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首相公邸の幽霊  作者: シッピー&樽
新年度予算案編
17/18

緊急役員会

 自由推進党本部の役員会議室には、息苦しいほどの緊張が満ちていた。


 長机の上には、新年度予算案と、地方行政共通基盤整備事業に関する資料が並べられている。


 卯月(うづき)政朝(まさとも)は、党総裁として上座に座っていた。


 その右側には、幹事長の井上(いのうえ)(つよし)


 向かいには、政務調査会長の鴇田(ときた)(しずか)、総務会長の日暮里(にっぽり)駿(しゅん)、選挙対策委員長の定義(じょうぎ)道彦(みちひこ)、国会対策委員長、参議院幹事長をはじめとする党の重役たちが並んでいる。


 申界(しんかい)(うらら)は政府側の説明役として、政朝から少し離れた席に座っていた。


 総理大臣秘書官の化女沼(けじょぬま)真帆代(まほよ)と、政策秘書の後藤(ごとう)守三(もりぞう)は、会議室の外で待機している。


 予算委員会で政朝が予算案の修正に言及したことを受け、急遽開かれた役員会だった。


「それでは、始めましょう」


 井上が口を開いた。


 声は穏やかだった。声だけは。


「先ほど、総理のお考えは伺いました」


 井上は机の上で指を組んだ。


「現時点では、予算案の修正を検討するとの答弁を取り下げるお考えはないそうです。今夜は、それを踏まえて党の方針を決めたいと思います」


 役員たちの視線が、一斉に政朝へ向けられた。


 最初に口を開いたのは、鴇田だった。


「総理。問題は、修正するかどうかだけではありません」


 落ち着いた口調だったが、その言葉には鋭さがあった。


「この予算案は、財務省と各省庁だけで作られたものではありません。党の部会、政務調査会、総務会で議論を重ね、了承したものです」


「それは承知しています」


「では、なぜ党に相談する前に、国会で修正へ言及されたのですか」


「修正すると決めたわけではありません。調査の結果によっては、修正もあり得ると――」


「検討すると発言した時点で、党の審査に問題があったと認めたも同然です」


 政朝の言葉を、鴇田が遮った。


「総理は、党の審査を信用していないのですか」


「そうは言っていません。ただ、七百億円が増額された経緯には、まだ確認できていない部分があります」


「政府側の資料だけで、党の審査に疑問を投げかけたということですか」


「党の審査に疑問を投げかけたつもりはありません」


「しかし、国会ではそう受け取られています」


 鴇田は政朝から視線を外さなかった。


「党側でどのような申し入れがあり、どのような審査を経たのか。十分な説明を受ける前に発言された。それは事実でしょう」


「……はい」


 政朝は否定できなかった。


 七百億円の増額をめぐり、政府側の資料は集めてきた。


 自治体への聞き取りや、委託候補となる団体の確認も指示している。


 だが、党がどのような説明を受け、どのような議論を経て了承したのか。


 そこまで確かめる前に、国会で修正へ言及したのも事実だった。


 政朝が黙ったのを見て、日暮里が続けた。


「党内手続きを経て了承された予算案を、総理の一存で動かす。そんな前例を作られては困ります」


「俺の一存で動かすつもりはありません」


「しかし、野党も報道各社も、すでに修正を前提に動き始めています」


 国会対策委員長が手元の資料を持ち上げた。


「野党各党からは、増額分を撤回するのか、関係議員を参考人として呼ぶのか、関連資料をすべて提出するのかと問い合わせが来ています。総理の答弁によって、こちらが説明を迫られる立場になったのです」


「政府として、必要な資料は提出します」


「資料を出せば済む話ではありません」


 鴇田が即座に返した。


「総理の発言によって、党が何を審査し、何を根拠に了承したのかまで問われているのです。党全体の判断に疑義を生じさせた。その影響を、どうお考えですか」


「だから、その経緯も含めて確かめる必要があると――」


「それを国会で発言する前に、党へ確認するべきだったのではありませんか」


「それは……」


 また言葉に詰まった。


 政府として調査を進めることと、党と方針を共有することは別だった。


 党に相談しないまま修正へ言及した。


 その点だけは、政朝にも反論できない。


 日暮里が資料を閉じた。


「自治体への影響もあります。国が一度示した支援方針を、政権が代わったからといって簡単に変えれば、現場は混乱します」


「必要な支援を止めるつもりはありません」


「では、どこまでが必要で、どこからが不要なのですか」


 政朝は答えられなかった。


 七百億円のうち、何を残し、何を削るのか。


 現時点では、政朝自身にも最終的な判断はできていない。


「地方組織からも問い合わせが来ています」


 定義が腕を組んだまま言った。


「移行を予定している自治体からは、予算が削られるのではないかと不安の声が上がっています。次の選挙を考えても、地方を混乱させるような対応は避けなければなりません」


「地方を混乱させるつもりはありません」


「つもりの話ではないのです」


 定義の言葉は静かだった。


「実際に、すでに不安が広がっている。それに、党の地方議員も説明を求められています」


 政朝の指先に力が入った。


 一人に反論すれば、別の役員から新たな問題を突きつけられる。


 党内手続き。


 国会審議。


 自治体への影響。


 地方組織。


 次の選挙。


 どれも無視できない。


 そして、どれについても、今の政朝には即座に示せる答えがなかった。


「参議院では、ただでさえ与党だけで安定した審議ができる状況ではありません」


 参議院幹事長が厳しい表情で言った。


「政府が自ら予算案の不備を認めれば、野党はますます態度を硬化させます。来年度予算の年度内成立にも影響が出かねない。それに日米首脳会談も控えているのですよ」


 日米首脳会談。


 その言葉に、政朝の胃がさらに重くなる。


 国会審議が紛糾すれば、外交日程にも影響が出る。


 国内の予算すらまとめられない総理として、アメリカ大統領と向き合うことになるかもしれない。


「修正を検討するにしても、もう少し資料を確認してから……」


「その時間がないから、今、役員会を開いているのです!」


 井上の声が、会議室に響いた。


 穏やかな表情は崩していない。


 だが、その一言には明らかな苛立ちがにじんでいた。


「総理の発言は、すでに国会の議事録に残っています。明日の予算委員会でも、間違いなく追及されるでしょう。政府と党の方針を、今夜のうちに決めなければならない」


「……はい」


「今回の答弁については、表現が行き過ぎたと説明していただきたい」


 答弁の事実上の撤回だった。


「予算案の修正を前提とはせず、まず政府と党で調査を行う。その結果を踏まえ、必要があれば対応を検討する。明日の予算委員会では、そのように補足していただきます」


 何人もの役員が、小さくうなずいた。


 政朝の味方をする者はいなかった。


 麗も政府側の席にいる以上、党役員同士の議論へ不用意に口を挟むことはできない。


 ここで拒めば、党役員の大半を敵に回す。


 受け入れれば、七百億円の増額分は、ほぼそのまま維持されるだろう。


 調査が終わる頃には、予算案が成立しているかもしれない。


 契約や支払いの準備も進んでいる。


「あの……」


 声を出した瞬間、自分でも分かるほど弱々しくなった。


「俺としては――」


「総理」


 鴇田が言葉を遮った。


「ここは、党として方針をまとめる場です。総理個人のお気持ちを聞く場ではありません」


 政朝の口が止まった。


 何も言えない。


 完全に押し切られる。


 そう思ったときだった。


『政朝』


 胸の内側から、サザレの声が聞こえた。


 先ほどまでとは違う、低く静かな声だった。


『妾に身体を貸せ』


 政朝はわずかに目を見開いた。


 身体を貸す。


 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 政朝は口元を手で隠し、咳払いを装った。


「……何をするつもりだ」


 周囲には意味を取られないほどの小声で尋ねた。


 役員たちが、不審そうに政朝を見る。


『妾が表に出る』


「そんなこと、できるのか」


『できる。されど、今まで使わなかったのには理由がある』


 サザレの声は冷静だった。


『憑依を解いた後、妾はしばらく眠らねばならぬ。その間は、そなたに何があろうと力を貸せぬ』


 政朝は息をのんだ。


 予算案をめぐる問題は、まだ始まったばかりだ。


 この場を切り抜けたとしても、その後には修正作業や国会答弁、党内調整が待っている。


 それを、サザレの助言なしで乗り越えなければならなくなる。


『決めるのは、そなたじゃ』


 サザレは静かに告げた。


『妾は、そなたの身体を勝手には奪えぬ』


「総理?」


 井上が呼びかけてくる。


「体調が優れないのであれば、休憩を入れますか」


 その声音には、気遣いよりも催促が込められていた。


 今、この場で答えを出せ。


 政朝は机の上の資料へ目を落とした。


 移行作業に追われる自治体の職員。


 新しいシステムを利用することになる住民。


 そのために必要な予算であるなら、守らなければならない。


 だが、党の誰かの都合で膨らんだ金が紛れ込んでいるのなら、見過ごすわけにはいかなかった。


 政朝は、膝の上で握っていた手を開いた。


「……頼む」


 周囲には聞き取れないほどの声だった。


 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

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