第20話 意訳:一緒に帰りませんか?【前編】
※初めの方にいじめの描写があります。苦手な方はご注意ください。
掃除の時間が好きな中学生は、一体どれくらいいるのだろうか。
綺麗好きのユリカは、毎日ドアのレールの細かい溝まで、雑巾の端っこと小さい箒を使って綺麗に掃除していた。
この間それを先生に褒められて、少し嬉しかった。
なんだか、ちゃんと見てくれている人がいるんだな、という気持ちになって。
黒くなった雑巾を濡らして絞り、廊下の床を今日も丁寧に拭いていく。
「あっ、危ない!ユリカちゃん、避けて!」
誰の声だろう?
反射的にパッと目を開けて顔を上げた瞬間、生温い濁った水が、真上から大量に降ってくる。
──────突如として全身がびしょ濡れになった彼女は、状況が飲み込めず、その場に力を抜かれたように座りこむ。
瞼と睫毛の隙間がザラザラして不快な感触になる。目に水と細かいゴミが入ってきて、痛くて目がうまく開けられない。
「……え……?」
「きゃー、ごめーん!大丈夫ー!?」
ポニーテールの女子数人が、座りこんだ彼女を見下ろすように隣に立ち、空っぽになったバケツを軽快に揺らす。
「ごめんね〜っ!水替えようとして手が滑っちゃって!ホントにごめんね?」
─────嘘だ。
……そんな楽しそうな声出しながら謝ってる人、私初めて見ましたけど。
眼球に直撃した水と細かいゴミのせいで、目がうまく開かない。
膜が張ったように朧げになった視界の端っこに、彼女たちの下卑た笑顔がはっきり映る。
……いや、こんなもの、笑顔だなんて言ってはいけない。そのカテゴリーに分類することすら、ユリカには出来なかった。
「だいじょーぶ?制服一枚しか持ってないでしょ?明日の分、どうするの?」
「センセー!ちょっと来てくださーい!」
「ユリカちゃんがバケツの水被っちゃったー」
──────なに、その顔。
温度のない声。
何よ。
さっきみたいに笑えばいいでしょ。そしたらあっという間にみんなに知られるよ、私があんたたちにバケツをひっくり返されたことくらい。
それなのに。
なんでそんなに、急に他人事みたいな顔になれるの?
さっきの最後の一言のせいで、わらわらと周りに野次馬が集まる。
─────いや。見ないで。
やめて。やめて。やめて、やめて……
寒い。すごく寒い。
途端に晒されて、自分が見せ物になっていく感覚がする。
制服のスカートと髪の毛先から、教室の汚れを含んだ灰色の水滴がぽたぽた垂れた。ユリカの周りに出来た水溜りは、ゆっくりゆっくりその領域を拡大させていく。
ワイシャツは水分を含んで、不快に肌にぴたりと張り付いた。
後ろから、廊下に集まった男子生徒数名の視線と、仲間内で小さく笑い合う声が聞こえた。
……だめ。泣くな。違う、泣いてない。ゴミが入ったせいだ。
濡れた床に手をついたユリカは、そのまま無意識に爪をたてる。
表情に力が入らない。周りの声が、音が、全部が遠くなっていく。
下瞼の際に、熱い涙が薄く滲んだ。
涙さえ染みるほど痛みで充血したユリカの目から、塩辛いものが一粒床に滴った。
──────────────
瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
白みがかった目に霞んで映る、すっかり見慣れた金髪頭。
机の上に頬をつけて腕を伸ばし、ただじっとこちらの目の中を覗き込んでいる。
幻と現の間を彷徨っていた意識が、徐々にはっきりしてくる。
「……っ、うわっ!!なにっ!?」
数秒間見つめ合った後、揺るがない視線を一身に受け続けたユリカの意識は完全に覚醒する。
飛び跳ねるようにして立ち上がった彼女の衝撃で、椅子が後ろに勢いよく倒れた。
そのあまりにスピーディーな一瞬の出来事がツボに入ったのか、五十鈴は吐息だけで小さく笑った。
「おはよ」
普段の仏頂面に、子供のような笑顔を滲ませていく。
初めて見る顔だ、と率直に思った。
「……きゅ、なっ、急になによ!びっくりするじゃない!」
顔に熱がのぼる。
これでもユリカは花も恥じらう年頃の乙女。
もしかして、この男にとんでもない寝顔を晒していたのではないかと急に焦ったせいだろうか。
「別に〜?
何秒で起きるかなーって観察し始めた途端に一瞬で目ェ醒したから、つまんねーなーって」
目線を逸らし、無意味に机の木目を細い指先でなぞる。
その横顔は、友人同士で戯れる時のように、本当にただ穏やかに笑っていた。
はぁ、と息をついてから、ノートを突き出す。
「ハイ、これ。解き終わった。よく分かんないけど勘でやったら全部合ってたんだよな〜」
俺すごくね?と黒目を上げて付け足される。お弁当に大好きな枝豆でも入っていたのだろうか、今日は妙に機嫌が良い。
机の上に散らかった教科書とワーク。もはやどっちがどれの持ち主かよく分からなくなっている。
寝落ちする前の自分が何をしていたのか、ようやくその全てを思い出した。
「あ……ウ、ウン」
つい先ほどまで見ていたはずの夢の内容は、すっかり頭の中から消え失せてしまっている。
ただ、寝覚めが悪いせいか、中途半端な夢の残り香が胸の上の方につっかえて気持ちが悪い。
いつのまにか背中に、冷や汗とも脂汗とも似つかないものが滲み始める。
妙にぎこちない手つきでノートを受け取るも、その心地の悪い感覚のあまり、そのまま身体も固まって動けない。
五十鈴が黒目を二、三度往復させた後、遠慮するように、ノートを突き出す手をゆっくり引っ込めた。
「今日、疲れたから帰ってい?」
「……へ?」
学ランの下から覗く、白いポロシャツから飛び出るほつれた糸を引っ張りながら呟いた。
「いやフツーに。なんか、飽きた。頭使ったせいで腹減ったし」
確かにそうかもね、などという力のない返事しか返せない。
眠っていたくせに、何故かとんでもなく体力を消耗している気がする。
シャーペンと消しゴム、それからマーカー類を雑にデニム地の細いペンケースに放り込んでいく。
それから机に散乱した教科書類を大きい手で一気にまとめて掴み、そのまま縦向きにリュックに突っ込んだ。
「早くしないと電車行っちゃいますけど」
荷物をまとめ終えた彼は、ちょっと迷ってから控えめな声でそう言った。
「あ、うん」
押し出されるように、慌てて教科書類を集めて腕に抱える。
「じゃあ、また明日ね。ごめんね、今日はあんまり教えてあげられなか────」
ユリカの手からドット柄のペンケースが滑り落ちた。静かな教室に、中身が床に散乱する音だけ響き渡る。
暫く脳と身体がそれに対応出来なくて、ただ茫然と動きを止める。
「あっ……あ、やってしまった……」
あはは、と感情の篭らない乾いた笑いを付け加え、落ちたものを拾おうとしゃがみ込む。
追随するように、ユリカの腕の中をすり抜けて教科書たちも床に落ちた。
……今日はなんか色々と、ダメだなぁ。
勝手に口からため息が溢れた。
五十鈴の方は、何か思考を巡らせるように黙ってその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくり膝を折って1番分厚い教科書を一冊拾い上げる。
「……送ってく。今日」
「えっ」
拾い上げられた教科書が、ユリカの膝の上に乗せられる。
不意に彼から飛び出したその言葉に、目を丸くしたユリカは一旦まず疑いから入ってみる。
路線は同じ。家の最寄駅もまあまあ近い。
─────それなのに、今まで何かと理由をつけてわざとらしく別々に帰っていたくせに?
「今日のアンタ、うっかりホームから落ちて死にそうだから」
「縁起でもないこと言わないで!」
「もしそうなったら俺様が助けてしんぜよう」
得意げに頬を上げて、ふんと鼻を鳴らしてみせられる。
遠くの方に転がっていった消しゴムを拾いながら、ユリカは訊ねた。
「あっそう。じゃ、もし電車がすぐ目の前まで来ている時に私が落っこちたらどーするの?」
「あ、ごめんそれは流石に見捨てるわ」
「サイテー!」
「俺まだ16歳だし。まだ死ねないし」
「それは私もそう」
「じゃあ落ちないように耐えろよ」
「それは……そう」
じゃなくって!と、切れ目の見えない会話に終止符を打つように、ユリカはスクールバッグのチャックを閉めた。
五十鈴がスマホを軽く触って時間を確認する。
「やっべ。これ逃したら次35分後」
「やばい私、今日弟のお迎……
ゴホッ、ゴホッ……ああ、失礼失礼、ちょっと咽せてしまい……」
恐らく本人も自覚アリの、仰々しい大根役者の才能を目の前で発揮され、
「いや、だいぶ無理があるだろ」
と五十鈴が素直に笑いを含ませた声で突っ込む。
ユリカの頬が引き攣った。
「なっ、なに?何のこと?」
尚も貫き通そうとする彼女を尻目に、五十鈴はとっとと教室から出た。
「早くしろよ〜。こっちは空腹値カンストしてんだから」
「あ〜ハイハイハイ、今行きますよ!」
足音を鳴らしながら、腹を空かせた彼の後を追う。自慢じゃないが、お腹を空かせた成長期男子の扱いにはそれなりの自信があった。
誰もいなくなった教室は、嘘のように音がなくなる。
真ん中に佇む年季の入った机の上には、何処ぞの金髪の画伯の渾身の落書きたちが日を追うごとに描き加えられていく。
いい加減、この部屋の壁や床には2人分の喧騒が染み付いていそうだった。




