1章最終話 旅立ち
私はレオンを探して、城を出た。
エルフの城下町。そこは、私が今まで一度も訪れたことのない場所だった。
石畳の道には多くのエルフが行き交い、店先には色とりどりの商品が並んでいる。活気に満ちた街並みを見て、私は、思わず足を止めた。
ここが、レオンが案内しようとしてくれた場所。
こんな場所があったんだ。
お城の中でメイドとして働いていた時には、外に出る機会なんてほとんどなかった。毎日仕事を覚えるのに必死で、城の外にどんな世界が広がっているのか、考える余裕もなかったのだ。
「あなたが、あの人族の男を倒した子かい?」
不意に、近くにいたエルフから声をかけられた。
「本当にありがとう。あなたのおかげで、私たちは助かったよ」
「え……?」
突然のことに、私は戸惑った。
すると、その声を聞いていた別のエルフまで、こちらに近づいてきた。
「君が戦ってくれたんだってね。ありがとう」
「小さいのに、すごいことをしたんだな」
「い、いえ……そんな」
どう答えればいいのか分からず、私は曖昧に笑った。
褒められるのは、嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
けれど、あの時のことを思い出すと、素直に喜んでいいのか分からなくなった。
私は、あの男を殺せなかった。
自分の拳で追い詰めた相手を前にして、最後の一撃を振り下ろせなかった。結局、男を殺したのはルークだった。
もし、あの時、私が最後まで戦えていたら。
そんな考えが、頭をよぎる。
「どうしたんだい?」
「あっ、いえ! 何でもないです」
心配そうに顔を覗き込まれ、私は慌てて首を振った。
せっかく感謝してくれているのに、こんな顔をしていたら失礼だ。
私はもう一度、目の前のエルフたちを見た。
みんな、私に笑いかけてくれている。
あの戦いで失ったものは、決して小さくない。優しくしてくれたメイドさんも、もういない。戦いの中で感じた恐怖だって、簡単に消えるものではなかった。
それでも、私の戦いによって救われた人たちがいる。
私が拳を振るったことには、意味があったのだ。
「……ありがとうございます」
今度は、ちゃんと声に出せた。
「こちらこそ、本当にありがとうね」
そう言って、エルフの女性が優しく笑った。
私は小さく頭を下げ、その場を離れた。
少し歩いてから、もう一度だけ後ろを振り返る。
そこには、いつもと変わらない街の景色が広がっていた。
誰かが買い物をして、誰かが笑って、誰かが大切な人と話している。
あの戦いがあったからこそ、守れた日常がある。
そう思うと、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
あぁ、そうか。
私は、一人じゃなかったんだ。
そう思えたことが、嬉しかった。
私は前を向き、再び歩き出した。
レオンを探さなくちゃ。
彼が今、何を考えているのかは分からない。
でも、私には伝えたいことがある。
今度は、私が彼の話を聞く番だ。
私は街を抜け、レオンを探して歩き続けた。
途中で見つけた川で水を汲み、バケツを片手に再び歩き出した。
やがて、開けた丘にたどり着いた。
柔らかな風が吹き抜け、草花が静かに揺れている。遠くには森が広がり、空には雲がゆっくりと流れていた。
その丘の真ん中に、一人の少年が立っていた。
「しっ、しっ!」
レオンだった。
彼は拳を構え、何度も前に突き出していた。
「しっ! しっ!」
私は少し離れた場所から、その様子を眺めた。
……うん。
下手だ。
拳を振るたびに身体が大きく揺れ、足元も安定していない。腕を伸ばした後の戻しも遅いし、拳を出す時に身体の軸まで崩れている。
このままでは相手に攻撃を当てるどころか、自分から転んでしまいそうだ。
思わず、口を出したくなった。
足の位置が違う。もっと腰を使って。拳を出した後は、すぐに戻す。
教えたいことなら、いくらでもある。
けれど、私は口を開かなかった。
レオンは何度も拳を振っていた。
一発打っては構え直し、また一発打つ。上手くいかなくても、動きを止めようとはしなかった。
その横顔は、いつもの穏やかなレオンとは少し違って見えた。
何かを必死に変えようとしている。
そんなふうに見えた。
私は、ゆっくりと彼に近づいた。
そして、何も言わずに隣へ立った。
「……リリアさん?」
レオンが驚いたようにこちらを向いた。
構えていた拳が、ぴたりと止まる。
「ど、どうしてここに……?」
私は答えなかった。
ただ、彼の隣に立ったまま、前を向いた。
レオンは何か言いたそうにしていたけれど、やがて口を閉じた。
少しの間、風の音だけが聞こえた。
私は、レオンの横顔をちらりと見た。
彼はまだ戸惑っているようだった。それでも、私が何も言わないのを見て、ゆっくりと前を向き直った。
私は、小さく息を吸った。
それから、拳を構えた。
シュッ!
空気を切り裂くように、拳が走った。
シュッ、シュッ!
足を踏み込み、身体をひねり、拳を戻す。
余計な力は入れない。足元を安定させ、身体の動きを拳へと伝える。打ち終わった瞬間には、次の動きへ移れるように構えを戻す。
何度も繰り返してきた動きだ。
前世では、思うように動かない身体を抱えながら、それでも練習を続けていた。
もっと速く。
もっと強く。
いつか、誰にも負けない拳を打てるように。
病気で自由に動けなかった頃の私にとって、拳を振る時間は、自分の身体を自分のものだと感じられる大切な時間だった。
そして今、私は健康な身体を手に入れた。
走れる。跳べる。思い切り拳を振るえる。
その喜びを、私は知っている。
だからこそ、この身体で何ができるのか、もっと知りたかった。
シュッ!
私は、もう一度踏み込んだ。
拳が風を切る。
隣にいるレオンのことを考えながら、私は動きを続けた。
強くなりたいと思う理由は、人それぞれだ。
誰かを守りたいのかもしれない。
自分を変えたいのかもしれない。
生きるために必要なのかもしれない。
どんな理由であっても、強くなろうとする気持ちまで、誰かに否定されるものじゃない。
私は最後に一発、鋭く拳を突き出した。
シュッ!
風が頬を撫でる。
ゆっくりと腕を下ろし、息を吐いた。
「ふぅ……」
呼吸を整えながら、隣を振り向く。
レオンは、まだ私を見つめていた。
その目は大きく見開かれ、言葉を失っているようだった。
「……リリアさん」
ようやく聞こえた声は、少しかすれていた。
「ん?」
「今の……」
レオンは自分の拳を見下ろした。
何かを確かめるように、一度だけ拳を握りしめる。
それから、もう一度私を見た。
「リリアさんの拳、全く見えませんでした」
「……そう?」
「はい。拳を出したと思ったら、もう戻っていて……足も、身体も、どう動いているのか分かりませんでした」
レオンは困ったように笑った。
「僕がやっていたのとは、全然違いますね」
私は、何と答えればいいのか分からなかった。
ただ、彼が自分の拳を見つめる様子を見ていた。
やがて、レオンはぽつりと話し始めた。
「僕は森にいた時、同年代の友達ができたと思いました」
「うん」
「一緒に話して、一緒に過ごして……。リリアさんとなら、仲良くなれるんじゃないかって」
レオンは、少しだけ懐かしそうに笑った。
「でも、リリアさんは一角熊を倒してしまうし、戦いでもあんなに強くて……。僕は、何もできませんでした」
「……レオン」
「裸だったのはびっくりしたし、肌も雪みたいに真っ白でびっくりしたけど……」
ゴツンッ。
「痛っ!?」
私はレオンの頭を軽く殴った。
「そこは忘れて!」
「す、すみません……」
「もう!」
思わず頬を膨らませた。
まったく。どうしてそこで、その話が出てくるの。
けれど、レオンはすぐに笑うことをやめた。
視線を落とし、しばらく黙り込む。
さっきまでの冗談が、まるでなかったことのようだった。
「……人族との戦いを見て、思ったんです」
レオンは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「僕は、リリアさんみたいにはなれないって」
私は口を開きかけた。
けれど、レオンは続けた。
「戦っている時のリリアさんは、本当に強かった。あの男に何度斬られそうになっても立ち向かって……。僕は、見ていることしかできなかった」
彼の手が、ぎゅっと握られた。
「僕も、何かできたらよかったのに」
その声は、小さかった。
「少しでも力になれたら。リリアさんが危ない時に、僕も一緒に戦えたら。そう思ったんです」
レオンは、自分の手を見つめた。
「でも、実際には何もできなかった。僕はただ、小さな石をぶつけただけ。リリアさんが傷つくのを見ているだけだった」
私は、すぐに言い返したかった。
そんなことないよ、と。
でも、言葉が出てこなかった。
レオンが話しているのは、あの戦いで彼が感じたことだ。
私が簡単に否定していいものではない気がした。
「それで、考えたんです。僕が一緒に旅に出たところで、何ができるんだろうって」
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
「リリアさんは、これからもっと強くなると思います。きっと、いろんな相手と戦うことになる。そんな時、僕が一緒にいたら……」
彼は言葉を止めた。
少しの間を置いてから、続きを口にした。
「足手まといになるんじゃないかって」
風が吹き、レオンの髪を揺らした。
「だから、僕は……リリアさんの隣に立てるような人間じゃない。そう思いました」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
私は、何か言おうとした。
そんなことないよ。そんなふうに思わなくていい。
けれど、レオンはまだ話し終えていなかった。
「でも!」
突然、レオンが声を上げた。
私は驚いて、口を閉じた。
レオンは、握りしめた拳を震わせていた。
「同時に思ったんです。父上が憎いって」
「……アルベルトさんが?」
「はい。リリアさんを危険にさらした父上が、許せなかった」
その声には、今まで聞いたことのない強さがあった。
「もちろん、父上が何を考えていたのか、僕には分かりません。国のことを考えていたのかもしれないし、必要な判断だったのかもしれない。でも……」
レオンは、唇を噛んだ。
「リリアさんが死ぬかもしれないって思った時、本当に胸が苦しくなったんです」
彼の目が、かすかに揺れた。
「もう会えなくなるかもしれない。あのまま帰ってこないかもしれない。そう考えたら、怖くて……」
言葉が途切れた。
レオンは一度、深く息を吸った。
「でも、僕は何もできなかった」
その声は、さっきよりも小さくなっていた。
「リリアさんが戦っている間、僕は何もできなかったんです。守りたかったのに。助けたかったのに。何もできなかった」
彼は俯いた。
「こんな僕が一緒にいたって、また同じことになるかもしれない。今度こそ、リリアさんを失うかもしれない」
私は、レオンの横顔を見つめた。
彼の気持ちは、きっと簡単なものじゃない。
一緒に旅をしたい。
でも、力が足りない。
大切な人を守りたい。
でも、守れる自信がない。
その二つの気持ちの間で、ずっと迷っていたのだろう。
「だから、僕は……」
レオンは、そこで言葉を止めた。
握りしめていた拳が、ゆっくりと開かれる。
「……ごめんなさい。こんなことを言っても、困らせるだけですよね」
無理に笑おうとする顔を見て、私は小さく息を吐いた。
もう、十分だ。
レオンが何を考えていたのか、全部分かったわけじゃない。
彼の不安を、私が簡単に消せるわけでもない。
でも、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
私は、レオンと一緒に旅がしたい。
だから。
「もういいよ」
「え……?」
私は、足元に置いていたバケツを持ち上げた。
「ちょっと、じっとしててね」
「えっ? リリアさん、それは――」
ドバーッ!!
「うわぁぁっ!?」
私はバケツの水を、レオンの頭から思い切りぶちまけた。
大量の水が髪から顔へ、服へと流れ落ちていく。
「リ、リリアさん!? いったい何を……!」
ずぶ濡れになったレオンが、慌てて顔を拭う。
その髪は、いつもの赤色ではなかった。
水に濡れた、夜のような黒髪。
レオンは、自分の髪に触れた。
「……あ」
その表情に、戸惑いが浮かんだ。
私は、その姿をじっと見つめた。
以前、彼は私にだけ、本当の髪を見せてくれた。
赤い髪は魔術で色を変えたものだと、教えてくれた。
本当の髪を見せる時、彼は少し不安そうだった。
でも、私は知っている。
黒い髪のレオンも、赤い髪のレオンも、同じレオンだ。
私の隣で、何度も笑ってくれた男の子だ。
私は、濡れた髪を押さえているレオンに向き直った。
「……うん」
小さく頷く。
やっぱり、こっちの方がいい。
そう思ったのは、黒髪が好きだからということじゃない。
彼が本当の自分を隠していることも、悩んでいることも、私は知っている。
だからこそ、伝えたかった。
「私は本当のレオンと、黒髪のレオンと旅がしたい!」
レオンの目が、大きく見開かれた。
「強くなってほしいからじゃないよ。私を守ってほしいからでもない」
私は、まっすぐに彼を見た。
「私は、レオンと一緒に旅がしたいの」
それだけは、間違いなかった。
私は知らないことだらけだ。
この国にこんなに賑やかな街があることも、エルフたちがどんな暮らしをしているのかも、今日まで知らなかった。
外の世界には、もっとたくさんの知らないことがあるはずだ。
どんな景色が広がっているのか。
どんな人たちが暮らしているのか。
どんなものを食べて、どんなことに笑って、どんな困難に立ち向かっているのか。
私は、それを知りたい。
前世では、病気のせいで自由に動くことさえできなかった。
だから、今度こそ自分の足で歩いていきたい。
自分の目で見て、自分の身体で感じて、知らない世界を知っていきたい。
そして。
その隣には、レオンがいてほしい。
「……僕は」
レオンの声が聞こえた。
彼の瞳は潤んでいた。
濡れた前髪の隙間から、まっすぐに私を見つめている。
「僕は、リリアの隣に立ちたい。リリアと一緒にいたい!!」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を見開いた。
「……え?」
今、なんて?
リリアさん、じゃなくて……リリア?
私の耳が、ぴくぴくと動いた。
胸の奥が、くすぐったくなる。
レオンは、まだ私を見つめていた。
その瞳には、さっきまでの迷いとは違うものが宿っていた。
不安が全部消えたわけじゃないのかもしれない。
自分の力が足りないって思ってしまってるのかもしれない。
それでも、彼は自分の気持ちを口にした。
私は、それが嬉しかった。
「……ふふっ」
気づけば、笑みがこぼれていた。
「私のこと、呼び捨てしてくれた」
「あっ! 勝手に呼び捨てにしてごめんなさい!」
レオンが慌てて頭を下げる。
「ううん。私は嬉しいよ。それよりもさ、敬語はやめてくれないの?」
「はい。敬語は、隣に立ててからにします」
私は一瞬、きょとんとした。
それから、ゆっくりと笑った。
そっか。
呼び捨てが、スタートラインなんだ。
今すぐ、何もかも変わるわけじゃない。
レオンが明日から急に強くなるわけでもないし、私がレオンの不安を取り除けるわけでもない。
それでも、彼は一歩を踏み出した。
いつか隣に立つ。
そのために、まずは自分の気持ちを伝える。
それが、レオンの覚悟なんだ。
私は、その覚悟を嬉しいと思った。
「うん。そっか。じゃあ、それまで楽しみにしてるね」
「……はい!」
レオンは顔を上げた。
その表情には、もう迷いはなかった。
彼は濡れた服を気にすることもなく、ゆっくりと立ち上がった。
そして、私に手を差し出した。
「リリア、行きましょう」
私は、その手を見つめた。
ついさっきまで、彼は自分の力が足りないことを悩んでいた。
旅に出てもいいのか、自分に何ができるのか、迷っていた。
そんな彼が今、自分から手を差し出している。
たった一言。
たった一歩。
でも、きっと、彼にとっては大きな一歩だった。
そして、私にとっても、大切で大きな一歩だった。
私はその手を取った。
「うん。よろしく、レオン」
私たちは、まだ何も知らない。
外の世界に何が待っているのか。
どんな敵がいるのか。
これから、どれほどの困難が待ち受けているのか。
きっと、楽しいことばかりじゃない。
また誰かを失うかもしれない。
自分の無力さに、打ちのめされる日もあるかもしれない。
それでも、二人で歩いていく。
いつか、エルフを世界一の種族にするために。
これから待ち受ける戦いに、覚悟を決める。
でも、きっと乗り越えられる。
だって、今世の私は、健康な私は──
一人じゃないのだから。
一章の閲覧ありがとうございました。二章は書くか迷っていますので、少々お待ちいただけると幸いです。
投稿する曜日と時間におすすめあれば、良ければ教えてください。




