縁談
エルフリーデがピクニックに言い出したのは、《薬事件》から二週間たった日の朝のこと。
「明日はお天気がいいみたいだし、せっかくのお休みだからお弁当を持ってピクニックに行きましょ」
トーマの入れた紅茶に目を細め、窓の外を見て微笑んだ。
昨日まで降り続いていた雨がようやく止んで、今日から晴天続きの予報である。気温もあがり、春の終わりから一気に初夏へと季節が進んだ。たしかにピクニックには良い気候だろう。
「分かりました。台所にそう伝えて、お弁当を作ってもらいます」
「お願いするわ。トーマ、お前も当然、一緒に来るのよ」
「お、俺もですか?」
驚くトーマにフリーデは眉をひそめた。
「当たり前じゃない、下僕が主人に付き添わなくてどうするのよ」
「でも、俺、剣の鍛錬が」
「一日くらいどうって事ないでしょ。せっかく莫耶のために、とっておきのワインを蔵から出させたのに」
フリーデが言い終わらぬうちに、莫耶がトーマの背後に現れる。
「そのとおり、休息も必要じゃ。こんな陽気に外へ出ぬのは勿体ない。緑にふれ合い、森羅万象に思いを馳せる。これも立派な鍛錬の一つ」
「鍛錬って、莫耶はただ飲みたいだけなんじゃ……」
呆れた表情のトーマに構わず、
「フリーデ、当然酒の肴は用意してあるのだろうな」
莫耶は上機嫌に訊ねる。
「もちろん、期待してちょうだい」
「よきよき、外で飲むなど久しぶりじゃ。花でも愛でながら酒杯を傾けるとするか」
満足したのか再び姿を消した。
「これで問題ないわね。そうだ、カートとリーゼも連れて行くわ。お前とカートは荷物運びね」
「はあ」
「そういえば、お前にまだ屋敷の外をじっくり案内していなかったわね。明日は森に行くから楽しみにしてなさい」
「森って、どこの森ですか」
「当然、敷地内の森よ」
思い出した。ここに来たとき、右側に広大な森が広がっていたのを見た覚えがある。外に出る用事がないのですっかり忘れていた。
「森には川もあるし、小さな滝もあるのよ。歩くときっと気持ちがいいわ」
前庭に大きな噴水があるくらいだ。川や滝があってもおかしくはないが、それにしても話のスケールが桁違いである。
トーマの通っていた学校は中高一貫の私立男子校で、同級生はいわゆるセレブ家庭の息子が多い。それでも自宅に森や滝があるという話は聞いたことがなかった。
生まれたときからそれが当たり前として育った生粋のお嬢さまなのだ。
自分とはあまりにも違う境遇に、トーマの胸がすこしだけ痛んでしまう。こうして言葉を交わしていても、見えない厚い壁が間違いなく存在して、手を伸ばしても決して触れることは出来ないのだ。
「フリーデ、ちょっといいかしら」
扉を開けたのは侯爵夫人のエリザベスである。この時間に娘をわざわざ部屋に訊ねることはめったにない。
「なにかしらお母さま」
立ち上がって出迎えた娘を抱きしめ、クラリスとトーマに目配せをする。退室する間際
「来週土曜日の晩餐会、アンドレアスも来るのだけど……」
聞こえてしまった名前にトーマは動揺してしまった。
アンドレアス・ヴォルフガング・フォン・ケンペレン。かの魔導工学を大賢者ベドガーとともに確立し、世に広めた功労者、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンのひ孫で、フリーデと同じ学院に通う三年生だ。
ケンペレン社は魔導工学を応用した機械の生産を独占している。彼は現社長の次男で、世間ではフリーデと結婚する可能性が最も高い相手として、たびたび新聞の社交欄に登場していた。
台所や作業場でおしゃべりに興じるメイドたちには、格好の話題である。昨日の夕食どき、一人がトーマに新聞記事を見せてくれた。
写真に写っていたのは眼鏡を掛けた美男子だ。いかにも知的な理系男子といった雰囲気。しかも家は有り余る資産の持ち主で、彼もいずれはケンペレン社の取締役になる。どこをどう見てもフリーデにふさわしい縁談相手ではないか。
記事には公爵令嬢エルフリーデとアンドレアスが近々婚約するのではないかと書かれ、彼らに近しい関係者を自称する人物のコメントが載っていた。
読むに堪えない記事だ。トーマは心のなかで毒づきながら新聞をメイドに返した。
どうせ面白おかしく事実とは違うことを書いているだけのゴミだ。腹立たしさはベッドに入っても収まらず、おかげで少しばかり寝不足である。
そういう訳でアンドレアスの名前を聞いて動揺したトーマは、同じく廊下で控えているクラリスに訊ねた。
「アンドレアスって人、クラリスは会ったことある?」
「ええ、何回か」
相変わらず素っ気ない返事だったが、
「どんな人?」
と続けて訊いてみる。クラリスは数秒、考えるような表情をして
「とても静かな人。私が知る限り、お嬢さまと話したことはない」
「一回も?」
「一回も。すごくシャイみたい」
「はあ」
それを聞いてほっとした。いくらなんでも一回も会話を交わしたことのない相手と婚約するわけがない。安堵した表情のトーマにクラリスは冷徹な言葉を投げかける。
「婚約の話なら、私はあると思う」
「え?」
「アンドレアスさまとの婚約。それは旦那さまにとって必要なことだから」
「どういうことだよ」
クラリスはどこか哀れむ目でトーマを見た。
「お嬢さまは旦那さまをとても尊敬している。旦那さまが目指す皇国の有り様を実現するためには、ケンペレン家とのつながりが必須。
そのために婚約を承諾することは、考えられると思う。ほとんどの貴族たちは王立神秘協会の言いなりだけど、ケンペレン家は今のところ、協会とはビジネスライクに徹している。魔導装甲やほかの機械の技術はケンペレン社の独占で、これは協会の力が及ばない」
「つまり、ケンペレンを味方につければ大きな力になる」
「そういうこと。お嬢さまもそれを分かっている。聡明な方だから」
「そらそうかもしれないけどさ、好きでもない相手と結婚なんて。お前はそれでいいのかよ」
クラリスは一瞬言葉につまったようだった。トーマから目をそらし
「たとえどなたに嫁がれても、私はお嬢さまの傍に居る」
と呟く。まるで自分に言い聞かせているみたいに。
「だけど、それがフリーデの幸せとは限らないだろ」
クラリスがトーマをにらみつけ、口を開きかけたそのとき、扉が開いて夫人とフリーデが姿を現した。
「待たせたわね、クラリス。それじゃあ行きましょうか」
「かしこまりました」
頭を下げ、なにもなかったようにフリーデの後をついていく。あわてて続いたトーマに、エルフリーデの表情は見えない。
もし嬉しそうな表情をされていたら……。みぞおちが痛み始めて、トーマは苦痛をこらえながら廊下を歩いた。
フリーデが好きならともかく、好きでもない相手との結婚なんて、自分は絶対に認められない。でも認められないのは単なる自分のエゴで、フリーデにとってはどうって事ないのかもしれなかった。
貴族であるフリーデの価値観が自分と違っても、それは仕方がないことなのだ。
でもどうなのだろう、もしフリーデが心から好きな相手が他に出来たとして……。
自分はそれを心から祝福できるのだろうか。
「トーマ、それと……」
カートが車のドアを開き、いったん乗りかけてからエルフリーデがトーマの方へと振り向いた。
「週末の晩餐は、お前も給仕に参加しなさい。いいわね」
「あ、はい……」
トーマの返事を聞いたフリーデは機敏な動きで車に乗り込んだ。その表情からはなんの感情も読み取れず、トーマをひどく不安にさせた。
* * *
「なんじゃ、お主、今日はまったく稽古に気持ちが入っておらんの」
莫耶はそう言って、仰向けに倒れ込んだトーマに木桶の水を一気にぶちまけた。
「すこしは腕が上がってきたと思っておったが、これでは話にならん」
水は冷たく、稽古で火照った身体にはむしろ気持ちが良い。それなのに胸の奥につかえたものはそのままで、トーマは大きく息を吐いてそれを外へ追いやろうとする。何度か繰り返したが、心はいっこうに晴れない。
いっこうに起きる気配を見せないトーマに、莫耶はため息をついた。
「やめじゃやめじゃ、今のお主に稽古をつけるくらいなら、寝ていた方がまだマシというもの。お主、好きなだけそこでふて寝をしておれ、妾は明日のピクニックに備えて――」
「なあ、莫耶」
「なんじゃ」
「誰かを好きになったことってある?」
ふっと莫耶が笑う気配がした。
「なんじゃ、お主、恋の相談か。言っておくが妾は全く参考にならんぞ、人の姿はしていてもあくまで作り物じゃ。妾たちに人のような感情はない」
「そうなんだ。そうは見えないけどな」
「遣い手を支えるためには、人のようであらねばならない。妾たちはそのように作られておる。感情があるように見えても、しょせんはまがい物じゃ」
「ふうん」
水気を吸った稽古着が肌に張り付いて、それがだんだんと不快になってきた。目を開け、ゆっくりと身体を起こすと、木桶を片手に、仁王立ちになっている莫耶と視線があう。
「だが、妾とて長く人の世を見てきた。人の心を少しばかり分かっているつもりじゃ。お主の胸のつかえを話せば、少しは助言もできよう」
「フリーデが婚約するかもしれないんだ」
「そうらしいの。なんだか屋敷じゅうがそのことでもちきりだが」
「どう思う?」
「どう思うも何も、決めるのはフリーデじゃろう。悩んでいるくらいならフリーデに訊けばよいではないか」
「それが出来るならとっくにやってるんだけど」
恨めしげに莫耶を見上げ、
「でも俺はしょせん下僕だから。訊ねる資格なんてないんだ、きっと」
「やれやれ、人間というのは面倒じゃの。だいたい、その話は新聞記事とやらの流言ではないか。そのようなものを信用して良いのか。
もし本当に婚約が事実であれば、フリーデがお主に言わぬはずがなかろうが」
莫耶の手にした木桶がトーマの頭に載せられる。
「まあ、妾はあの娘が意に染まぬ縁談を引き受けるとは考えられぬがのう」
「やっぱりそうだよな」
「あくまで妾の考えじゃ。ここでどのように推測したところで事実は分からん。そもそも、もし縁談相手をフリーデが気に入っていたとしたら、お主はどうするのじゃ。好きな相手との縁談なら問題ないと、心から祝福できるのか」
言葉につまったトーマの頭に
ゴツン
木桶を軽くぶつける。
「相手はなかなかの好青年という話ではないか。知的な美青年に大企業の社長令息、性格も温厚……とくれば、よほどの理由がない限り断る必要もなかろう。
フリーデが彼を気に入ったうえで承諾するのは、十分考えられることじゃ」
トーマは肩を落とし、しばらく無言でうなだれていた。莫耶は彼の頭から木桶を外し、傍らに置いて懐から大きな手ぬぐいを取り出す。
「濡れたままでは風邪をひくぞ」
広げたものを頭に被せると、トーマは黙って拭き始めた。
「嫉妬というものはやっかいじゃ。だが、それは人間だからこそ。学ぶことも多かろう。妾たちにはできぬことだからの」
「俺がもっと強くなれたら」
白い布の端からのぞく青い瞳が、莫耶に問いかけた。
「いろんなことが分かって、こんな気持ちも感じなくなるのかな。心から祝福できるんだろうか」
「それは分からんな。剣の道を究めれば、全てを悟り、煩悩から解放される――それが理想だろうが、あいにく、人はそんなに単純に出来てはおらぬ。とくに男女の色事は賢者の目をもくらませるという。ましてやお主のような若輩者など、無理に悟ったところで所詮は付け焼き刃に過ぎぬ」
「つまり、考えるだけ無駄ってこと?」
「そのとおり、お主の考えなど休みに似たりじゃ。己を理想化せず、今の心と向き合い、受け入れろ。出来ることと言えばそれ位だ。悩みもがいて知る答えがきっとある。いつかそれが――」
言いかけて莫耶の言葉がぴたりと止んだ。
不振におもったトーマが見上げると、なにかを探るような表情で虚空を見つめている。
「莫耶、どうしたんだよ」
トーマが問いかけると、無言で首を横に振る。
「……なんでもない。なにかを思い出しかけたが、無理じゃった」
「もしかして、干将のことかな」
「そうかもしれん。だが、思い出そうとしても詮無きこと。その時が来るまで待つしかない。それよりお主、いちど部屋に戻って稽古着を着替えてこい。水くさくて叶わん」
そう告げた莫耶の表情は、いつもよりどこか寂しげに見えた。




