ちょっとした優しさ
優しさって、待ってても来ない。
誰かのために何かをするとき、それはいつも「仕方ないから」という顔をしている。不機嫌そうで、ぶつぶつ文句を言いながら、それでも手は動いている。
次の問題は、どうやって帰るかだ。
京介はタクシーアプリを開いた。自宅まで四千八百円前後だった。
来た時よりも千円近く高い。
彼は画面をスワイプしてアプリを閉じ、スマホをポケットに突っ込んだ。
「地下鉄で帰る」
「うん」
春庭雪は、彼が言い終わるより先に返事をした。
文句ひとつない。
「先に何か食べるか、帰ってからデリバリーにするか」京介は聞いた。
「帰ってからにしよう」
「なんで」
「外で食べてたら、途中で逃げ出してお店に置いてかれそうで」
言いながら自分で笑っている。
まるで面白い仮説でも語るように。
京介は笑わずに、真顔で返した。
「置いていくなら、さっきのコンビニで置いていった」
「じゃあもう置いていかないってこと?」
「行くぞ」
「改札、後ろついていくから」
駅に向かって歩いた。
夕方のラッシュアワーの駅入口に向かって、人の流れが途切れない。
春庭雪は自然と近づいてきた。
肩が彼の腕にほとんど触れる距離。
「人多いから、はぐれると困るし」
「俺についてきてれば大丈夫だ」
入場、改札。
春庭雪は子犬のように後ろをぴったりとついてくる。
彼が止まれば、彼女もぴたりと足を止める。
京介は自分のICカードを春庭雪に貸して、自分はスマホでタッチした。
改札が「ピッ」と鳴って開く。
彼女が通り抜けた瞬間、京介はさっさとカードを回収した。
なくされると困るから、出口で返す、と言って。
ホームにはすでに何列も人が積み重なっていた。
地下鉄が滑り込んでくる時の風で、春庭雪の前髪がふわっと舞い上がった。
「んっ」と小声を出して、彼女は手でそっと押さえた。
ドアが開くと、まだ降りる人も残っているのに、外の人が中に向かって流れ込んでいく。
京介は人の波に押されながら前進して、振り返って春庭雪を探した。
彼女は学生らしき二人に挟まれて、こっちに向かって少しずつ押し分けているところだった。
「こっち来い」
手を伸ばした。
春庭雪も、当然のように手を差し出してきた。
(そういうつもりじゃない)
京介は一瞬焦って、手首をつかんだ。
強く引けなくて、でも優しく引いた。
それでも春庭雪は「うん」と嬉しそうに声を出して、手首を引かれる力に素直に乗っかって、彼の隣に寄り添ってきた。
車内は人が密集していて、吊り革にも届かない。
足の裏で踏ん張るしかない。
京介は縦棒を片手で掴んで、もう片方の手で彼女の手首をまだ持っていた。
春庭雪は押されて顔が彼の肩口に埋もれそうになっていて、抱えているぬいぐるみは変形してしまっていて、片目がずれた。
「そんなに強く掴まなくていいよ、手首折れそう」
「じゃあ自分で掴む場所を見つけろ」
春庭雪はその言葉を聞いた瞬間、さっさと今度は逆に京介の手首を掴んだ。
彼より力強く。
仕返しをする子供みたいに。
乗換駅でドアが開いた途端、外からの人の流れがさらに激しくなった。
春庭雪がどんと押され、手が離れかけた。
京介はほぼ反射的に手を伸ばして、背中に腕を回して、引き戻した。
「ちゃんと立ってろ」
春庭雪は彼の肩にほぼ貼り付いていた。
二人の間に隙間がほとんどない。
彼女は小さく「うん」とだけ言って、大人しくなった。
京介は仕方なく天井を見上げて、何も起きていないふりをした。
車内の雑音。
アナウンス。
車輪が線路を削る甲高い音。
そのすき間に、彼女がとても小さく笑う気配がした。
降りた時には、二人ともかなり揉みくちゃになっていた。
京介は彼女から手を離して、一言言った。
「夕ラッシュに乗るのは二度とやめよう」
春庭雪は凹んだぬいぐるみをもみほぐして、それから京介のちいかわも同じように揉んでやった。
出口を出ると、道沿いに香港式の茶餐廳があった。
入り口に新メニューのポスターが貼ってあって、値段は都心よりだいぶ安い。
「ここで先に食べよう。帰ってからデリバリーより楽だ」
「じゃあ食費を使い果たしちゃうよ」
言いながら、前を見ずに扉を押し開けようとして、危うくガラスに激突しそうになった。
注文を終えて、向かい合って座った。
京介はチキンカツ丼の大盛りとレモンスカッシュ。
春庭雪はチキンレッグ丼と、アイスチョコレートドリンク。
「冷たいもの飲めるのか」京介が聞いた。
「なんで飲めないの」
「別に」
(まあ、女が冷たいものを飲んじゃいけない時期があることくらいは知っている。たぶん今はその時期じゃないんだろう)
春庭雪はストローでグラスの氷をかき混ぜた。
からからと涼しい音がする。
「昔も夜に冷たいもの飲むの好きだったのに。飲むなって言うんだもん。胃に悪いって」
「その昔って何だよ」
彼女はにんまりしながら大きくひとくち吸った。
ごくごくという音がする。
京介はそれ以上追及せずに、下を向いて食べ始めた。
本当に腹が減っていた。
昼からずっと動き回って、胃がぺしゃんこだ。
丼に汁がかかっていて、何口かでほぼ半分消えた。
箸が茶碗の底をこする「さっさっ」という音がする。
春庭雪はその様子を見ていて、思わず口を開いた。
「食べるの早いね」
「腹減ってるから」
「足りる? 私のあげようか」
彼女は自分のチキンレッグを彼の方に少し押してきた。
京介は顔を上げて、一度見た。
「自分で食べろ」
「食べきれない」
「食べきれなかったら持ち帰り」
「冷めたらおいしくないよ。チキンレッグって絶対熱いうちに食べた方がいいじゃん」
彼女はあごを手に乗せて小首をかしげ、わざと甘ったるい声を作った。
「食べてよぅ。もうお腹いっぱいなんだもん」
京介は乗らなかった。
下を向いて飯を食い続けた。
頭の中に余計な考えが浮かんでくる。
(俺たちは本当のカップルでもないのに、なんで相手の食べ残しを食わなきゃいけないんだ。そういうのは親密すぎる。俺の許容範囲を超えている。)
(だが、違う。もし彼女が詐欺師で、タダ飯と宿を狙っているなら、自分の分は死に物狂いで死守するはずだ。鶏肉を相手に差し出すなんて、どういうつもりだ?)
(詐欺師という生き物は、肉を他人に譲ったりはしないはずだ。)
その考えが少し頭に引っかかってイライラした。
(詐欺師だったら話が早かった。金を払えば解決する。詐欺師じゃないとしたら、彼女が言ったあのわけのわからない話を、また最初から考え直さないといけない。そんなの嫌だ)
(それに、一粒の米にも農家の人たちの苦労が詰まっていると子どもの頃から教えられてきた。無駄にするのは恥ずべきことだ。ましてやこれは肉である)
——だが結局、彼は手を出さなかった。
本当に食べないと分かって、春庭雪はチキンレッグを引き戻した。
京介がレモンスカッシュをごくごく飲む頃には、彼女も自分の分を全部食べ終えていた。
「食べきれないって言ってたのに」
「あなたが食べるかと思ったから残してただけだよ」
京介はなんか上手く丸め込まれた気がしたが、何とも確認のしようがないので追及しなかった。
店を出ると、空は完全に暗くなっていた。
「タピオカ飲みたい」
春庭雪の唐突な一言に、京介はついていけなかった。
「頭の中タピオカしかないのか。さっきチョコドリンク飲んだじゃないか」
「買ってくれなかったから」
「金がないのが悪い」
「お金ないもん。すっからかんだから、私にはあんたしかいないの」
京介は天を仰いだ。
(また始まった、あの新手の美人局か)
だが、俺はその手には乗らない。
何も返さずに、一人で歩き出した。
春庭雪は素直についてきて、歩きながら不意に服の袖を引っ張った。
「まだ何だよ、買わないぞ」
「スーパー行こう」
「スーパーで何する」
「買い物。冷蔵庫空っぽだったし、明日ご飯作ってあげる」
「食材買うには金がいる」京介は言った。
「デリバリーより安い」
「皿洗いが面倒だ」
「私が洗う」
「じゃあ料理して皿洗いして掃除して、俺は何をすればいい」
「食べる担当」
京介は黙った。
(そのトレードオフ、悪くないかもしれない)
でも一人の生活費を余計に出すのは馬鹿にならない。
家事ができるからって頭が冷めていいわけがない。
(これってパパ活かヒモを養ってるようなもんか? 噂にでもなったら俺の人生オワタな)まあ、そんな大層な話でもないか)
まあ、そういう話でもないか。
「少なめに、安いやつを」と彼は言った。
「うん」
近くのスーパーはそれほど大きくなくて、この時間になると客もまばらだった。
カートを出すほどでもないと思って、かごを一つ手に取ってそのまま入った。
「卵もう一パック買おう。朝、目玉焼き作るから」
「前のがまだある」
「じゃあハムは? ハムエッグ作れるし」
「じゃがいもがいい。日持ちするし、千切り炒めもできる」
それを聞いて、彼女はじゃがいもの袋を手に取って、また先に進んだ。
京介はかごを持って後ろをついていく。
冷蔵コーナーで、春庭雪はスライスした牛肉のパックを手に取って、値段タグを見て、静かに棚に戻した。
鶏むね肉に持ち替える。こっちの方が安い。
にこっと振り返って、何か言おうとした瞬間、京介の買い物かごに危うくぶつかった。
「かご近づけないで」
「急に止まったのはそっちだ」
「後ろにいるなんて知らなかった」
「俺に払わせるくせに、なんでそんな偉そうなんだよ」
「どうせあんたの胃袋に入るんだから同じでしょ」
狭い棚の間で言い合っていたら、補充作業中のスタッフのおばさんがカートを押しながら横を通り過ぎた。
一瞥して、何も言わずに行ってしまった。
京介はそれを目の端で捉えて、怒る気にもなれなかった。
(まあいい、ホームレスを数日拾ってやって、ボランティアでもしてるんだと言い聞かせよう)
レジに来ると、かごの中はそれなりの量になっていた。
いつの間にか紛れ込んでいた牛乳のパックが一本ある。
「これ俺が入れてないぞ」
「私が入れた」
「誰が入れていいと言った」
「半額シールついてて、今日が期限だったから。明日からまた定価に戻るよ」
京介は値段タグを確認した。
(まあ、いいか)
(詐欺師が百円の牛乳のためにそこまで主張するだろうか)
(するとしたら、随分細かいところまで演じてるな)
レジのスタッフがバーコードを読み取っている間、春庭雪はそばに立っていた。
京介は何か取り出すのかと思ったが、彼女は抱えていたぬいぐるみを片方の手に持ち替えて、空いた手で袋に野菜を詰めはじめた。
自分では何ひとつ買えない。
でもこれは自分が選んだ食材だから、袋に詰めるのは自分の役目みたいに。
スーパーを出ると、京介は片手に買い物袋、もう片方の手にちいかわを持っていた。
袋に突っ込みたかったが、春庭雪が「潰れる」と言って阻止した。
帰ったらテレビ台に飾ると言っている。
「今日、疲れた?」春庭雪が聞いた。
「疲れた」
「疲れたなら早く歩けば」
「疲れてるから早く歩けないんだろ」
「早く帰ればソファで横になれる。私もお風呂入りたいし」
「そういうのは俺に言うな」
「着替えがない」
彼女の声は軽かった。
この半日の出来事が、何もなかったかのように。
午後、コンビニの前に立っていた時の顔とは、まるで別人みたいだ。
京介は横目で見て、自分には古いTシャツがある、最悪洗って乾かせばいいと言った。
そのまましばらく黙って歩いた。
「今日いくら使ったか、計算したか」と彼は唐突に言った。
「こういう時にお金の話をするもんじゃない」
「だったら食べていけないぞ」
「朝ご飯作るから、一食ずつ返す」
春庭雪は買い物袋をひょいと持ち上げた。
言い切った。
京介は小さく鼻で笑った。
「いいだろう。まずかったら出て行け」
「じゃあずっといられるじゃん」
彼女はまた歌を鼻歌で歌いはじめた。
音程がどこまでも外れている。
何の歌かは分からないが、「登って登っていつかは飛べる」みたいな歌詞が混じっている。
かたつむりか何かの歌だろうか。
アパートの下に着いた時、ふと気がついた。
この半日、まともなことを何も一つやっていない。
ぜんぶ彼女に付き合っていただけだ。
タクシー代、夕飯、クレーンゲーム、スーパーの食材、地下鉄のICカード。
全部合わせたら、一週間分の食費。
大赤字だ。
でも。
明日は朝ごはんがある。
それと期限ぎりぎりの牛乳が一本。
計算しながら、急に手が止まった。
(俺、何を計算してるんだ)
(見知らぬ女と暮らすことのコストとリターンを、真剣に計算してる自分がいる)
(いつからこいつを勘定に入れるようになった)
京介はちいかわの顔を思いきりぎゅっと握った。
やばい。
【第七章・終】
そういう小さなことを、優しさと呼べるなら。
今夜は、少しだけ優しかった。




