泊まり
じゃあノーパンで
「ガチャッ」とバスルームのドアが開いた。
湿った空気が、安っぽいボディソープの香りと一緒にあふれ出てきた。
春庭雪は裸足でリビングの床に立っていた。
歩くたびに、フローリングにペタペタと濡れた足跡がついた。
彼女は下を見て、少し申し訳なさそうにして、入り口のスリッパを適当に履いた。
着ているのは京介が渡した服だ。
バスルームに入る前、彼は衣装ケースをしばらくごそごそ漁って、結局グレーがかった青の古いTシャツと、暗い色のスウェットパンツを投げてよこした。
その時、彼女が下着はどうするのかと聞くと、京介はしどろもどろになって「コンビニに買いに行く」と言った。
「もういいや、ノーパンで」
彼はそれきり黙った。
今、彼女は彼の古いTシャツを着ていた。
首元が洗いすぎて伸びていて、裾は太ももを覆っている。
袖が一サイズ分長くて、手を引っ込めると指先だけがひょこっと出てくる。
大人の服を着た子供みたいだ。
何度も洗われた生地が、柔らかく肌に貼り付く。
彼女は襟をつかみ、そこに鼻先を埋めて、そっと息を吸い込んだ。
洗剤の匂い。
それから、ほんのかすかに、彼の匂い。
バスルームの入り口の小さな鏡に映してみた。
Tシャツが肩から滑り落ちて、片側の鎖骨が出ている。
襟を引っ張り上げて、また離した。
大きくてだぼだぼで、まさに彼シャツだ。
(彼氏の服)
そう思った瞬間、彼女は笑った。
でも、笑っているうちに、ゆっくりと目を伏せた。
初めて彼シャツを着たのに、そういう関係じゃない。
彼女は頭を振って、その考えを追い払った。
ソファの前まで歩いてきて、腰を下ろした。
そのまま動かなくなった。
京介がようやく振り返って、一瞥した。
濡れた髪から、大きすぎるTシャツへ。
そしてすぐに画面に目を戻した。
「服……サイズ、大丈夫か」
「どう思う」
「大きい」
「これを彼シャツって言うんだよ」
「アホか」
彼は振り向くのすら躊躇っているようだった。
春庭雪はそれを指摘せずに、両脚もソファに引き上げて、あぐらをかいた。
聞きたいことはたくさんあった。
なんでエアコンをこんなに低い温度にするのか。
夜中に動画を編集してて腹が空かないのか。
このTシャツはよく着ていたのか。
自分がこれを着ているのを見た時の、あの一瞬の表情は何だったのか。
やりたいことはもっとたくさんあった。
後ろから抱きしめたかった。
うなじに顔を埋めたかった。
冷えた手を彼の手のひらに押し込みたかった。
眠そうな声で「うるさい」と言われたかった。
ゲームしている肩に寄りかかって眠って、起こされたかった。
でも今はまだ、その時じゃない。
京介が椅子から立ち上がって、テレビ台の引き出しを引いた。
背中を向けたまま中を探している。
片方の肩が上がっていて、動作がどこかぎこちない。
「これ、使えよ」
振り返った手に、未開封の歯ブラシと、四つ折りにした薄いグレーのタオルが乗っていた。
タオルは新品で、タグがまだついている。
さらに台所から紙コップを持ってきて、ローテーブルに置いた。
「コップは俺のしかないから、これを使ってくれ。歯ブラシとタオルは新品、使ってない。」
「うん」
受け取った。
「ありがとう」
「気にしなくていい。使い終わったら……捨てなくていいから、持っていっても」
言い終えて、彼は背を向けてパソコンの前に戻った。
春庭雪はタオルを持ったまま、しばらく止まっていた。
ずっと昔のことを思い出した。ホテルに泊まるたび、あの人はいつも自分のタオルをクローゼットから引き抜いてキャリーケースに詰めていた。どうしてと聞くと、ホテルのタオルは何人が使ったかわからないから清潔じゃない、と答えた。大げさだね、と彼女が笑ったのを、今でも覚えている。
洗面台に来て、紙コップを端に置いた。
彼の紺色の陶器のコップと並んで立った。
コップのふちには、薄い水垢が一周残っている。
紙コップは軽く、頼りなく立っていて、いつでも捨てられそうだった。
歯を磨く手がゆっくりだった。
うわの空で、歯磨き粉の泡が口の端からちょっとはみ出た。
顔を上げて、鏡を見た。
大きなグレーのTシャツを着て、湿った髪が頬に貼り付いて、口の周りに白い泡。
彼女は鏡に向かって、わざとおどけた変顔を作ってみせた。
リビングからキーボードの音がした。
途切れ途切れに。
動画の編集か、ゲームか。
邪魔しなかった。
歯を磨き終えて、彼がくれたタオルで顔を拭いた。
タオル掛けに干した。
もともとそこには濃い色のタオルが一枚かかっていて、彼女のタオルは隣に、少しくっつくくらいの距離で並んだ。
わざとみたいに。
そっとリビングに戻ってソファに座り、古いスマホを手に取った。
慣れないから早寝はできなくて、しばらくショート動画とゲームをぼんやり見た。
でも実のところ、全然集中していなかった。
時々、視線がパソコンデスクの方に漂った。
彼はそれに気づいているようで、背中が少し強張っていた。
でも一度も振り返らなかった。
彼女は小さく息をついて、膝に顔を乗せて、横向きに彼の背中を眺めた。
夜の十一時を過ぎた頃。
春庭雪は三回目のあくびをした。
スマホをローテーブルの端に置いて、目をこすった。
「寝る」
「ん」
パソコンデスクの方から短く返ってきた。
毛布を顎まで引っ張り上げた。
ソファの長さはまあまあだったが、寝返りを打つと何かが落ちそうだ。
身を縮めて、転落しない範囲で安全な位置に収まった。
目を閉じると、キーボードの音がやけにはっきり聞こえた。
薄い鉄板に雨粒が落ちるみたいな音。
意識がぼんやりしてきた頃に、「ガタガタ」という音で目が覚めた。
目を開けると、京介がダイニングから木の椅子を運んできているところだった。
ソファの外側にぴったりつけて、膝で押さえて固定した。さらに軽く揺すって、がたつかないことを確認した。
それからパソコンの椅子をソファの反対側に移動させた。
かがんで高さを一番低く調整して、ソファのクッションとほぼ同じ高さにした。
二脚の椅子が、ソファを両側から挟み込んでいた。まるで頼りない番兵のように。
「何してるの」眠そうな声で聞いた。
「夜中に転がり落ちるかもしれないから。これで柵代わり。手も置けるし」
春庭雪は少し固まった。
余計なことをするなと言いたかった。
どうせならベッドの半分をくれればいいのにとも言いたかった。
お人好しのくせにケチで、冷たいふりしてやたらと世話焼きなんだから。
でも何も言えなかった。
喉の奥が、何かにそっと塞がれた感じがした。
鼻の奥がじんとした。
目をぱちぱちさせて、涙を落とさないようにして、首をすくめて、毛布をもう少し引き上げた。
「早く寝てね」声が少しくぐもった。
「分かった。この高さで大丈夫か」
「大丈夫」
京介は洗面所に向かった。
春庭雪は目を閉じた。
真っ暗な視野の中で、耳だけが冴えわたった。
水の音がする。
歯を磨いている。
その瞬間、脳裏にふっと映像が浮かんだ。いくつかの記憶がフラッシュバックする。まるで夢のような光景。
具体的な時間も場所も分からない、感触と匂いと音だけの記憶。
日付を消された古い写真みたいで、前後のつながりもない。
夜だった。
うとうとしている中で、何かの音がドアの外でした。
怖くて、隣で寝ている人を揺り起こした。
熟睡していた彼は、起こされてぼんやりした顔をした。
「誰かノックしてる」小声で言った。
「え?」
「見てきて」
彼は目をこすりながら裸足でベッドから這い出て、ふらふらとドアに向かって、ドアスコープから外を見た。
「誰もいない」
「でも音がしたよ」
「空耳じゃないの」
あくびをしながらも、部屋の椅子を持ってきてドアノブの下に引っかけた。
ドアチェーンと補助錠も確認してから、のろのろとベッドに戻ってきた。
「これでよし、か?」
安心させるために、彼は彼女を腕の中に引き寄せて、あごを頭の上に乗せた。
「大丈夫。俺がいるから」
あの声がこんなに近かった。
さっき言われたばかりみたいに、近かった。
春庭雪はぱっと目を開けた。
真っ暗な天井。
窓の外の街灯が、リビングに薄い灰色の光を落としているだけ。
涙がひとりでに落ちた。
顔を毛布に埋めて、肩が小さく揺れた。
毛布が全部の音を飲み込んだ。
鼻をすするのも、目をこするのも、怖くてできなかった。
以前なら、つらいことがあれば、あの人の胸に飛び込めばよかった。
甘えても、大声で泣いても、「よしよし」と頭をなでてもらえた。
今、その人は同じ部屋に、三メートルも離れていないところにいる。
なのに一人で、毛布の中に隠れて、声を殺して泣くしかない。
涙が染み込んで、枕が冷たく湿っていった。
京介が部屋を通り過ぎた時、春庭雪はぐっと息をつめて、顔を毛布に押し込んだ。
数秒経って、ベッドに上がる音がした。
「おやすみ」
声がくぐもっていた。
鼻声で、少しかすれていた。
部屋が静かになった。
布団が揺れる音がした。
「……おやすみ」
春庭雪は動かなかった。
聞き間違いかもしれないと思った。
それでも止められず、また一粒、涙がこぼれ落ちた。
【第八章・終】
知っているのに、近づけない人。
それはきっと、恋愛よりもずっと難しい距離だ。




