理想と現実
翌日は予報通り、朝から気持ちの良い青空が広がる絶好のピクニック日和であった。
「じゃあ行きましょう」
大きな日よけ帽子を被ったエルフリーデを先頭に、クラリスとリーゼロッテがあとに続く。バスケットを両手に提げたカートとトーマは、女性たちから少し遅れて。
それにしても下僕の正装が恨めしかった。
朝方はまだ涼しかったものの、徐々に気温が上がって、額にうっすらと汗がにじんでくる。
薄手の夏服とは言え、この陽気にジャケットはいささかきつい。ネクタイをゆるめることも許されず、トーマは重いバスケットを両手に広い前庭を歩き続けた。
「お前大丈夫か、ずいぶん重そうだけど。俺がそっちを持ってもいいんだぜ」
「あー、いいんです。これも鍛錬だと思えば。それに……」
ずっしりとした重さは莫耶のワインボトルとグラス、そして酒の肴のせいだ。一本でいいとトーマは言ったのに、そんなのは飲んだうちにはいらんと莫耶がごねて、結局、三本のワインボトルをトーマが運ぶことになった。
「莫耶の酒とつまみですからね。カートさんに運ばせるのは、なんか申し訳なくて」
トーマは苦笑し、カートに訊ね返す。
「それより、カートさんの方こそ大丈夫ですか。あんまり歩いたら心臓に良くないんじゃ」
「おまえなあ、人を年寄り扱いするなよ。これくらいならどうって事ないっての。にしても暑いよなあ……」
カートは立ち止まると両手の荷物を地面に置き、ジャケットを脱いでネクタイをゆるめた。びっくりした表情のトーマに笑って
「ここまでメイソンの目は届かないぜ。ネクタイなんて、目的地についたら締めなおしゃいーんだよ。あんまり真面目すぎると自分で自分の首を絞めるぞ」
手のひらを振る。
トーマはうなずいて自分もジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめた。それだけで身体がずいぶんと楽になる。
「ありがとうございます。さっきから暑くて……」
脱いだジャケットを丸めて、バスケットのすきまになんとか詰めた。
「ま、臨機応変だな。もう少ししたら森の中に入る。そこなら日陰だからもっと涼しい」
「それにしても広いですね。屋敷だけでもすごいのに、庭もこんなに広いなんて」
「王都でこれだけの敷地があるのはここと、王宮くらいなもんだ。ほれ、森の入り口が見えてきたぞ。女性たちがお待ちかねだ」
エルフリーデが手を振った。つばの広い日よけ帽子に、淡いブルーのドレスがよく似合っている。日射しのせいだろうか、いつも屋敷で見るとの違い、年相応のあどけなさが表情に出ていた。
「遅いわよ、なにをのんびり歩いているのかしら」
「申し訳ありません」
謝ると大げさに両手を腰に当てて、
「まったく、目を離すとサボるから、お前は私の隣を歩くこと。いいわね」
と告げた。
「でも……」
「主人の命令に従いなさい」
「はい」
「じゃあ行くわよ、カート、しんがりをお願いね」
整備された小道は、立ち並ぶ巨木の間を縫うように奥へと続いている。森と言ってもうっそうとした原生林ではなく、明るい日射しがほどよく入るよう整備されていた。
手入れの行き届いた芝には、ところどころ名前の知らない黄色や白の花が咲き乱れている。かすかにさらさらと水の音が遠くに聞こえた。
「川が流れているんですね」
「そう、前庭の噴水が流れてこっちに来ているの。向こうには小さな滝もあるから、後で見せてあげる」
木立がつくる日陰のなかを一行は進んでいく。歩いているうちに、トーマは森の美しさにすっかり目を奪われていた。
輝く葉叢の緑が目に心地よい。この世界にきてしばらくたつが、このような自然豊かな場所を歩いたのは初めてだ。
「どう? すごいでしょ」
「はい、広いしきれいだし、歩いていると気持ちがいいですね」
「ここは特別なの。王宮以外で、こんなに緑が残っているのはここくらい。お前は王都の街をよく知らないでしょうけど、ここ意外には自然がほどんど残っていない。かろうじて日よけの街路樹はあるけど、公園というものがないのよ」
つばごしにトーマへ視線をやり、訊ねた。
「なぜか分かる?」
「いえ」
「大厄災の前は、それはとても広くて素敵な公園があちこちにあったらしいわ。でも大厄災でなにもかもが変ってしまって、食糧を得るため、公園が全部畑に変ってしまったの。
王都の復興がすすむと、今度は皇国のあちこちから人がやってきて、畑がつぶされて移住者のための仮設小屋になった。今のアリヤ地区とかがそう。それから王都に新しい公園が作られることがなく、今に至っているわけ」
小川が見えてきた。フリーデに促されて右手を見るとレンガを積み上げた小山があり、そこが滝となっている。こまかな水の粒子があたりにただよい、いかにも涼しげだった。
「あの橋を渡ると、もうすぐ目的地よ」
小川にかかる石橋を渡る。渡るとき、ちらと後ろを振り返ると、リーゼと話すクラリスが見えた。視線が合うときつい表情で睨まれ、慌てて目をそらす。
「お父さまがね、ここを市民に開放したいって、前から考えているの」
フリーデが歩きながら空を仰ぎ、木立へと手を伸ばした。
「ここを私たちだけで独占するのは、民に対して不誠実だって言っているわ。市民たちにも、この自然のなかで過ごす権利があるってね。でもお母さまとメイソンは反対しているの。市民に紛れて、よからぬ輩が入り込むかもしれないから。
私がこないだ誘拐されれかけて、お母さまは余計に心配している。でもお父さまのそうした考えはとても立派だし、貴族らしいと思う」
「俺もそう思います」
「トーマ、あのね……」
フリーデが言いかけたとき、視界が開けた。眼前には大きな池が広がり、ゆったりと鴨たちが泳いでいる。まんなかには人工の島が作られ、植えられた木々たちが光る水面に影を映していた。
「走りましょう! トーマ!」
言い終わらぬうちにフリーデが掛けだしていた。日よけ帽がとんで池を囲む芝生に落ちても構わず、脇目も振らずに走り去っていく。
「ちょ、ちょっと……」
「おぬし、何をぐずぐずしておるのだ」
いつの間にか隣に立つ莫耶が呆れた表情で言った。
「さっさと追いかけんか」
「で、でもバスケットが」
両手の荷物を上下に振ると
「酒は妾が引き受けた。行け」
「う、うん」
バスケットを置き、フリーデは走り去った方向へと走り始めた。彼女はといえば意外と俊足で、ドレスの裾をひるがえし、ぐんぐん芝生を走っていく。その先に池につきだす格好でつくられた東屋が見えた。どうやら目的地はそこらしい。
トーマも全速力で駆けた。鍛錬のおかげなのか、不思議と全く息が切れない。全身を勁力が巡り、自然に足が前へ前へと進んでいく。みるみるうちにフリーデとの距離を縮め、東屋に着いたのは二人同時だった。
「驚いたわ、お前、ずいぶん速いのね」
そう言うフリーデもあれだけ走ったのに、ほとんど息を乱していない。
「さいきん莫耶に鍛えられてますから」
「いい場所でしょ、ここ。ここからの眺めが好きなの、むこうに屋敷も見えるし」
フリーデが指さした先をトーマも目で追う。
「屋敷の手前に大きな橋が見えるでしょ。有名な設計士の作った橋で、なかに住めるようになってるの。台所や暖炉もあるのよ」
「へえ、きれいな橋ですね。あそこにある石碑はなんですか」
トーマが示した方向に、背の高い円柱がそびえている。円柱の先端には有翼の女神が片手をかざし、祝福のポーズを取っていた。
「あれは英霊記念塔。大厄災の元凶を無事に倒したとき、そのために犠牲になった魔術師や騎士たちの名前が刻まれているの。本当は王宮に作られる予定だったのだけど、どういうわけか、この敷地内に建てられたのね」
池を渡る風が火照った肌に気持ちよい。東屋を囲む手すりから身を乗り出すと、のんびりと泳ぐ魚たちが水面をゆらしていた。
「トーマ、お父さまのこと、どう思う?」
遠くを見ながらフリーデが訊ねた。
「とても立派な方だと思います。俺のことも、とても気に掛けてくれて」
「そうね。私もそう思うわ。お父さまはね、高貴な生まれが負う義務について、いつも考えているの。この庭を公園として開放したいというのもそう。
それから東方人の奴隷売買にも、とても心を痛めている。だからこそ、王立神秘協会の力を弱体化させたいのよ。そのためには、皇太子フェリックスの即位は必然だわ。だけど……」
フリーデはトーマの方を向き直り、大切なことを告白する表情になる。
「お父さまの理想が、果たして本当に実現するかどうか、私は疑わしいの」
「つまり、失敗するってことですか?」
「今の陛下の状態を考えれば、遅かれ早かれ即位はすると思う。だけど《協会》側がなんの手も打たないなんて考えられない。どんな策を講じても、今の権力にしがみつくはずよ」
たしかにそれはそうだ。
「お父さまはね、誰も傷つけない方法を模索している。穏やかで誰もが納得いくような改革を望んでいる。でも、今の《協会》にそんな方法が通用するとは思えないの。時々、理想家すぎるお父さまがとても心配になるのよ」
白い鳥が水面すれすれを飛んで高く上昇した。彼の目に、自分たちはどう映っているのだろう。
「でも旦那さまの理想で救われる存在も、間違いなくいますよ。俺がそうですし」
「そうね、たしかにそうだわ。私ね、お父さまがなぜ東方人の奴隷にそんなに心を痛めているのか、よく分からなかったの。
だって、相手は敵なのよ。負けた敵が奴隷として売られるなんて、そんなの当然のことじゃないかって。だって、向こうだって同じことをこの国にしたのだもの」
「紅蘭民が?」
「大厄災が過ぎ去って、国力が大幅に弱体した隙を突いて、奴らは東に攻めてきた。不可侵条約を反故にしてね。東の住民が大勢殺されて、なかには奴隷として連れ去られた者もいたの。女性や子どもがたくさん売られたって聞いているわ。
クラリスが住んでいた《ナオト自治区》もその一つ。シルヴァ族はもともと、荒れ地で山羊を飼ってその毛で交易をしてきた、平和的な人たちだった。でも攻めてきた民軍に殺されて、連れ去られた。生き残った人びとが山に隠れ住んで武器を手に、ずっと抵抗してきたの。
クラリスが幼いときから武術をしこまれていたのは、そんな理由から」
「そうだったんだ」
「だから、三年前の国境戦で領土を取り返して、そこに住んでいた東方人を奴隷にしたって、べつにいいじゃないとしか思わなかったの。やられたことをやり返しただけ。
でもお父さまはそうは考えなかった。だから少しでも理解したくて、あの日、よく東方人の奴隷がいるという広場に行ったのよ。エレナの反対を押し切ってね」
ははあ。なぜあんな場違いな場所にいたのかとずっと疑問だったが、そういう訳があったとは。
「でもお嬢さま、俺にそこまで関心なかったですよね」
「ええ、分かったのは、聞いていたより臭くないってことくらいかしら。もしあの事件がなければ、お前の事なんて、きっと記憶の彼方に忘れ去ってしまっていたと思う」
「そういえばあの犯人、まだ捕まっていないんですよね」
「私はまったく期待していないわ。ヘルマンの行方が心配だけど、心配してどうにかなるものでもないし」
「エレナさんは」
「エレナは屋敷を出て、いまは別のところで療養中。手紙によると元気にやっているみたい」
そこで会話がとぎれ、気まずい沈黙が落ちた。トーマは考えた。二人きりになれるなんて滅多にないチャンスなのだ。例のアンドレアスについてはっきりと訊いた方がいいのだろうか。
正直な話、一人で悶々とするのはもう限界なのだ。
「あのさ」
「トーマ、あのね」
二人同時に口を開いて、再び沈黙。やがてフリーデが恨めしそうに
「なによ、言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
上目遣いに睨んだ。
「いや……い、いえお嬢さまからお先に」
「ふん、べつにたいした用件じゃないわ。お父さまを助けて欲しいってだけ。トーマ、お前はね、お父さまにとって希望なのよ。アッシェンバッハ家は大賢者ベドガーとの縁が深い。
お父さまが理想のために行動を起こそうとしていたまさにそのとき、東方人の奴隷が現れて、彼はベドガーが託した莫耶の継承者だった。お父さまがどんなに喜んだか、お前には想像がつかないでしょうね。だから、お前にはちゃんと強くなってもらわないと困るのよ」
ついこないだ、べつに死んでも構わないと言われてましたが――そうツッコみたかったが止めた。
フリーデが自分を心から必要としてくれる、それが分かってとても嬉しかったのだ。胸につかえていたものがきれいさっぱり消えて、あの鳥のように水面を滑って飛んで行けそうなくらい心が軽い。
「で、お前の話は何なのよ」
「いえ、べつにどうってことない話で……」
「ふん、どうせアンドレアスとの縁談のことでしょう。分かってるんだから」
図星をつかれてトーマは黙ってうなずくより他ない。
「まったく、最近、使用人たちが寄ればその話ばっかりなんだもの。クラリスだって、口には出さないけどなにか言いたげだったし。はっきり尋ねてくれてもよかったのに」
「それでどうなんですか。その……」
「縁談? あるわけないでしょ」
「ほ、ほんとに?」
平静を装おうとしたけど無駄だった。満面の笑みを浮かべるトーマを、フリーデは呆れた表情で眺める。
「お前、私が好きでもない男と結婚するように見えて?」
「で、でも旦那さまのためならもしかしたらって……」
「たしかにケンペレン家とのつながりが出来れば、なにかと有利にはなるかもしれない。でもケンペレンのような、《協会》とお父さまを天秤にかけるような輩を信頼できて?
彼らにとって大切なのは、いかに上手く立ち回ってビジネスができるか。そのためなら、親類縁者を平気で《協会》に売り渡すことだって厭わないでしょうね。
恩師だったベドガーを北に幽閉して、自分は魔導工学の利益を独り占めした家だもの」
フリーデはそこで一息ついた。どうやらケンペレン家をかなり嫌っているらしい。
「もっとも、アンドレアスがどういう性格なのかは分からない。話したこともないから。物静かで、いつも機械工学の難しい本を読んでいるらしいけど。とにかく縁談はない、分かったわね」
「はい、あの……俺、頑張ります。強くなってお嬢さまと旦那さまを守ります」
「いい心がけね、それじゃあ、クラリスたちを呼んできて。たぶん向こうで待ちくたびれてる」
指さした先にクラリスたちが腰を下ろし、なにやら話し込んでいる。クラリスはフリーデの日よけ帽を大切に抱えていた。
「はい、じゃあ」
トーマがきびすを返すと同時に、ふわりと宙から酒瓶を抱えた莫耶が降りてくる。
「なんじゃなんじゃ、話がようやく終わったのか、長かったのお、おかげでこっちは酒が進んだわ」
「ごめんな莫耶、今みんなを呼んできます」
トーマが駆け出して、手すりにもたれた莫耶がグラスを傾ける。
「良い場所じゃ。やはり水のある場所は鋭気が満ちる」
「気に入ってくれて良かったわ。ところで莫耶、あなたから頼まれていた干将の行方だけど」
「何か分かったのか」
「手がかりになりそうな情報だけ。ベドガーは晩年、弟子だったケンペレンに王都を追われて、北端のグダニスク城に幽閉されて、そこで死んだと言われている。
彼の死後、城は《協会》が所有して誰も入れないようになっているの。彼が残した記録もそのままになっているとしたら、なんらかの手がかりがあるかも」
フリーデが首に提げていたペンダントを外し、莫耶に渡す。よく見れば小さな《魔導回路》だった。
「ふうむ、しかしそのなんとかっていう城は、おいそれと行ける場所ではないのだろう」
「城は廃城になっているけど、近くに皇国軍の拠点があるの。城も皇国軍の監視下に置かれていて、しかも魔導装甲が城門に配置されている。中に入るのは至難の業でしょうね」
「それだけ厳重な警備ということは、よほどのなにかが、城にあると考えるべきか」
「そう考えるのが妥当でしょう。それに城の見取り図が入っている。古いけどそれほど大きな変更はないはず。あとは付近の地形と、拠点にいる皇国軍の情報ね」
「おそらく城は魔法で封じられている。妾でも侵入は難しいだろう」
莫耶は思案顔で腕を組んだ。
「おぬし、その情報源はなにか言っていなかったのか」
「方法がないわけじゃない――と。でも今はまだ……」
「さようか」
バスケットを下げたトーマがカートたちととこちらへ向かってくる。表情は晴れ晴れとして、昨日とはまるで別人だ。
「まあ、あやつも悩みが吹っ切れたようでなにより。さ、難しい話はこれまで、酒じゃ酒じゃ」
酒瓶を抱えひらりと飛び上がると、手すりを蹴って屋根へと上がる。
「おお、良い眺めじゃ、なんとも風情なことよ」
ゆるやかな風が東屋を通り抜ける。
「莫耶、つまみを持ってきたよ」
「やれやれやっと着いたぜ。まったく若い奴は……」
「なによ、二人の邪魔をするなって言ったのはカートじゃない」
「お嬢さま、お帽子を」
クラリスが差し出した帽子を取ってかぶり、フリーデはかすかに微笑んだ。
* * *
ケンペレン家の次男アンドレアスが失踪したのは、それから五日後のことである。




