第16話 良いお兄さんね
五十鈴がいつも使っていた空き教室とは、どうやら3階の音楽室の隣の教室のことらしい。
いまだにこの無駄にだだっ広い学校の構造を理解しきれていないユリカは、勉強道具と弁当を抱えて昼休みに学校を駆け回った。
音楽室のある場所は生徒たちの教室とは少し離れた場所にある。だからいくら昼休みといっても、教室の騒がしさとは一歩距離が置かれている。
音楽室……の隣だから、ここだ。
走り回っていた勢いをそのままに扉を横に引く。
思っていたより滑りが良く、勢い余った扉が反対側にぶつかって音を立てた。
教室のど真ん中の席に腰掛け、前の机の上に偉そうに足を置いてスマホをいじっている五十鈴と目が合う。
「方向音痴」
笑いもせずにそう言った。
「しょうがないでしょ!てか、なに!?やる気あるの?ないの?ハッキリしなさい!」
「あー、ハイハイ。教科書と〜……ワーク?と、あとルーズリーフ」
リュックの中からポンポン投げるように勉強道具を机の上に広げていく。
ユリカも彼の隣の机を動かして、五十鈴と向かい合いになるように座った。ついさっきまでこの男が足を乗せていたこの机を使うのは、申し訳ないが御免被りたい。
「あなたは何が苦手なんだっけ?数学?」
彼が投げてきた数Ⅱの教科書をそれとなく開いてみると、端々にいつもの3人が描いたであろう小学生のような、あまりに知能の低い落書きが見えた。
先が思いやられすぎて、ユリカの口から勝手にため息がこぼれた。
「赤点は確か〜……数Ⅱと数Bと……地学と……」
「とりあえずアンタね、この落書きをまずやめなさい。はい消す!」
「イッテ!」
五十鈴に消しゴムを投げつけて落書きを消させる。
ぶちぶち文句を言いながらもそれなりに大人しく落書きを消している五十鈴の目の前で、ユリカは自分の弁当を広げた。
昼休みなのだ、腹拵えくらいはさせて欲しい。
「人に労働させといて自分だけメシかよ」
「その労働のタネを作ったのはアンタ自身だからね」
「てかさ〜……」
五十鈴は躊躇いもなくユリカの弁当を覗き込む。
「ショボくね?桐谷グループさんの召使いが作ってこのクオリティ?」
無理もない。今日のユリカの弁当は、ご飯、冷凍のたらこパスタ、昨日の夕飯の残りの唐揚げと冷凍の春巻き、一応栄養バランスを考えてサラダとミニトマト。
質素低クオリティこの上なかった。
「人のお弁当覗き見てる暇あったらさっさと落書きを消せ!」
「俺の教科書なんだから俺がどうしようと俺の勝手じゃね」
「う……いやでも、学校から配られたモノを────……」
「この落書きがあって俺が困ることがあったらそん時消せば良くね?こんなゴミみたいなモン消してる時間あったら勉強した方が」
「わかりましたわかりました!もういいです!」
返す言葉が見当たらない。この男はこっちがああ言えばこう言うタイプなのだ。弁論大会に出ても出れば良いのに、とユリカは内心思う。
五十鈴に睨まれながら(本人はただ見つめているだけのつもりかもしれないが、いかんせん目つきが鋭すぎるためそう見えてしまう)弁当の4割ほど素早く平らげたユリカは一度蓋を閉める。
「文系と理系って数学の進度が違うのよねぇ……数Bは今どこやってるの?」
彼の教科書をパラパラ捲る。
「何だっけ、なんか、数を並べた差が同じでナントカみたいな」
「ああ……等差数列ね」
それなら、とユリカはその単元のページを開いた。
「担当の先生は誰?」
ふむ、と五十鈴は一瞬考え込む素振りを見せた。
「ハゲたメガネのおっさん」
考えた結果がそれかよと心の中で突っ込む。
「失礼すぎでしょ」
「ほとんど授業出てなかったから知らねーんだよ名前なんか」
「ハイハイ、白石先生ね。ウチと一緒。ならこれくらいもう授業進んでるでしょ、あの人授業超速いから」
単元の小問集のところを人差し指で軽く叩く。
「まずは自力でやってみて」
「はぁ?何もわかんねーって言ってるだろ」
「授業の内容を頑張って思い出すの!数学は頭を捻って脳の糖分使い果たす教科なんだから」
「はー、クッソ、帰りてえ」
「帰らない。ホラ、さっさとやりなさい!昼休み終わっちゃうから!」
めんどくせー、と吐き捨てた彼は頭をガシガシ掻き毟る。
その目の前で、ユリカは五十鈴のテストの答案を改めて見直した。
……こないだ見た時は点数を確認するのに必死すぎて見えてなかったけど、この男は意外と字が綺麗だった。
習字のように達筆な文字に、何気に感心する。
っと、そんなことを考えている場合ではない。分析をしなくてはいけない。それなりに頑張ってやっていた彼が、なぜ思ったより点数を取れなかったのかを。
数学に関してはざっと見たところ、ケアレスミスが多いように感じた。符号のミスだったり単純な計算ミスだったり……他の教科に関してはなんといっても圧倒的に空欄が多かった。
そういえば、いつのまにかこの教室には静寂が訪れている。
そっと顔を上げてみると、五十鈴はだらけた姿勢のまま、けれども黙ってシャーペンを動かしていた。
いつも怖そうに眉を上げて髪をかき上げているこの男が。動き回っていないと死んでしまいそうな、まるでマグロみたいなこの男が。
口を引き結んで、時折目を細めながら結構真剣に問題に取り組んでいる。
その証拠として、ユリカからの視線には全く気がついていないようだ。
薄く開けた窓から入る風で、彼のアホ毛がふわふわ踊る。
よくよく観察してみると、ひと目で分かるくらいに毛先がパサパサに傷んでいた。
前にネットでブリーチとカラーではブリーチの方が痛みやすいというのを見たことがあるが、どうやら本当のようだ。
「……ねぇ。
いつから髪、染めてるの?」
五十鈴がシャーペンを持ったまま顔を上げた。集中を妨げるのは申し訳ないとは思ったが、どうしても好奇心が勝った。
「高校入る直前の春休み」
それだけ答えて、また目線をノートに落とした。
「めっちゃ毛先傷んでるじゃん。
普通に染めれば良かったのに」
「俺、地毛がクソ黒いからブリーチじゃないと上手く金髪になんないんだよ」
アメリカのスクールカースト頂点の男の髪色のような、明るいブロンド。
彼の髪色に関して、そんな感想が浮かんできた。
「アンタはブリーチいらなそうだな」
「は?」
「なんか、アレ。
ココアの粉?みてーな色してるから。てか、地毛?それ。染めてんの?」
「地毛よ。うちの家族全員こういう色してんのよね、多分母からの遺伝だろうけど」
ワードセンスが独特すぎて色々ツッコみたい気持ちはある。また彼はすぐに興味を失ったような顔に戻った。
「あそ。……あーそっか。そりゃお嬢様がいきなり髪染めだしたら、名門財閥一家のメンツが立たなくなるか」
「そうよ。真面目に堅実に生きていないと怒られちゃうからね」
「消しゴムを人に投げつけんのは真面目で堅実判定?」
「それは元はと言えばアンタが悪いんでしょ!」
五十鈴の方から初めて質問されたような気がする。
俄かに驚いた内心を悟られぬよう、何食わぬ顔でいつものように答えた。
「出来た。テキトーに書いたけど」
「よし、見せてみなさい」
彼のノートに書き記された回答を、教科書の解説と併せて見る。途中式も書いてあるし一応頑張って考えた形跡は見えるが……
「うーん、全部違う」
「あーっ、クソ。だよな、知ってた」
ちょっと借りるわよ、と前置きしてから、彼のペンケースの中からボールペンらしきものを一本取り出す。
重い。高そうなボールペンだった。
というか実際高いのだろう、この前のハンカチと同様、側面に名前が彫られている。
「これ……誰かに貰ったの?」
「兄ちゃんに貰った」
「そう……高そうね、コレ」
「高いよ。あの人、リッチだから」
あの人、とはお兄さんのことだろう。
一連の会話から『それ以上この話をするな』という無言の圧を感じ取ったユリカは、
「良いお兄さんね」
とだけ言って早々に話を切り上げようとする。
なるべく、当たり障りのない言葉を選んだつもりだった。
「そ。兄ちゃんがいればウチは安泰」
────皮肉めいた、その声色。
自嘲するような、淋しいような。
その言葉の真意をいまいち読み取れないまま、ユリカは気を取り直して、バツだらけになった彼のノートに再び目線を落とす。
「……こうやって数字が並んでるでしょ?だからまず、この数字同士の差がいくつなのかを確かめて────……」
予鈴が鳴った。
あと5分で昼休みが終わる。
「あー!私お弁当全部食べてない!」
「早弁すりゃよかったんだよ」
「私、そんなキャラじゃないもん」
さっきの静かな声色からいつもの五十鈴に戻ったことに心の中で安堵したユリカは、うっかり口を滑らせてしまう。
「へぇ、キャラ?」
「違う違う違う、ミスった。……ああ、いや!違くて!」
面白い玩具を見つけた小さな子供のように笑うと、ユリカの顔の前に手を伸ばした。
「返せ」
ボールペンを奪うと、ペンケースの中にしまう。
「じゃあね、ユリカ様」
席を立ったユリカに、五十鈴がひらりと手を振った。
「はあ?アンタも教室戻りなさいよ」
「俺昼寝してくから、ここで」
……はぁ〜?
それはつまり、5限目をサボるということ。
真面目なのか不真面目なのか、この男いまいち掴みきれん。
ユリカは顔を顰めた。
「不良の考えることってイマイチわっかんないわねぇ……」
「そりゃどーも」
眠そうに大きなあくびをしながら、彼は机に顔を伏せた。
「いい?今日やった問題はちゃんと家帰って解き直ししとくのよ!」
あくび混じりの返事を返される。
「うう……んーーっ、もう!!いい!?ちゃんと!真面目にやるのよ!?」
最後の最後にそれだけ念を押して、ユリカは色々言いたいことを飲み込んだ。
口惜しそうな顔のまま、慌てて教室へ駆けていく。
──────ユリカの足音が遠くなり、1人きりになった空き教室の真ん中で、五十鈴は腕の中から顔を上げた。
ユリカに貸したボールペンをペンケースから取って、くるくると回す。
「良いお兄さん、ね……」
5限目の体育のランニングの掛け声が窓から聞こえてきても、五十鈴は無意識に強く唇を引き結びながら、ボールペンを回し続けた。
「……もったいねーよな、俺には」
自らを嗤うような彼の小さな呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
何やら兄にコンプレックスがあるような五十鈴さん。
さて、勉強会はちゃんと続けられるのでしょうか……?




