4話 覚醒
男が床を蹴った。
巨体が一気に迫ってくる。身長はそこまで高くない。だが、首も肩も腕も異様なほど太く、全身が筋肉で膨れ上がっている。
その身体を覆う魔力装甲からは、肌に突き刺さるような圧力を感じた。
ジーノはベッドの上で息を呑んだ。
勝てるわけがない。
目の前の男がどれほど強いのか。戦いを知らないジーノにさえ、それが分かってしまうほどだった。
けれど、私は男から目を逸らさなかった。
ぎゅっと拳を握りしめる。
指を動かす。手首を回す。拳に残る痛みを確かめる。
まだ握れる。
まだ動く。
大丈夫。
やれる。
私は床を蹴った。
男が拳を振り上げるよりも早く、その懐へ踏み込む。
「っ!」
ドスッ!
脇腹に拳を叩き込む。すぐさま距離を取った。
男の拳が空を切る。
私は足を止めない。男の正面から少しずつ位置をずらし、相手の攻撃が届かない距離を保つ。
男が追ってくる。
その顔面に、もう一発。
パシッ!
当てたら離れる。相手の攻撃が届く前に、また踏み込む。
鮮やかなヒットアンドアウェイ。
最初の一撃を取ったのは、私だった。
「オラのどれいぃ」
男が顔を歪める。私は構わず拳を構え直した。
落ち着け。冷静になれ。
私のボクシングは通用する。
前とは違う。
あのときは、背後から突然抱きつかれた。何をされるのか分からないまま、身体を押さえつけられた。
でも、今は違う。
目の前に相手がいる。動きが見える。拳が飛んでくる方向も分かる。
魔力装甲は使えない。
それでも、私にはボクシングがある。
「ちょこまか動く奴隷は嫌いだべぇ!」
男の拳が振り下ろされる。
私は頭を右へ傾けて躱し、左の拳を顔面へ走らせた。
パシッ!
続けて左のボディ。
ドスッ!
そして、すぐに離れる。
一発ずつは大した威力じゃない。男の魔力装甲を完全に貫くこともできていない。
それでも、確実に当たっていた。
最初は、男も気にしていなかった。頬に拳が触れるたび、鬱陶しそうに顔をしかめるだけだった。
けれど、二発、三発と重なるうちに、その表情が変わっていく。
頬が赤く腫れ、目元にも少しずつ腫れが広がっていた。口の端からは血が滲み、呼吸も荒くなっている。
効いている。
一発で倒せなくてもいい。
何度だって当てればいい。
積み重ねた拳は、決して無駄にはならない。
「っ、だべぇ……!」
男が拳を振るう。
私は頭を傾けて躱し、その脇腹に拳を打ち込んだ。
ドスッ!
すぐに離れる。
男が追いかけようとする。けれど、その足取りは最初よりも明らかに重くなっていた。
当たっている。
確実に、効いている。
男の身体は大きい。魔力装甲も強力だ。それでも、ダメージが消えるわけじゃない。
私は息を整えながら、再び拳を構えた。
「捉え、られない。うっざいべぇ……」
男は苛立ちを露わにした。
狭い病室だ。大きく動き回れる場所なんてない。それなのに、目の前の少女を捕まえられない。
踏み込めば避けられる。拳を振れば、その隙に殴られる。
頬には痛みが残り、目元も少しずつ腫れてきていた。
「絶対に、お前はオラがめちゃくちゃにする!」
男は拳を握り直す。
このままでは、本当に負ける。
どうすればいい。
どうすれば、あの奴隷を捕まえられる。
男は荒い息を吐きながら、狭い病室を見回した。
その視線が、ふと私の左隣で止まる。
ベッドの上。
そこには、身体を起こすこともままならないジーノがいた。
男の動きが止まる。
そして、ゆっくりと口元が歪んだ。
「……あ」
何かを思いついたように、男の顔に笑みが浮かぶ。
「いいこと思いついたべぇ」
男は私から視線を外し、ジーノへと顔を向けた。
嫌な予感がした。
「お前をボコボコにして、人質にするべ!」
「え……?」
ジーノの顔から血の気が引いた。
逃げられない。
身体は病気で弱りきっている。立ち上がることさえ難しい。あんな男に殴られたら、どうなるかなんて考えるまでもなかった。
殺される。
そう思った瞬間、男の拳がジーノへと伸びた。
ドゴォッ!!!
病室に、鈍く重い音が響き渡った。
「――っ!?」
何が起きたのか、一瞬分からなかった。目の前で、男の拳が止まっている。
その拳の先にいたのは、壁でもない、ジーノでもない。他の誰でもない……
私だった。
「がっ……!?」
男の拳が、私のみぞおちに深々とめり込んでいた。
肺から空気が抜ける。声すら出ない。
身体が浮いた。
たった一撃で、足が床から離れるほどの衝撃だった。
「かっ……は……!」
視界が白く弾ける。
遅れて、焼けるような痛みが腹の奥から広がっていく。
どうして、私はここにいるんだろう。
考えるより先に、身体が動いていた。
ジーノを守らなきゃ。
ただ、それだけだった。
「……まだ」
私は震える腕を、ゆっくりと持ち上げた。
両腕を顔の前で交差させる。
その直後、男の拳が飛んできた。
ガンッ!
腕に凄まじい衝撃が走る。
骨の奥まで響くような痛み。腕から、嫌な音が聞こえた。
「っ、ああ!」
ガンッ!
二発目。
ガードの隙間を抜けた拳が頬を打つ。頭が横へ弾かれ、口の中に鉄の味が広がった。
それでも、私は腕を下ろさない。
「おめぇ! 優しいべぇ!」
男の拳が、今度は腹に突き刺さる。
「ぐっ……!」
身体がくの字に折れそうになる。
足が震える。視界がぼやける。もう、自分がどれだけ立っているのかさえ分からない。
膝はガクガクで、生まれたての子鹿みたいだった。
それでも、私は両腕を構え続けた。
背中にはジーノがいる。
私が守らなきゃ。
「奴隷なのに、全然倒れないべぇ!」
男が苛立ったように拳を振り上げる。
私は震える腕の隙間から男を見た。
まだ、拳を握れる。
まだ、立っていられる。
なら、私は退かない。
ボクサーとして。
私は、もう一度拳を構えた。
「なんで……」
背後から声が聞こえた。
「なんで、なんでだよ!」
ジーノだった。
「オレ、お前にあんなこと言ったのに! 下等生物って、悪口まで言ったのに!」
咳き込みながら、ジーノは叫んでいた。
「なんでそこまでするんだよ!」
私は男から目を離さず、震える息を吐いた。
「病気、辛そうだったから」
たった、それだけ。
それ以上の理由なんて、私にはなかった。
男が私を見下ろす。
「お前……しつこいべ」
男は腰に差していた剣を引き抜いた。
「もういいべ。孕ませるのに、腕、いらない。斬ってやる」
刃が光る。
そのまま、男が剣を振り上げた。
その瞬間、私の頭の中に、ある考えが浮かんだ。
死ぬという危機感と共に、流れ込んできた考え。
魔力装甲。
身体の中を巡る魔力を、身体の外側へと纏わせる技術。
ヴィオラさんは、魔力を身体に巡らせることで、肉体そのものを強化すると説明していた。
身体の中を巡るもの。
それなら。
病原菌と、似ているんじゃないだろうか。
前世の私は、病気だった。
身体の中に病原菌が入り込み、全身を蝕んでいく。目に見えない小さな存在が、身体のあちこちに影響を与えていく。
魔力も同じように身体の中を巡っている。
ただ、違うのは効果だけ。
病原菌は身体を弱らせる。魔力は身体を強くする。
それだけの違いなんじゃないだろうか。
認めたくなかった。
病気なんて、大嫌いだった。
苦しかった。痛かった。何度も泣いた。
どうして私だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだって思った。
あの頃の記憶を、何度も呪った。
それなのに。
今、その記憶が私を助けようとしている。
病気だった過去が、今世の役に立つわけない。
ずっと、そう思っていた。
でも、違った。
病気は、私を強くしてくれた。
何度も何度も、自分の身体と向き合ってきた。
小さな異変も、身体の変化も、嫌というほど感じてきた。
だったら、私にだって分かるはずだ。
身体の中を巡る魔力を感じ取ること。
そして、その力を身体の外へと引き出すこと。
咳のように。炎症のように。
身体の内側で起きている変化を、私は知っている。
だったら。
今度は、その力を自分のものにしてみせる。
目の前には、剣を振り上げた男。
考えている時間はない。
私は意識を身体の内側へ向けた。
何も感じない。
どこにある?
胸の奥か。腹の中か。それとも、もっと別の場所なのか。
焦るな。
前世でも、私は何度も自分の身体と向き合ってきた。
だったら、今回だって。
「……見つけた」
身体の奥に、微かな熱を感じた。
胸の奥から、腕へ。腕から指先へ。
血液が流れるように、何かが全身を巡っていく。
それを、私は掴んだ。
薄い光が、私の身体を覆う。
魔力装甲。
まだ弱々しく、頼りない。けれど、確かに私の身体に纏わりついていた。
「魔力を纏ったべ?」
男が剣を構えたまま、口元を歪める。
「でも、意味ねぇべ。そんな薄い魔力じゃ、オラの装甲には届かねぇ!」
私は拳を構えた。
左足を前に出し、右足を少し後ろへ引く。
男の顔が、目の前にある。
「ふふっ。私は、これで充分だと思うけど」
男が剣を振り下ろす。
私は、その動きを見ていた。
肩が動く。
剣が持ち上がる。
遅い。
今の私には、はっきりと見える。
左足を踏み込む。
シュッ!
左の拳が、男の顔面を捉えた。
その瞬間、左拳から鳴ったのは、地雷を踏み抜いたかのような爆発音。
ゴンッ!
「がっ!?」
男の顔が跳ね上がった。
鮮血が散る。
ただのジャブ。
たった一発。
けれど、その一発で男の膝がガクガクと震え始めた。
「べっ! ……べ?」
二発目。
シュッ!
ゴンッ!
三発目。
シュッ!
ゴンッ!
男が剣を振り上げようとする。
けれど、その動きが始まるよりも早く、私の左拳が飛んでいた。
シュッ! シュッ! シュッ!
顔面を狙う。
一発、二発、三発。
男の頭が何度も揺れる。血が飛び散り、目元が腫れ上がっていく。
それでも、私は左拳を止めない。
右手は使わない。
ただ左だけ。
最短の軌道で、何度も何度も拳を突き出す。
ジャブは、相手を倒すためだけのパンチじゃない。
相手との距離を測る。動きを止める。次の攻撃へ繋げる。
そして、相手に何もさせないためのパンチでもある。
男の剣が、私に届かない。
振り上げる前に、顔を打たれる。
一歩踏み込もうとすれば、またジャブが飛んでくる。
「な、なんでっ!」
男の目が見開かれる。
「オラの魔力装甲が、拳如きに……!」
薄い魔力装甲。
それでも、私の身体は確かに強くなっていた。
今まで積み重ねてきたボクシングの技術。その一つ一つに、魔力が加わっていく。
速く。
鋭く。
正確に。
魔力は薄くていい。
それだけあれば、私のボクシングはコイツを超える。
私は左拳を引き戻す。
そして、また打ち込む。
シュッ!
ゴンッ!
男の顔が揺れる。
シュッ!
ゴンッ!
剣を握る腕が止まる。
シュッ!
ゴンッ!
もう、男には何もさせない。
これが私の武器。
これが、私の積み重ねてきたもの。
これが、私のボクシング。
左拳が、何度も男の顔を、顎を打ち抜く。
「オラ……」
男の身体が、ぐらりと揺れた。
顔は血に染まり、目元は大きく腫れ上がっている。
それでも、男は剣を握りしめていた。
「コイツと……奴隷と……」
一歩、踏み出そうとする。
けれど、足が動かない。
私は左拳を構えたまま、男を見据えていた。
男の目が、私の拳に向けられる。
振り払おうとしても、間に合わない。
剣を振ろうとしても、間に合わない。
一歩近づこうとしても、また殴られる。
何もできない。
「……勝負にすら、なってねぇ?」
男の声が震えた。
そうだ。
もう、勝負は終わっていた。
男の足が止まる。
剣を握る腕も、もう上がらない。
私は左拳を構えたまま、一歩だけ踏み込んだ。
これで終わり。
シュッ!
最後のジャブが、男の顔面を捉える。
ゴンッ!!!
「ぶはっ!」
男の頭が大きく跳ね上がった。
握っていた剣が、指先から滑り落ちる。
カラン。
その音が病室に響いた。
男は何かを言おうとした。
けれど、声は出なかった。
巨体がゆっくりと傾く。
そして。
ドサッ。
男は床に倒れ込んだ。
もう、動かなかった。
私は拳を下ろした。
左手だけで、倒した。
魔力装甲を纏った強者を、ジャブだけで。
世界には、こんな言葉がある。
『左を制する者は世界を制す』
私はまだ、その意味を本当の意味では理解していない。
それでも、この一戦で確かに証明した。
私の左拳は、魔力装甲を纏った強者にも届く。
そして、私は勝った。
私のボクシングで。
「リリア!」
病室の入り口から、声が響いた。
振り返ると、レオンが息を切らして立っていた。
その後ろにはヴィオラさんもいる。
「レオン……」
私は彼に笑いかけようとした。
けれど、頬が痛くてうまく笑えなかった。
「ごめんね。あんなに心配してくれたのに、怪我しちゃって」
レオンは何も言わず、私の身体を強く抱きしめた。
「本当ですよ……」
声が震えていた。
「リリア、本当に、本当に心配したんですから」
レオンの腕に力がこもる。
「本当に、生きてて……良かった」
私は彼の背中に、そっと手を回した。
「うん。ごめんね」
その光景を、ヴィオラさんは黙って見つめていた。
そして、床に倒れた男と、傷だらけになった私の拳を見比べる。
「……まさか、ここまでとはね」
小さく笑った。
リリア。
アンタは、まだ自分の可能性を分かっていない。
魔力装甲を覚えたばかり。それも、まだ薄く纏える程度。
それなのに、あの男を倒した。
技術だけじゃない。
あの状況で、最後まで拳を握り続けた精神力。
そして、拳という魔力の概念を度外視にする圧倒的な破壊力。
この子は、絶対になる。
私の想像を超える存在に。
リリア。
このインファイターは、必ず世界最強の前衛になる。
ヴィオラは、確信していた。
一方、ベッドの上ではジーノが呆然と私を見つめていた。
「リリア。なんで、なんでそこまでするんだよ……」
目を見開いたまま、言葉を失っている。
やがて、その目から一筋の涙がこぼれた。
目の前で起きたことが信じられないのか。それとも、自分を守ってくれた私の姿に何かを感じたのか。
ジーノ自身にも、まだ分からなかった。
ただ、彼は初めて思った。
このエルフは、本当に自分を助けようとしてくれていたのかもしれない、と。




