影の輪郭
夜の空気は、少し湿っていた。
「またここに来ちゃったよ……」
廃ビルの前で、ユウキは動けずに立っている。
中から漏れる笑い声。
その奥に何かがいる。
それだけは分かっていた。
ユウキはスマホを握りしめる。
(さっきの件……やっぱり終わってない)
SNSには、まだ同じような書き込みが残っていた。
消えたはずの“募集”。
消えたはずの“紹介”。
なのに、形を変えて続いている。
「……まだ続いてるのかよ」
ユウキの声は小さかった。
そのときだった。
「やっぱり来たか」
低い声。
建物の裏側から、一人の男が現れる。
黒いコート。
年齢は三十代後半ほど。
笑っているようで、目は笑っていない。どこか冷たい。
ユウキは反射的に身構える。
男は軽く手を上げる。
「昨日“現場にいたやつら”がいるって報告は来てる」
ユウキが眉をひそめる。
男は続ける。
「“変な二人組がいる”ってね」
侍の目が細くなる。
「……我らのことか」
男は肩をすくめる。
「まあ、そういうことになるね」
そして少しだけ笑う。
「まさか本当に来るとは思わなかったけど」
ユウキが小さく息をのむ。
(見られてる……?)
「もっと慎重になった方がいいよ君たち」
「監視カメラに映っちゃってるからね」
男はビルの入口を顎で指す。
「中、まだやってるよ」
「君たちが止めてもね」
侍は男を睨む。
「それよりお前は誰だ」
男は軽く会釈する。
「ただの紹介役さ」
「紹介役?」
「人と人を繋ぐ仕事だよ」
侍の目が細くなる。
「嘘だな」
男は少し笑った。
「なぜそう思う?」
「お前の目だ」
沈黙。
男の笑みが少しだけ深くなる。
「面白いな」
ユウキが一歩前に出る。
「その……」
男が視線を向ける。
ユウキは少し怯む。
それでも言葉を続けた。
「やってること、よくないと思う」
男は首を傾げた。
「何がだい?」
「人を騙してるだろ」
声は強くない。
むしろ少し震えている。
男は肩をすくめる。
「私は金が欲しい人間に方法を教えただけだ」
「選んだのは本人だよ」
ユウキは言い返そうとして口を開く。
だが上手く言葉が出てこない。
「でも……」
男が笑う。
「でも?」
ユウキは視線を落とす。
何が違うのか。
うまく説明できない。
それでも。
「困ってる人を利用してる」
小さな声だった。
男は少しだけ笑みを深くする。
「利用されたくて来る者もいる」
ユウキは首を振る。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことだ?」
ユウキは答えられない。
沈黙。
男の言うことを全部否定できるほど頭が良いわけじゃない。
だけど。
何かがおかしい。
その感覚だけは消えなかった。
「……分かんないよ」
男が少し眉を上げる。
ユウキは拳を握る。
「でも」
「それで傷つく人がいるんだろ」
男は黙る。
ユウキは続けた。
「だったら、やっぱりダメだと思う」
男はしばらくユウキを見ていた。
やがて小さく笑う。
「なるほど」
「君は面白いな」
ユウキは少しだけ後ずさる。
男は続けた。
「理屈じゃなくて感覚で動いている」
「そういう人間は嫌いじゃない」
侍が一歩前へ出る。
空気が変わる。
「弱き者を利用した」
男は即答した。
「利用されたがる者もいる」
「金が欲しい」
「楽をしたい」
「誰かより上に立ちたい」
「そう思ったから集まった」
「私は場所を用意しただけだ」
侍の手が刀に触れる。
男はその動きを見ても動じない。
「抜くのか」
侍は答えない。
男は笑った。
「昔はそれで解決したのかもしれないな」
「悪人を斬れば終わり」
「単純で羨ましい」
侍が一歩前へ出る。
「黙れ」
男はスマホを取り出した。
画面には様々な投稿が映っている。
闇バイト。
投資詐欺。
誹謗中傷。
炎上動画。
違法な勧誘。
次々と表示される。
「誰を斬る?」
侍は黙る。
男は続ける。
「この投稿をした人間か?」
「拡散した人間か?」
「騙された人間か?」
沈黙。
ユウキは画面を見る。
知らない誰かの悪意。
知らない誰かの欲望。
その数の多さに息が詰まる。
「こんなの……」
思わず漏れる。
男は笑う。
「そうだ」
「多すぎる」
「だから終わらない」
ユウキは何も言えなかった。
侍を見る。
侍も黙っている。
初めてだった。
侍がすぐに答えを出さないのは。
男は街の灯りを見る。
「なぜなら私が作ったわけじゃない」
「元からあるものを利用しているだけだからだ」
侍の目が揺れる。
初めてだった。
斬るべき相手が見えているのに。
斬れば終わる気がしない。
男はそれに気づく。
「ようやく分かったか」
「お前が戦っているのは人じゃない」
「流れだ」
「欲望だ」
「仕組みだ」
風が吹く。
ユウキは侍を見る。
侍は刀の柄を握ったまま動かない。
男は小さく笑う。
「安心しろ」
「私は逃げない」
「どうせまた会う」
「君たちはもう入口に立ってしまった」
侍が低く言う。
「何者だ」
男は振り返る。
少し考えるように空を見る。
そして静かに答えた。
「影だよ」
「人が作った影だ」
男は歩き出す。
闇の中へ消えていく。
その途中で立ち止まり、振り返った。
「また会おう」
そして少しだけ笑う。
「君たちは、まだ何も知らない」
ユウキが顔を上げる。
「何のことだよ!」
男は答えない。
そのまま闇へ消えていった。
静寂。
ユウキが呟く。
「なんだったんだよ……あいつ」
侍は答えない。
ただ男が消えた場所を見つめている。
その目には怒りではない。
もっと深い何かが宿っていた。
月は冷たく輝いている。
侍は男が消えた闇を見つめ続けていた。
その夜、答えのない問いだけが残った。




