第13話 風情のある男
「じゃ、ユリカちゃん。今日はもうここまででいいよ」
「え、でも、今店長お一人だけですし」
「いいよいいよ、あとはやっとくから。弟さんたちのためにも早く帰ってやんな」
ここは個人経営の八百屋。
その割には時給が比較的高く、ユリカは去年からずっとここで働き続けている。
従業員の数もそれほど多くない。閉店間際の店内の清掃と在庫整理は、それなりの重労働である。
それをこの初老の女性1人に任せるのもなかなか忍びない。
だが、現在時刻は21時15分。確かに、そろそろ帰って勉強したい。
「じゃあ、これ奥に運んだらお先に失礼しますね」
と、段ボール類をいくつか持ち上げて言った。
「あら、いいのに……いつもありがとうねぇ。ほんとに助かってるよ、可愛いユリカちゃんがいてくれて。
またテストが終わったらよろしくね」
そう言って、モップを手に持った彼女が微笑んだ。
先にエプロンを脱いで学校の制服姿になった後、奥の倉庫に段ボールを運んだ。
仕事を終えたユリカは外に出て、空を仰ぎ見る。
綺麗な満月が、ほんの少しだけ薄い雲に隠れていた。
「綺麗……」
思わず、呟いた。
その呟きは、どこまでも広がる無限の夜空に吸われて消える。
夜の少し冷たい空気を噛み締めながら、足早に駅へと向かう。
ふと思い出して、スマホを開く。
五十鈴から通知は……来ていない。
たまにはこっちから送ってみようと思い、道端に立ち止まって、少し考えてからメッセージを打つ。
『今日はどこで勉強したの?』
送信。
だが、数分待っても返信は返ってこない。
今までは結構すぐに返ってきたのに。
まあ、それほど熱心に勉強してるってことか、と思い、特に考えもせずスマホをスクバのポケットにしまう。
しばらく駅の方へ歩いていると、前から誰かが歩いてくる。
「……あ」
その人物の顔を認識しても、ユリカはさして驚きもしなかった。
万引き濡れ衣事件の時に、最寄り駅はこの辺だと言っていたし、別にばったり出くわしたって不思議じゃない。
「……よお」
目の前の────五十鈴は、片耳からイヤホンを外した。
寝不足なのか、若干瞼が重そうだ。
「……あ、悪ぃ、LINE通知切ってた」
彼がスマホを確認する。
「いえ、お気になさらず」
「何してんの?こんな時間に。ユリカ様の最寄りはここじゃないっしょ」
うぐ、とユリカは言葉に詰まる。
バイトしてました〜なんて言えない。
何せ彼は、ユリカのことをコーラすら飲んだことのないお嬢様だと信じて疑っていないのだ。
反応に困っていると彼は、まさか、と、一歩距離を詰める。
「バイト?あそこのファミレスとか?
あ〜、でも財閥のお嬢様に限ってそんなこと────」
「そっ、そっちこそ!勉強はどんな感じなのかしら!?ちゃんとやってんでしょーね?もう1週間しかないのよ?」
含み笑いをしたまま、「ああ……」と後頭部で手を組む。
「今日あいつら全員シフト入ってたから、本日の勉強会は中止しました」
「勉強は1人でもしなさい!」
「だから今家帰ってやろうとしてんの!」
反抗期の息子のような口ぶりに、ユリカは思わず口を尖らす。
……はて。この男は今、駅に向かおうと歩いているユリカの反対側から歩いてきた。
と、いうことは。
「もしかして、アンタの最寄りってここ?」
その問いに、今度は彼があからさまに「うっ」と喉を詰まらせる。
ユリカは内心焦った。
───こんな遠くから通っているうちの学生なんてそうそういないだろうと踏んで、わざわざ自分の最寄りから数駅前のここでバイトしているのに!
「ア、アノ……あそこの薬局の手前に八百屋さんがあるじゃない?」
「?……あぁ、うん」
指先をこねくり回したまま、ユリカは続ける。
「おつかいとか、行かないの?」
「おつか……ハァ?」
『急に何言ってんだコイツ』と言いたげな目を向けながらも、
「行ったことねぇよ」
とだけ言った。
────『行かない』じゃなくて、『行ったことない』。
「おうちの手伝いとか、やっぱりしないのねぇ、あなたは」
「別に……やることねーし」
「そんなことあるわけないでしょお!?
毎日の山のような洗濯物に汚れた食器、部屋は掃除機かけないとすぐ埃っぽくなっちゃうし、部活で汚れたユニフォ……」
しまった、と思って口を噤むも、日頃の鬱憤について一通り喋ってしまったあとであった。
案の定五十鈴は、ほんの少し首を傾げる。
「そーゆーのって、召使いみたいな人がやってくれるんじゃないの?アンタの家の場合は」
「あいや……ウチはそういう教育方針なのよ!
やってもらって当たり前じゃなくて、なるべく自分たちのことは自分たちで────」
「あー、ハイハイ!わかりましたわかりました」
とっくに興味を失っているような調子で、手を振りながら雑に切り上げる。
まあでもよかった。これで彼が八百屋に来て偶然バッタリ!という展開は避けられた。
心配事がひとつ消えて、ユリカが頭の中で安堵したことなど、彼は知るはずもなく。
「帰る」
もう最寄り駅の件に関して言い訳する気はないのだろう、大人しく自宅の方向と思しき方へ足を向ける。
だが一歩歩くと、彼は振り返った。
「着いてくんなよ、絶対」
「誰が!」
────と。
その時、砂を巻き込むような夜風が、ざぁっ、と吹き抜けた。
地面に落ちた新緑の葉を攫い、砂がふわりと舞う。
五十鈴の猫っ毛は簡単に乱され、ユリカの長い髪も暴れた。
その強い夜風が、天上の雲を動かして満月をいつのまにか隠していた。
空に向かって吹き上げていくような風を感じながら、ユリカは重い雲に覆われてしまった月を仰いだ。
「……月に叢雲」
ふと、そんな言葉が溢れた。
空では風の流れが早いのか、月を隠していた雲たちはすぐに横に流れて、また美しい満月が顔を出す。
「花に風」
「───え?」
隣から聞こえた、その言葉。
彼の口から聞こえてきたことにびっくりして、思わず彼を凝視する。
「なんだよ」
目線を感じた彼は、びっくりしたように目を瞬いた。
「あ、いや……知ってるんだ」
「なにが」
「ことわざ」
……ああ、と呟き、ふいっ、と目を逸らして続ける。
「一般常識じゃね?普通に」
「あなたが一般常識を知っていることにまず驚いた」
「お前、マジでどっちなんだよ。俺の味方なの?敵なの?フレネミーってヤツ?」
「そもそもあなたにフレンドって思われてるの?私」
「別に思ってねえ」
「あら奇遇ね。私も」
数秒睨み合ったあと、お互いに真逆の方向に方向転換する。
全く、何なんだコイツは。
兎にも角にも、古賀五十鈴が一つでも赤点を取ればユリカは彼に勉強を教えねばならない。こんな反抗的な男に勉強を教えるなんて、流石のユリカも気が進むとは言えなかった。
しばらく歩いた後恐る恐る後ろを振り返るも、五十鈴の背中は消えていた。
ふー……とため息をつく。
頼むから何がなんでも赤点から救ってやってくれよと、勉強面に関しては何とも頼りないあの3人に心の中で祈りを捧げた。
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