2-4 聖なる印と傷跡と
――――8歳の時、マザーにナイフを取り上げられた。
それ以来あの人は私が刃物を手にするのを許したことはない。
10歳の時、酷い高熱と悪夢にうなされて、いっそ死んでしまいたいと思ったことがある。
『どうしてこんなに苦しいの?』
幼い私は育ての親にそう尋ねた。
『いつかわかり合える日がくる』
彼女は静かにそう答えた。
…私は"普通の人間"になりたい――――
**********
ラン達がアグネス邸に戻った頃、もう陽は暮れ始めていて空が闇に染まるまではそう時間はかからなかった。
ジルがサリヤスに寄った用事はどうやら折れてしまった剣の代わりの剣を取りに来た、というものだった。
先ほどシュウから受け取った白い柄の剣。
ジルの用事が終わった今、残りは駐在の軍人…ロット達を締め上げるだけだ。
だがもう外は暗く、闇が深くなりかけているので今日はもうこちらの屋敷に泊めてもらうことにした。
軍の駐在所へは明日行くつもりだ。
夜空に2つの月が輝く。ゆらゆらと、漂うように。
夜も更けた頃、ランはそれを見上げながら屋敷を出て庭にいた。
自身の片隅には愛用の棒剣を携えて。
――――私にいまだ刃物は許されていない。
「眠れないか?」
「…ジル」
背後から声がした。
彼は気配を消すのが上手い、そうランは思う。
「窓からここにいるの見えたからさ。俺も外の空気吸おうと思って」
ランは1階の奥にある客間を借りていて、ちょうど彼女が座っているところはその部屋から出たところであり、大きな窓は開いたままでレースのカーテンが揺れている。
確かジルは今夜はサラの部屋にいると言っていた。サラが彼から離れようとしなかったのだ。
「…サラちゃんは?」
「ぐっすり寝てるよ。シュウもいるもんだから、俺の寝る場所がねえ」
ジルは少し嬉しそうな声色でそう答えながら、ランの隣に座った。
出逢ってからずっと着ていた黒いロングコートを今は脱いでいて、彼は黒いタンクトップ姿だ。
首から右肩にかけて黒い刺青が大きく入っているのを、ランは今知った。
それは鎖と蛇がもつれ合い、同化している模様だ。
「熟睡なんて、ずっとしてないよ。能力を自覚してからは…上手く眠れたことはないから」
横に座ったジルを一瞥してから、ランは前に向き直りそう呟いた。
ジルは目を丸くしている。
「一度も?」
「うん。だって、ジルもそうでしょう?」
「…お見通しか」
ジルは肩をすくめて、そう言った。
「ぐっすり眠って朝起きた時に、この能力が全部夢だったらいいのに…ってずっと思ってたよ」
時折吹く風が開けっぱなしの窓に吊るされたカーテンを揺らす。
ランは上着を脱ぎ、衿元のリボンタイを解いたラフな格好をしている。
左手の手袋は、外されていない。
その腕を手袋の上から握り、ランは言葉を続ける。
「でもこの力がなくなったことなんてないし、もしも…眠ってる間に力が暴走なんかしたら…」
「暴走?したのか?」
ランはその華奢な身体を両腕で抱き寄せ、自己防衛をするかのように曖昧に笑い、それから目線を落とした。
「私は"化け物"なんだって」
――――すぐ隣にいるこの人は、解ってくれるだろうか。
この、得体の知れない不安を。
**********
「ジルは、能力が覚醒してから6年で…ちゃんと操れているでしょう?」
「まあ、そうなるな」
「私はまだ操れてない。覚醒したのは2歳って聞いてるから…もう17年」
「なっ…」
ランは自身の体温が徐々に下がってきているように感じていた。
それでも淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
どうしてこんなことを話しているのかは、自分でもわからない。
大して、意味なんてない。
「私、兄さんと一緒にマザーに…ユヅキに拾われて、大聖堂で育った。拾われる前の事は覚えてないし、兄さんも教えてはくれなかったよ」
「その時、能力は?」
「もう覚醒してた。何度も何度も暴走しかけたし、能力を受け入れることも…制御も私にはできなかった」
ジルはたまに相槌を打ったり簡単な質問をする程度で、静かにランの話に耳を傾けていた。
この人と自分の境遇は似ているようで…似ていない、そうランは思う。
「私はこの能力が嫌い」
"平穏"と"普通"が欲しいだけなのだから。
「4歳くらいの時かな、マザーに連れられてある場所に行ったんだ。あんまり覚えてないけど…すごく大きな樹があった。そこで封印の契約をしたよ。その時のことは今でもよくわからないんだけど、治癒の能力だけを残して"憎しみ"が"覚悟"以外には能力が反応しないようにしたんだって」
「そんなことができるのか?」
「わからない。マザーが、時が来たら教えるって言ってた」
「あの人は何者なんだ?不老と延命処置に、この能力に関して詳しすぎないか?」
「私もよくは知らないんだ。何度か聞いたことがあるけど、いつも曖昧に笑うだけだったから」
そうしてランはマザーと呼んでいる教母の姿を思い浮かべる。
17年間傍にいたけれど、何一つとして変わらない、不老の人。
いつだって黒を纏い、微笑みを浮かべる育ての親。
ランは、ユヅキ・エイミアードのことをどれだけ知っているのだろう。
風が吹き抜けて、ランの髪を揺らす。
腰まで伸びた銀色の髪は今は何にも遮られず、月明かりに照らされる。
「長いな、髪」
ジルはそう言って一房すくう。
ランの銀の髪を眺める彼の金の髪もまた、月に照らされてキラキラと光る。
彼は太陽の下の方が綺麗だと、ランはぼんやりと考える。
「元々は、瞳と同じで紺色だったんだよ…髪の毛」
「染めたのか?」
「違う。突然…色が変わったの。それからは元の色に染めようとしたって全く変わらないんだ。私が知っている限りのこの世界では、銀色なんて珍しい毛色だから…何処に行っても変な目で見られる。それに…不吉の象徴だって、昔大人が言ってた」
「こんなに綺麗な色が、不吉な訳ねぇだろ」
間髪いれずにジルはそう呟く。
彼の手はいまだランの髪を弄んでいるが、その言葉を聞いて不意にジルを見たランの瞳を真っ直ぐに見つめている。
その金の瞳は、正直だ。
左腕が疼く。
勘の良い彼はきっと気付いているだろう。この腕に"何か"があることを。
――――私が"普通"になれない最大の理由だ。
左腕の手袋に手をかける。
指をかけると、それは案外簡単に、するりと脱げる。
また痩せたのかもしれない。半年前はもう少しぴったりだった気がする。
この下にあるものを知っているのはほんの数人だ。
(マザー、兄さん、あとは…大佐)
ランは手袋を外す。ゆっくりと。
「能力を封印したって…これのせいで、苦しいままなんだ」
黒い手袋の下の腕は、青白く細い。
「それは、刺青…じゃないな、痣か?」
ジルの目が見開くのは思った通りだった。
まさか教務庁関係者、聖職者だといえど、自らの肉体に刻む者はさすがにいないだろう。
「"刻印"だよ」
露わになった左腕の肘から下には、くっきりと大きな十字架の印が刻まれていて、それは大聖堂や各地の教会の印に酷似している。
その印の周りには無数の切り傷や刺し傷、火傷の跡が二の腕まで及んでいる。
これは生まれつきではなく、ランが6歳の頃に徐々に浮かび上がってきたのだ。
大聖堂教母のユヅキはこれを"刻印"と呼んだ。
ユヅキが取り乱した姿をランが見たのはあの時1回きりである。それは…この印がいかに特異なものであるかの証明でもある。
そして印が浮かび上がると共に変わった髪の色。
ランは、その事をジルに伝えた。
手袋を外して露わになったその細い腕を庇うように右手で掴みながらも、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「聖母って役職はね、この刻印を持つ人しかなれないんだって。厳密に言うと、初代聖母の方にも刻印があったからって伝えられてるからなんだけど」
だから、ランは6歳で既に"聖母"と呼ばれたのだ。
「物心ついたくらいに、自分が"普通"じゃないって気付いた。リオンの街にいる同じくらいの歳の子たちには、この印はない。兄さんにもない。大人たちは私を一歩距離を置いて見る。聖母だとか…聖なる娘とかって呼ばれるのは、この印があるせいで…。苦しかったんだ、私はどこまで周りと違うんだろうって、普通になれない自分がいて…。それで、無意識のうちに左腕を切り付けてた。この刻印が憎くてしょうがなかったから。たぶんね、一瞬能力が解放されたりもしたんだと思うんだよね…火傷みたいな跡があるから」
ランは火傷の跡を指さす。
ジルは悲痛な顔をして、彼女の左腕を、その大きな掌で包んだ。
「もう、いい」
ジルは呟く。
ランは、続ける。
「マザーは言うんだ。憎んじゃいけないって。増えてく傷を見て、ナイフを取り上げて、刃物を禁止された」
「もういいから」
「聖なる娘だなんて呼ばれたくなくて、軍人になったよ。でも、私は"化け物"なんだって」
低くなる体温に、微かに震える腕。言葉は少しずつ早口になっていく。
「内乱があった時に、隣にいた同僚が瀕死の重傷で、夢中で直しただけだったんだよ。みるみる治っていったその人は言ったよ、化け物…って。人間の皮をかぶった魔族だって!もう、わかんなくなって、能力が暴走しかけた…私は何も憎んじゃいけないのに!」
「そんな顔しながら、無理して話さなくていい!」
だんだん早口になるランに耐え切れず、ジルは怒鳴った。
そんな顔って、どんな顔?
自分を包む両腕は震えている。ジルが触れている左腕だけが、彼の体温のせいでちゃんと生きているように思えた。
「私はこの皮膚の下にある能力が怖い…今でもまだ制御できるかなんてわからないよ。私はこんな力なんていらない、十字架なんていらない…"普通の人間"になりたいだけだよ!」
ずっと言えなかった言葉を、ランは吐き出した。
――――私は、こんなにも弱いのだ。
「ラン」
ジルはしばらく黙ってランの左腕の傷をひとつひとつ労わるように撫でていた。
無骨に思えた彼の掌は意外にも繊細で、大きく綺麗だった。
ランは抵抗することもなくぼんやりとそれを見ていた。
左腕を触られるのは、嫌いだったはずなのに。
そしてその沈黙を破ったのは彼の彼女を呼ぶ声だった。
「俺は、自分を人間だと思ってる。だれがどう言おうと、身体から炎が出ようと」
ジルの少しかすれた低い声が、静かな夜によく響く。
金の瞳は、ランを射抜く。
「だからお前も、人間だよ」
**********
――――今まで私は、あまり深く人と関わってこなかった。
弱音なんて許されなかった。
楽しいことなんてなかった。
決められた運命の中で嘆いていただけだった。
ずっと引っ掛かっていた得体の知れない不安を吐き出した今なら、
受け入れられるだろうか。
私も、進まなきゃいけないのに――――
**********
「まあ、俺も化け物呼ばわりされてきたしな」
案外似た者同士なのかも、とジルは少し笑った。
ランの震えは止まっていた。
彼女はジルのにやにやと笑う笑顔を見て、さっきまでの自分の姿を思い返して掴まれたままの左腕をばっと振り払う。
「一昨日初めて逢った時はただの口の悪い偉そうな女だと思ってたけど、こんなしおらしい部分があるとはなー」
「……」
「いやー、びっくりびっくり。人は見かけによらないっていうか…痛っ!!」
ランの腕はジルの頭にチョップをかましていた。
「調子に乗るな」
「…お前、絶対聖女じゃねぇ!」
「それはありがとう」
「聖女はそんなに目付きが悪くないはずだ」
「うるさい垂れ目」
シリアスだった雰囲気が一変して、ふたりはくだらない口論を続けていた。
――――ガァンッ!!!!
突然の銃声が、夜の静寂を引き裂いた。




