消えた家
記憶というものは、時に残酷なほど鮮明に人を欺く。
あるはずの場所が消え去り、帰るべき扉がアスファルトと無機質なガラスに変わっていた時、人はどこへ向かえばいいのだろうか。
車が路地の手前で止まった。
「ナビはここまでですね。この先は車で入れないので」
京介はナビを確認した。
あと四、五百メートルだ。
(まあいいか。歩けない距離じゃない)
彼はドアを開けて降りた。
反対側から春庭雪が降りてくる。
彼女は前方の路地の入り口を見上げて、その場に立ったまま動かなかった。
「行くぞ」
「うん」と返して、彼女は歩き出した。
彼女は半歩ほど距離を空けて、彼の後ろを歩いた。
数十歩歩いたところで、彼女の足がゆっくりと遅くなった。
「また何だ」
「別に」
団地に入ると、両側に黄みがかった古い集合住宅が並んでいた。
ベランダにはランニングシャツやシーツが干してある。
何軒かのエアコンの室外機が、したたかに水を滴らせていた。
「この辺で合ってるか?」京介は歩きながら聞いた。
「うん」
「どのくらい先?」
「着いたら分かる」
もう少し歩いたところで、彼女が突然足を止めた。
「京介」
「何だよ」
春庭雪は黙った。
視線を落として、自分の靴の先をじっと見つめた。
「そんなに追い出したいの?」
声は喉の奥から絞り出したみたいで、それでも彼にははっきり聞こえた。
「そうだ」と言えばいいだけなのに、その一言がどうしても出てこなかった。
「……先に行こう」
京介はまた歩き出した。
今度は少しだけ歩幅を落とした。
彼女はゆっくりとついてきた。
力のない小動物みたいに。
「結局、私、必要とされてないってことじゃん」
「俺、こういう会話が苦手なんだよ」
京介は誤魔化すようにスマホを取り出した。
「得意なことは?」
「一人でいること」
「もう少し温かみのあるもの、得意にならないの?」
それから角を曲がった。
路地の突き当たりに、小さな空き地があった。
そこに一軒のコンビニが建っていた。
京介は立ち止まった。
地図アプリを開いて、もう一度確認する。
住所は合っている。
メモに書いてあったものと一字一句変わらない。
(古いマンションがあるはずだと思っていた。五階か六階建てで、クリーム色の外壁に、錆びた手すり。いかにも古いマンションって感じのやつだ)
でも古いマンションはなかった。
あるのはファミリーマートだけだ。
京介は春庭雪の方を見た。
春庭雪は彼の隣に立って、そのコンビニをじっと見ていた。
表情は奇妙なほど穏やかだった。
「ここで合ってるか?」
「うん」
「家は?」
「なくなったんだと思う」
声は静かだった。
でも言葉の端っこに、自分に言い聞かせているような力が滲んでいた。
「最初から分かってた」
「何が」
「ないって分かってた」
「なら何で来たんだよ」
「あなたが信じないと思って」
それ以上何も言わず、彼女はコンビニの方へ歩いて行った。
京介は少しその場に立っていたが、結局ついていった。
レジカウンターの後ろに五十代くらいのおばさんが立っていて、宝くじのポスターを貼っていた。
「いらっしゃいませ」
振り返りもせずに言う。
「すみません、ちょっと聞いてもいいですか」
「はい?」
おばさんは振り返って、男女の顔を交互に見た。
「ここ、前はマンションじゃなかったですか?」
「あー、あのマンションはもう老朽化で何年も前に取り壊されたよ。もう住める状態じゃなかったからね。住民みんな出ていって、今はここ、コンビニに貸してるの」
「引っ越した方って、この近くにまだいますか?」
「何人かはいるよ。田中さんって人が、裏の団地に住んでてね。よくうちにタバコ買いに来るし、たまに話もするよ。でもどの棟かまでは知らないなあ」
「ありがとうございます」
春庭雪は水を一本買おうとしたが、財布は空だ。
京介の方を見もせず、そのままコンビニを出た。
京介は一人残された形になって、ここまで用意していた言葉を全部飲み込んだ。
「家があるって言ってたじゃないか」とか、「どう見てもコンビニだろ」とか、「よくできた話だな」とか。
そういう台詞が一言も出てこなかった。
彼女が聞いた時、あまりにも自然だった。
自分が動画を撮っている時よりずっと自然だった。
おばさんの答えも、あまりにも自然だった。
事前に打ち合わせして自分に見せるために演じているとは、どうしても思えなかった。
(俺、何が起きてるのか分からなくなってきた)
「京介、まだ聞く?」
まるで心を読んだみたいに、春庭雪が外から声をかけてきた。
「裏の団地の人に聞いてくる」
彼は管理棟に向かって歩いた。
途中で立ち止まった。
(誰に聞く? どう聞く? 入り口で警備員に「田中さんを探してます、何棟かは分からない、フルネームも知らない、前にここが建つ前のマンションに住んでたってことしか知らない」って言うのか?)
(絶対に変な目で見られる。「あなたは田中さんの何ですか」「何のご用ですか」って聞き返されたら、一言目も出てこない)
そう考えると、首の後ろがじわりと張ってきた。
前に進めない。かといって引き返すのも悔しい。
管理棟の前で三十秒くらい立ち尽くして、京介は春庭雪の横に戻った。
「で、どうする」
「どうするって?」
春庭雪はきょとんとした顔で彼を見た。
脈絡のない一言に、何を聞かれているのか分からないようだった。
この先どこに行くのか、まだ探すのか、引き返すのか。
全部か、何もないのか。
京介は彼女のその表情を見て、ようやく状況が飲み込めてきた。
金もない。スマホもない。身分証もない。
記憶の中の家は、コンビニになっていた。
これが演技なら、演技がうますぎる。
もし演技じゃないなら。
(……幽霊でも見てるのか、俺は)
「この辺が地元なんだろ」
彼の声には、無理して作ったような不服そうな響きが混じっていた。
「だったら案内しろよ。散歩くらいできるだろ」
「この辺、別に何もないよ」
「お前が家はここだって言ったんだろ」
「家があるのと観光スポットがあるのは別の話だよ、本当に何もない」
言い返された。
京介は言葉に詰まった。
「じゃあどこに行きたい」
春庭雪は大通りの方向をちらっと見た。
「ショッピングモールある。UFOキャッチャーしない?」
「また俺の金使う気か」
「私にお金があったらおごるのに」
彼女は悪びれる様子は微塵もない。
京介はため息をついた。
(新手の美人局か何かに引っかかったのかもしれないが、こっちとしては微塵も承認欲求が満たされてないし、癒やされてもいないぞ)
「行こう。案内しろ」
「うん!」
一瞬で足取りが軽くなった。
電源が入り直したみたいに。
京介は後ろからついて行って、スマホで時間を確認した。
午後二時半。
(夜、どうするんだろ)
そう思いながら黙って歩いた。
ショッピングモールは団地から一本道を渡った先で、歩いて二十分ほどだった。
春庭雪は七曲がり八曲がりして、両側に屋台が並ぶ小路を抜けていった。
焼き鳥の脂の香りとタピオカの甘い匂いが混ざっている。
彼女は急がず、ときどき路面店のショーウィンドウに引き寄せられて、ガラス越しにしばらく眺めて、何も言わずまた歩き出す。
タピオカ屋の前で、明らかに歩みが遅くなった。京介は見て見ぬふりをした。
「飲みたい」
我慢できなかったらしい。
「飲まない」
「喉渇いた」
「さっきコンビニで水買わなかったくせに」
「ケチ」
「あんたがそれを言う?」
春庭雪は口をとがらせて、それ以上ねだるのをやめた。
モールの三階のUFOキャッチャーコーナーに着くと、数十台のUFOキャッチャーが二列に並んでいて、子ども向けのBGMが流れていた。
ガラスの向こうにぬいぐるみが山積みされている。
平日の午後で人は少なく、隅のほうで女子高生らしき二人組がきゃあきゃあ言っているだけだ。
「いくら両替する?」
春庭雪は両替機の前に立った。
京介は財布から千円札を取り出した。
「千円でいいだろ」
「うん」
彼が紙幣を機械に入れると、しばらくして百円玉がじゃらじゃらと落ちてきて、小さなトレーに積み上がった。
春庭雪はごく自然な動作でそれを両手で受け取って、数えもせずに半分を京介の手に乗せた。
「何だよこれ」
「あなたの分。欲しいのがあれば取って、なければ持っといて。私のがなくなったら補充してもらう」
「最初からやる気ないんだけど」
「何回か見てたら、やりたくなるよきっと」
春庭雪はピンクの筐体の前に陣取った。
三回連続で、クレーンがぬいぐるみを掴んだ瞬間にすぽんと外れた。
京介は隣の柱に背中を預けて腕を組んだ。
五、六枚と消えていくのに、景品は出口まで少し近づいただけだ。
(見てても仕方ない)
彼は端の台に歩いて行った。
中のぬいぐるみは全部小さめで、ちびっちゃいドラゴン、タコ、あとは斜めに積み重なっているピカチュウがいくつか。
手に持った百円玉を見て、どうせ来たんだしと思った。
でも最初の二回は春庭雪と同じで、掴んだと思ったらすぐ落ちた。
三回目でやっと引っかかったと思ったら、出口のガラス壁にぶつかって逆戻りした。
(こうなったら意地だ)
そのまま連戦を続けた。
百円玉を半分近く使った頃、手のひらより小さいピカチュウが出口からころんと転がり出てきた。
顔に間の抜けた笑みを浮かべている。
京介はふっと口元が緩んだ。
取れた。でも自分では要らない。
春庭雪の横に行って、惜しげもなく差し出した。
「やる」
春庭雪は振り返って一瞥した。
彼女は、なんとも微妙な顔をした。
「……ブッサ」
「……いらないなら返せ」
「自分で持ってれば」
気づいたら彼女は既にぬいぐるみを一体抱えていた。
ちいかわだ。
それから残っていた百円玉を全部投入して、ガラスの向こうの一体を狙いに行った。
耳が長くて、くたっとしているウサギだ。
「前にもすごくおっきいやつ、取ったことあるんだ。ベッドの頭に置いてた」
「いいから集中しろ」
何度か試して、最後の二枚の時にクレーンがしっかり掴んで、落とし口に収まった。
「やった」
彼女はしゃがんで取り出した。
左手にウサギ、右手にちいかわ。
少しも迷わず、ちいかわを京介に差し出した。
「あげる」
京介は何かの暗示かどうか考えた。
「なんで」
「別に。二個あるから一個あげる」
「俺の金で取ったくせに恩着せがましいな」
「いる? いらない?」
京介は黙って受け取った。
春庭雪が一瞬にっこりした。
ようやく一勝取れたみたいな顔だ。
「帰ろっか」
モールを出た時、空はまだ明るかった。
京介は左手にぬいぐるみをぶら下げて、右手でスマホを確認した。
五時半。夕飯の時間だ。
そう思ったら、昨夜からずっと頭の片隅にあった問題が浮かび上がってきた。
彼は二歩早足で追いついて、自分から切り出した。
「なあ」
「ん?」
「今夜どうする」
「京介の家に行く」
「そうじゃなくて……女が一人、俺の部屋に。男一人女一人だぞ」
「別に怖くないよ」
「俺が怖いんだよ」
あまりにも迷いのない返し方だったので、春庭雪は一瞬きょとんとして、それから「ぷっ」と吹き出した。
「何が怖いの。食べたりしないよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
「だから……いや、いい」
彼は頭を掻いて、歩幅を広げた。
こういう距離感ゼロの人間は、マジで対応に困る。
春庭雪は小走りで追いついて、横から顔をのぞいた。
「今夜はソファで寝る」
「じゃあ何だ、ベッドで寝る気だったのかよ」
「入れてくれてもいいじゃん」
「断る。お前がベッドなら俺はどこで寝るんだよ」
「ケチ」
二人は並んで夕暮れの商店街を歩いていた。
春庭雪の手にはウサギのぬいぐるみ。
京介の手にはちいかわ。
どちらも何も言わなかった。
ただ歩いた。
夕陽が長い影を二本、アスファルトの上に引いていた。
【第六章・終】
帰る場所をなくした少女と、一人の空間を愛していた青年。二人の奇妙な同居生活はここからが本番となる。彼らの不器用な歩みがどこへ向かうのか、引き続き見守っていただければこの上ない喜びだ。




