6話 戦争の終わり
私は拳を握りしめたまま、目の前の男を見下ろしていた。
拳は血まみれで、縛っていた髪もほどけ、ぐちゃぐちゃになっていた。転生して手に入れた健康な身体にも、無数の切り傷が刻まれている。
男は地面に這いつくばり、血を吐きながら苦しんでいた。
(肋骨が折れてる……。いや、この苦しみ方。内臓に骨が刺さってる)
前世の記憶から、私はそう判断した。前世で私のボディーブローを食らった人たちと同じ反応。私には分かる。もう抵抗する力なんて残っていない。今なら、簡単に殺せる。
なのに、拳が震えていた。
男の周囲には、エルフたちの骸が転がっている。その中には、優しくしてくれたメイドさんの姿もあった。
(殺してやる……。こいつだけは、絶対に許さない)
そう思っているはずなのに、身体が動かなかった。
前世でも、人を殺したことなんてない。ボクシングで相手を倒したことはあっても、命を奪ったことはなかった。
殺すことと、倒すことは違う。
頭では分かっている。ここで殺さなければ、また誰かが犠牲になるかもしれない。エルフとして、この世界で生きていくのなら、覚悟を決めなければならない。
(殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ……)
それでも、足が動かない。拳を握りしめても、震えは止まらなかった。
「……甘ちゃんだなぁ」
男が、苦しそうに声を絞り出した。
「そんな、甘ちゃんじゃあ、お前らは、死ぬぜ。ごふっ。まぁ、甘ちゃんじゃなくても――」
ズブッ。
鈍い音が響いた。
男の胸から、剣が突き出ていた。
「……え?」
背後に立っていたのは、ルークだった。
男が言葉を続けることはなかった。
ルークは剣を引き抜くと、もう一度、男の胸に突き立てた。
一度、二度、三度。
何度も、何度も。
男の身体が跳ねるたびに、血が飛び散った。その返り血が私の顔にかかり、頬を赤く染めていく。
やがて、男の身体から力が抜けた。
もう、動かなかった。
私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
自分が殺せなかった男を、ルークが殺した。
その事実を理解するのに、少し時間がかかった。
ルークが剣を突き立てるのをやめて、ようやく気づいた。私の初めての戦争は、終わったのだと。
けれど、勝利の喜びなんて湧いてこなかった。
血に染まった拳も、顔にかかった返り血も、周囲に横たわる骸も、すべてが現実だった。
「……なんで?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
何が、なんでなのだろう。
どうして、こんなことになったのか。どうして、誰かが死ななければならなかったのか。それとも、どうして私は、自分の手で男を殺せなかったのか。
自分でも、何を聞きたかったのか分からなかった。
けれど、その問いにルークからの返事はなかった。
彼は、ただ戦争の後処理をする。
まるで機械のように。
私は、彼とは違った。
私は、機械にはなれない。
私は、その場から動けなかった。
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それから数日が経った。
私は相変わらず、お城でメイドとして働いていた。
両手に皿を抱え、廊下を歩く。けれど、足がもつれて体勢を崩した。
ガシャンッ!
「あっ……」
床に散らばった皿の破片を見つめ、私はその場に立ち尽くした。
以前なら、誰かに叱られていたはずだった。
けれど、何も聞こえない。
私は黙って破片を拾い集めた。
雑巾掛けをしても、誰かに褒められることはなかった。
ただ、静かだった。
廊下にも、部屋にも、人の姿はほとんどない。以前は当たり前のように聞こえていた話し声も、笑い声も、今はどこにもなかった。
私は雑巾を握り直し、黙々と床を拭き続けた。
そんな時だった。
「リリア、少し話してもいいか?」
声をかけてきたのは、ルークだった。
「……ルーク?」
「少し、時間をもらいたい」
いつもより真剣な表情だった。
私は雑巾を置き、彼の後をついていった。
案内された小さな部屋で、私たちは向かい合って座った。
「まずは、今回の戦いについてだ」
ルークが口を開いた。
「獣族との戦いは、終わりに向かっている。あいつらも戦意を失っているし、今は和解に向けて話を進めているところだ」
「和解……」
「ああ。これ以上戦いを続けても、互いに犠牲が増えるだけだからな」
ルークは一度、目を伏せた。
「それと、お前が追い詰めた人族の男だが、名の知れた冒険者だったらしい。今回の襲撃も、莫大な報酬を受け取って引き受けた仕事だったそうだ」
「そんなにすごい人だったんだ……」
「ああ。だからこそ、お前があの男を倒したことには意味がある」
ルークは私の目を見た。
「リリア、お前のおかげだ。お前の強さを目の当たりにして、獣族は完全に戦意を失った。お前がいなければ、俺はあの男に殺されていたかもしれない」
「でも、私は……」
「お前のおかげで、エルフの未来は繋がった」
ルークは言葉を切り、小さく笑った。
「ふっ。リリア、お前は本当に強いな」
その笑顔は、どこか寂しそうだった。
「それに比べて、俺は……」
彼は唇を噛み締めた。
私は何も言えなかった。
ルークがどれほど努力してきたのか、私は知らない。でも、きっと、母親を殺した人族を倒すために、剣を振り続けたのだろう。何日も、何年も、何十年も。
それでも、彼は自分の力が足りなかったと思っているのかもしれない。
「……ルーク」
「ん?」
「ルークは、本当に和平を結ぶのが正しいと思ってるの?」
私の問いに、ルークは目を見開いた。
「どうして、そんなことを聞くんだ?」
「だって……話し合いで解決できれば、人族を殺さずに済むんだよね?」
私は、あの日のことを思い出していた。
倒れた男に剣を突き立てたルークの姿。何度も、何度も剣を振り下ろしていた、あの姿を。
「ルークは、人族が憎いんじゃないの?」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、ルークは小さく息を吐いた。
「……憎いに決まってるだろ」
その声は、今まで聞いたことがないほど低かった。
「母さんを殺したのは人族だ。あいつらのせいで、俺たちは大切なものを失った。忘れられるわけがない。許せるわけもない」
ルークの拳が、膝の上で固く握られた。
「本当は、あの男だって、もっと苦しめてやりたかった。母さんを奪った連中と同じように、何もかも失わせてやりたかった」
彼は一度、言葉を切った。
「あの日、俺が剣を突き立てたのは、あいつが弱り切っていたからだ。お前が追い詰めて、もう抵抗できなくなっていた。俺にできたのは、そんな相手に剣を振り下ろすことだけだった」
ルークは自嘲するように笑った。
「情けないだろ。あれだけ人族を憎んでおきながら、俺は憎しみのままに戦い続けられるほど強くもない。かといって、憎しみを捨てられるほど割り切れてもいない」
「ルーク……」
「でもな、俺の憎しみのために、これ以上誰かを死なせるわけにはいかないんだ」
ルークは顔を上げた。
その目には、今も消えない怒りがあった。それでも、その奥には、苦しみながら何かを選ぼうとする強い意志が見えた。
そうか、やっと分かった。ルークは機械なんかじゃない。それどころか、彼は、私なんかより、人族なんかより、ずっと、ずーっと『人』だったんだ。
「人族が憎い。それは、これからも変わらないかもしれない。だけど、俺の憎しみを晴らすために、仲間を戦いに巻き込むのは違う。だから、俺は和平を選ぶ」
私は、しばらく何も言えなかった。
ルークの気持ちが、痛いほど伝わってきたからだ。
憎しみを捨てることは、簡単じゃない。大切な人を奪われた痛みを、他人が勝手に分かったつもりになることだってできない。
だからこそ、私は軽々しく「忘れて」なんて言いたくなかった。
「……そっか」
私は、ルークの目を真っ直ぐに見つめた。
「じゃあ、ルークの気持ちも、私が繋いでいくよ」
「……え?」
「憎しみも、痛みも、何もかも。理屈じゃないんだよね。だったら、無理に捨てなくたっていい。ルークが抱えてきた気持ちも、私が全部、強さに変えてみせる」
私は拳を握りしめた。
「私の拳が、私のボクシングが、必ず繋いでいくから」
口にしてみると、少し恥ずかしかった。
でも、これだけは伝えたかった。
ルークが抱えてきたものを、なかったことにはしたくない。人族を憎む気持ちも、大切な人を失った痛みも、無理に捨てさせたくはない。
それも全部、私が受け止めて、前に進む力に変えていきたい。
ルークは、しばらく私を見つめていた。
やがて、困ったように笑った。
「……お前は、本当に不思議な奴だな」
「そうかな?」
「ああ。そんなことを真っ直ぐ言える奴、そうそういないぞ」
その声は、少しだけ柔らかくなっていた。
「ありがとう、リリア」
ルークは小さく頭を下げた。
「……それで、これからの話なんだが」
彼は顔を上げた。
「リリア。外の世界に行ってくれないか?」
「外の世界?」
「ああ」
ルークはゆっくりと頷いた。
「あの男は、莫大な報酬でエルフを襲いに来た。今回は失敗に終わったが、これで終わりとは限らない。また別の人族が攻めてくる可能性もある」
私は黙って話を聞いた。
「だから、あの男の遺体を人族の冒険者ギルドに送りつけようと思っている」
「遺体を……?」
「そうだ。腹には、お前の拳でつけた傷が残っている」
ルークは真剣な顔で続けた。
「剣でも魔術でもなく、拳で名の知れた冒険者を追い詰めたんだ。そんな話、簡単には信じられないだろう。死因を巡って騒ぎになれば、次の襲撃まで時間を稼げるかもしれない」
ルークは少しだけ口元を緩めた。
「拳で殺した。こんな話、幽霊の仕業だとでも思うかもな」
「幽霊……ボクシングって、そんなに変かな?」
私の言葉に、ルークは優しく微笑んだ。
「あぁ、変だ。変で、おかしい。でもそれ以上に、カッコよくて、力がある。そんな技術だと俺は思うよ」
「……なんか、ありがと」
「ふっ。お礼を言うのは俺の方なんだがな。まぁ、それで話を戻すが、時間を稼げているうちに、エルフの地位を高めたい」
「地位を……」
「ああ。今のエルフは、人族から見下されている。そんな状態じゃ、話し合いをしようにも相手にされない」
ルークは真剣な顔で続けた。
「でも、エルフの地位が高まれば、人族だって無視できなくなる。対等な立場になれば交渉もできる。話し合いができれば、戦争を避けられるかもしれない」
そこで、ルークは私を見た。
「そのために、お前の力を借りたい」
「私の……?」
「お前なら、外の世界でもやっていけると思う。あの男を追い詰めた強さがあるんだからな」
私は自分の拳を見つめた。
血まみれになった拳。
あの戦いを思い出すと、今でも胸の奥が重くなる。
それでも、ルークは私を信じてくれているのだ。
「ただし、危険は多い」
ルークの声が少し低くなった。
「エルフは地位が低い。お前は容姿も整っているから、性奴隷にされる可能性だってある。人族に犯されて、やるだけやられて捨てられるかもしれない。金を騙し取られるかもしれない。最悪、殺されることもあるだろう」
私は息を呑んだ。
「だから、無理に行けとは言わない。ここに残ったっていいんだ。お前は十分、エルフのために戦ってくれた」
ルークは、私に選択を委ねてくれた。
危険な外の世界へ行くか。
それとも、この山の国に残るか。
私は少しだけ考えた。
そして、答えた。
「行く」
「……え?」
「私、外に行く」
即答だった。
ルークは目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「そうか……」
「うん。私にできることがあるなら、やりたい。それに、外の世界も見てみたいから」
前世では、病気のせいで自由に動くことさえできなかった。
だからこそ、今度は自分の足で歩いてみたい。知らない場所へ行き、知らない人と出会い、自分に何ができるのかを確かめたい。
「リリア、本当にありがとう」
ルークは深く頭を下げた。
「ちょ、ちょっと! そんなにかしこまらなくてもいいよ!」
「ははっ、そうだな」
ルークは顔を上げた。
「それと、外の世界へ行くのはお前一人じゃない」
「……え?」
「もう一人、推薦したい奴がいるんだ」
私は首を傾げた。
もう一人?
獣族の誰かだろうか。それとも、外の世界に詳しいエルフだろうか。
私が考え込んでいると、ルークは楽しそうに笑った。
「リリア。お前に合わせられる奴がいるだろう?」
「私に合わせられる……?」
「そうだ。小さな魔術を操れて、無詠唱で魔術を使える男の子が」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いた。
脳裏に浮かんだのは、赤い髪の少年だった。
いつも穏やかで、どこか自分に自信がなさそうな男の子。
けれど、私は知っている。
あの赤い髪は、本当の髪色ではない。
以前、彼は私にだけ、本当の髪を見せてくれた。
夜のように黒い髪。
自分の本当の姿を見せることに、どれほど勇気が必要だったのだろう。
あの時の彼の表情を、私は今でも覚えている。
「……レオン?」
私が呟くと、ルークは頷いた。
「そうだ。ただ、あいつは乗り気じゃないみたいでな」
「……え?」
「自分には無理だって言っていたよ。お前の足手まといになるだけだ、ってな」
私は思わず眉をひそめた。
レオンが、足手まとい?
そんなこと、あるはずがない。
アルベルトが私を巻き込もうとした時、彼はいち早く動いてくれた。私を救ってくれた。
けれど、本人がそう思っているのなら、簡単にはいかないのかもしれない。
「……そっか」
私は小さく呟き、拳を握った。
だったら、私が直接話をするしかない。
レオンが何と言おうと、私は彼と一緒に外の世界へ行きたい。
レオンの背中を押す。そう決意した胸の奥が、少しだけ熱くなった。
次回で一章終了になります。良ければ、一章最終話も閲覧よろしくお願いいたします。




