首相公邸の幽霊
「待ちくたびれたぞ、新しき総理よ」
黒いおかっぱ髪の少女は、暗い廊下の中央に立ち、政朝を見上げていた。
年齢は七、八歳ほどにしか見えない。
古めかしい着物をまとったその姿は可愛らしいが、こんな時間に、厳重な警備に囲まれた首相公邸の中を歩いている時点で普通ではなかった。
「……俺を知っているのか?」
「無論。ここ数日、備え付けのテレビをつければ、そなたの頼りない顔ばかり映っておったからな」
「初対面の人間に対して、ずいぶんな言い方だな」
「人間ではない」
少女はあっさりと言った。
政朝は黙った。
できれば聞き間違いであってほしかった。
「今、何て?」
「妾は人ではないと申した」
少女の身体が、常夜灯の淡い光を受けて、かすかに透けた。
着物の向こうに、廊下の壁が見える。
政朝は数秒間、その光景を見つめた。
それから、ゆっくりと後ろを向いた。
「寝よう」
「待て」
「これは夢だ。最近、疲れているから妙な夢を見ているだけだ」
「現実から目を背ける癖があるようだな」
「夢の中の登場人物にまで性格を批判されたくない」
「そなたは昔からそうであろう。厄介事に巻き込まれても、自分で解決したとは考えぬ。周囲の者が頑張ってくれた、運が良かっただけだと、自らの働きを過小評価する」
政朝の足が止まった。
「何で、それを……」
「総理大臣になった今も同じだ。自分が選ばれたのは、若さと清廉さが党にとって都合が良かったから。己の能力を評価されたわけではない。そう思っておる」
何も言い返せなかった。
少女は政朝の胸の内を、そのまま読み上げるように続けた。
「国民から向けられる疑念も、もっともだと思っておるな。党の操り人形。井上政権の看板。汚職への批判をかわすために置かれた飾り」
「やめろ」
「野党の追及に耐えられる自信がない。閣僚や官僚を率いる自信もない。自分の判断一つで国民の生活が変わることが、恐ろしくてならぬ」
「やめてくれ」
「そなたは、自分が総理大臣にふさわしくないことを、誰よりもよく理解しておる」
「分かってる!」
政朝の声が廊下に響いた。
敷地内には警備担当者がいる。これだけ大きな声を出せば、誰かが駆けつけてきてもおかしくない。
しかし、人の近づく気配はなかった。
公邸全体が切り離され、二人だけが別の場所にいるような、不自然な静けさが続いている。
「当選二回だ。大臣経験もない。党内のことだって、全部分かっているわけじゃない」
政朝は吐き出すように言い、胃のあたりを押さえた。
「俺より経験のある議員なんて、いくらでもいる。政策に詳しい人も、交渉がうまい人も、決断力のある人もいる。それなのに、たまたま派閥に入っていなかっただけの俺が総理になった」
「うむ」
「否定してくれないのか」
「そなたの能力が不足していることは事実ゆえ」
「少しは遠慮しろよ……」
「総理大臣に遠慮して国が良くなるなら、いくらでもしてやろう」
見た目は幼いのに、口調も態度も妙に尊大だった。
だが、不思議と悪意は感じられない。
少女は政朝を傷つけるためではなく、ただ事実を口にしているようだった。
「ところで、幽霊なのにテレビをつけられるのか?」
「必要であれば実体化できる。電源を入れる程度、造作もない」
「幽霊がテレビを見てる姿なんて、想像したくなかったな」
「妾とて、世の情勢を知る必要があるのでな」
少女は当然のように答えた。
「では、一つ尋ねよう」
少女が政朝へ歩み寄る。
「そなたは、総理を辞めたいか?」
政朝は答えられなかった。
辞めたい。
そう思ったことは、一度や二度ではない。
就任からわずか一週間で、胃薬の減る速度は以前の数倍になった。眠れない夜も続いている。
だが今すぐ辞任すれば、ただでさえ混乱している政治を、さらに混乱させることになる。
何より、自分を信じて支えてくれている者たちを裏切ることになる。
「分からない」
ようやく出たのは、ひどく情けない答えだった。
「辞めたいと思うことはある。でも、辞めていいのかは分からない」
「なるほど。少なくとも、投げ出すことを当然とは考えておらぬか」
少女は満足したように、小さくうなずいた。
「ならば、妾と取引をせぬか?」
「取引?」
「妾がそなたに取り憑き、政治について助言してやる」
政朝は眉をひそめた。
「幽霊が政治の助言?」
「幽霊を見下すでない。そなたよりはるかに長く、この国と政治を見てきた」
「いつからここにいるんだ」
「それを話せば夜が明ける」
少女は胸を張った。
「政局、政策、外交、国民の心。必要に応じて、妾の知恵を貸してやろう。そなたが一人で悩み、誤った道を選ばぬようにな」
「どうして俺を助ける?」
「助けるのではない。取引だと申したであろう」
少女の大きな瞳が、まっすぐ政朝を捉えた。
「そなたが死んだ後、その魂を妾が取り込む」
「……はい?」
聞き間違いだと思いたかった。
「俺の魂を?」
「案ずるな。消滅するわけではない。そなたの意識も記憶も、そのまま残る」
「それのどこが安心できるんだ」
「妾の中で、恒久の時をともに過ごすことになるだけだ」
「恒久?」
「終わりがないということだ」
少女は、まるで大した条件ではないかのように言う。
政朝は頭の中で取引の内容を整理した。
生きている間、政治について助言を受ける。
代わりに、死後は永遠にこの少女と過ごす。
「対価が釣り合ってないだろ」
「そうか?」
「当たり前だ。政治の助言と、死後の永遠だぞ」
「そなたが総理でいるのは、長くとも数十年。死後は恒久。確かに、妾の方が得をするな」
「堂々と認めるな」
「では、契約するか?」
「しない」
政朝は即答した。
総理として困っているからといって、自分の死後すべてを差し出すつもりはない。
ましてや、相手が何者なのかすら分かっていないのだ。
「そうか」
少女は小さく呟いた。
その声には、先ほどまでの尊大さがなかった。
ほんの一瞬だけ、ひどく寂しそうな表情を浮かべる。
政朝はなぜか、胸を締めつけられた。
「いや、だからって、そんな顔をされても――」
「よい。取引は双方の合意がなければ成立せぬ」
少女の輪郭が、淡い光の粒へと変わり始めた。
「待て。まだ聞きたいことがある。君は一体――」
「契約を拒んだ者が、妾の存在を覚えている必要はない」
「何を言って……」
「さらばだ、新しき総理よ」
少女が指先を政朝へ向けた。
「せめて、良き総理であろうともがくがよい」
視界が白く染まる。
政朝は反射的に目を閉じた。
◇
目を開けると、政朝は寝室の布団の上に横たわっていた。
窓の外はまだ暗い。
枕元の時計は、午前二時を少し過ぎた時刻を示している。
「……夢か?」
上半身を起こす。
何か奇妙な夢を見ていたような気がする。
だが、内容を思い出そうとすると、頭の中に霧がかかったように記憶が逃げていった。
覚えているのは、暗い廊下を歩いていたことだけだ。
疲れて寝ぼけたまま戻り、そのまま眠ってしまったのだろう。
「さすがに疲れてるな……」
政朝は再び布団へ身体を沈めた。
胸の奥に、何か大切なものを置き忘れたような感覚だけが残っていた。
◇
月曜日。
国会が本格的に動き始めた。
通常国会の冒頭から最大の争点となったのは、自由推進党所属議員による汚職事件への対応だった。
野党各党は、関係議員の辞職だけでは不十分だと主張し、事件の全容解明、党内調査の公開、政治資金制度の見直しを求めた。
政朝は予算委員会の席で、何度も頭を下げた。
「総理は党内調査で十分だとお考えですか」
「関係者に対する処分は、いつ決定するのですか」
「汚職を見て見ぬふりをしていた井上幹事長をはじめ、当時の党執行部の責任をどう考えていますか」
「今回の組閣は、汚職問題から国民の目をそらすための看板替えではありませんか」
一つ答えれば、別の角度から次の質問が飛んでくる。
事前に用意された答弁書を読めば、今度は「自分の言葉で答えていない」と批判される。
答弁書から離れて話せば、発言の一部だけが切り取られ、速報として配信された。
さらに、前政権が進めていた次期ワレナンバーカードの機能拡張を巡っても、激しい論戦が続いた。
行政手続きの簡略化を目的とした政策だったが、個人情報の保護や管理体制への懸念が根強い。
特に、連帯民主党や社会人民連合、日本共有党などのリベラル系政党は、政府による国民監視につながる恐れがあるとして、計画の凍結を求めた。
「汚職事件の全容すら明らかになっていない政権に、国民の個人情報を一元的に管理する資格があるのですか」
連帯民主党の議員が、鋭い声で迫る。
「政府が国民を信用していないのではありません。国民が政府を信用できないのです」
議場の一部から拍手が起きた。
政朝は答弁席に立ち、手元の資料へ目を落とす。
計画をそのまま進めれば、国民の不安を無視したと批判される。
凍結すれば、前政権が積み上げてきた費用と時間が無駄になる。
一部を見直せば、中途半端だと言われる。
完全な正解など、どこにもなかった。
「本計画については、国民の皆様の不安を重く受け止め、個人情報の管理体制を改めて検証します」
「つまり、計画を凍結するのですか」
「現時点で、そのように決定した事実はありません」
「進めるのですか、止めるのですか。総理自身の考えをお答えください」
政朝は言葉に詰まった。
自分の考え。
それを持つために必要な情報すら、まだ十分に整理できていない。
後ろから閣僚が小声で助言し、官僚が新しい資料を差し出す。
議場の視線が、一斉に政朝へ注がれる。
あぁ……胃が痛い。
声には出さず、心の中でそう呟いた。
◇
さらに一週間が経過した。
政朝の睡眠時間は、日に日に短くなっていた。
予算委員会。
党内調整。
官僚からの説明。
記者会見。
閣僚との協議。
海外首脳との電話会談に至っては、深夜に行うこともあった。
公邸へ戻ってからも、翌日の答弁資料や報告書が待っている。
何を決めても批判され、決めなくても批判される。
政策を進めれば拙速と言われ、慎重になれば決断力がないと言われた。
国民からの期待に応えたい。
汚職で失われた信頼を取り戻したい。
政治家として正しい判断をしたい。
そう願っているのに、何が正しいのかが分からない。
日曜日の深夜。
政朝は眠れず、再び公邸の廊下を歩いていた。
照明は落とされ、常夜灯だけが足元を照らしている。
一週間前にも、こうして廊下を歩いた気がする。
しかし、その後のことを思い出せない。
胸の奥に残っている違和感が、とても気持ち悪い。
何かを忘れている。
自分にとって、ひどく重要な何かを。
「俺は、どうすればいいんだ……」
誰もいない廊下で、弱音が漏れた。
「答えを持たぬ者が、それでも答えを求められる。それが総理大臣というものだ」
幼い声が響いた。
政朝は勢いよく振り返った。
廊下の先に、黒いおかっぱ髪の少女が立っている。
古めかしい着物。
透き通る身体。
そして、年齢に似つかわしくない尊大な表情。
少女を見た瞬間、頭の中を覆っていた霧が晴れた。
最初の夜。
公邸の廊下。
自分の不安を言い当てられたこと。
取引を持ちかけられ、拒絶したこと。
「君は……」
「思い出したか」
「どうして記憶を消した」
「契約を拒んだ者に、幽霊の記憶を背負わせる必要はなかろう」
少女は静かに答えた。
「それに、妾を忘れれば、そなたは己の力だけで歩けるかもしれぬと思った」
「結果は見てのとおりだよ」
政朝は力なく笑った。
「何を言っても批判される。何を決めればいいのか分からない。周りの人に意見を聞けば聞くほど、誰の言葉が正しいのか分からなくなる」
政朝はそう言って、疲れ切った表情で少女を見つめた。
「正しい者などおらぬ」
「え?」
「政治に、誰にとっても正しい答えなど存在せぬ。一方を救えば、もう一方が不満を抱く。今日の利益が、明日の損失になることもある」
少女は政朝へ近づいた。
「ゆえに総理は、正解を選ぶのではない。選んだものを、自らの責任で正解へ近づけ続けるのだ」
その言葉が、政朝の胸に深く刺さった。
「俺に、それができると思うか?」
「今のそなたには無理だ」
「少しくらい希望を持たせてくれ」
「だが、無理であることと、できるようにならぬことは同じではない」
少女は政朝の前で立ち止まった。
「そなたは能力が足りぬ。経験も足りぬ。覚悟も足りぬ」
「ああ」
「それでも、国を投げ出そうとはしなかった」
「ああ」
「己の名誉ではなく、判断を誤れば国民が傷つくことを恐れておる」
少女の声は、以前よりも穏やかだった。
「それは、総理に必要な資質の一つだ」
初めて、少女から肯定された。
その一言だけで、政朝は張り詰めていたものが崩れそうになった。
「もう一度だけ尋ねよう」
少女が右手を差し出す。
「妾と契約するか?」
小さな手だった。
その手を取れば、生きている間は助言を得られる。
代わりに、死後は永遠に少女と過ごすことになる。
以前は、対価が釣り合わないと考えた。
今も、その考え自体は変わっていない。
「一つ、条件がある」
「申してみよ」
「君が俺に取り憑き、政治の助言をする。それはいい」
政朝は少女をまっすぐに見つめた。
「でも、最後に決めるのは俺だ」
少女の眉がわずかに動く。
「君の言葉をそのまま実行するだけなら、俺が総理である意味はない。助言は聞く。間違っていると思えば反対もする。君が怒っても、俺自身が納得できなければ従わない」
「妾の知恵を疑うと?」
「どれほど長くこの国を見てきたのかは知らない。でも、君だって絶対に正しいわけじゃないだろ」
少女は答えなかった。
「責任を取るのは俺だ。だから、決める権利も俺に残す」
政朝は一度、深く息を吸った。
「それを認めてくれるなら、契約する」
「対価は変わらぬぞ」
「分かってる」
「死後、そなたの魂は妾の一部となり、恒久の時をともに過ごす事になる」
「一人で永遠を過ごすよりは、話し相手がいた方がましだ」
少女が目を見開いた。
その表情に、最初に契約を拒んだときの寂しそうな顔が重なる。
「それに」
政朝は差し出された小さな手を握った。
「俺の死後がどうなるかなんて、今の俺には分からない。けれど、総理として判断を誤れば、今を生きている人たちの人生を壊すかもしれない」
少女の手は、とても冷たかった。
「俺の魂一つで、少しでも多くの人を守れる可能性が得られるなら――」
政朝は、もう逃げなかった。
「この取引、受けて立つ」
少女の瞳が、かすかに揺れた。
「後悔するやもしれぬぞ」
「そのときは、永遠に君へ文句を言い続ける」
「恒久の時をかけてか?」
「ああ。覚悟しておけ」
沈黙の後、少女は笑った。
初めて見せる、年相応の無邪気な笑顔だった。
「よかろう」
二人の手の間から、白い光があふれ出す。
光は細い糸のように政朝の腕を伝い、胸の奥へ流れ込んだ。
冷たかった少女の手に、わずかな温もりが生まれる。
「汝、卯月政朝の生ある間、妾はその身に宿り、知恵を与えよう」
少女の声が、公邸全体へ響き渡る。
「されど、選び、決し、責任を負うは汝自身」
光が強くなる。
「そして命尽きし後、その魂は妾とともにあり、恒久の時を歩むものとする」
政朝は手を離さなかった。
「契約は成った」
少女の姿が光に包まれ、無数の粒となって政朝の胸へ吸い込まれていく。
最後の光が消えると、公邸の廊下に静寂が戻った。
だが、政朝は一人ではなかった。
『聞こえるか?』
頭の中に、少女の声が響いた。
「ああ。気味が悪いくらい、はっきり聞こえる」
『契約した直後に失礼な男だな』
「そういえば、まだ名前を聞いてなかった」
『名前?』
「これからずっと一緒なんだろ。呼び名くらい必要だ」
少女はしばらく黙り込んだ。
名前を持っていなかったのか、それとも名乗るべき名を選んでいるのか。
やがて、頭の中に静かな声が響いた。
『サザレ』
「サザレ?」
『うむ。妾のことは、サザレと呼ぶがよい』
政朝は、その名を心の中で繰り返した。
「分かった。これからよろしく、サザレ」
『任せよ、新しき総理よ』
「新しき総理じゃなくて、政朝でいい」
『では、政朝』
どこか嬉しそうな声だった。
『まずは寝るがよい。そなた、明日の答弁中に倒れるぞ』
「最初の助言が睡眠か」
『国を動かす前に、自分の身体を動かせる状態にしておけ』
「ごもっともで」
政朝は寝室へ向かって歩き出した。
明日になれば、難題が消えているわけではない。
汚職事件も、ワレナンバーカードの問題も、野党からの追及も続く。
自分の能力が突然高くなったわけでもない。
それでも、今までとは何かが違った。
一人ではないからではない。
自分で選んだからだ。
総理大臣であり続けることも。
この国の行く先を考えることも。
そして、得体の知れない幽霊と永遠をともにすることも。
すべて、政朝自身が決めた。
「なあ、サザレ」
『何だ?』
「俺、本当に総理を務められると思うか?」
少しの間を置いて、声が返ってきた。
『知らぬ』
「そこは大丈夫だと言ってくれよ」
『だが、務められるようになるまで、妾が鍛えてやる』
政朝は思わず笑った。
「あぁ……また胃が痛くなりそうだ」
それは、今までとは違い、少しだけ前向きな弱音だった。
やっぱり政治系は文字数が多くなりますね。
話数を分割してもいいですが、それだと話の流れが切れて分かりづらくなります。
そもそもこの作品のジャンルはローファンタジーで合っているのか?(2026/07/18 時点)




