猫の化けの皮(上)
クラリスの攻撃をかわしながらトーマが床に落ちた双短剣を拾い上げた。身を沈ませた動きの延長で両脚の回し蹴り、起き上がりざまに体軸の回転をのせた抖勁を両剣身に込めて打ち返す。
上段からの振り下ろしに、左右剣を交差させた鉄壁の防御。
キィーンン!
三本の剣が打ち合うと同時に東方剣が折れ、剣先が勢いに乗って天井へととんだ。
ちっ。舌打ちしたクラリスが折れた剣身をすかさず喉元へ突き出す。分かりやすい陽動にひっかかる相手とは思わないが、折れた剣に気が逸れた隙を突くには今しかない。
直突をかわすトーマが軸を転じ、両短剣の防御がわずかに緩む。その絶妙な間にすばやく身体をねじ込んだ。両手のひらに勁をのせ、踏み込みと同時に虎撲を胸ぐらへとたたき込む。
肋骨を砕かんばかりの強打撃。
ざまあみろ。たしかな手応えにほくそ笑んだのもつかの間、両手首をつかまれ、自分の放った虎撲の勢いに巻き込まれるかたちで気がつけば宙を舞っていた。翻身で軸を立て直し、着地の勢いに乗じた右肘がかろうじて防御に間に合う。牽制の回し蹴りから距離を離し、双短剣をかまえるトーマとしばし見合った。
手合わせの開始からいったいどれほどの時間がたったのか。
互いの次の手を読みあいながら、殺意とは別のなにかが己の奥底からわき上がる──クラリスはそんな自分に困惑した。
心臓が張り裂けんばかりに忙しく動き、一瞬たりとも気が抜けない。そんな臨戦態勢にもかかわらず、初めて覚える高揚感が全身を駆け巡っていく。
* * *
どちらかが死ななければ終わらない戦いだった。
飲ませた薬の効果を目の当たりにし、エルフリーデはトーマが馬車に飛び出してきた日を思い出す。尋常ならざる跳躍で偽ヘルマンに迫ったときのことを。
あれは片鱗に過ぎなかったのだ。
毛色の変った猫を拾ったと思っていたが、それはとんだ間違いだったらしい。いま目の前で戦っている姿はまさにくびきを解かれた虎そのもので、いや、本当のところ、虎の姿をした得体の知れぬ怪物なのかもしれなかった。
フェリックスもリチャードも、二人のすさまじい戦いぶりに息を呑んでいる。リチャードなどは開始前の無関心が嘘みたいに、身を乗り出し、食い入るように見入っていた。クラリスはともかく、トーマがこれほどの腕前とは想像もしていなかったのだろう。
クラリスの仕掛けにトーマがのった。水月への下突きをトーマの両手が捉える。手首と肘を同時に引き寄せ、引勁を化かして投げに転じた。クラリスが宙を舞い、床にたたきつけられる寸前で身をかわし、すかさず攻撃に繰り出す。
転身からの突き――と見せかけて放った短剣は、下突きを受ける際にトーマが手放したもので、ふいをつかれたトーマの眉間を真っ直ぐに狙った。すかさず翻身でかわしたものの、浅く切られた額から鮮血が吹き出す。
クラリスの頬に笑みが浮かんだ。ざまあみろ。
額の流血は視界を狭める。この状況でトーマがどうでるのか見物だった。
* * *
クラリスが笑っていた。屋敷に来てから一度も笑ったことのない、あのクラリスが。
いつもどこか寂しげな、瞳に影をまとった少女。父からは過酷な生い立ちを聞かされていたが、実際に会った彼女は安い同情など必要としない、誇り高い戦士であった。
決して冷徹ではないし、むしろ情に篤い。しかし馴れ合うのが嫌だという姿勢にかえって好感を持ち、付き合ううちに大きな信頼が生まれていた。それはクラリスの方も同様だったと思う。
しかし。
いま目の前で戦っているクラリスの、あの生き生きとした表情はなんだろう。決してフリーデが踏み込むことの出来なかった深みへと、トーマは易々と入り込み、彼女を解放している。それは戦うもの同士にしかなし得ない、拳による意思の疎通であった。
フリーデは奇妙な敗北感を覚え、周りの音が急に遠のいていく感覚に陥った。トーマとクラリス、フリーデが決して踏み込めない領域に立つ二人に、生まれて初めて嫉妬を覚える。
額から血を流すトーマを見つめた。青い瞳が闘気をたたえ、どこか楽しそうに輝いている。これは本当のトーマなのか、あるいは薬のせいで生まれた、もう一つの人格なのか。
いや、本当の姿がどうであれ、彼が何者であれ、もはやフリーデにはどうでも良かった。
もしあの日、馬車に飛び出してきた瞬間に時間を戻せたとしても、自分はきっと同じことをするだろう。今まで運命というものを信じていなかったが、この瞬間、あの出会いは偶然ではなかったと確信できる。
だから見届けよう。この手合わせを最後まで。
* * *
何故自分が衝動的にトーマに手合わせを望んだのか。
その理由が今こそ分かった気がする。トーマがパシャに殴られたとき、自分が覚えた違和感は正しかった。虎の尾を踏むという言葉がある。自分が踏みつけたしっぽは虎どころか、とんだ怪物だったらしい。
人の姿をした、得体の知れぬそれは額の傷をぬぐい、壮絶な笑みを浮かべて仕掛ける時を探っていた。ならばこっちから仕掛けて裏をかく。
震脚。あごを狙った右の正拳突きがまっすぐ伸びていく。掌底で受け流されたが構わず左の下突きを水月へ。予想通り下突きをトーマは膝蹴りでつぶしてきた。
全ては予定どおり。瞬時に身体をかしげ、体重を落として床に両手をつく。軸足の急所、向こう脛に鋭い蹴りを入れ、トーマの体勢を崩してすばやく起き上がった。仰向けに倒れたトーマをすかさず追って高く跳躍する。
無駄な駆け引きはもはや不要だった。ここで決めるとばかりに、自重をのせた膝頭を顔面に向けてまっすぐに落とす。
鼻面を、上あごを、ずたずたに砕いてやる。今度こそ死ね。
刹那。
倒れ込んだトーマの両脚が床を蹴った。反動に背筋の力を乗せ、ハサミのようにクラリスの腰をがっしり掴んで捉える。右へ軸をひねると同時に半転させ、勢いのままに床へとねじ伏せると、いつの間にか拾ったらしい短剣をクラリスの喉へ突きつけた。
「勝負あり」
涼やかな笑みを浮かべて勝ち誇る。
自分がこの男に手合わせを望んだ理由がはっきりと分かった。
自分より強い相手と戦いたかった。ただそれだけだった。部族のためでも、父と母の復讐のためでも、お嬢さまのためでもなく……。
ただ自分のためだけに、戦いたかったのだ。
隻腕になり、それでも充分に強い父の後を追いかけ、母が死んでからは損なわれた彼女の尊厳のために戦った。戦争が終わって、大義と憎悪は過去という箱にしまわれ、エルフリーデとの出会いによって、新しい目的が生まれた。
平和な世界で紡がれる、穏やかな日々。
それは一方で、磨いた感覚と牙を鈍らせていく時間でもあった。戦いの日常で思う存分暴れていた獣を檻に入れ、鎖でつなぎ飼い殺すに等しい。
クラリスはときおり、自分に問いかけた。自分は平和な世界では生きられない存在なのかと。
生まれてから血のにおいを嗅いで育ってきた自分が、生きられる場所とはどこなのか。
「殺せ」
トーマの目を真っ直ぐ見つめ、言った。戦場で幾度も死線をくぐってきた。いまさら生に執着するつもりはない。
「はあ? お前、ばかじゃねーの。殺すつもりならとっくに殺ってるっつーの」
「生き恥をさらすつもりはない」
「そんなに殺して欲しいんだったらさ、交換条件ってことでどう?」
「交換条件?」
「そそ、どうせ死ぬんだろ、その前に俺にヤらせてくれたらさ、ちゃんと殺してやるよ、どう?」
トーマの表情にはまったく邪気が感じられなかった。これがパシャなら吐き気がするほど卑猥な笑みを浮かべているのだろうが、こっちのほうは、使わないオモチャを交換する子どものそれだ。
あまりに言いぐさに腹が立つより呆れて言葉が出てこない。
無言を同意と受け取ったのか、左手が胸元へと伸びる。
「バカ、よせ、こ、殺す……」
必死で身をよじったが、どうにもならなかった。手のひらが柔らかなそれを包み込むと同時に。
なんの前ぶれもなく、唐突にトーマの身体ぐらりと前倒しになった。




