第17話 人の名前呼んでおいてその反応はないでしょう
「あなたって英語は結構できるのね〜」
放課後。いつもの場所で勉強を教えていたユリカは、五十鈴の英語のノートを見て一言。
「昔習わされてたんだよ、英会話」
彼は丸つけをするユリカの目の前で、ポテチを摘みながら数学のワークを解いていた。
またコンソメ味。どうやらこの男は過激なコンソメ派閥のようで、この前のり塩味を買ってきてあげたら理不尽にキレられた。
「この前のり塩でキレられたこと、私忘れてないからね」
「うるせーなー。あれはお前が悪いだろ、どう考えても」
「ていうかそもそも勉強中にお菓子を食べるな!ポロポロポロポロこぼしてるし!」
面倒くさそうに目を回してから、学ランの裾に付着したポテチのカスを床に払い捨てた。
「またそうやって……」
「何?」
「もういいです」
もうやめよう、私の仕事はこの男の生活態度の矯正じゃないと心の中で線引きして、とりあえず五十鈴に睨みを飛ばしておいた。
夏前の夕方の太陽が斜めに窓から差し込む。規則正しく動き続ける教卓の時計の針の音と、赤ペンの音、ポテチを咀嚼する音。
家が常に騒がしいユリカは、たまにこの静寂に耐えられなくなる。
「……しっかし、アンタという男は……筆記体なんか書いちゃってさ」
五十鈴がリスニング問題を解いている時に、ノートの端っこに走り書きした筆記体を指差す。
「一回憧れて練習するフェーズが来るんだよ、男って生き物は。お前の父さんも多分やってたんじゃね?」
「……さあね。知らないわ、あの人のことなんか」
────正直もう、思い出したくもないのだ。
仕事の事業に失敗して、莫大な借金を抱えて、酒に溺れてみるみるやつれていったあの人のことは。
昔はそんなんじゃなかった。お金だって十分にあった。
ユリカが保育園の時、ピアノを習いたいと駄々をこねた後、本当にピアノ教室に通わせてくれたくらい、心優しい普通の父親だったのに。
─────お金のせいで、あの人はおかしくなってしまった。
だから逃げた。だから家族を捨てた。
「ねぇ、ココなんで符号変わんの?
……ねぇ。
……オイ、オイ」
お金のせいで────……お金が、あれば。
「……あ、ごめん……なに?」
怪訝そうな顔で、五十鈴がユリカを見つめている。元々目力が凄まじいせいで、この男の顔は全体的に圧がすごい。何か言いたげに口元が動いたが、結局そこから言葉が発せられることはなかった。
またやってしまった。考え込むと周りが見えなくなるのは、幼い頃からのユリカのクセ。
「ああ、ここ?ちょっと見せて」
気を取り直してユリカがノートとワークを受け取る。
目線を下げたユリカの睫毛をじっと見つめたまま、五十鈴が少しだけ口を開いた。
「……寝不足?」
「え?」
唐突に降ってきたその言葉に、ユリカが思わず目を上げる。
目が合った瞬間、彼が「いや」と言って目線を逸らした。代わりに自分の目の下を指差す。
「クマできてるから」
「えっ、ウソ」
制服の胸ポケットから小さい鏡を取り出す。
「あーっ!もう、コンシーラー剥げてるし……
せっかく朝時間かけて重ね塗りしたのに、もぉ〜……!重ねたのがダメだったのかな逆に」
机の上に腕を組んだまま、五十鈴が気の抜けたように、フッ、と笑った。
「ねぇ、場所変わってい?」
「なんで?」
「前からだとやりづらい。アンタも逆側から教えるのだるいでしょ」
「あら、気遣いのできる男ね」
そりゃどーも、と言いながら彼はユリカの隣の机を動かしてくっつけた。そのまま隣に腰掛ける。
座った時に、ふわ、と五十鈴から優しい甘い香りがした。
柔軟剤だろうか?それとも香水か。
「アンタっていっつもいい匂いするよね」
いきなりこんなことを男子に言うのもどうかと思ったが、コイツならいっか、という謎の信頼からユリカは思わずそう口にした。
「ハァ?キモイんすけど急に」
「褒め言葉だっつーの!大人しく受け取れ!……柔軟剤?何使ってるの?」
そんなことコイツが知るはずもないかとは思ったが、一応聞いてみる。
「……父さんの趣味だろ、どーせ」
学ランの裾をスンスン嗅いでみるも、イマイチわからんといった様子で首を傾げる。
随分と乙女チックな香りを好むお父さんだなぁなんて若干ズレてることを考えながら、ユリカはシャーペンを取った。
「さっきのとこだけど。ここで一回マイナス掛けなきゃいけないのよ。それ見逃してるんじゃない?」
「……あ。ホントだ。ミスったミスった」
「それがわかったんなら問3もできるよ、やってみて」
ユリカが促した途端、彼は勢いよくシャーペンを机に置いた。
「んあーーー、飽きた。ちょっと休憩」
「早すぎ」
大きなあくびに見合う大きな伸び。椅子がギシギシ軋むものだから、壊れるんじゃないかとヒヤヒヤする。
日が延びていて気が付かなかったが、時計を見るともう結構いい時間だった。最終下校時刻まで、残り時間あと僅か。
流石のユリカも多少の疲労を感じて、机の上に突っ伏す。
「なあ」
上から五十鈴の声が降ってきて、姿勢そのままに顔を横に向けた。
至って真剣な面持ちの彼と、目線がかち合う。
今度は逸らさずに、彼の漆のような濁りのない黒い双眸は、ユリカの栗色の瞳を捕まえて離さない。
「ナ、ナニ」
なんだかこっちが照れ臭くなってユリカが棒読みを発動すると、五十鈴の顔が、空気が抜けるように柔らかく崩れる。
「いや、その……ありがとう」
「は?」
「だからぁ!
時間。割いてくれてありがとって言ってんの」
──────ユリカの瞳が揺れた。
またいつもの不機嫌そうな表情に戻って、ふいっと目線を外す。
「そんなんも言わないと分かんねーのかよ。読解力欠如しすぎだろ」
「う、うるさい口ベタ男!こっちは理系なんだから仕方ないじゃない!」
「文系理系カンケーねーだろ!日常生活の話」
─────疲れたように物思いに耽っていたから。目の下にクマが浮いていたから。
多分、このぶっきらぼうな不良なりの気遣いだろう。
「気にしなくていいのよ、そんなの。私だって五十鈴に教えることで記憶が定着して学びになってるから」
今日書いたルーズリーフをまとめて挟む。
「それに私、人に教えるの結構好きなの」
そう口にして、そっと微笑みを浮かべた。
別に彼に罪悪感を持たせたくないからとか、そういうわけではない。本当に、心からそう思っただけ。
それに、ちゃんと人へ感謝の意を伝えられる彼からは、何処となく人の良さが滲み出ているようにユリカには思えた。
「あなた、不良に向いてないわよ」
「いきなり何。生真面目な顔で」
「……何で五十鈴は、急に真面目に勉強しようと思ったの?」
ユリカの突然の切り出しに、五十鈴は吃驚したように眉を動かす。
返答に迷うように、しばらく指で机を軽く叩いたりなぞったりながら、
「別に。そろそろ親孝行しよーかなって思っただけ。進級できなかったら流石に家に迷惑かかるし」
と言った。
自分のことのはずなのに、興味関心を感じさせないその声色にユリカはどこか違和感を感じる。
「お父さん、厳しいの?前にお兄さんもいるって言ってたよね、確か」
「厳しくはない。っていうか、もうほっとかれてる感じ?興味ないんじゃね、俺に」
他人事のように笑った。
「犯罪だけしなきゃ何してもいいって言われてるし」
乾くようなため息に混じって紡がれたその言葉に、家族間の温度差の違いを感じてユリカはただ戸惑った。
何か事情があって、家の中の空気が良くないのだろうか。そのせいで、彼は不良になってしまった、とか?
いずれにせよ、ユリカはいくら友達といえども家庭の事情に首を突っ込むタイプの人間は好きじゃないし、自分だってそういうことはしたくないと思っている。
────と。
五十鈴のスマホから馬鹿でかい音で着信音が響き渡った。ユリカの細い肩が跳ね上がる。
電話だ。
「びっっっくりしたぁ!」
「……わり、ちょっと出てくる」
電話の相手の名前を一目見るなり、分かりやすく五十鈴の顔がげんなりと萎える。
廊下へ移動した彼は、声のトーンとボリュームを抑えてはいるものの、耳のいいユリカには全て筒抜けだった。
「あー、そ。……うん、うん……あー、だからいいって言ってんじゃんそれは。マジでいらないから」
苛立ちがまるで隠しきれていない。相手は父親だろうか?
「……うん……うん……ああ、帰ってきたんだ」
声色が、打って変わって穏やかなものになった。
別に盗み聞きしているつもりはないが、次々と会話の内容がこちらに聞こえてくる。
「今回はどこ行ってたの、あの人?
……フィレンツェ?また?どんだけイタリア好きなんだよ、あの人……」
────イタリア!?
突如として飛んできた海の向こうの国名に、ユリカは思わず目を剥く。
五十鈴は変わらず続けた。
「イチゴが来たら言っといて。めんどくせーことすんなって」
通話が切れた音。すぐに五十鈴が教室に入ってくる。
スマホを置いてため息をついた五十鈴に、ユリカは前屈みになって質問した。
「ねえ、イチゴって何?普通にフルーツのイチゴ?それとも人の名前?」
ユリカの好奇心は抑えることができない。
その瞳に満ち満ちた輝きで、五十鈴は何となく察する。
「聞いてたのかよ」
「あんな通る声で話されちゃったら嫌でも耳に入るわよ」
苦い食べ物でも口に突っ込まれたような顔で、観念したように渋々、
「従兄弟だよ、従兄弟」
と投げやりに答えた。
「イタリアで何をしてる方なの?それはお仕事?それともプライ……」
「あーもう黙れ黙れ。お前マジでウザい」
「あのねぇ、お前、とかおい、とか、人のこと名前で呼ぶことすら出来ないの!?」
「お前だって俺のことアンタとかあなたとか言ってんじゃん」
「私はさっきちゃんと名前で呼びました!」
「いいだろユリカ様っつってんだから」
「それはみんなが勝手に呼んでるあだ名でしょ!」
「満更でもなさそーなクセに」
ぐ、とユリカが言葉に詰まった。
またこの男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。小学生か。
入学してから今の今まで、気がつけば勝手に周囲に盛られまくっていたユリカのお嬢様設定。たまたま苗字が同じなだけなのに、桐谷財閥の娘なんていう酔狂な設定まで付随している。
果たしてみんながどこまで本気で信じているのかは定かではないが、ユリカが本当に財閥グループの娘だったらこんな辺鄙な公立高校に通っているわけがないだろう。
でもまぁ……貧乏だ何だと陰口を叩かれるよりは、遥かに気が楽だ。
だからユリカは噂の真偽については否定もしないし、肯定もしない。
そんなユリカの様子に微塵も気づいた気配がないまま、五十鈴は乱雑にリュックに荷物を詰めて片方の肩に掛ける。
「帰んないの?」
「図書室で本返してから帰る。先帰ってて」
「あそ」
いつも通り淡白な返事をして彼は教室を後にする。
すると、ドアからひょこりと顔を出して、
「ユリカ。
また明日」
「……え?」
「うわーーーっ、キッショ!やっぱムリ、オエッ」
「えっ、あ、ちょっと!待ちなさい!」
状況の処理が追いつかない頭で、慌てて後を追って廊下に出るも、五十鈴の背中はすっかり薄暗くなった廊下に消えていく。
「キッショってなによーーーっ!?」
突如取り残されたユリカはヤケになって、人っ子一人いなくなった廊下に叫ぶ。
当然返事が返ってくるはずもなく、ユリカの叫びは余韻を残して虚しく消えていった。
────ユリカ。
五十鈴の口から、穏やかに紡がれた己の名前。
いつも『オイ』とか『お前』とか『ユリカ様』でぼかしていた男が、ようやくユリカの正式な名を学習した。
ただ、それだけのことなのに。
行き場のない奇妙な感情を伴った心を誤魔化すために、ユリカは無意味に自分の髪を撫でつけた。
「……古賀、五十鈴」
あの輩っぽい見た目からは想像も出来ない古風で軽やかな響きのその名前を、ユリカは無意味に口の中で転がした。
従兄弟と紹介された謎の人物、イチゴ。
これから大きく物語に関与します。




