↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/8

泊まり

じゃあノーパンで

「ガチャッ」とバスルームのドアが開いた。


湿った空気が、安っぽいボディソープの香りと一緒にあふれ出てきた。


春庭雪は裸足でリビングの床に立っていた。


歩くたびに、フローリングにペタペタと濡れた足跡がついた。


彼女は下を見て、少し申し訳なさそうにして、入り口のスリッパを適当に履いた。


着ているのは京介が渡した服だ。


バスルームに入る前、彼は衣装ケースをしばらくごそごそ漁って、結局グレーがかった青の古いTシャツと、暗い色のスウェットパンツを投げてよこした。


その時、彼女が下着はどうするのかと聞くと、京介はしどろもどろになって「コンビニに買いに行く」と言った。


「もういいや、ノーパンで」


彼はそれきり黙った。


今、彼女は彼の古いTシャツを着ていた。


首元が洗いすぎて伸びていて、裾は太ももを覆っている。


袖が一サイズ分長くて、手を引っ込めると指先だけがひょこっと出てくる。


大人の服を着た子供みたいだ。


何度も洗われた生地が、柔らかく肌に貼り付く。


彼女は襟をつかみ、そこに鼻先を埋めて、そっと息を吸い込んだ。


洗剤の匂い。


それから、ほんのかすかに、彼の匂い。




バスルームの入り口の小さな鏡に映してみた。


Tシャツが肩から滑り落ちて、片側の鎖骨が出ている。


襟を引っ張り上げて、また離した。


大きくてだぼだぼで、まさに彼シャツだ。


(彼氏の服)


そう思った瞬間、彼女は笑った。

でも、笑っているうちに、ゆっくりと目を伏せた。


初めて彼シャツを着たのに、そういう関係じゃない。




彼女は頭を振って、その考えを追い払った。


ソファの前まで歩いてきて、腰を下ろした。


そのまま動かなくなった。




京介がようやく振り返って、一瞥した。


濡れた髪から、大きすぎるTシャツへ。


そしてすぐに画面に目を戻した。


「服……サイズ、大丈夫か」


「どう思う」


「大きい」


「これを彼シャツって言うんだよ」


「アホか」


彼は振り向くのすら躊躇っているようだった。


春庭雪はそれを指摘せずに、両脚もソファに引き上げて、あぐらをかいた。




聞きたいことはたくさんあった。


なんでエアコンをこんなに低い温度にするのか。


夜中に動画を編集してて腹が空かないのか。


このTシャツはよく着ていたのか。


自分がこれを着ているのを見た時の、あの一瞬の表情は何だったのか。


やりたいことはもっとたくさんあった。


後ろから抱きしめたかった。


うなじに顔を埋めたかった。


冷えた手を彼の手のひらに押し込みたかった。


眠そうな声で「うるさい」と言われたかった。


ゲームしている肩に寄りかかって眠って、起こされたかった。


でも今はまだ、その時じゃない。




京介が椅子から立ち上がって、テレビ台の引き出しを引いた。


背中を向けたまま中を探している。


片方の肩が上がっていて、動作がどこかぎこちない。


「これ、使えよ」


振り返った手に、未開封の歯ブラシと、四つ折りにした薄いグレーのタオルが乗っていた。


タオルは新品で、タグがまだついている。


さらに台所から紙コップを持ってきて、ローテーブルに置いた。


「コップは俺のしかないから、これを使ってくれ。歯ブラシとタオルは新品、使ってない。」


「うん」


受け取った。


「ありがとう」


「気にしなくていい。使い終わったら……捨てなくていいから、持っていっても」


言い終えて、彼は背を向けてパソコンの前に戻った。


春庭雪はタオルを持ったまま、しばらく止まっていた。


ずっと昔のことを思い出した。ホテルに泊まるたび、あの人はいつも自分のタオルをクローゼットから引き抜いてキャリーケースに詰めていた。どうしてと聞くと、ホテルのタオルは何人が使ったかわからないから清潔じゃない、と答えた。大げさだね、と彼女が笑ったのを、今でも覚えている。


洗面台に来て、紙コップを端に置いた。


彼の紺色の陶器のコップと並んで立った。


コップのふちには、薄い水垢が一周残っている。


紙コップは軽く、頼りなく立っていて、いつでも捨てられそうだった。


歯を磨く手がゆっくりだった。


うわの空で、歯磨き粉の泡が口の端からちょっとはみ出た。


顔を上げて、鏡を見た。


大きなグレーのTシャツを着て、湿った髪が頬に貼り付いて、口の周りに白い泡。


彼女は鏡に向かって、わざとおどけた変顔を作ってみせた。




リビングからキーボードの音がした。


途切れ途切れに。


動画の編集か、ゲームか。


邪魔しなかった。


歯を磨き終えて、彼がくれたタオルで顔を拭いた。


タオル掛けに干した。


もともとそこには濃い色のタオルが一枚かかっていて、彼女のタオルは隣に、少しくっつくくらいの距離で並んだ。


わざとみたいに。


そっとリビングに戻ってソファに座り、古いスマホを手に取った。


慣れないから早寝はできなくて、しばらくショート動画とゲームをぼんやり見た。


でも実のところ、全然集中していなかった。


時々、視線がパソコンデスクの方に漂った。


彼はそれに気づいているようで、背中が少し強張っていた。


でも一度も振り返らなかった。


彼女は小さく息をついて、膝に顔を乗せて、横向きに彼の背中を眺めた。




夜の十一時を過ぎた頃。


春庭雪は三回目のあくびをした。


スマホをローテーブルの端に置いて、目をこすった。


「寝る」


「ん」


パソコンデスクの方から短く返ってきた。


毛布を顎まで引っ張り上げた。


ソファの長さはまあまあだったが、寝返りを打つと何かが落ちそうだ。


身を縮めて、転落しない範囲で安全な位置に収まった。




目を閉じると、キーボードの音がやけにはっきり聞こえた。


薄い鉄板に雨粒が落ちるみたいな音。


意識がぼんやりしてきた頃に、「ガタガタ」という音で目が覚めた。


目を開けると、京介がダイニングから木の椅子を運んできているところだった。


ソファの外側にぴったりつけて、膝で押さえて固定した。さらに軽く揺すって、がたつかないことを確認した。


それからパソコンの椅子をソファの反対側に移動させた。


かがんで高さを一番低く調整して、ソファのクッションとほぼ同じ高さにした。


二脚の椅子が、ソファを両側から挟み込んでいた。まるで頼りない番兵のように。


「何してるの」眠そうな声で聞いた。


「夜中に転がり落ちるかもしれないから。これで柵代わり。手も置けるし」


春庭雪は少し固まった。


余計なことをするなと言いたかった。


どうせならベッドの半分をくれればいいのにとも言いたかった。


お人好しのくせにケチで、冷たいふりしてやたらと世話焼きなんだから。

でも何も言えなかった。


喉の奥が、何かにそっと塞がれた感じがした。


鼻の奥がじんとした。


目をぱちぱちさせて、涙を落とさないようにして、首をすくめて、毛布をもう少し引き上げた。


「早く寝てね」声が少しくぐもった。


「分かった。この高さで大丈夫か」


「大丈夫」




京介は洗面所に向かった。


春庭雪は目を閉じた。


真っ暗な視野の中で、耳だけが冴えわたった。


水の音がする。

歯を磨いている。


その瞬間、脳裏にふっと映像が浮かんだ。いくつかの記憶がフラッシュバックする。まるで夢のような光景。


具体的な時間も場所も分からない、感触と匂いと音だけの記憶。


日付を消された古い写真みたいで、前後のつながりもない。




夜だった。


うとうとしている中で、何かの音がドアの外でした。


怖くて、隣で寝ている人を揺り起こした。


熟睡していた彼は、起こされてぼんやりした顔をした。


「誰かノックしてる」小声で言った。


「え?」


「見てきて」


彼は目をこすりながら裸足でベッドから這い出て、ふらふらとドアに向かって、ドアスコープから外を見た。


「誰もいない」


「でも音がしたよ」


「空耳じゃないの」


あくびをしながらも、部屋の椅子を持ってきてドアノブの下に引っかけた。


ドアチェーンと補助錠も確認してから、のろのろとベッドに戻ってきた。


「これでよし、か?」


安心させるために、彼は彼女を腕の中に引き寄せて、あごを頭の上に乗せた。


「大丈夫。俺がいるから」


あの声がこんなに近かった。


さっき言われたばかりみたいに、近かった。


春庭雪はぱっと目を開けた。


真っ暗な天井。


窓の外の街灯が、リビングに薄い灰色の光を落としているだけ。


涙がひとりでに落ちた。


顔を毛布に埋めて、肩が小さく揺れた。


毛布が全部の音を飲み込んだ。


鼻をすするのも、目をこするのも、怖くてできなかった。


以前なら、つらいことがあれば、あの人の胸に飛び込めばよかった。


甘えても、大声で泣いても、「よしよし」と頭をなでてもらえた。


今、その人は同じ部屋に、三メートルも離れていないところにいる。


なのに一人で、毛布の中に隠れて、声を殺して泣くしかない。


涙が染み込んで、枕が冷たく湿っていった。


京介が部屋を通り過ぎた時、春庭雪はぐっと息をつめて、顔を毛布に押し込んだ。


数秒経って、ベッドに上がる音がした。


「おやすみ」


声がくぐもっていた。


鼻声で、少しかすれていた。


部屋が静かになった。


布団が揺れる音がした。


「……おやすみ」


春庭雪は動かなかった。

聞き間違いかもしれないと思った。

それでも止められず、また一粒、涙がこぼれ落ちた。




【第八章・終】

知っているのに、近づけない人。

それはきっと、恋愛よりもずっと難しい距離だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。