5話 剣と拳
「――はっ!」
私は地面を蹴った。
頭を左右に振りながら、人族の男へと踏み込む。右、左、右。頭の位置を変えながら、足を前へ運ぶ。
男が目を見開いた。
「っ!?」
頭を振っていたと思った、その刹那。
一瞬で距離が縮まる。
まるで、二人の間にあった空間を削り取ったかのような踏み込みだった。
男は驚きながらも、すぐに剣を振るう。横薙ぎの一撃が迫ってきた。
私は頭を沈めてかわす。そのまま前へ出ようとしたところに、反対側から剣が飛んできた。
それも、頭を振って避ける。
男は目を細めた。
(速い……いや、違うな。こいつ、ただ速いんじゃねぇ。踏み込みそのものが技術か)
男の剣が横から迫る。私は身体を沈め、紙一重でかわした。
剣が頭のすぐそばを通り過ぎる。
さらに一歩踏み込む。男が剣を引き戻し、再び横に振るった。
私は頭を右へ、左へ、下へと動かしながら避け続ける。
拳を出そうにも、まだ届かない。
男との身長差は大きい。普通に踏み込んだだけでは、私の拳は男の顔まで届かなかった。
それでも、私は足を止めない。
「ちっ……!」
男は舌打ちしながら剣を振るう。
私はそれを避け、さらに踏み込んだ。
その様子を、少し離れた場所からルークが見ていた。口の端から血を垂らしながら、私たちの動きを必死に追っている。
(どっちも、俺の目じゃ追いきれないほどに速い……)
男の剣が空を切るたびに風が吹き、雷のような速度で襲いかかってくる。
それでも、男の剣は私を捉えられない。
(くそがっ!この距離なのに、当たらねぇじゃねぇか……!)
男は苛立ちを募らせながら、横薙ぎの剣を繰り返す。
私は頭を振り、足を運び、剣の軌道から身体を外していく。
避ける。避ける。
だが、それだけでは人は倒れない。
「避けてばっかりじゃ、俺は倒せねぇぞ!」
男が叫んだ。
その瞬間だった。
今まで横に振るっていた剣が、斜め上から振り下ろされる。
袈裟斬り。
(横振りに慣れたガキの目じゃ、これは避けられねぇだろ!)
男は心の中で叫んだ。
しかし、剣は私の身体を捉えなかった。
私は小さく横へステップを踏んでいた。大きく避けたわけじゃない。ほんのわずかに身体の位置をずらしただけ。
それなのに、剣は私の身体を斬ることなく、空を切った。
「なっ……!?」
男が目を見開く。
振り下ろした剣は、確かに私を捉えたはずだった。
けれど、そこに私の姿はない。
ほんのわずかに横へずれただけ。
それだけで、男の剣は空を切っていた。
男の身体がわずかに流れる。
その隙を、私は見逃さなかった。
左足を踏み込む。
腰を回し、右の拳を引き絞る。
狙うのは、男の顔面。
「――っ!」
全身の力を拳に乗せ、右ストレートを放った。
拳が、男の顔面を捉える。
「ぐっ……!」
男の顔が、わずかに仰け反った。
その姿を見て、私は小さく舌打ちする。
男は私とは対照的に薄く笑う。
そして、二人の心の中で同じ言葉が呟かれた。
(浅い)
左ジャブで距離を測っていなかった。
そのせいで、右ストレートが届く距離を見誤った。拳は当たったものの、十分な威力を乗せきれなかったのだ。
それに、男の反射神経も尋常ではない。顔をわずかに引くことで、まともに拳を受けるのを避けていた。
私は拳を引き戻し、男を見据える。
男もまた、私を見下ろしていた。
(なんで急に攻めてきた……?さっきまでは、避けることに徹していたはずだ)
男は考える。
そして、私の身長と自分の身長を見比べた。
(……そういうことか)
男の口元が歪む。
(コイツの身長じゃ、普通に殴っても俺の顎には届かねぇ。だから、袈裟斬りで顎が下がるその一瞬を狙ったのか)
男は剣を構え直した。
「なら、横振りだけしてりゃあ勝ちだなぁ!」
男が剣を横に振るった。
その瞬間、男の視界から私の姿が消えた。
「そう来ると思った」
私は小さく呟く。
そう。私は誘導していた。
男が横振りだけを使うように。
横薙ぎの剣は、私が頭を振って避けることに慣れれば、動きを予測しやすくなる。もちろん、簡単なことではない。それでも、さっきまでの攻防で、私は男の剣の軌道を少しずつ覚えていた。
剣が頭の上を通り過ぎる。
男の腕が、まだ横へ伸びきっている。
今だ。
私は地面を蹴った。
呼吸を一つする間もなく、男の懐へと身体を滑り込ませる。
右の拳を腰の横へ引く。
逃がさない。
私の目が、男の脇腹を捉える。
ボディーブローの構え。
それを見ていたルークが、目を見開いた。
「……あの構えは」
かつて自分が受けそうになった一撃を思い出す。
「俺の背中を冷やした拳。リリアが試合を決めようとした技」
次の瞬間。
ドスッ!
私の拳が、人族の脇腹に突き刺さった。
「がっ……!?」
男の身体が、くの字に折れ曲がる。
「……ぶふっ」
衝撃で肺の空気が押し出され、男の食いしばった口の端から、胃液とよだれが混ざったものがタラりと垂れる。
私は拳を引き戻す間もなく、次の攻撃へ移る。
くの字になったことで、男の顎が下がっている。
今なら、顔に拳が届く。
そう考えて踏み込もうとした、その時だった。
「ごふっ……正直、なめてたぜ」
男が呟いた。
私は足を止めない。
「俺の魔力装甲を、こんな嬢ちゃんが、エルフ如きが貫くとは思わなかった」
その言葉の意味を理解する前に、男が強引に剣を振るった。
「っ!」
私は咄嗟に身体を引く。
剣が目の前を通り過ぎた。あと半歩遅れていたら、まともに斬られていたかもしれない。
私は半歩だけ後ろへ下がり、拳を構え直す。
一発で終わらないなら、何度でも叩き込めばいい。
私は再び地面を蹴った。
男が横に剣を振るう。私は膝を曲げ、頭を沈める。剣の下をくぐるようにして懐へ潜り込んだ。
ダッキング。
そして、拳を突き上げる。
「おらぁっ!」
ボディーブローが男の腹に突き刺さった。
しかし。
「……っ!」
手応えがおかしい。
さっきとは違う。
硬い。
明らかに、さっきより硬くなっていた。
まるで、鋼鉄の壁を殴っているかのようだった。
転生してすぐ、一角熊を殴った時のことを思い出す。あの時も硬かった。でも、今の男はそれ以上だった。
男は口元を歪めた。
「ふっ。俺の操作できる魔力装甲を甘く見ちゃダメだぜ。怪物エルフ」
魔力装甲。
私は心の中で、その言葉を繰り返した。
(魔力装甲って、なんなの? なんで急に硬くなったの?)
分からない。
魔術なのか、それとも身体を強化しているのか。そもそも、そんなものがあることすら知らなかった。
分かるのは、目の前の男が異様に硬いということだけだ。
それでも、私は拳を止めなかった。
一発。
二発。
三発。
男の横振りをダッキングでかわし、腹へ拳を叩き込む。
だが、何度打っても決定打にならない。
「はぁっ……! はぁっ……!」
息が切れ始める。
それでも、足は止めない。頭を振り、剣を避け、懐へ入り込む。
また拳を叩き込む。
そのたびに、拳に痛みが走った。
男の脇腹は硬すぎた。
皮膚が裂け、拳から血が流れ出す。私の拳は、いつの間にか鮮血に染まっていた。
明らかに、私は苦戦していた。
「魔術を打て!」
その声が戦場に響いた。
アルベルトだった。
エルフの領主であり、ルークとレオンの父親でもある彼は、戦況を見ながら叫んでいた。
「しかし、それではリリアが……!」
他のエルフが困惑した声を上げる。
今、リリアは人族の男と至近距離で戦っている。ここで魔術を撃ち込めば、男だけでなくリリアまで巻き込んでしまう可能性が高かった。
だが、アルベルトは一切ためらわなかった。
「分かっている! そんなことより、人族を殺すことが先決だ! 良いから早く撃ち込め! 人族が死ぬまで撃ち込め!!!」
その言葉に、周囲のエルフたちが動きを止めた。
レオンもまた、目を見開いていた。
「……っ」
視線の先には、血まみれになりながら戦うリリアがいる。
このまま魔術が撃ち込まれれば、彼女まで巻き込まれてしまう。
レオンの顔から血の気が引いた。
それでも、アルベルトの命令は絶対だった。
「早くしろ!」
アルベルトの声が再び響く。
私はそれを聞いても、拳を止めなかった。
ダッキングで剣をかわし、懐へ潜り込む。拳を握り、腹へ叩き込む。
痛い。
苦しい。
息が続かない。
拳から血が流れている。
それでも、私はボクシングをやめなかった。
その時だった。
男の背後の少し離れた先に、一人の男の姿が見えた。
ルークだ。
彼は剣を上段に構えていた。
その構えを見た瞬間、私は思い出した。
私と戦った時の最後。私がルークにボディーブローを放とうとした時も、同じような構えを取っていた。
あの時の私は、腰が浮いて力が抜けてしまった構えだと思っていた。
けれど、今のルークは違った。
口から血を吐きながらも、剣を構えている。
その目には、殺意があった。
そして、私を救おうとする意思があった。
私は、その目を見て理解した。
あの構えは、決して力が抜けた構えなんかじゃない。
ルークは、まだ諦めていない。
なら、私も諦めない。
私はルークを信じた。
なら、私のやるべきことは一つ。
なんとか、彼が剣技を使える隙を作ってみせる。
男の横振りをかわし、懐へ潜り、拳を叩き込む。男が剣を振り戻す時に、頭を沈めて避ける。
しかし、なかなか隙が生まれない。
男は、私の動きに慣れ始めていた。
インファイトに慣れ始めた男が、チラリと構えを取っているルークを見る。
そして一言。
「はっ!どうせ、俺とお前の戦いには誰もついてこれねぇよ!」
男が嘲るように叫ぶ。
次の瞬間、剣の速度が上がった。
「っ!」
今までなら避けられていた剣が、髪をかすめた。
数本の髪が宙を舞う。
さらに一撃。
頬に熱が走った。
切られた。
私はすぐに身体を引いたが、男は追撃してくる。
剣が迫る。
頭を振って避ける。ダッキングでかわす。懐へ潜ろうとする。
けれど、男の剣が私の動きを捉え始めていた。
「本当にゾッとするぜ。もしも、お前の身長が高かったら、お前が魔力装甲を使えたら。そう思うとな」
「くっ……!」
「でも!今のお前にはどっちもねぇ!」
頬から血が流れ落ちる。
一歩間違えれば、死ぬ。
そのことが、はっきりと分かった。
「速く、魔術を撃て!」
アルベルトの怒声が響く。
「あんな娘のことなんてどうでもいい! 全員揃って死にたいのか! 人族を殺したくないのか!」
その言葉を聞いた瞬間、レオンはリリアを見た。そして、ある光景を思い出す。
それは、自分がリリアに本当の髪色を見せた時のこと。
あの時、彼女は自分を責めるレオンに向かって、こう言った。
『レオンは役立たずじゃない。レオンにしかやれないことが絶対にある』
「……僕にしか、できないこと」
レオンは拳を握った。
このままでは、リリアさんが、リリアが死んでしまう。
魔術に巻き込まれて、あの人が死んでしまう。
人族に殺されて、死んでしまう。
そんなのは嫌だった。
リリアが傷つく姿を、これ以上見ていられない。
けれど、自分に何ができるのか。
レオンは戦場を見つめた。
リリアは男の懐に潜り込み、拳を繰り出している。男は剣を振り回し、それを迎え撃っていた。
あの距離で大きな魔術を撃てば、リリアまで巻き込んでしまう。
でも。
僕なら。
「……!」
レオンは顔を上げた。
自分の得意な魔術を思い出す。
無詠唱で放てる、小さな魔術。
威力は弱い。大きな敵を倒すこともできない。
それでも、今なら。
「リリア……!」
レオンは手を伸ばした。
小さな石が、男のこめかみに向かって飛んでいく。
そして。
コツン。
石が、男のこめかみにぶつかった。
「……っ?」
男の顔が、わずかに揺れた。
(魔術を当てられた? 俺のスピードが捉えられたのか?)
男は一瞬、そう考えた。
だが、すぐに違和感に気づく。
(いや、違う……!)
自分の速度が落ちていた。
俺の速度が死んでいた。
いつから?
考えるまでもなかった。
(このエルフの拳を腹に食らった時か……!)
生まれた隙。
ほんの一瞬の隙だった。
しかし、それで十分だった。
男の背後に、ルークが立っていた。
彼は剣を振り上げたまま、男を見据えている。
「死ね」
短い言葉だった。
男は歯を食いしばった。
「舐めんじゃねぇよ!」
男は剣を構える。
(上段からの剣技。縦振りなのが分かりやすすぎんだよ。剣で受け流してやる!)
そう考えた瞬間だった。
男の動きが、一瞬だけ止まった。
強者が見せた思考。ルークに気を取られた刹那の隙。
その隙を、インファイターは見逃さない。
私は踏み込んだ。
右拳を振り抜く。
「うらぁ!」
拳が、男の剣を持つ手を捉えた。
「ぐっ!?」
(コイツ、俺の剣を!?)
衝撃で、男の手から剣が弾き飛ばされる。
カランカランと、剣が音を立てながら地面へ落ちた。
その瞬間、ルークが剣を振り下ろす。
渾身の一撃。
全てを賭けた剣だった。
しかし、男は終わらなかった。
「っ、らぁ!」
男は腕を上げ、ルークの剣を受け止めた。
ガギン!と鈍い音が響く。
剣は男の腕に食い込むことなく、止められていた。
男はルークを見下ろし、煽るように笑った。
「ざんねん。てめぇのその大振り。ガキの拳よりよえぇよ」
ルークは剣を止められたまま、口から血を吐いた。
それでも、彼は笑った。
「……俺のこの剣技は、人族を殺すためのものだ」
男の表情がわずかに変わる。
ルークは続けた。
「死ぬ気で剣を振った。母を殺したお前達を殺すために。でも、俺には才能がない。それは分かっている」
剣を握る腕が震えていた。
もう、力が残っていない。
それでも、ルークは笑みを浮かべた。
「でも良かったよ。お前を殺すための剣技になって」
ルークの身体から力が抜けた。
彼は後ろへ倒れながら、男の腕を指差した。
「魔力、腕に固めちまったな」
男は目を見開いた。
「……っ!?」
ルークの剣を止めるため、魔力装甲を腕に集中させていた。
そのせいで、脇腹の守りが薄くなっていたのだ。
気づいた時には、もう遅かった。
男の視線が下へ向く。
そこには、一人の少女がいた。
腰を落とし、右の拳を引いている。
これまで何度も男の腹を狙ってきた、あの構え。
しかし、今度は違う。
残された力の全てを、拳に込めていた。
「――これで!」
私は地面を蹴った。
「終わりだぁぁぁっ!」
腰を回し、右拳を突き出す。
全てを賭けた拳が、人族の脇腹へと叩き込まれた。
「がっ……!?」
衝撃が、男の身体を突き抜ける。
男の身体がくの字に折れ曲がり、そのまま宙へと浮き上がった。
目を見開いたまま、男の口から息が漏れる。
そして。
人族の男は白目を剥き、地面へと倒れた。




