スクリーンの中の「亡き妻」
スマホは何台か持ってる。古いやつも含めて三台。現役は連絡用。
「彼女いる?」
京介は一瞬固まった。
(なんで急にそんなこと聞くんだ)
彼は顔を逸らして、指が無意識にメガネを押し上げた。
「いない」
言ってから後悔した。
(なんで突然家に押し入ってきた見知らぬ女に真面目に答えてんだ俺は)
春庭雪は「ふーん」と相槌を打ち、笑みをこらえきれなかった。
「それはよかった」
「よかったって何が。あんたには関係ない」
京介はスマホをポケットに突っ込んで、振り返ってパソコンデスクに歩いて行って座り、彼女に背を向けた。
「俺今用事があるから、そっちで勝手にしてろ」
「何の用事?」
「プライベートな用事」
「さっきも言ってた」
「知ってて聞くな」
彼はパソコンを起動して、ヘッドフォンを着けた。
わざと音量を上げて、物理的に会話の可能性を遮断した。
背後からソファの「ギシ」という音がした。
それからごそごそという音がする。
彼は三十秒我慢して、それでも振り返って一瞥した。
春庭雪は彼がソファに雑然と投げておいた服を整理して畳んでいた。
「触るな」
「散らかってる」
「俺の物だ」
「捨ててないでしょ」
京介は反論しようとしたが、誰かが片付けてくれるのも悪くないと思い直した。
親でも来たら「豚小屋みたい」と一言余分に言われるところだ。
彼は自分の作業に戻って、編集ソフトを開いて、続きを始めた。
スクリーンの中で、過去の自分が向かいの空席に向かって話しかけている。
編集はわりと順調に進んだ。
途中まで来たところで、背中に妙な感覚を覚えた。
誰かに見られている感覚。
振り返らなくても誰だか分かる。
「後ろに立つなよ」
「見てるの」
「何を」
「画面」
京介の手が震えて、alt+Tabで光速でウィンドウを切り替えた。
「動画編集してるの?」
「そう、どいて」
「昨日のランチの時の?」
「関係ないだろ」
春庭雪はその問いに答えなかった。
彼女は少し目を細め、さらに顔を近づけて、あごが彼の肩に乗りそうになった。
京介は横にずれた。
椅子の脚が床を削る短い「ギッ」という音がした。
「ちょっと、距離感ってものがあるだろ?」
彼女はすっと体を起こして、画面を指差した。
「存在しない人に向かって話しかけてるんだね」
「動画を撮ってるんだよ」
「分かってる」
彼女は少し理解できない様子で。
「誰に見せるの?」
京介は答えなかった。
素早くalt+Tabを押して、春庭雪の前に真っ白なデスクトップだけを残した。
壁紙は二次元の女の子、胸が大きい。
「関係ない」
「三回目だよ今」
「大事なことなので三回言いました」
春庭雪は怒らなかった。
彼女は腰を曲げて肘を机の端に乗せ、視線を画面から彼の顔に移した。
「ちょっと見るだけ、私も暇だし」
「それでもダメだ」
「なんで?」
「なぜなら……」
(なぜならって何でだよ、意味わかんない女)
でも言葉が出てこなくて、立ち上がって椅子を後ろに引いて、画面を遮るしかなかった。
「ダメって言ったらダメなんだ」
春庭雪は何も言わず、黙って離れた。
京介は改めて座り直して、忙しそうなふりをした。
リビングはとても静かだった。
彼女がいないみたいに静かだった。
その後の一時間、京介はずっとあの何本かの動画と格闘していた。
全然進まない。
素材はちゃんとある。字幕入れて色調整すれば投稿できるのに、何度もタイムラインを引っ張って、どこかおかしい気がしてならない。
(たぶん後ろが静かすぎるせいだ)
振り返ると、春庭雪が本を手に取ってぱらぱらとめくっていた。
引き出しの中にある、大学の頃に買って積んでいた文庫本だ。
ずっとテレビ台の下で埃をかぶっていたやつ。
それから本への興味を失って、床にしゃがんでSwitchのコントローラーを調べはじめた。
そのコントローラーはスティックのカバーが磨り減っていて、左スティックに少しドリフトがある。
彼女はそれを手に取って、ボタンをいくつか押した。
コントローラーは反応しない。
本体に繋いでいないから。
「電池切れてる?」
「壊れてるやつ」
「あ、そう」
彼女は壊れたコントローラーを戻して、それからどすんと床に座り込んだ。
京介は大きな子供が家に来たみたいだと思った。
「ソファ座れよ」
「床が涼しい」
京介はそれ以上何も言わず、椅子を回してパソコンに向き直ったが、急に編集する気がなくなった。
ブラウザを開いていくつかのページをぼんやりと流し見して、スマホゲームを開いてスタミナを回収した。
(一時間以上座ってたし、そろそろ動いてもいいか)
データを保存してソフトを閉じ、スマホを手に取った。床に座り込む彼女を避けながら水を汲みに行き。
それからTikTakのクリエイターツールを開いた。
アカウントのトップページには最新動画の下書きが掛かっていて、タイトルはまだ書いていない。
下にスクロールして、自分の過去の投稿を流し見した。
再生数は数万から十数万まちまち。
サムネイルはほとんどが空席、ふたり分のごはん、傘、タピオカのカップ。
モノクロのフィルターで統一されていて、BGMはどれも少し物悲しいピアノ曲。
自分でも嘘くさいと思う。
でもコメント欄の人たちはそう思っていなかった。
「ゆっくり前向いてね」
「俺の嫁も抹茶好きだったよ。動画見て思い出した」
「お兄さん、奥さんは絶対天国で見守ってくれてるよ」
京介は一件ずつ読み進めながら、顔に表情がなかった。
こういうコメントはもうとっくに何も感じなくなっていた。
ソファの反対側が突然沈んだ。
「ちょ――」
京介は右に大きくのけぞった、スマホが手から落ちそうになった。
春庭雪はいつの間にか床からソファに移っていて、横を向いて近づいてきていた。
あごが彼の肩に乗りそうだ。
視線は彼のスマホの画面に向いている。
「近すぎだって! 猫か何かか? なんでそんな静かなんだよ!」
彼は素早くスマホの画面を消して、左に体を傾け、背中をソファの肘掛けにつけた。
姿勢は完全に追い詰められた猫だ。
春庭雪は引かなかった。
「見えた」
「何が見えた」
「"亡き妻"」
「……」
「あなたにも亡き妻がいる。私も亡き妻。ということは――」
「偶然だ」
その返しを聞いても、彼女は顔の笑みを隠しきれなかった。
(何かが巡り合わせてくれた気がする。答えは合理的じゃないかもしれないけど、十分すぎるくらい満足)
京介はそんなに深く考えていなくて、ただこの女が勝手に都合よく解釈しているとしか思わなかった。
眉を寄せて聞く。
「どこまで見えた」
「亡き妻がどんな顔か見える前に、もうスマホ引っ込めてた」
「じゃあ見なくていい」
「ケチ」
京介はスマホを裏返してテーブルに伏せた。
「ご飯作るね」
春庭雪が言った。
声のトーンが少し弾んでいて、京介にはその理由が分からなかった。
「食材ないって言ってたじゃないか」
「あれで十分だよ。行っていいよ」
そう言いながら彼女は冷蔵庫を開けて、ベーコンとラップに包まれた肉の塊を取り出した。
肉はレンガみたいに凍っていた。
彼女は指で「コンコン」と叩いた。
その迷いのない動きに、京介は立ち尽くした。
「デリバリーを頼もうと思ってたんだけど……」
「役に立たないと、追い出されちゃうと思って、じゃあ、まずは胃袋を掴んだ方がいいかなって」
「俺の食材だぞ」京介はぼそっと言った。
「あなたのあなたの。結局あなたのお腹に入るんだし」
京介はしばらく彼女を見ていた。
あの手慣れた様子なら台所を爆発させることもなさそうだと判断して、視線を落としてスマホの動画を流し始めた。
しばらくして火を止める音がして、彼女が皿を二枚持ってダイニングテーブルに出してきた。
大きい方が京介の分、小さい方が自分の分。
目玉焼き、ステーキ、ベーコン。
それぞれ綺麗に盛り付けられていて、それなりの腕前だ。
特に目玉焼きは醤油がかかっていて、二個が丸々ご飯の上に乗っている。
京介が好きな作り方だ。
彼女は箸を持たず、京介がスプーンを手に取って何口かがつがつ食べるのを見ていた。
「おいしい?」
「……悪くない」
春庭雪は「ちっ」と舌打ちして、表情が一気に崩れた。
「"おいしい"って言えないの?」
「"悪くない"は"悪くない"じゃないか」
「"悪くない"は六十点。"おいしい"は八十点。全然違うよ」
「俺の"悪くない"は七十五点はある」
「褒めてほしいんだけど」
京介はその言葉に一瞬固まって、春庭雪をじっと見た。
(……褒めてほしいって)
彼が黙っていると、春庭雪はそれ以上押さず、下を向いて自分のご飯を食べはじめた。
「まあいいか。次に言ってもらえれば」
「次?」
彼女はその「次」には答えなかった。
昼食の後、京介は春庭雪にソファで寝るよう言った。
「二台目のベッドはない。客間もない。部屋は一つしかなくて、ソファが唯一人が寝られる場所だ。そこで寝ろ」
彼は寝室から古い布団を抱えてきて、ソファに放り投げた。
春庭雪はそれを受け取って、ぶるっと広げて、自分に巻き付けた。
案外すんなりその寝床を受け入れた。
「京介くん」
「何だよ」
「スマホ借りてもいい」
「ダメ」
「ないから借りたいんだけど」
「スマホないんじゃなかったっけ」
「だから借りたいの」
「貸さない」
「ケチ」
その図太い様子を見て、京介は朝からずっと電子機器に触れていないのも確かに……まあ、気の毒だとは思った。
彼は古い引き出しを漁って、機種変更後に捨てていなかったスマホを二台見つけた。
一番古い、画面にひびが入っているやつを取り出した。SIMは抜いてあるが、バッテリーはまだ生きている。
「SNSは開くな」
「うん」
「PayPayも触るな」
「うん」
「写真も漁るな」
「きびしいな」
「あとゲームもある。FGOとかウマ娘とか、暇つぶしに」
スマホを放り投げると、春庭雪は正確に受け取った。
「パスワード」
「ゼロが六個」
「テキトーすぎでしょ」
「使うなら使う、使わないなら返して」
「もう開いた」
春庭雪はロック画面を解除して、ちらっと彼を見た。
「誕生日じゃないんだね」
「は? 誕生日って何の」
「あなたの誕生日」
京介は返事をしなかった。
(今使ってる方のスマホのパスワード、本当に自分の誕生日なんだよな)
「あまり漁るなよ」
「分かってる、うるさいな」
春庭雪はソファに横になって、両手でスマホを持ち上げた。
手慣れた様子でアプリストアを開いて、TikTakをインストールした。
ログインはせず、ゲストモードでトップページに入り、検索欄を開いて、さっきちらっと見えたキーワードをいくつか入力した。
検索結果に、フォロワーはさほど多くないがプロフィール欄が長いアカウントが出てきた。
アイコンは二次元のペア画だ。
ユーザー名は「京介と雪」。
プロフィールには大学時代の先輩、映画研究会、小さな出版社勤務、病気で他界、写真なし、と書いてある。
彼女は下にスクロールして、動画リストをタップした。
数百本の動画が時系列順に並んでいる。
最初の一本は一年以上前だ。
彼女はそれをタップして、音量を絞って、スマホを耳に近づけて聞いた。
その動画の中で、京介は一人でコンビニに入って抹茶ラテを二杯買っていた。
片方をそばに置いて、ストローを挿して、だいたい十秒ほど撮った。
言葉もない、BGMもない。
ただコンビニの入り口の「ピンポン」という音だけ。
それから彼は自分のカップを手に取って、隣のカップにそっと当てた。
「ラテで乾杯」
声はとても小さくて、春庭雪は音量を最大にしてやっと聞こえるくらいだった。
そのまま彼女は、一本、また一本と動画をスワイプしていった。
数百本、一本も飛ばさずに。
(私、あの人より年下だから、先輩じゃないはずなのに)
(それに抹茶のあのエグい苦さ、あまり好きじゃないし)
さっきまでの笑顔が少しずつ彼女の顔から消えていった。
彼女は寝返りを打って、スマホを枕の横に置いた。
午後、目を覚ました春庭雪はソファから起き上がった。
髪が寝乱れていて、目の下に薄いくまが滲んでいる。
窓際に京介が立っているのが見えた。
「行くぞ」
京介が言った。
「どこに」
「送ってく」
「ここ以外に場所ないんだけど」
「ここじゃない」
彼は振り返らずに言った。
「昨日言ってた住所。親の家。戻れ。俺が送る」
昼の時間を共に過ごし、特に同じ部屋に異性が寝ているのを見て、京介は夜になったら面倒なことになると実感したのだ。
「着いたら降りろ。お前が家に入るのを俺が確認する。家族と会う。無事なのを確認する。それから俺は帰る。これで終わりだ」
春庭雪は目がまだ寝起きのうるんだままで、誰かを見る時に妙にやわらかい。
「居座ると思って怖いの?」
「怖くない」
「嘘」
「お前が夜にお風呂入って着替えがないと、もっと面倒だから」
春庭雪は指で前髪をかき上げて、口をとがらせた。
「じゃあお風呂入らなければいい」
「ダメだ」
「じゃあお風呂のこと考えてるんじゃん」
京介はこの話題を続けるのはよくないと判断した。
「靴履いて、行くぞ」
春庭雪は「はーい」と一声。
「写真撮っていい? 来た証拠に」
「いらない」
「後で忘れるよ」
春庭雪は、いかにもしょんぼりとした様子でそう言った。
「忘れないぞ。お前に俺のメシを食われて、何千円もむしり取られて、家のソファで昼寝されたんだぞ」
しかし、京介の身も蓋もない言葉がすべての感傷を一刀両断にした。
「それでも十分だね」
春庭雪は少し考えて。
その言葉を聞いて、顔に広がっていた曇りが消えた。
声が風に散るくらい軽くなった。
京介はスマホで時間を確認した。
タクシーがもうすぐ来る。
一声かけて急かした。
二人は前後になって階段を降りた。
【第五章・終】
前に一度、間違えて別の章を投稿してしまったことがある。




