民あっての国家
冷気が血管を逆流するように、政朝の全身を駆け上がった。
視界も意識も失われてはいない。
役員たちの顔も、机の上の資料も、すべて見えている。
しかし、身体の主導権が政朝の手を離れていく。
浅かった呼吸が静まり、うつむいていた顔がゆっくりと上がった。
背筋が伸び、両手が音もなく机の上へ置かれる。
その瞬間、会議室の空気が変わった。
鴇田がわずかに身を引き、日暮里は組んでいた腕をほどく。定義やほかの役員たちも、異変を感じ取ったように姿勢を正した。
麗だけは目を見開いたまま、政朝の横顔を凝視していた。
先ほどまで、言葉を失い、追い詰められていた若い総理は、そこにはいなかった。
「休憩は必要ありません」
声そのものは、間違いなく政朝のものだった。
だが、その響きが違う。
迷いも、遠慮も、相手の顔色をうかがう弱さもなかった。
「その代わり、一つだけ答えていただきたい」
政朝は、長机を囲む役員たちをゆっくりと見渡した。
「この七百億円を、国民の前で説明できる方はいますか」
「……事業そのものの必要性は、各部会でも審査されています。地方行政の共通基盤を整備する方針については、党として了承しています」
政朝からの問いに、やや緊張した面持ちで鴇田が答えた。
「事業の必要性を聞いているのではありません。七百億円の内訳を聞いているんです」
鴇田の言葉が止まった。
「自治体への直接支援にいくら。システムの追加開発にいくら。職員研修にいくら。運用支援にいくら。外部委託にいくら。その先の再委託に、いくら流れる可能性があるのか」
一つずつ、言葉を机の上へ置くように並べていく。
「この場で答えられる方は?」
沈黙が落ちた。
政朝の強い視線が、鴇田へ向く。
「党の部会で審査したとおっしゃいましたね」
「関係省庁から説明は受けています」
「では、誰の要望で金額が増えたのですか」
「それは――」
「どの項目が、いくら増えたのか」
「細かな積算については、事務方に確認しなければ――」
「確認していないものを、党が了承したというだけで守れと?」
鴇田が息をのんだ。
日暮里が険しい表情で口を挟む。
「総理。その言い方では、党の審査そのものを否定しているように聞こえます」
「否定してほしくないのであれば、説明してください」
声を荒らげてはいない。
それでも、その一言は重く会議室へ響いた。
「わら……すみません」
政朝は一度言葉を切り、小さく咳払いをした。
「俺は、この事業を潰すと言っているわけではありません。自治体の移行を止めるつもりもない。必要な金まで削るつもりもない。俺が問題にしているのは、一つだけです」
政朝は七百億円の増額資料へ手を置いた。
「必要な金と、説明できない金を、同じ袋に入れたまま国会を通すなと言っている」
「不正があったと決まったわけではありません」
井上が静かに言った。
「決まっていないから調べるんです」
「調査が終わるまで、予算案を止めるおつもりですか」
「止めません」
政朝は迷わず答えた。
「切り分けます」
井上の眉が動いた。
「自治体への直接支援は残す。移行に必要な開発費も、根拠が確認できたものは残す。だが、積算の説明がつかない委託費と運用支援費は修正対象とする」
「簡単におっしゃいますが、予算案を修正すれば、党が自ら誤りを認めることになります」
日暮里が言った。
「誤りがあったなら、認めればいい」
迷いのない言葉だった。
日暮里が絶句する。
「党にも立場があります」
井上の声が低くなる。
「政府と党の信頼関係もある。総理お一人の判断で、これまで積み上げてきた党内手続きを覆されては困ります」
「一人の判断で覆すつもりはありません」
政朝は井上から目をそらさない。
「皆さんにも選んでいただきます」
「何をですか」
「説明できる予算を国会へ出すのか。説明できない金を、党の面子で押し通すのか」
井上の目が細くなった。
「総理は、党の手続きよりも、ご自身の判断を優先すると?」
「違います」
政朝は、はっきりと首を横に振った。
「国民の懸念に向き合うことを優先すると言っているんです」
会議室が静まり返った。
政朝は、長机を囲む役員たちを一人ずつ見渡した。
誰一人として、その視線から逃れることはできなかった。
「民あっての国家です」
低く、よく通る声が、張り詰めた空気をまっすぐに貫いた。
「国民に説明できない金を、党の面子で守るつもりはない。そんなくだらないプライドは、犬にでも食わせておけ」
時が止まったようだった。
鴇田は口を開いたまま、言葉を失っている。
日暮里は、信じられないものを見るように政朝を凝視し、国会対策委員長の手から、ペンが滑り落ちる。
乾いた音が響いたが、誰もそちらを見なかった。
参議院幹事長でさえ、背もたれから身体を起こしている。
定義は目を見開き、何かを見極めるように政朝の顔を見つめていた。
麗もまた、政朝から目を離せずにいた。
「……ずいぶんと思い切ったことをおっしゃいますな」
井上の声から、初めて余裕が消えていた。
「党の重役を前にして、そのような言葉を使えば、総裁としての求心力を失いかねませんよ」
「党の面子で、この国を動かすつもりはない。求心力が欲しくて、この席に座っているわけでもありません」
「では、何のために座っていると?」
「責任を取るためです」
即答だった。
井上が黙った。
「だから、方針を提案します」
政朝は資料を中央へ押し出した。
「第一に、七百億円の増額分を、自治体への直接支援、システム開発、研修、運用支援、外部委託に分解する。七百億円を一つの塊として扱うことを、今この場でやめます」
誰も口を挟まなかった。
「第二に、自治体への聞き取りで必要性が確認できた直接支援は維持する。自治体の準備を、政府や党の事情で止めることはしない」
鴇田が資料へ目を落とした。
「第三に、積算根拠を確認できない委託費と運用支援費は修正対象とする。審議中に必要性を確認できたものは残す。確認が間に合わなければ、年度開始後に補正予算で対応する」
「年度当初の事業に影響が出ます」
参議院幹事長が言った。
「必要な直接支援には影響を出させません」
「本当に切り分けられるのですか」
「切り分けます」
政朝は相手の目を正面から見た。
「できるかどうかではありません。やらせます」
参議院幹事長が言葉を失った。
「第四に、党から申し入れが行われた経緯を調べる。関係議員と、委託候補になり得る団体との間に、献金、政治資金パーティー券の購入、人的関係がなかったか確認する」
役員たちの表情に緊張が走った。
「汚職議員への対応で設けた調査体制を、この件にも拡張します。党内の関係部門から実務者を加え、資料と調査記録はすべて保存する。結果は役員会と政府の双方へ報告します」
井上の目が鋭くなった。
「今回も、幹事長室を通さずに進めるおつもりですか」
「はい」
政朝は即答した。
「汚職議員への対応でも、井上幹事長には調査の主導から外れていただきました。今回も同じです」
「私を信用していないということですかな」
「誰を信用するかで、調査の形を決めるつもりはありません」
政朝は井上を正面から見据えた。
「結論が調査する人間の都合で変わらぬよう、資料も手続きもすべて残します」
静かな言葉だった。
だが、井上はすぐには返せなかった。
そのやり取りを見ていた定義が、ゆっくりと腕を組み直した。
「選挙の立場から申し上げます」
全員の視線が、定義へ向いた。
「今のままでは、次の選挙で説明がつきません」
井上が定義を見る。
「定義君」
「必要性のある支援まで削れば、自治体から反発を受けます」
定義は政朝へ視線を移し、続けた。
「しかし、内訳の分からない七百億円を、党の手続きを経たという理由だけで守れば、国民から見放される。切り分けるという総理の方針なら、少なくとも国民にも地方組織にも説明できます」
役員会の空気が、わずかに動いた。
最初の一人が、政朝の側へ傾いた。
鴇田が難しい表情のまま資料をめくる。
「事業そのものの必要性を否定しない。それは明文化していただきます」
「当然です」
「自治体への直接支援を最優先で確保することも」
「入れます」
「政務調査会にも、積算確認の実務者を入れてください」
「お願いします」
今度は日暮里が口を開いた。
「修正によって自治体に不利益が出た場合、政府が責任を持って対応する。それも条件です」
「受け入れます」
国会対策委員長が深いため息をついた。
「明日の予算委員会は大荒れになりますよ」
「答弁を撤回しても荒れます」
麗が初めて口を開いた。
まだ政朝への驚きは消えていない。
それでも、声は官房長官としての冷静さを取り戻していた。
「それなら、説明できる方針で荒れた方がいい。政府は増額分の内訳、積算根拠、自治体への影響試算を、可能な限り早く国会へ提出します」
「日米首脳会談への影響は」
参議院幹事長が尋ねる。
「予算案の問題を放置したまま首脳会談へ向かう方が、総理にとっては大きな傷になります」
麗はそう答え、さらに続けた。
「今ここで方針を決め、政府と党が共同で説明する。それが最も影響を抑えられる方法です」
再び、全員の視線が井上へ集まった。
井上は政朝を見つめていた。
政朝も、まばたき一つせずに見返している。
長い沈黙の末、井上がゆっくりと息を吐いた。
「総理がそこまで覚悟をお決めになっているのであれば、党としても、いつまでも反対を続けるわけにはいきません」
「幹事長」
「調査体制の拡張については、党側でも速やかに人選を進めます。ただし、政府にも同じだけの情報開示を求めます」
「当然です」
「予算案の修正範囲については、明日中に政府と党の実務者で詰める。それでよろしいですな」
「はい」
政朝は役員たちを見渡した。
「ほかに異論はありますか」
誰も手を挙げなかった。
先ほどまで政朝を追い詰めていた役員たちが、今はその言葉を待っている。
「それでは」
政朝は、七百億円の資料を閉じた。
「自治体に必要な支援は守る。積算根拠を確認できない支出は修正対象とする。党側の申し入れと資金の流れは、既存の調査体制を拡張して検証する」
その声に、先ほどまでの迷いは一切なかった。
「これを、政府と党の共同方針とします」
反対する声は上がらなかった。
緊急役員会の方針は、ここに確定した。
役員たちが資料をまとめ始める中、井上だけは席を立たず、政朝を見つめていた。
「総理」
「何でしょう」
「今日は、ずいぶんと雰囲気が違いますな」
政朝の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「必要なときくらい、総理らしく振る舞いますよ」
「そうですか」
井上の目は笑っていなかった。
「では、今後も期待しております」
「ご期待に沿えるよう努力します」
二人はしばらく視線を交わした。
先に目をそらしたのは、井上だった。
井上が会議室を出る。
鴇田、日暮里、定義たちも、その後に続いた。
扉が閉まった瞬間、政朝の身体から力が抜けた。
「総理!」
麗が素早く立ち上がり、倒れかけた政朝の腕をつかんだ。
全身を満たしていた冷気が、指先から胸の奥へと引き戻されていく。
身体の感覚が戻った。
政朝は机へ両手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
「だ、大丈夫……」
「顔色が真っ白です」
「ちょっと、緊張が切れただけだから」
麗は政朝の顔をじっと見つめた。
「先ほど、何と言いかけたのですか」
「え?」
「『わら』と聞こえました」
「き、聞き間違いじゃないかな」
「そうでしょうか」
麗の目が細くなる。
扉が開き、外で待っていた真帆代と守三が入ってきた。
「総理!」
真帆代が大股で近づいてくる。
「どうしたんですか、その顔は。出てきた先生方が、会議の途中から総理に別人が乗り移ったようだったと騒いでいましたよ」
「乗り移った……」
麗が小さく繰り返した。
「いや、その、言葉の綾だろ」
政朝は慌てて答えた。
胸元を押さえ、周囲に聞き取られないよう声を落とす。
「……サザレ」
返事はなかった。
「おい、サザレ」
今度は先ほどよりも、わずかに声を強めた。
それでも何も聞こえない。
政朝は不安そうに胸元へ視線を落とした。
「本当に大丈夫ですか?」
守三が、いつもの帽子をかぶったまま政朝の顔をのぞき込む。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんでは困りますな」
「とにかく、官邸へ戻りましょう」
麗は政朝の腕から手を離さなかった。
「明日の予算委員会に向けて、修正方針と答弁を組み直す必要があります。ただし、その前に医務室です」
「そこまでしなくても」
「行きます」
「はい……」
つい先ほどまで党の重役たちを圧倒していた総理大臣は、官房長官の一言であっさりとうなだれた。
◇
その日の夜。
首相公邸へ戻った政朝は、自室の椅子に座り、何度目か分からない呼びかけを続けていた。
「サザレ」
返事はない。
「もう公邸だぞ。出てきても大丈夫だから」
それでも、胸の中は静かなままだった。
政朝が不安になり始めたとき、胸元から淡い影がにじみ出した。
黒いおかっぱ頭が現れる。
古い着物をまとったサザレの身体が形を取り、そのまま力なく傾いた。
「おっと」
政朝は慌てて立ち上がり、倒れてきたサザレを受け止めた。
その身体には、幽霊とは思えないほどの重みがあった。
「サザレ、大丈夫か?」
「……騒ぐでない」
サザレは目を閉じたまま、かすかな声で答えた。
「少し、眠るだけじゃ」
「少しって、どれくらいだよ」
「完全な憑依など……長らく使っておらぬゆえ、妾にも分からぬ」
「分からないのかよ」
サザレの声は、次第に小さくなっていく。
「しばらく、妾を起こすでないぞ」
「幽霊なのに寝るのか?」
「幽霊でも……疲れるときは、疲れる……」
それだけ言うと、サザレは完全に眠ってしまった。
「おい、サザレ?」
頬を軽くつついても反応しない。
政朝はサザレを抱き上げ、自室のソファへ寝かせた。
近くにあった毛布をかける。
「幽霊に毛布って、意味あるのかな」
眠っているサザレが、毛布の中で小さく身体を丸めた。
どうやら、まったく意味がないわけではないらしい。
政朝は向かいのソファに腰を下ろした。
緊急役員会は切り抜けた。
七百億円増額問題についても、政府と党の方針は決まった。
だが、明日からは予算案の修正作業が始まる。
野党への説明。
自治体への聞き取り。
党側の検証。
井上との駆け引き。
そして、予算委員会での答弁。
そのすべてを、しばらくの間、サザレの助言なしで乗り越えなければならない。
今日の言葉と態度は、サザレから借りたものだった。
だが、その力を借りると決めたのも、示された方針を背負うのも政朝自身だ。
眠るサザレを見つめながら、政朝は静かに息を吐いた。
彼女がいつ目を覚ますのか、政朝には分からない。
「それまでは、俺の番か……」
眠ったサザレから、返事はなかった。




