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引っ越し

 卯月政朝(うづき まさとも)が内閣総理大臣に就任してから、一週間が経過した。


 通常国会の開会とほぼ同時に総理となったため、就任直後から息をつく暇などなかった。


 組閣と閣僚認証式に始まり、国会での所信表明、各党への挨拶回り、官僚からの説明、与党内の調整、海外首脳との電話会談。


 その合間にも、記者は容赦なく質問を投げかけてくる。


 総理として過ごした一週間は、議員として過ごした一年よりも長く感じられた。


「あぁ……胃が痛い」


 土曜日の午前十時。


 政朝は首相公邸の玄関前に立ち、建物を見上げながら胃のあたりを押さえていた。


 広大な敷地の中に建つ、重厚な外観の建物。


 これからここが、自分の住まいになる。


 そう考えても、まるで実感が湧かなかった。


「お兄、そこで突っ立ってると邪魔なんだけど」


 背後から遠慮のない声が飛んできた。


 振り返ると、大きな段ボール箱を両腕で抱えた美少女が立っていた。


 百々歌(とどうた) (さち)


 政朝の公設第二秘書であり、従妹でもある。十九歳という若さながら、高校在学中に司法試験へ合格した変わり種だ。


 髪型は、活発な印象を与えるショートツインテール。動きやすそうなパーカーとショートパンツを身につけた姿は、休日に友人と遊びに来た女子大学生にしか見えない。


「幸、無理して持たなくていいぞ。腰を痛める」


「これくらい余裕だし。ていうか、お兄の本なんだから、お兄も運びなよ」


「俺は一応、引っ越し全体の指揮を――」


「さっきから建物を見上げて胃を押さえてるだけじゃん」


「精神的な準備をしているんだ」


「働いて」


 ぴしゃりと言い切ると、幸は政朝の横を通り過ぎ、公邸の中へ入っていった。


 もっともな意見だった。


 今日と明日は、久しぶりにまとまった時間を確保できた。


 そこで議員宿舎と議員会館に置いていた私物の一部を、首相公邸へ運び込むことになったのである。


 衣類、本、日用品。


 総理を辞めれば再び議員宿舎へ戻る可能性もあるため、すべての荷物を移すわけではない。


 できれば、すぐに戻る事態にはなってほしくない。


 ただ、今の政権が何年続くかと尋ねられれば、政朝自身にも答えられなかった。


「総理、ぼさっとしてっと日が暮れちまいますぜ」


 今度は、低く荒っぽい声が聞こえた。


 公邸の前に止められた車から、男が段ボール箱を二つ重ねて降ろしている。


 公設第一秘書の奥平(おくだいら)希超呂(きっころ)だった。


 三十歳。政朝とは一歳しか違わないが、その外見は若手国会議員の秘書というより、古い不良映画から抜け出してきた人物に近い。


 高々と固めたリーゼント。


 鋭い目つき。


 袖をまくったシャツからのぞく、太い腕。


 黙って立っているだけで、通行人から道を譲られそうな威圧感がある。


「希超呂、箱を二つ同時に持つのは危ないぞ」


「こんなもん、片手でもいけますよ」


「中身は食器だ」


 奥平の動きが止まった。


「……先に言ってくださいよ」


「箱に大きく『食器・割れ物』と書いてある」


 奥平は箱を傾け、側面を確認した。


「マジだ」


「読んでから運んでくれ」


「細けえこと気にしてっと、胃に悪いっすよ」


「誰のせいで悪化していると思ってるんだ」


 奥平は箱を慎重に抱え直した。


 外見や口調は荒々しいが、仕事は丁寧で、人への気遣いもできる。政朝の選挙区にある地元企業で働いていたところを、本人の希望で秘書として採用した。


 もっとも、初対面の有権者からは今でも頻繁に警戒される。


「先生」


 背後から、しわがれた声が響いた。


「若い者に働けと言われる総理大臣は、世界広しといえど、そう多くはないでしょうな」


 政朝が振り返る。


 そこには、大きな木箱を肩に担いだ老人が立っていた。


 政策秘書の後藤守三(ごとう もりぞう)


 六十二歳。


 鍛えられた大柄な身体に、白髪交じりの立派なひげ。年齢を感じさせない精悍な顔つきは、長年山で暮らしてきた猟師のようにも見える。


 頭には「タイムパラドックス」と書かれたつば付きの帽子を、前後逆にしてかぶっていた。


 政朝は採用して以来、その帽子の意味を尋ねたことがない。


 何か深い理由があるのかもしれないし、単なる趣味かもしれない。


 聞けば後戻りできなくなる気がしていた。


「後藤さん、その箱は何ですか」


「先生の選挙資料です」


「そんなに重いものを一人で運ばなくても」


「わしを誰だと思っているのですか」


「六十二歳の政策秘書です」


「その通り。まだまだ若造には負けませんぞ」


 後藤は豪快に笑いながら、木箱を軽々と運んでいく。


 その背中を見送りながら、政朝は小さく息を吐いた。


 自身の政策秘書である後藤守三。


 公設第一秘書の奥平希超呂。


 公設第二秘書の百々歌幸。


 個性は強すぎるが、三人とも優秀だった。


 今日の引っ越しには、その三人だけでなく、地元事務所や議員会館のスタッフも総出で駆けつけている。


 総理本人が最も働いていない状況は、さすがにまずい。


 政朝はネクタイを外し、上着を車内へ置いた。


「よし。俺も運ぶか」


「最初からそうしてよ、お兄」


 玄関の奥から、幸の声が返ってきた。


 ◇


 首相公邸には、生活に必要な家具や設備がすでにそろっている。


 そのため、大掛かりな引っ越しではない。


 それでも、一人の人間が長年ため込んだ荷物は、決して少なくなかった。


「総理、この箱はどこっすか?」


「書斎に置いてくれ」


「こっちの『ほんのり重要』って書いてある箱は?」


「それも書斎」


「こっちの『重要』は?」


「寝室」


「『絶対に捨てるな! 最重要』は?」


「それも寝室」


 奥平が不審そうに箱を見つめる。


「何が入ってんすか」


「胃薬の備蓄」


「最重要っすね」


 奥平は納得したように言った。


 昼を過ぎた頃には、議員宿舎から運び出した荷物の大半が公邸へ到着した。


 議員会館の事務所からは、政朝が個人的に使用していた資料や書籍だけを移している。


 執務の中心は官邸になるが、国会議員として必要なものは議員会館にも残している。


 荷物を分類していた幸が、一冊の古びた漫画を持ち上げた。


「お兄。これ、書斎でいい?」


「『銅魂』か。懐かしいな」


「仙台から持ってきたやつ?」


「ああ。子供の頃に買ったものだ」


「最終巻だけないけど」


「貸した友達が返してくれなかった」


「総理大臣になったんだし、国家権力で取り返せば?」


「そんなことで権力を使ったら、歴史に残る汚職になる」


「冗談だって」


 幸は楽しそうに笑い、漫画を箱へ戻した。


 そこへ奥平が、人数分のペットボトルを抱えて入ってくる。


「休憩にしましょうぜ。みんな働きすぎっすよ」


「希超呂がまともなことを言った」


 政朝が驚いたように言うと、奥平は露骨に顔をしかめた。


「俺を何だと思ってんすか」


「リーゼント」


「髪形しか見てねえじゃないっすか」


 スタッフたちから笑いが起きた。


 公邸の広い食堂に集まり、遅めの昼食を取ることになった。


 昼食中、麗の話になった。


 当然だが、この場に彼女の姿はない。


 彼女もこの土日を利用して、官房長官公邸への引っ越しを進めているはずである。


 むしろ、首相の私的な引っ越しに官房長官が参加している方がおかしい。


 政朝がそれを口にすると、幸は菓子パンの袋を開けながら首を傾げた。


「でも麗さんなら、来ても不思議じゃなくない?」


「なぜだ」


「お兄がちゃんと生活できるか心配してそう」


「俺は三十一歳だぞ」


「でも放っておくと、夕飯を胃薬だけで済ませようとするじゃん」


「そんなことはしない」


 政朝はきっぱりと反論した。


「先生」


 後藤がペットボトルの茶を飲みながら、建物の奥へ視線を向けた。


「この公邸、長いこと使われていなかったそうですな」


「ああ」


 前総理の大崎善二おおさき ぜんじは、在任中、一度も首相公邸へ入居しなかった。


 公には、都内の自宅で家族と生活したいからと説明されている。


 しかし、本当の理由は別にあるという。


 大崎は、幽霊が怖かったのだ。


 もちろん、本人が公表したわけではない。あくまでも噂だ。


 政朝も、党の重鎮たちが酒席で笑い話として語っているのを耳にしただけだった。


「前の総理、幽霊が怖くて住まなかったんだよね?」


 幸が悪びれもせず口にする。


「声が大きい。それにただの噂だ」


「ここに記者はいないでしょ」


「スタッフはいる」


「みんな知ってんじゃん」


 近くで休んでいた事務所スタッフたちが、微妙な顔で視線をそらした。


 全員知っているらしい。


「つーか、本当に出るんすか?」


 奥平が食堂の奥に続く廊下を見た。


「俺、幽霊とか全然信じてねえんすよね」


 そう言いながら、声はわずかに低くなっている。


「希超呂、怖いの?」


 幸が楽しそうに尋ねた。


「怖くねえよ」


「夜中にトイレ行ける?」


「行けるに決まってんだろ」


「一人で?」


「お前な、俺をいくつだと思ってんだ」


「三十歳の怖がりリーゼント」


「誰が怖がりだ!」


 奥平の声が食堂に響いた。


 その直後、廊下の奥から、かすかな物音が聞こえた。


 コトン。


 一同が黙る。


「……今、何か聞こえた?」


 幸が廊下を見つめた。


「荷物が崩れたんだろ」


 奥平が即座に答える。


「見てきてよ」


「何で俺が」


「怖くないんでしょ?」


「当たり前だ。ちょっと確認してくる」


 奥平は立ち上がると、普段よりわずかに慎重な足取りで廊下へ向かった。


 その背中を見送りながら、後藤がひげをなでる。


「幽霊ですか。浪漫がありますな」


「後藤さんは怖くないんですか」


「生きた人間の方が、よほど恐ろしいものです」


「政策秘書が言うと重みがありますね」


「先生もこの一週間で、少しは理解されたでしょう」


 政朝は何も答えなかった。


 確かに、否定はできない。


 ほどなくして、奥平が戻ってきた。


「積んでた箱が一個倒れただけっすよ」


「本当に?」


「本当だっつーの。幽霊なんかいねえよ」


 奥平はそう言って席に着いたが、その後、廊下に背を向けることはなかった。


 ◇


 夕方には、予定していた荷物の搬入が終わった。


 秘書やスタッフたちは、最後の確認を済ませると次々に公邸を後にした。


「お兄、本当に一人で大丈夫?」


 玄関で靴を履きながら、幸が振り返る。


「子供じゃないんだから大丈夫だ」


「幽霊出たら電話してね」


「出ない」


「出たら?」


「警備の人に相談する」


「警備の人も困ると思う」


 もっともだった。


「明日の朝、また来るから。ちゃんと寝なよ」


「ああ。今日は助かった」


「お兄も一応、総理なんだからね。体調崩したら国民に迷惑かかるんだよ」


 幸は照れたように視線をそらし、そのまま外へ出ていった。


 奥平と後藤も、それぞれ挨拶を残して帰っていく。


「何かあれば、いつでも呼んでくださいよ」


「先生。くれぐれも、夜更かしはされませんよう」


 重い扉が閉じる。


 急に、公邸の中が静かになった。


 もちろん、完全に一人というわけではない。


 敷地内には警備担当者が常駐し、連絡をすればすぐに人が来る。


 それでも、先ほどまで大勢の人間が行き交っていた分、静けさが必要以上に深く感じられた。


 政朝は新しい寝室へ向かった。


 荷解きを終えた衣類が収納され、机の上には明日読む予定の資料が積まれている。


 ベッドに横になり、照明を落とした。


 目を閉じる。


 だが、眠気は一向に訪れなかった。


 明日は日曜日だが、午後から官邸で予定が入っている。


 週が明ければ、国会で本格的な論戦が始まる。


 汚職事件への対応。


 国民からの疑念。


 党内に残る不満。


 アメリカとの首脳会談。


 考えないようにすればするほど、不安が次々と浮かんでくる。


 自分に務まるのだろうか。


 あの大きな議場で、野党の追及に耐えられるのか。


 官僚や閣僚たちをまとめ、日本という国を動かしていけるのか。


 そもそも、自分は本当に総理大臣でいいのか。


「あぁ……胃が痛い」


 暗闇の中でつぶやく。


 枕元に置いた胃薬へ手を伸ばしたが、途中でやめた。


 飲みすぎは良くないと、幸からも注意されている。


 政朝は布団から起き上がった。


 眠れないまま横になっていても、不安が膨らむだけだ。


 少し歩けば気分も変わるかもしれない。


 寝室を出ると、公邸の廊下は昼間とはまるで違う姿を見せていた。


 照明は落とされ、一定の間隔で設置された常夜灯だけが床を照らしている。


 高い天井。


 暗い窓。


 古い建物特有の、わずかに湿り気を帯びた空気。


 自分の足音だけが、長い廊下に反響する。


 幽霊などいるはずがない。


 政朝は心の中でそう繰り返した。


 前総理の大崎が公邸に住まなかった理由も、単なる噂だ。


 いい年をした大人が、本気で幽霊を怖がって一国の総理の住まいを避けるはずがない。


 おそらく、本当に家族との生活を優先しただけなのだろう。


 そう結論づけたところで、廊下の奥から音がした。


 ぺた。


 ぺた。


 裸足で床を歩くような、小さな足音。


 政朝は立ち止まった。


「……誰かいますか?」


 返事はない。


 警備担当者だろうか。


 いや、警備の人間が裸足で歩き回る理由はない。


 先ほど奥平が確認した箱が、また崩れたのかもしれない。


 ……いや、箱が歩く訳ない。では、この足音は一体なんだろうか。


 ぺた。


 ぺた。


 足音が近づいてくる。


 暗い廊下の角から、小さな影が現れた。


 ――可愛らしい子供だった。


 黒いおかっぱ髪。


 古めかしい着物。


 見たところ、年齢は七、八歳ほどだろうか。


 少女は廊下の中央に立ち、政朝をじっと見上げていた。


 なぜ、こんな時間に子供がいる。


 警備は何をしているのか。


 迷子だろうか。


 それとも、誰か職員の子供が入り込んだのか。


 政朝は混乱する頭で、どうにか声を絞り出した。


「き、君……どこから入ったのかな?」


 少女は答えない。


 ただ、大きな瞳で政朝を見つめている。


「お父さんかお母さんは? 一人で来たのか?」


 しばらくの沈黙の後、少女の口元がゆっくりと持ち上がった。


「ようやく来たか」


 幼い姿には似つかわしくない、尊大な口調だった。


「待ちくたびれたぞ、新しき総理よ」


 政朝の胃が、これまでにないほど強く痛んだ。

首相公邸への引越しが完了し、次の話しから物語が本格的に動き出します。

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