
ため息をついてナイフを掴んだ手を引く。立ち上がり、
「起きろ」
と声を掛ける。まだ事情が飲み込めないらしいトーマは起き上がり、再び額の血を拭った。
「あとで傷の手当てをしてもらえ」
ぶっきらぼうに告げると、クラリスは短剣のもう片方を探した。
「クラリス、トーマ!」
エルフリーデが叫んで二人に駆け寄る。クラリスとトーマの顔を交互に見つめ、
「とりあえず、どちらかが死ぬとかじゃなくて良かったわ。お葬式は嫌いだもの。なぜか分かる? トーマ」
「そ、それは、やっぱり悲しい席ですし……」
「違うわ。私はね、黒い服が嫌いなの。カラスじゃあるまいし、あんなものを着なくちゃならないなんてうんざりだわ」
「はあ」
フリーデから少し遅れて到着したフェリックスが、
「いや、素晴らしい戦いだったよ。いいものを見せてもらった」
そう言って拍手を送る。リチャードとフリーデもそれに続き、クラリスとトーマは膝を折って深く頭を垂れた。
「殿下、申し訳ありません。お借りした剣を折ってしまいました」
クラリスの謝罪に、フェリックスは首を振った。
「折れた剣は直せる。君たちが二人とも無事で良かった。これほどの腕が二人も従者にいるなんて、僕も安心してフリーデを君たちに任せられる。トーマ」
「は、はい」
「以前はたいそう失礼なことを言ってしまった。君ではエルフリーデを守るのは難しい――って。僕が間違っていたよ、非礼を詫びさせてくれ」
「い、いえ、その……もったいない……お言葉……」
「どうか立ってくれないか。そして僕と握手をして欲しい」
顔を上げてフリーデと視線を合わせた。フリーデがトーマに微笑み、うなずく。トーマは立ち上がり、フェリックスへと右手を差し出した。
そのとき。
この時のこと思い出すたび、トーマは考える。立ち上がるのがもう少し遅ければ、反応できなかったと。
「あぶないっ!」
トーマが渾身の力でフェリックスの身体を押しのける。その瞬間、全身を電流のようなものが走り抜け、すさまじい痛みが背中を襲った。
「うわあああああ!」
喉から悲鳴がほとばしる。無数の焼きごてを押し当てられたような熱と痛み。床に転がりながら悶え苦しんだ。
「トーマっ!」
エルフリーデがすかさず駆け寄った。傷口をあらため、焼けただれた無残な皮膚に言葉を失う。エルフリーデだけではない、他の三人も予想外の事態に息を呑んでいた。
この傷は明らかに魔導の仕業である。それも、かなり高度な雷魔法の応用だ。
──だとしたら、なぜ警報が鳴らない?
フェリックスは攻撃が来た方向に視線をはしらせるが、それらしい人物は見当たらなかった。一方、虚空を見つめていたクラリスが
「そこだっ!」
短剣を放った先は無人。だが、神速の刃が空間を切り裂いたかに見えた刹那、飛び出したクラリスが何かをつかんで宙へと舞った。
「ちっ!」
「迷彩ローブ!?」
リチャードの視線の先、クラリスが手に掴んだのは足首まで隠れる丈の薄いローブだ。そして一方、ローブをはがされた人物は。
「パシャ、なぜ……その手……」
エルフリーデの口調には嫌悪が露骨に現れていた。一方のパシャは憮然とした表情で頬の傷に触れ、指先についた血を眺める。
手の甲に埋め込まれた《魔導回路》はカートやリーゼと同じものだ。禍々しい光をたたえながら、見るものを冷たく威圧している。
パシャは指先についた血を舐めた。不機嫌も顕に唇を歪めると、自分を注視する三人を見据え、取り繕うような笑みを浮かべた。
「ずいぶんと楽しそうなことをやっているんだな、俺もぜひ、混ぜてくれないか」
* * *
「シギリヤ・パシャ、なぜお前がここに居る」
リチャードがフェリックスをかばう位置につき、すばやく出口までの方向と距離を測る。
魔導化された人間と正面からぶつかるほどバカではない。最優先はフェリックスの無事である。万が一のときは、クラリスとトーマに盾になってもらい、時間を稼いでもらわなくては。
「おいおい、冷たいなあリチャード。俺はお前ともっと仲良くしたいんだ。いいだろ、お互い次男で気が合うと思うぜ」
「悪いが男は対象外だ」
「は、カルタリアってのはおかてえな」
鼻でせせら笑うパシャに、フェリックスが暗い顔を向けた。
「魔導化の手術を受けたのか。バカな真似を。いったい、いつの間に」
「案外、簡単だったぜ。もっとも、本格的に使うのは今日が初めてだからさ、いろいろ力加減、出来ないと思うけど恨まないでくれよ」
「何が望みだ」
「べつに、俺はただゲームがしたいのさ。お前たちが一人でも、生きてこの学院を出られれば勝ちにしてやるからよ。ま、そんなことはなさそうだけど」
「この迷彩ローブ、どこで手に入れたの。こんな貴重品、簡単に」
「どうでもいいだろ、そんなこと。お前らはまず、生きてここから出ることを考えろよ、なあ? ま、そこの東方人はもうダメだろ。せいぜい苦しまないよう、いま俺が楽にしてやろうか」
パシャの右手が青みを帯びた光を放ち始めた。指のあいだを縫うように稲光が尾を引き、パシャの殺気があたりに満ちてくる。トーマにすがりつく格好のフリーデに、クラリスが告げた。
「お嬢さま、トーマから離れてください。あなたは逃げて」
「だめよ、置いていけない」
「ですが、このままでは……」
「そのシルヴァ族の言うとおりだ。逃げるんなら今のうちだぜ、フリーデ」
ひらひらと手のひらを降ってみせたパシャを、エルフリーデは冷たくにらみつけた。
「馴れ馴れしい。彼は私の持ち物よ。所有物をどうするかは私が決める」
「買った奴隷と一緒に死ぬつもりか、それこそばかばしいぜ。せっかくのチャンスなんだ、生きのびるために使えよ」
「あなたに指図される覚えはないわ、私は」
「いや……パシャの言うとおりだ……」
フリーデの言葉を遮ったのはトーマだ。背中の痛みをこらえながら身体を起こし、フリーデの右手を握りしめる。
「フリーデ、皇太子とリチャードと一緒にここから逃げろ、パシャがくれたチャンスを無駄にするな」
「トーマ? あなたは」
フリーデの手を借りてようやく立ち上がると、パシャを指さして言った。
「こいつは俺とクラリスでぶっつぶす。お前は俺を信じて、安全なところへ行け。いいな」




