3話 人族への想い
私は、そっと自分の胸元に手を当てた。
もう、あの頃の身体じゃない。
息をするだけで苦しくなることもない。
少し走ったくらいで、胸が痛くなることもない。
それなのに。
目の前の男の子を見ていると、まるで自分を見ているような気がした。
「ゴホッ、ゴホッ……」
少年は口元を押さえながら、苦しそうに咳き込んだ。
ヴィオラさんがベッドのそばまで歩いていく。
「咳、すごい出てるね。前より酷くなったかい?」
「……うるさい。見れば分かるだろ」
「そうかい。悪いね。まぁ、無理はしない方がいいよ」
ヴィオラさんは少年の様子を確かめるように、少しだけ視線を向けた。
「紹介するよ。こちらはジーノ・バルカ。先日、私に指名手配犯のことを教えたいと依頼した、病気で療養している少年だ」
「……ジーノだ」
少年は短く名乗った。警戒しているのか、こちらをじっと見つめている。
「こっちはリリアとレオン。私の同行者だよ」
私たちは軽く頭を下げた。
「リリアです。よろしくね」
「レオンです。よろしくお願いします」
ジーノは少しだけ私たちを眺めた。
「あんたたちが、指名手配犯を追ってるって人たちか」
「まあ、そうだね」
ヴィオラさんが答えると、ジーノは再び私たちに視線を戻した。
「……どこから来たんだ?」
「えっと、山の方からかな」
「山か。ずいぶん遠いところから来たんだな」
ジーノは興味深そうに私たちを眺めていた。
「無理に話さなくていいよ」
「別に無理なんかしてない。気になっただけだ」
そう言いながらも、少年は小さく咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
なんだか、気になる子だ。
病気で苦しんでいるのに、私たちのことを知ろうとしている。
「早速、指名手配犯のことを話したい」
ジーノが突然、そんなことを言った。
「えっ、知ってるの?」
私が尋ねると、ジーノは少しだけ得意げな顔をした。
「ああ。オレは指名手配犯のことを知ってる」
「本当ですか!?」
レオンが身を乗り出した。
「奴隷市場で聞いたことがある」
「奴隷市場……?」
ヴィオラさんが反応する。
「ああ。病気が分かってから国を追い出されて、その後、奴隷商人に捕まったんだ。そこで商人たちが話しているのを聞いたんだよ」
ジーノは咳を一つ挟みながら話を続けた。
「なんでも、学園都市アルカディアの元四強とかいう女が指名手配されてるらしい。名前は……ミレイユとか言ってたかな」
「ミレイユ・ヴァレンティアだね」
ヴィオラさんが確認する。
「そうそう。そいつだ」
「他には何か知らないのかい?」
「うーん……」
ジーノは腕を組んで考え込んだ。
「知らない」
「知らないのかよ!」
思わず声が出てしまった。
「なんだよ。名前を聞いたって言っただろ」
「いや、ほとんど名前しか知らなかったし……」
「場所が分かっただけでも大収穫だろ」
ジーノは悪びれる様子もなく言った。
どうやら、本当にそれしか知らないらしい。
「まあ、仕方ないさ。少しでも手がかりがあるなら十分だよ」
ヴィオラさんはそう言って、ジーノから視線を外した。
「それより、リリア。彼の病気についても説明しておこうか」
ヴィオラさんの声が少しだけ低くなる。
「ジーノが患っているのは、魔蝕病と呼ばれるものだよ」
「魔蝕病……?」
「今から千年ほど前、勇者とその一味が魔族を弱らせるために作り出したとされる病気さ」
私は思わず息を呑んだ。
「病気を、作ったんですか?」
「そう。魔族を弱らせるためにね。ところが、この病気は人族にも感染する。ジーノも感染を恐れられて、国から追い出されたんだ」
ヴィオラさんはジーノの方を見た。
「しかも厄介なことに、治療法もほとんど確立されていない。治る確率は五パーセントにも満たないと言われている」
「そんな……」
五パーセント未満。
ほとんど治らないということだ。
「まあ、オレはその五パーセントに入るけどな」
ジーノが強気に言った。
「ゴホッ、ゴホッ!」
直後に咳き込む。
「……無理はしない方がいいと言っただろう?」
ヴィオラさんが静かに声をかけると、ジーノは気まずそうに顔を背けた。
「……リリア?」
レオンが私の顔を覗き込む。
私は目の前の少年を見つめていた。
病気で苦しむ姿。
何度も繰り返す咳。
ベッドから自由に動くことさえ難しい身体。
前世の自分と重なって見えた。
「私……」
気づけば、口が動いていた。
「この子の看病をしたいです」
「え?」
ヴィオラさんがこちらを向く。
「お見舞いにも来たい。少しでも元気になってほしいんです」
ジーノは不思議そうに私を見た。
「なんだよ、お前。オレのことが好きなのか?」
「うーん、それはあり得ないかな」
「好きじゃないんかい。だとしたら、意味が分からん」
思わず笑ってしまった。
「でも、治ってほしいとは思ってるよ」
私はジーノの目を見た。
「私が、君を治してみせる」
「……は?」
ジーノはぽかんと口を開けた。
ヴィオラさんも、少し驚いたように私を見ていた。
「リリア、コイツに優しくしたって、アンタに利益なんてないよ」
「そうかもしれません。それでも、何もしないまま諦めたくないんです。私にできることならしたい。見捨てることはしたくないんです」
私はもう一度、ジーノを見た。
前世の私は、病気と闘い続けた。
だからこそ、分かる。
病室で過ごす時間がどれほど長いのか。
誰かがお見舞いに来てくれることが、どれほど嬉しいのか。
今の私にできることがあるなら、やりたい。
「……好きにしな」
ヴィオラさんは小さく笑った。
「ただし、無理はするんじゃないよ」
「はい!」
こうして私は、ジーノのお見舞いを続けることにした。
─────────────────────────
その頃、病院の裏手では、一人の男が建物を見上げていた。
「ここがオラの次の仕事場か……」
男は面倒くさそうにため息をついた。
「はぁ、病院なんて、ろくな場所じゃねぇべ」
そうぼやきながらも、男は周囲を確認していた。
「オラのしたいことは、こんなことじゃねぇのになぁ……」
男は、そう言いながら病院を去っていった。
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翌朝。
「んん……」
私はベッドから身体を起こした。
窓の外から、朝日が差し込んでいる。
隣のベッドでは、レオンがまだ眠っていた。
「レオン、朝だよ」
「……ん。おはようございます、リリア」
レオンは目を擦りながら起き上がる。
私たちは簡単に身支度を済ませ、宿を出た。
まずは朝のランニング。
街の外れまで走り、戻ってきたところでシャドーボクシングを始める。
ジャブ。
ストレート。
フットワーク。
身体の動きを一つずつ確認していく。
前世で何度も繰り返した動きだ。
今世の身体にも、少しずつ馴染んできている。
「ふぅ……」
一通り終えると、私は魔術の練習に移った。
両手を前に突き出し、詠唱する。
「火の精よ、我が呼びかけに応えよ。小さき炎よ、我が手に集い、燃え盛る力を宿せ。炎の塊となりて、我が前に立ちはだかるものを穿て!」
小さな火球が手のひらに生まれる。
私はその火球を前方に放った。
ぽんっ。
相変わらず、魔術は明後日の方向に飛んでいく。
「うーん。やっぱりまだまだだなぁ」
私はそのまま魔力の流れを確認した。
身体の内側を巡る魔力。
それを身体の表面へと広げようとする。
けれど。
「……はぁ」
やっぱり、できない。
何度試しても、魔力は身体の外側に留まってくれなかった。
「はぁ。もっと頑張らなきゃなぁ」
思わずため息が漏れる。
「リリア、お疲れさまです」
レオンが水筒を差し出してくれた。
「ありがとう」
私は水を飲み、軽く息を整えた。
「朝食にしましょうか。今日は少し多めに作りました」
「本当!? やった!」
宿に戻ると、レオンが料理を用意してくれた。
焼いた肉に野菜のスープ。それにパンまである。
「いただきます!」
私は勢いよく食べ始めた。
レオンの料理は美味しい。
身体を動かした後だから、なおさらだ。
「そういえば、今日もギルドに行くんですよね?」
「うん。依頼を受けないとお金もなくなっちゃうしね」
「それじゃあ、食事を済ませたらヴィオラさんと合流しましょうか」
「おっけー」
私たちは食事を済ませ、宿を出る。
その後、すぐにヴィオラさんと合流した。
冒険者ギルドがある街までは少し距離がある。
そのため、依頼を受ける日は三人で修行をしながら街まで戻ることにしていた。
依頼を受ける。
報酬を得る。
そして、奴隷についての情報を集める。
それが、最近の私たちの日課だ。
「そういえば、ヴィオラさん」
街へ向かう途中、レオンが口を開いた。
「以前、リリアを襲おうとした人族はどうなったんですか?」
「ああ、あいつかい?」
ヴィオラさんは肩をすくめた。
「一応、冒険者ギルドには引き渡したよ。ただ、エルフを奴隷にすること自体は犯罪じゃないからねぇ。正直、その後どうなったかは分からないね」
「そんな……」
「まあ、私のデコピンで一発ノックアウトだったし、しばらくは大人しくしてるんじゃないかね」
ヴィオラさんは楽しそうに笑った。
私は、あの男の顔を思い出した。
身体を押さえつけられた感覚。
耳元に近づく息。
あの気持ち悪い感触。
思わず、拳を握りしめる。
「リリア?」
レオンがこちらを見た。
「大丈夫だよ」
私は小さく笑って答えた。
もう、あの時のように何もできないわけじゃない。
今は強くなるために、毎日練習している。
だから、前を向こう。
私は、覚悟を決めて歩き始めた。
それから数週間が経った。
私は毎日のようにジーノの病室を訪れていた。
最初は何を持っていけばいいのか分からなかったけれど、今ではちょっとしたお見舞いの品を用意するようになっていた。
この日も、私は花を持って病院へ向かっていた。
それと、もう一つ。
「これで足りるかな……」
手の中には、小さな袋に入ったリンゴが一つ。
依頼の報酬から少しずつお金を残して買ったものだ。
決して高いものではないけれど、今の私にはこれが精一杯だった。
病室の扉を開ける。
「こんにちは、ジーノ」
「おっ、来たのか!」
ジーノはベッドの上で身体を起こしていた。
「今日は花を持ってきたよ。それと、リンゴも」
「おお! リンゴじゃん!」
ジーノは嬉しそうに目を輝かせた。
「毎日毎日、よく来るな」
「そうかな?」
「ああ。オレのことが好きなのか?」
ジーノはニヤニヤと笑った。
「うーん、それはあり得ないかな」
「またそれかよ!」
私は花を花瓶に入れ、リンゴをテーブルに置いた。
「でも、早く元気になってほしいなー」
「ふーん」
ジーノはリンゴを眺めながら、少しだけ口元を緩めた。
「なあ、リリア」
「なに?」
「オレ、いつになったら元気になるんだろうな」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「大丈夫。きっと良くなるよ」
「本当か?」
「うん」
私はベッドのそばに腰掛けた。
「だって、私が治してみせるって約束したでしょ?」
ジーノは少しだけ笑った。
「そうだったな」
けれど、すぐに咳が出始めた。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
苦しそうに胸元を押さえる。
私は思わず背中に手を添えた。
「大丈夫?」
「……ああ。ちょっと咳が出ただけだ」
私はジーノの顔を見つめた。
この子を助けたい。
それは、前世の自分を重ねているからなのかもしれない。
前世の私は、病気を治すために必死だった。
ボクシングで稼いだファイトマネーを、何度も医者に渡した。
これで治してほしい。
これで少しでも長く生きたい。
そう願っていた。
けれど、ある時。
私が必死に集めたお金を、医者に持ち逃げされた。
病気を治すと言っていた人間に、裏切られた。
あの時の絶望は、今でも忘れられない。
私は、そんな人にはなりたくない。
目の前で苦しんでいる人を見捨てるような人間には。
だから、私はこの子を助けたい。
たとえ、すぐには治せなくても。
「リリア、そろそろ行きましょう」
病室の入り口から、レオンの声が聞こえた。
「うん。分かった」
私は立ち上がった。
「じゃあ、また来るね」
「ああ! 明日もリンゴ持ってこいよ!」
「調子に乗るんじゃない!」
「いいだろ! 病人には優しくするもんだろ!」
私は思わず笑った。
「はいはい。またね」
病室を出る。
そのまま廊下を歩き、病院の外へ向かった。
しばらく歩いたところで、レオンが口を開いた。
「リリア」
「なに?」
「もう、お見舞いに行くのはやめてくれませんか?」
突然の言葉に、私は足を止めた。
「なんで?」
「だって、あいつは人族だからです」
「人族だから?」
私は首を傾げた。
「それって、おかしくない?」
レオンの表情が険しくなる。
「リリアは人族に襲われたんですよ!?」
「私が襲われたのは人族じゃない。あの男に襲われたの」
「なんですか、それ。正論のつもりですか?」
「別に、正論とかじゃ……」
「じゃあ!そんなこと言わないでください!襲われてからじゃ遅いんですよ!」
レオンは私の腕を掴みかけて、途中で手を止めた。
「また同じようなことが起きたらどうするんですか!」
「それは……」
「僕は嫌です。リリアがまた傷つくのは嫌なんです……」
レオンの声は震えていた。
私は彼の顔を見つめた。
彼が心配してくれていることは分かる。
それでも、彼の言葉をそのまま受け入れることはできなかった。
「そうかもしれない。私たちはエルフで、あの子は人族。それは間違いない。種族の壁はあるのかもしれない。それでも、助けないのは違うよ」
私は静かに言った。
「私たちは、人族に虐げられてきたんだと思う。レオンのお母さんだって……」
レオンの表情がわずかに曇った。
「母上を殺したのは、人族です」
「……うん」
「リリアを襲ったのは、人族です」
「……うん」
「僕は、あの人たちを許せません。母上が何をしたっていうんですか。リリアが何をしたっていうんですか。エルフを奴隷にしても犯罪じゃない?本当に馬鹿げてる。リリアも母上も何も悪いことなんてしていなかったのに」
レオンは俯き、拳を握りしめた。
「それなのに、どうして僕たちが人族を許さなきゃいけないんですか?」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
私は何も言えなかった。
レオンが抱えてきたものを、私が簡単に否定していいはずがない。
それでも。
「でも、それでも別の種族同士で傷つけ合っていたら駄目だと思う」
「……言ってることが分かりません」
レオンは視線を逸らした。
「リリアは、何も分かっていません。僕たちがどんな目に遭ってきたのかも、人族がどれだけ酷いことをしてきたのかも」
「それは……」
「僕は人族が嫌いです。できることなら、全部ぶっ倒してやりたい」
レオンは私を見た。
その瞳には、怒りだけではなく、悲しみも浮かんでいた。
「それに、リリアは優しすぎます。誰にでも手を差し伸べようとする。自分がどれだけ危険な目に遭うかも考えずに」
「私は、ただ……」
「分かっています。リリアがお人好しなことぐらい。出来損ないの僕の友達になってくれた。助けてくれた。僕が一番分かってる。それでも、リリアが人族に手を差し伸べるのは受け入れられません」
レオンは一度、言葉を切った。
「僕は、もうリリアが傷つくところを見たくないんです」
その声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
「僕には、もう耐えられません」
私は返す言葉を探した。
彼が私を心配してくれていることは分かる。
でも、ジーノのことを見捨てるわけにもいかない。
「……私も、病気で苦しんでいたことがあるから」
「え?」
「だから、ジーノの気持ちが少しだけ分かるんだと思う。病室で過ごす時間がどれだけ長いのかも、誰かがお見舞いに来てくれることがどれだけ嬉しいのかも」
私はレオンを見つめた。
「私は、あの子のそばにいてあげたい。治せるかどうかは分からないけど、それでも何もしないまま諦めたくないんだ」
「……」
「それに、私たちまで憎しみを返し続けていたら、いつまで経っても何も変わらないと思う」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「リリアは、優しすぎます」
「レオン……」
「僕は、そんなリリアが嫌です」
その言葉に、胸が締めつけられた。
レオンは私から視線を外した。
「……帰りましょう」
それだけ言うと、彼は歩き出した。
私はすぐには動けなかった。
何か言わなければいけない気がした。
でも、何を言えばいいのか分からない。
結局、私は黙ったまま、その背中を追いかけた。
─────────────────────────
病院の廊下。
私たちが出ていった後、少し開いた病室の扉の隙間から、一人の少年がこちらを見ていた。
ジーノだった。
彼は二人の会話を、最初から最後まで聞いていた。
そして、ゆっくりと扉を閉めた。
─────────────────────────
宿に戻ってからも、私たちはほとんど口を開かなかった。
レオンはいつも通り夕食の準備をしてくれた。食事を並べると、私の向かいに座る。
「……いただきます」
「いただきます」
それだけ言って、私たちは黙々と食事を始めた。
以前なら、今日あったことや明日の予定について、レオンの方から話しかけてくれる。私が話せば、彼は穏やかに相槌を打ってくれた。
けれど、今日は違った。
食器の触れ合う音だけが、静かな部屋に響いている。
何か話した方がいい。そう思って何度か口を開きかけたけれど、結局、言葉が出てこなかった。
レオンも私を見ようとはしなかった。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、レオンはすぐに食器を片付け始めた。私も手伝おうと立ち上がったけれど、彼は小さく首を振った。
「僕がやっておきます。リリアは休んでいてください」
「……うん、レオン。ありがと」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
以前なら、二人で並んで片付けていた。そんな何でもない時間が、今はひどく遠く感じられる。
私は椅子に座ったまま、レオンの背中を見つめていた。
謝った方がいいのだろうか。それとも、もう一度きちんと話し合うべきなのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
その夜、私たちは必要なことだけを話し、それ以上は何も言わずに眠りについた。
─────────────────────────
─レオン視点─
リリアと喧嘩してしまった。最悪な日だった。
それでも、最悪な日を体験しても僕は修行を続けた。
何日も、何日も。
魔力装甲の練習。
魔術の練習、後衛としてリリアを支える練習。
僕たちは、いつも通り身体を動かしていた。
そして、修行を終えたらリリアはジーノのお見舞いに行く。僕は嫌な顔をする。彼女は悲しそうな顔をして、僕と一旦別れる。
いつも通り。いつも通り。
そんなある日。
「ちょっといいかい?」
ヴィオラさんが僕に声をかけた。
「え?」
「ちょっとご飯に付き合いなよ」
「ご飯ですか?」
「もちろん私の奢りだ。たまにはいいだろう?」
ヴィオラさんはニヤリと笑った。
僕は少し迷った後、頷いた。
「……分かりました」
僕たちは街の食堂に入った。
ヴィオラさんが適当に料理を注文し、向かい側に僕が座る。
「さてと」
ヴィオラさんは頬杖をついた。
「最近、あんまり話してないじゃん。どうしたんだい?」
僕は少しだけ目を伏せた。
「いや、その……まあ、色々ありまして」
「色々ねぇ。何があったのさ?」
しばらく沈黙が続く。
やがて、僕が口を開いた。
「……リリアが、人族と仲良くしていて。どうしても納得できませんでした」
ヴィオラさんは何も言わずに聞いていた。
「そっか。エルフとしては、人族と仲良くするのは許せないか」
「……はい」
ヴィオラさんは軽く目を閉じた。
「でも、それだけじゃなくて」
僕は続けた。
「ん?」
「リリアが危険なことをするのが、なんか嫌で。理由は分からないんですけど……」
ヴィオラさんは一瞬だけ目を丸くした。
そして、口元を緩める。
「ふふっ。答え出てんじゃん」
「え?」
「リリアが傷つくのが嫌なんでしょ?」
僕は何も答えなかった。
「ならさ、一緒にいてあげな」
「でも、僕は……」
「人族が嫌いって気持ちは、もちろんあると思うよ。アンタたちが虐げられてきた過去がある限り、それは簡単に消えるもんじゃない」
ヴィオラさんはテーブルに肘をついた。
「なんの見返りもないのに、リンゴを買ってお見舞いに行くようなお人好しになる必要もない。ましてや、無理に人族を好きになる必要なんてないさ」
僕は俯いたまま、話を聞いていた。
「でも、もしも人族が嫌いって気持ちより、リリアと一緒にいたいって気持ちの方が大きいなら、一緒にいてあげな」
「……僕は、そんな簡単に割り切れません」
思わず、そう口にしていた。
「母上を殺したのは人族です。リリアだって、人族に襲われた。そんな相手を簡単に受け入れるなんて、僕にはできません」
「そうだね。無理に受け入れる必要なんてないさ」
ヴィオラさんは、いつもの軽い調子を少しだけ消した。
「でもね、レオン。大切な人ってのは、失ってからじゃ遅いんだよ」
「……どういう意味ですか?」
ヴィオラさんは、少し遠くを見るような目をした。
「私にも相棒がいたんだ。前に話しただろう? 最強のエルフって呼ばれていた子さ」
「……はい」
「私は、その子と戦い続けた。戦って、勝ち続けた。私は思ったよ。私は、この子とずーっと一緒に居るんだってね」
「……」
「でも、気付いたら、私は相棒の骸の前に立っていた。何を言っても返事はない。いつもなら、私が何か言えば軽口の一つや二つ返してくる奴だったのにね」
ヴィオラさんの声は、いつもの軽い調子とは違っていた。
「その時になって、ようやく気づいたんだよ。もっと話しておけばよかった。もっと一緒に過ごしておけばよかったってね」
ヴィオラさんは、ゆっくりと目を伏せた。
「今なら、何だってする。自分の命だって、大切なものだって、全部犠牲にしたって構わない。それくらいしてでも、あの子にもう一度会いたいと思ってる」
その言葉には、深い後悔が滲んでいた。
「でも、もう遅いんだ。どれだけ願っても、どれだけ後悔しても、あの子は戻ってこない」
ヴィオラさんは小さく息を吐いた。
「生きているうちは、いつでも話せると思ってたんだ。明日でいい、また今度でいいって。でも、そんな日は来なかった」
僕は黙って、ヴィオラさんの言葉を聞いていた。
「大切な人ってのはね、失ってからじゃ遅いんだよ」
ヴィオラさんは僕を見た。
「私は、その子を失ってから、それを痛いほど思い知った。だから、アンタには同じ後悔をしてほしくないんだよ」
僕は何も言えなかった。
リリアと一緒にいること。
彼女の隣に立つこと。
それが、当たり前に続いていくと思っていたのかもしれない。
けれど、もしも彼女がいなくなったら。
そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「人族を許せなんて言わないよ。アンタが抱えている怒りも、悲しみも、簡単に捨てられるものじゃないだろうさ」
ヴィオラさんは、少しだけ笑った。
「ただ、その憎しみのせいで、今そばにいる大切な人まで失わないでほしいんだ」
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……僕は、リリアが傷つくのが怖いんです」
「うん」
「また、あんな目に遭うんじゃないかって。僕の知らないところで、いなくなってしまうんじゃないかって……」
言葉にして初めて、自分が何を恐れていたのか分かった気がした。
「だから、あいつのところに行ってほしくなかったんです。でも、それじゃ駄目なんですよね」
「さあね。正解なんて私にも分からないよ」
ヴィオラさんは肩をすくめた。
「でも、リリアと一緒にいたいなら、ちゃんと隣にいてあげな。人族を好きになる必要も、今すぐ許す必要もない。ただ、アンタが後悔しないようにね」
僕はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
「よし!」
ヴィオラさんは満足そうに笑った。
「そろそろリリアのお見舞いの時間も終わる頃だ。合流しようか」
僕は小さく頷いた。
僕は、この時知らなかったんだ。
リリアの身に、再び危険が迫っていることを。
─────────────────────────
─リリア視点─
私はいつものように、ジーノの病室を訪れていた。
「こんにちは、ジーノ」
返事がない。
ベッドの上にいるジーノは、窓の外を眺めていた。
「今日はどうしたの?」
私は持ってきた花を花瓶に入れ、テーブルに置いた。
「ジーノ?」
もう一度呼びかける。
すると、ジーノがこちらを向いた。
「……うるさい」
「え?」
思わず聞き返した。
「毎日毎日、来なくていい」
いつもの明るい声ではなかった。
「どうしたの? 具合悪くなった?」
「だから、来るなって言ってるだろ」
ジーノは顔を背けた。
「オレは、エルフなんかに看病もお見舞いもされたくない」
「ジーノ……?」
「この下等生物が」
頭の中が真っ白になった。
どうして?
何か気に障ることをしてしまったのだろうか。
私は何も言えず、俯いた。
その時だった。
ドゴォンッ!!
突然、病室の扉が大きな音を立てて吹き飛んだ。
「っ!?」
私は驚いて振り返る。
「誰!?」
壊れた扉の向こうに立っていたのは、一人の男だった。
その男の顔を見て、私は目を見開いた。
見覚えのある顔。
忘れるはずがない。
そこに居たのは、立っていたのは、以前、私を襲おうとした人族の男だった。
「仕事、するべぇ」
男はジーノを見るなり、つまらなさそうに呟く。
でも、すぐに、男の口元は裂けたかと錯覚するほど大きく歪む。
「おめぇ、おめぇ。なんで、エルフ、奴隷、オラの奴隷、ここに居る。ここに居る!」
身体が強張る。
足が動かない。
あの時の感覚が蘇ってくる。
男はゆっくりと病室に入ってきた。
「オラ、嬉しい。お前、オラの頭にずっと居た」
男は私を見つめながら、舌なめずりをした。
その目には、隠そうともしない欲望が浮かんでいた。
「オラ、人を奴隷にする。そこの人のガキ、奴隷にする。仕事、する」
奴隷にする……?
男はジーノを指差していた。
もしかして、ジーノを捕まえに来たのだろうか。
でも、どうして病院に?
それに、さっきから私を見る目は何なのだろう。
男の視線が、ジーノから私へと移る。
「でも!違う!オラ!本当はお前のこと待ってた!」
男は大きく口を開けて笑った。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
まさか。
この男の狙いは、ジーノだけじゃない。
あの時、私を襲おうとした男。
どうしてここにいるのかは分からない。
仕事で来たと言っていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
男の目は、最初から私を見ていた。
「今度こそ逃がさねぇべ!犯す!孕ませる!!」
「……っ!」
身体が震えた。
怖い。
また、あの時と同じことが起きる。
そう思っただけで、足がすくみそうになる。
それでも。
私はゆっくりと拳を握った。
包帯の隙間から、まだ傷の残る皮膚が見える。
痛みは残っている。
魔力装甲も、まだ使えない。
それでも、私にはこれしかない。
前世から続けてきたもの。
何度倒されても、何度負けても、握り続けてきたもの。
ボクシング。
私は一歩前に出た。
震える身体を抑え、男を睨みつける。
「……もう、好きにはさせない」
拳を構える。
今度は、逃げない。
私は、目の前の男に向かって踏み込んだ。




