第21話 意訳:一緒に帰りませんか?【後編】
「ちょ、ちょっと……早いってば」
「え?」
本当に何も理解していない様子で振り向く。五十鈴とユリカの間には、既に人一人分程の距離が出来ていた。
「あ、わり」
「そもそも脚の長さが違うのよ!悔しいことにねっ」
歩幅とスピードが違いすぎて、お互い無意識のうちに歩いていると距離が空いてしまうのだ。
不満を唱えたユリカに合わせるように、五十鈴はちょっと考えてから後ろ向きで隣に戻ると、不自然なまでに小股で歩き出した。
「やめなさい」
バシッと脇腹のあたりを手の甲で叩く。
「じゃあそっちが早く歩けよ」
「だからぁ、脚の長さが……って何回も言わすな!」
呆れるようにユリカを見下ろしていた目線が、彼女の少し後方に移る。
─────そして彼女の制服の裾を、少し力を入れた指先で引っ張った。
五十鈴の方に一歩足が寄った後、間髪入れずにユリカの後方から自転車がベルを鳴らし、横を猛スピードで走り抜けていく。
「……危なっかしいっすよ、お嬢様」
素朴な声色で言いながら、自転車が巻き起こした風で前に降りてきた横髪を邪魔そうに耳に掛けた。
「あ……ど、どうも」
少し崩れた前髪を、袖を掴まれていない方の手で直す。
─────なんだ、今の。
五十鈴が指を離し、やり場のなくなった手を少し彷徨わせてから、いつも通りポケットに突っ込む。
6月も後半に差し掛かり、常に吹き続けている微風にはほんのり湿気が含まれている。
薄雲のかかった暮れどきの空は、遠くの方からオレンジ色の面積がだんだん狭くなっていく。
道の端に規則正しく並ぶ街頭たちが、ぽつぽつと点灯し始めた。
自転車にセーラーの裾をはためかせながら駅の方へ向かう同じ高校の生徒、そして駅側から友達と並んで談笑しながらこちらへ歩いてくる、他校の生徒たち。
「今日はなんか、いつもより人多いね」
「それな。電車座れっかな〜」
五十鈴の横を、二人乗りのバイクが、破裂するようなエンジン音と共に走り去っていく。
「知り合い?」
小さくなった後ろ姿を妙に目で追っていた気がしたので、ユリカが首を傾けて訊ねる。
「ん?ああ……多分、他校の」
「あなたと同じような髪の毛だったけど」
その言葉に、あからさまに不服そうに顔を歪める。
「そーか?俺のがもうちょいオシャレじゃね?」
根本から雑に指を通していく。真剣に同意を求めてくるその様子に、ユリカの表情が思わず崩れた。
かき上げただけのような無造作ヘアには、確かにオシャレ要素を見出すこともできるが、何よりこの男の口からオシャレという単語が発せられたことに意味があった。
「五十鈴は、ケンカとかするの?」
不意に会話が途切れた時、ずっと前から気になっていたことを口にする。
「あ〜、まぁ……売られたら、たまに」
「買うんかい」
「だってやられっぱなしはダセーだろ。やられたらやり返す。売られたケンカは買う」
シュッ、と拳を前に突き出してみせた。
「やっぱり、ヤンキーなのね」
「自分からはしねーよ。たまにな、たまに」
たまに、の部分を強めた。
そうこうしているうちに改札に着く。
ちょうど電車がホームに停車しているのだろう、降りてきた人で六つある改札はごった返していた。
プシュー、と電車の圧縮空気が移動する音。
2人は小走りで改札を抜けて、発車ベルとほぼ同時に電車内に滑り込んだ。
帰宅ラッシュと丁度重なっている時間帯。席は既に一杯で、立っている人もかなり多い。
特に示し合わせもなく、2人はたまたま空いていた反対側のドアの前に立ってカバンを脚の間に置いた。
最初に向かい合って立ってしまったため、2人の間に珍しく沈黙が流れる。別に喋る内容がないわけでもない。でも、何となく今更身体の向きを変えるのも失礼な気がしたので、ユリカはなるべく目線の先を向こう側の座席の下の方に固定した。
『この先、揺れますのでご注意ください』
車内のアナウンスが、丁寧に警告する。
ユリカの後ろにはドアがある。でも、五十鈴の手近な手すりの前には人がいて、彼は両足だけで何とか揺れに耐えねばならない。
「ッ……が、頑張ってください」
それなりに揺れる車内で、懸命に五十鈴が足の裏でバランスを取っているのが何だか可笑しくて、心の中の激励が口に出てしまった。
「ナメてんな、テメー」
クールを装い、持ち前の体感でギリギリ耐えてはいるものの、彼の表情筋は引き攣っていた。
─────ふと、横を向く。
座席の窓から、濃紺が滲んだ広い空の上にうっすらと浮かぶ月が見えた。
三日月とまではいかないが、少しだけ欠けている。
「ねぇねぇ。見て」
あそこ、と指を指す。
「どこどこ」
しばらく目線を彷徨わせて、五十鈴も月を見つける。
「あ、虫食い月」
「虫食いって……」
ユリカが笑った。
「だってそうだろ」
五十鈴もつられて笑う。
遠くの一つの月を、二人で見つめる。
他の乗客たちはみんな、寝たり、ショート動画をスクロールしたり、本を読んだり……月を見ている人なんて一人もいなかったけれど。
「綺麗な月だね」
ユリカが感想を述べた後、周囲の薄い雲が段々と動き、月をほんのり隠してしまう。
急にびっくりしたように口を引き結んで、ユリカの横顔を見た。
「お前、それ────」
言い渋るような彼の声に、ユリカが顔を前に向けた。
─────その時、電車が激しく揺れる。
カーブに差し掛かったのであろう、天井から吊るされた吊り革も、周囲の立っていた乗客もみんな一斉に強く斜めに傾く。
五十鈴の足裏も遂にバランスが取れなくなって、勢いよく前に一歩傾いた。
咄嗟にポケットから片手を出し、よろめいた身体を支えるようにドアの窓──────ユリカのすぐ耳横に腕の側面をつける。
五十鈴の、夜空のような瞳に映る、ユリカの唖然と口を開けた顔。
視線は正面衝突し、吐息と吐息は、今にも交わりそうだ。
毛穴まで覗き込まれそうなその距離感に、ユリカはほんの僅かで限界を迎えて顔を背けた。
「っ、ごめん」
目を逸らし、囁くように掠れたその言葉に混じった息が、少し耳にかかる。
ユリカは首を振る。
「あ……や、いや」
口から漏れた声は、自分でもちょっとびっくりするくらい細かった。
別に謝ることなんかじゃない。仕方のないことだ。ああするしかない。
でも、言葉が出てこない。
『ドアが開きます。ご注意下さい』
アナウンスする無機質な機械音声。扉が少し軋みながら開き、多くの人が席を立ち、乗ってきた人たちがすぐさまそこを埋める。
素早く体勢に戻った五十鈴は、すぐ横の手すり付近の空いたスペースに逃げるように移った。
その両耳には、微かに朱が上っている。
─────耳の中で心臓が鳴っているみたいに煩い。
何か、何か喋らなくてはという強迫観念にも似た感情が脳を支配する。
……この男と一緒にいて、沈黙が気まずいと思ったことは今までなかったというのに。
手の置き場所に困り、空中をかき回した後、五十鈴が掴んでいる手すりの少し下を握る。
ステンレスの温度とは対照的に、自分の手がびっくりするくらい暖かくて、段々汗が滲んでくる。
なんでだか逸る気持ちとは裏腹に、窓に映った五十鈴の横顔から目が離せない。
引っ込んだ口許。ほんのり丸みを帯びた切り立った鼻先と僅かに突き出した顎は綺麗に一本の線で繋がる。
純粋な日本人にしては深く窪んだ眼元、眼のすぐ上にある整えられた眉。
くっきりとした顔の上半分の骨格で、彼の顔はより華やいで見えた。
──────あれ?
え、あれ……?
なんだ。
この人って、結構かっこいい、じゃん。
『顔が良いから。古賀くんは』
『古賀って結構顔かっこよくない?
なんか濃いっていうかー、彫り深いっていうかー。金髪似合ってるよね、めっちゃ』
……え……アレ……?
今までそんなこと、ただの一瞬も考えたことすらなかったのに。
過去の記憶たちに、心臓を何の前触れも無しに素手で掴まれたような感覚を覚える。
『次は、安澄、安澄です。お出口は左側です』
いや、違う。そんなの、初めて思った。……いや違う!今も思ってない、思ってない。嘘嘘。
第一私、人の顔にあんまり興味ないもの。そうよ、まだクラスの女の子たちの顔と名前すら若干一致していないくらいなのに!
でも、と、もう一度五十鈴をこっそり見上げる。今度は窓の中じゃない。
─────何?なによ、その顔。
何を考えてるの?
なんで、ただ電車に乗ってるだけじゃない。なのになんで、そんな真剣な顔なのよ。そんな顔して、今日の晩御飯のことでも考えてるんでしょ?どうせ。
無駄なキメ顔、しないでくれない?今じゃないでしょ、それは。
それに、コイツは不良だ。
口は悪いし授業はサボる、テストでは赤点を取って、体育館倉庫を破壊するような人種と付き合い、時には売られたケンカを買い……
……気まぐれで迷子の子供を助けて、気まぐれで友達と勉強して、気まぐれでこうして一緒に帰ってくれている。
どこまでも無駄に大人びた彼の表情に、急に胸が締め付けられる感覚がする。
私は、彼の何を見ていたんだろう?
───────ほんとうの古賀五十鈴は、なに?
ほんの眼下から視線に射抜かれ続けていることにようやく気づいたのか、当の本人は手すりを右手で軽く掴んだまま、睨みつけるようにそれを辿る。
「なんだよ」
「いやっ、なにもないっす!」
「その口調がもはやなんかあるんだよなぁ」
片方の眉と片方の口角を器用に上げてみせる。
「だからっ、なんもないって言っ─────……きゃっ!」
その時、停車にあたり徐々に速度を緩めた反動を受け、大きく姿勢を崩したユリカは、五十鈴に向かってよろめいた。
──────咄嗟に、倒れ込んだ右半身を五十鈴の身体に受け止められる。
心臓が、揺れた。
空いている方の手のやり場に困った彼は、警察に銃を突きつけられた犯人のようにその手を上げる。
───────あ、しまった、私……
『ドアが開きます、ご注意下さい』
圧縮空気の音。反対側のドアが開く。
「……あ、いやっ、そのっ……ゴメンナサイッ!」
突き飛ばすようにして距離を取り、密着していた半身を慌てて離す。
微弱な力で上半身を押されても、別に五十鈴はびくともしない。
もっとも、見開かれた大きな眼には困惑と羞恥の色がありありと浮かんでいたが。
珍しく、目に見えるほどの動揺を浮かばせた彼の表情に、ユリカの心臓はより一層早鐘を打った。
吐き出す自分の吐息が、熱い。
一歩、二歩と、子鹿のような足取りで彼との距離を作っていく。
「私っ、駅ここなんで失礼しますっ!!」
「え、ちょ──────」
『ドアが閉まります、ご注意下さい』
発車ベルと共に、扉が軋みながら閉まった。
風の抜けるような音を立て、やがてゆっくりと電車が発車する。
車内に取り残された彼を振り返る事もせず、嵐のように、車体が巻き起こす風に髪をさらわれながらひたすら狭いホームを疾っていく。
「すみません、すみません……!」
帰宅ラッシュ時のそれなりの人垣をかき分け、上り階段をおぼつかない足取りで登りきり、改札に突撃した瞬間弾かれる。
『もう一度タッチして下さい』
「ああっ、もう……!」
流れる川を逆流するような気持ちで、髪を振り乱しながらも自動販売機の側にやっとの思いで戻る。
ICカードの音と盲導鈴が絶えず駅構内に鳴り響く。
現実な音を浴びせられても尚、ユリカの意識は宙に浮いていた。
手汗で微かに濡れた手で、頬を包む。
──────五十鈴は、照れると耳赤くなるタイプなんだ。
「……分かりやす」
分かりやすいのはどっちだよ、とユリカはすかさず己の発言にツッコミを入れる。
「あぁ〜っ……なんなのよ〜っ……!」
五十鈴の目が、頭にこびりついて離れてくれない。
生まれて初めての感覚に、だんだん腹すら立ってくる。
いっそのこと一発殴ってやればスッキリするんだろうか、などと暴君の思想に陥りかけるも、先ほどの一連の流れがそれを止めた。
隣に聳え立つの自動販売機で、1番安い280mlのミネラルウォータを買う。
ドアに腕をついた、五十鈴の咄嗟の姿勢。
「私の、人生初壁ドンが……五十鈴に奪われた……」
堪らなくなって、飲み口に口をつけ中身を一気に喉に流し込む。冷たいものを一頻り飲んでも、まだ背中が熱い。
元はと言えば電車があんなに揺れるのが悪いのだ。壁ドン(仮)はまだいいとして、そのせいで最後に五十鈴と……
「あぁああっ!私のバカっ!激ヨワ体幹っ!どうしてよ!?新体操習ってたじゃない!」
保育園の頃の話、それも一ヶ月だけ、だが。
鉄道会社に文句をぶち撒けたい、そんな理不尽な気持ちを抑え込むように、残りの水を喉を鳴らして飲み干す。最後の方で気管に入りかけて、盛大に咽せ返る。
人が少なくなった改札口を呆けた気持ちで眺めていると、だんだんと気持ちが冷えていく気がしたが、手に持っているペットボトルを眺めるとまた熱い気持ちが湧き上がってくる。
そうなのだ。なぜ自分だけ、こんな気持ちにならないといけないのだろう?
五十鈴は違うのだろうか。
もし違うのならば、なんだかそれはすごくイライラする。
噴き上がってきた気持ちのまま、溢れかえっているゴミ箱の丸い口にペットボトルを押し込む。
「っ……はぁ……」
叫び出してしまいたい衝撃は、身体の中で溜息に変換される。
さっきの五十鈴を、例えば島津誠太に置き換えて想像してみると、この粟立つような感覚が幾分かマシになっていく気がした。




