十七年前の夜
「なるほど、どうやら随分と気を遣わせてしまっていたようだね」
エルフリーデの話を聞いたギュンターは寂しげな表情になる。
「確かに、お前の判断は正しかったと思う。あの時はいろいろ混乱していた。私も議会に連日通い詰めだったから、とてもお前の話を冷静に聞けなかっただろう」
「旦那さま、申し訳ありません」
神妙な顔でうつむくクラリスに、ギュンターは頭をふった。
「いや、クラリスに非はないよ。責任を感じる必要はない」
「それでご当主、単刀直入に訊ねるが」
莫耶が長椅子から身体を起こし、口を挟んだ。
「エルフリーデの検査に関して、本当に不正はなかったのか」
「それは私の名誉にかけて誓えます。娘の検査に不正はありません」
「そうか、それならフリーデに北塔の封印が反応したのは、魔力とは関係ないということだな」
「おそらく……ですが、それでも分からないのです。あの封印は私には反応しなかった。なぜフリーデだけに」
ギュンターの言葉を聞いて、一番驚いたのはエルフリーデだったろう。
「お父さまが!?」
この真面目な父親が禁忌を犯すなど考えられなかった。娘の反応にギュンターは苦笑し
「私だって、好奇心に負けることくらいはあったさ。お前のようにね」
と言った。
「まだ十歳くらいの時だったよ。こっそり北塔に近づいて魔導回路に触れてみた。でも何も起こらなかったんだ」
「ふむ、だとしたら、扉はフリーデの何かに反応したということじゃな。お主に心当たりはあるのか」
「いえ、全く。しかしフリーデ、いくらなんでも作った薬をいきなりトーマに飲ませるのは、無茶が過ぎるだろう。まずは安全性を確かめてから……」
「あら、初めてなんかじゃないわ。何度か作って、ちゃんと安全だったことは自分で確かめているもの」
これにはギュンターだけでなく莫耶とクラリスも驚いた。
「お、お主、アレを飲んだのか?」
「お嬢さま、いくら確認のためとはいえ無理をしすぎです。そもそも、あんな男には、薬草園に生えた雑草でも食べさせておけば良いではありませんか」
二人の反応が不満らしく、フリーデは口を尖らせた。
「たしかに味はそんなに良くないけど、そこまで非難されるものかしら。それに、私が飲んでも身体が温かくなる程度の効果しかなかったわ」
「それは本当なのか?」
「ええ、お父さま、そのあとで試しに温室担当のフリックに飲ませてみたの。いつも身体がだるいって言ってるから」
「で、どうだったのじゃ」
その場にいた誰もが、老いた温室番にいたく同情した。
「なんだかとてもスッキリしたと言われたわ。ほかに変ったことはなかった」
「ふうむ。つまり他の者たちには、トーマに出たような激烈な効果はなかったのじゃな」
「そうなの。だから私も驚いたわ。まあ、お父さまに研究室のことを話す、いい切っ掛けにはなったかもしれないけど」
フリーデはそこで怪訝な表情になった。クラリスと莫耶もその視線を追うと、ギュンターがなにやら考え込んでいる。
「ご当主、どうかされたか」
莫耶に訊ねられて我に返り、
「いや、たしかにそうだな」
と取り繕うように言った。
「とりあえず、フリーデ、研究室のことはお前に任せよう。お前に扉が開かれたことに、きっとなんらかの意味があるのだろうからね。
だが、もしこれから新しい薬を作ったときは、まずは私で試させてくれないか」
ギュンターの申し出にクラリスが難色を示した。
「旦那さま、それはなりません。旦那さまのような重責を担われる方が、そのような危険なことを。
ならばあの男を鎖につないで試せば良いのです。旦那さまに不埒な行いをした報いを受けさせなければ」
「おいお主、わが主人を毒味役にするつもりか」
「だいいち莫耶、あなたが彼を止めていれば旦那さまがあのようなことには」
「ふん、ならば、そもそもお主が手合わせをするなどと言い出さなければ良かったではないか」
「まあまあ、二人ともやめなさい」
一触即発の莫耶とクラリスを手で制し、ギュンターは言葉を継いだ。
「そのトーマに飲ませた薬は私が破棄しよう。これでこの件は、みながきれいさっぱり忘れるということにしないか。トーマにも何も言わない、いいね」
「いやいや、それはあまりにも勿体ないというもの」
莫耶がすかさず異を唱え、右手にもった薬瓶をゆらしてみせた。
「この薬は妾が手合わせの日まで預かっておこう。本番直前の体力回復くらいには使えるじゃろ」
「つまり……それを飲ませて手合わせに挑むつもりか」
呆れた表情のクラリスに、莫耶はにやりと笑ってみせる。
「そうじゃが、なにか問題でもあるのか。トーマの人格が少し変るくらいで、お主が圧倒的に有利なことには変わりないはず」
「あら、いいじゃないクラリス。私もそれを飲ませたトーマが見たいわ。作ったものの責任として、データを取らなくちゃ」
「ぐっ……」
エルフリーデに言われてしまえば、クラリスは従うより他はない。
莫耶は勝ち誇った笑みを浮かべ、
「これで話はまとまったようじゃ。ひと月後が楽しみじゃな、お互い。さて、妾はギュンターと話がしたい。二人きりにしてくれんかの」
顔の前で手のひらを振ってみせる。
晴れ晴れした表情のフリーデと悔しさを滲ませたクラリス。対照的な二人が退室し、二人きりになると莫耶はギュンターへ身を乗り出した。
「さて、ご当主殿。そなたは何か心当たりがあるのだな。扉がエルフリーデへ開かれた原因に」
ギュンターは無言で莫耶を見据える。打ち明けたいのは山々だが、理由があって話せないという表情だった。
「なるほど、どうやら思っているより込み入った事情らしいの。ならばべつに良い。ただ、そうであったならギュンター殿、妾たちは誰かの大きな手のひらの上で、躍らされているのかもしれぬ」
「どういう……ことですか」
「トーマが奴隷として売られていたこと、それがエルフリーデの目にとまり、そしてここに来たこと。決して偶然ではなく、誰かの書いた筋書きなのかもしれん」
空になったワイングラスに手酌で注ぎながら、莫耶は厳しい視線をギュンターへと投げた。
「お主は崇高な理想を掲げ、それに向かって行動しておる。くれぐれもどこかで足をすくわれぬよう、充分に気をつけ召されよ」
* * *
眠くなったと言って莫耶はトーマのところへ行ってしまった。
ギュンターは立ち上がり、サイドボードの棚からウィスキーのボトルを取り出した。仕事中に飲むことはほとんどない。それでもいまは少しばかり酔いたい気分だった。グラスに保冷庫から取り出した氷を入れ、ウィスキーを注ぐ。
一口飲むと身体の芯が熱くなり、同時に室温が急激に下がったような気がした。
窓の外に目をやると、空が曇天に覆われており、いまにも降り出しそうだ。この季節は天気が変りやすい。夜には雨が降り、もっと冷えるだろう、あとで暖炉に火を入れさせなければ。
――あの日も、こんな陰鬱な天気だったな。
十七年前のことをギュンターは考える。
外は雨が降っていて、フランク医師は二時間前に帰っていたが、妻のエリーはまだ部屋に引きこもったままだった。
執事のメイソンが心配そうな顔で書斎に現れ、ご夕食はいかがいたしましょうと訊ねた。
今日は書斎で簡単に済ませる。奥さまにはあとで部屋へ運ぶように――そう指示を出し、飲みかけのグラスを一気にあおる。
ストレートで飲んだのに全く酔えなかった。なにか言いたげな表情で執事は退室し、やがて雨粒が激しく窓ガラスを叩き始める。
暖炉に火を入れさせていたが、室内は冷えたままだ。
数時間前、目の前のソファにフランク医師は座っていた。向かい側には自分と妻のエリザベス。
数日前に受けた検査結果を、同情のこもった口調で医師は告げた。
エリザベスが妊娠するのはとても難しいこと、生まれつき子宮が小さく、これは治癒魔法でもどうにも出来ないこと。運良く妊娠できたとしても流産の確率が高くなり、出産には至らないだろうと。
さすがにショックが大きかったのだろう。エリザベスの顔は蒼白だった。
しかし彼女も誇り高い貴族の女性である。医師に対して取り乱すことなく、淡々と事実を受け入れた。帰る医師をホールまで見送るときは、口元に軽い笑みすら浮かべていたほどだ。
――なるべく早く、しかるべきところから養子をお迎えになることです。私もいつでも相談にのりますよ。それでは。
二人きりになるとエリザベスは一人になりたいと言って、自分の部屋に引き上げていった。それからまだ姿を見ていない。
子どもが好きで、自分も母親になりたがっていた。そんな彼女にとって、検査結果はあまりに残酷な宣告だ。
ギュンターは空いたグラスにウィスキーをなみなみと注いだ。こんな飲み方をするのは大学でハメを外した時以来だ。だがいまは、琥珀色の液体がエリザベスの涙のようにも見える。
「旦那さま、よろしいでしょうか」
執事が厳しい面持ちで書斎のドアを開く。彼には珍しく切羽詰まった様子に、もしや妻に何かあったのではとギュンターは顔色を変えた。
「どうしたのだ、まさかエリーに」
「いえ、旦那さまに女性のお客さまが」
「客?」
ギュンターはとっさに今日の来客予定を思い出した。先ほど帰ったフランク医師が最後のはずで、それ以降の約束は入っていない。時計を見れば夜の七時を過ぎていた。この時間は表の門を閉めているはずで、一体どうやってここに来たのか。
「いったい、どういう女性なのだ、その……」
「お名前はまだ伺っておりません。伺ったのですが、教えて下さらないのです」
物乞いの女だろうか。しかしそれならなにか、よほどの事情がありそうだ。
「それにしても、いったい誰がなかに入れたのだ。お前なら追い返しているだろう」
「扉を開けたのは私です。ですが……その……おかしな話だとは思うのですが」
「どうした、はっきり言いなさい」
「気がついたら、お屋敷に入り込んでいたのです」
それでギュンターは察した。どうやら得体の知れぬ何者かが、この屋敷に入り込んだらしい。違法シジルをつかったエセ魔術師か、あるいは――。
「その女はどうしている」
「ホールでモーリスに見張らせております」
「行こう。私たちの手に負える相手なら良いのだが」
書斎の扉をくぐろうとした矢先、背後で声がした。
「その必要はありません、公爵さま」
涼やかな女の声に振り向く。
先ほどまでギュンターが座っていた書斎机の椅子に、彼女は腰掛けていた。黒く長いローブに、フードを目深に被って顔半分が見えない。そして両手に抱えているのは。
「申し訳ありません、お手数を取らせたくなくこちらから伺いました」
立ち上がり、ギュンターと執事の方へ歩き始める。右手の指先を、宙を撫でるように動かした。
ばたり。書斎の扉がひとりでに閉まり、室内にはギュンターと執事、女の三人だけとなる。いや四人と言うべきか。なぜなら女が両手に大切そうに抱えているのは、赤ん坊だったのだから。
ギュンターと対峙してもフードを被ったままで、女の身体からは雨の匂いがした。
「お前は魔術師か、協会から派遣されてきたのかい」
「残念ながら、そのような者ではありません。わたくしがその方に名乗らなかったのは、名前がないからです」
「名前がない?」
「ないと言うより、失ってしまいました。自分の名前も姿形すら失って、思い出すことができません。今ここにある私の姿は、かろうじて思い出せる知人の姿を借りたまで」
「では、その赤ん坊は……」
「縁のものです。公爵さまに私のようなものが分不相応の願いとは重々承知。どうかこの子を引き取っていただけないでしょうか」
常識的に考えれば、まともに取り合うような話ではなかった。
いつものギュンターなら同情はしても、良心的な乳児院を紹介しただろう。しかし相手はただ者ではない。断ればどんな目に遭わされるか。
おそらくこちらの事情もとうに知ってのことなのだろう。返事は慎重にしなければならない。
「それは、ずいぶんと急な申し出だね」
「公爵さまのお人柄を見込んでのこと。他の誰かには頼めません」
「それはありがたい。ところでその赤ん坊を見せてくれないか。顔も見なくては希望に応えようがないからね」
女が笑みを浮かべる。どこか蠱惑的な口元に、この顔を隠した女が並外れた美貌の持ち主なのが察せられた。
「はい、どうぞ」
うつむき加減で近寄り、女は赤ん坊の顔をギュンターに見せる。
美しい子だった。長いまつげと髪は銀色で、まぶたは白い貝殻のように形が良い。通った鼻筋と小さな唇。まるで作り物のように整っていたが、人形ではない証に、頬には赤子特有の生気が溢れていた。
ギュンターの胸が激しく震えた。
命の神秘というもっとも尊い存在が、いま目の前に具現化し、それがギュンターに差し出されようとしている。ごく当たり前のように両手を差し出し、気がつけば赤子を腕に抱いていた。
たしかな重さと温かさが彼に伝える。なにがあってもこの命を守らなければならないと。
「分かった。この子を引き取ろう」
「旦那さま……」
執事が強硬に反対しなかったのは、彼もまた、赤子の美しさに心を奪われていたからだ。
「これも運命かもしれない。だとしたら、私はそれを受け入れよう」
「奥さまにはなんと」
「正直に言おう。それしかあるまい」
「それで良いのです、公爵さま。ですが奥さま以外には、どうか他言なさらぬようくれぐれもお願いいたします。約束していただけますか」
「約束しよう。この子の名前は」
「まだありません。どうぞお二人で良い名をつけてあげてください」
「分かった」
「それでは、私はこれで失礼します」
扉へ歩きかけた女を、ギュンターは引き留めた。
「待ってください。この子の母親の名は」
「それは言えません。ですがこの子が生まれた場所なら……」
「どこなのです。王都ですか」
「場所というより、概念といった方がいいかもしれません」
「概念?」
「はい、現実的には存在しないとされながら、全ての始まりの場所、そして終焉」
女の靴音がやけに響いた。ゆっくりとギュンターの背後に回り、女は唇を耳元に寄せる。そして執事には聞こえないほどの小さな声で、こうささやいた。
イマジナル・ゼロ――と。




