党の論理
控室の扉が開いた。
自由推進党幹事長の井上剛は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「ずいぶんと思い切った答弁をしましたな、総理」
口元には笑みが浮かんでいる。
だが、その目はまったく笑っていなかった。
卯月政朝が室内へ入ると、井上は向かい側のソファを示した。
「どうぞ、お掛けください」
「はい」
政朝に続き、官房長官の申界麗と、内閣総理大臣秘書官の化女沼真帆代も入室する。
井上は二人へ視線を向けた。
「官房長官と秘書官も同席するのですかな」
「はい。二人とも、朝の協議に出席しています」
「分かりました」
真帆代が廊下にいる職員へ振り返る。
「しばらく、誰も入れないでください」
「承知しました」
職員の返事を確認し、真帆代が扉を閉めた。
政朝たちが腰を下ろすと、井上も再びソファへ座った。
「上岡財務大臣から、朝の協議内容については報告を受けています」
「そうですか」
「そのうえで、予算案について『修正を含めた対応を検討する』と答弁されましたな」
「はい」
井上は机の上に置かれた資料へ目を落とした。
「報告は受けましたが、相談を受けた覚えはありません。予算委員会で公にする前に、なぜ党へ話を通さなかったのですかな」
「党への説明が済む前に答えたことは、申し訳ありません」
「謝罪ではなく、理由を聞いているのです」
「質問された以上、確認した内容を答えるべきだと判断しました」
「予算委員会での答弁は、総理個人の感想を述べる場ではない。それは卯月総理も分かっていると思っていましたが……どうやら分かっていなかったようですな」
「感想で答えたわけではありません」
「では、政府として決定した方針だったのですか?」
「修正すると決めたわけではありません。修正を含めて検討すると答えました」
「総理が予算委員会で口にすれば、それだけで政府の方針として受け取られます」
井上の声から、柔らかさが消えた。
「財務省の正式な案もない。関係省庁との調整も終わっていない。与党内の了承も得ていない。その段階で、具体的な金額まで明らかにした」
「その点は認めます。ですが、見直しの検討は必要です」
『こやつの息が掛かった者が大勢いる党に話をしたとて、反対されるのがオチであろう』
胸の奥から、サザレの声が聞こえた。
「事前に相談しなかったことは、俺の落ち度です。でも、説明できない予算をそのままにすることはできません」
井上は一枚の紙を机の上へ置いた。
報道各社が配信した記事の見出しが並んでいる。
【卯月総理、二百七十億円の予算見直しを表明】
【政府提出予算に問題 総理が不備認める】
【自治体共通システム、計画縮小の可能性】
「総理が何を説明したかではありません。どう受け取られたかが、政治では問題になる」
井上が告げると、政朝は記事から顔を上げた。
「だからといって、説明できない予算を残すことはできません」
「予算成立後、執行段階で精査する方法もあります」
「予算には残したままですか」
政朝が尋ねると、井上は当然のように答えた。
「必要になれば使う。不要なら使わない。それでよいでしょう」
「不要だと判断するのは、誰ですか」
「所管大臣と関係省庁です」
「その関係省庁が、必要だと言って予算に入れたんですよね」
井上は答えず、資料へ視線を落とした。
政朝は続ける。
「実績のない団体に、最大で百億円規模の業務を取りまとめさせる案がありました。事業者の選定条件も、実質的に一つの共同事業体しか満たせない可能性があります」
「不正が確認されたのですか」
「まだです。だから調べ直します」
「その間、事業を止めるつもりですか」
「全部は止めません」
政朝は資料を開いた。
「増額された七百億円のうち、来年度に必要だと確認できた四百三十億円は残します。残る二百七十億円は、使い道と必要な時期を改めて確認します」
「必要性を説明できなければ、来年度当初予算から外すと?」
「補正予算や翌年度予算で改めて措置することも含めて検討します」
「少なくとも、来年度当初予算は減額するということですな」
「削ることが目的ではありません。必要な自治体への支援は残します」
井上は移行支援費の資料を開いた。
「移行支援は、七百二十の自治体を前提に積算していた。それを、現時点で意思を確認できた自治体だけに絞るつもりですか」
「それだけで打ち切るとは言っていません」
政朝は数字の記された箇所を示した。
「今後の参加に備える予算枠が必要なら、どの程度必要なのか、根拠を示してほしいんです。参加するか決まっていない自治体まで含めた額を、最初から満額で計上する必要があるのかを確認します」
「途中で参加を希望する自治体へ対応できなくなる可能性がある」
「その可能性も含めて、必要な予算額を出してもらいます」
井上は麗へ視線を移した。
「官房長官も同じ考えですかな」
「はい」
麗は迷わず答えた。
「選定条件と積算根拠には、再確認が必要です。財務省には、二百七十億円を残す場合、減額する場合、補正予算や翌年度予算へ移す場合の三案を整理させています」
「党の了承なしに、修正案を政府・与党の方針としてまとめるのは困難です」
「承知しています」
「維風の会との協議も必要になる」
「それも承知しています」
井上は政朝へ視線を戻した。
「卯月総理。あなたは内閣総理大臣であると同時に、自由推進党の総裁です。政府で検討したことを党へ押しつけるだけでは、総裁とは言えない」
「押しつけるつもりはありません。党にも説明します」
「すでに反対する者は動いています」
井上は別の文書を取り出した。
表題には、【地方行政共通基盤整備事業の予算見直しに関する申し入れ】と書かれている。
その下には、自由推進党所属議員の署名が並んでいた。
「見直し方針の撤回を求める申し入れです」
「四十三人……」
「デジタル行政推進本部を中心に集めたものです」
「いつから動いていたんですか」
「昨日の夕方には、増額分の見直しが始まるという話が一部の議員へ伝わっていました。本部長代行は、その時点から所属議員へ声を掛けていたようです」
井上が答えた。
政朝は麗を見る。
「政府から党へ、正式に伝えた事実はありません」
麗が答えた。
「では、誰かが漏らしたということか」
「正式な経路ではありません。どこから伝わったのか、確認が必要です」
朝の協議より前から、見直しの動きは一部の議員へ伝わっていた。
財務省の官僚か、大臣の秘書か、それとも調査に関わった別の誰かなのか。
今の段階では分からない。
政朝は並んだ名前を目で追った。
総裁選で自分を支持した議員もいる。
総理大臣指名選挙で、自分に投票した議員もいた。
『大勢の名が並ぶと、それだけで正しいことのように見えるな』
サザレが言った。
「この人たちは、七百億円の内訳を知っているんですか」
「全員が詳細まで確認しているとは限りません」
井上は、申し入れ書に並んだ署名へ目を落とした。
「それでも署名したんですか」
「地元への影響を心配した者。党の手続きを無視されたと考えた者。事業の縮小を恐れた者。理由はそれぞれでしょう」
井上は申し入れ書を机の上へ戻した。
「予算の数字だけでなく、地元からの要望や党内の立場も考える。それが党の論理です」
「予算の中身より、そちらを優先するんですか」
「予算の中身だけを見て、政治ができると思っているのですか」
政朝は答えられなかった。
予算の数字だけでは見えない事情がある。
だが、党内の事情だけを優先すれば、国民に説明できない支出が残る。
『さて、どうする』
サザレが問いかける。
無論、政朝の答えは決まっている。
「反対する人たちの話は聞きます」
政朝は申し入れ書を閉じた。
「でも、見直しの検討はやめません」
「党内対立が表面化すれば、予算審議だけでは済みません」
井上の声が低くなる。
「発足したばかりの内閣が、与党内をまとめられないと見られる。総理を交代させるべきだという声が出ても、不思議ではありません」
政朝の胃が強く縮んだ。
総理大臣指名選挙では、すでに党内から造反票が出ている。
ここで再び党が割れれば、政朝を総理の座から降ろそうとする動きが始まってもおかしくない。
『ここで押し切られてはならぬぞ。支持は党より、内閣の方が上なのだからな』
「総理の座を失う可能性があっても、同じことが言えますかな」
「失いたくはありません」
「ならば、少しは利口になった方がいい」
「利口になることと、見なかったことにするのは同じですか」
井上の目が細くなった。
政朝は握った手に力を込める。
「少なくとも、説明できるまで見直しを続けます。それが、朝の協議で確認した方針です」
長い沈黙が続いた。
胃は痛い。
喉も渇いている。
それでも、政朝は目をそらさなかった。
「本日午後三時から、党本部で緊急役員会を開きます」
井上が告げた。
「政務調査会長、総務会長、国会対策委員長、デジタル行政推進本部の本部長代行を出席させます」
「俺も出席します」
「当然です」
井上は申し入れ書を政朝の前へ置いた。
「必要な四百三十億円を残す根拠。二百七十億円を見直す理由。自治体への影響。事業者の選定条件。総理自身の口から、すべて説明してください」
「分かりました」
「役員会が了承しなければ、見直しを党の方針とするのは困難です」
「反対意見も聞いたうえで判断します」
「今の段階で撤回するつもりはないと?」
「はい」
井上は静かに立ち上がった。
政朝たちも、それに続いて席を立つ。
「お忘れなく。あなたを総理にしたのは、この党であり、この私です」
「分かっています」
「ならば、総裁として党をまとめてみせることです」
「やってみます」
「三時です。遅れないように」
井上は麗と真帆代にも一礼し、控室を出ていった。
扉が閉まると、政朝は大きく息を吐いた。
「あぁ……胃が、クラッシュ……」
「日本語まで壊れましたね」
疲労が滲み出ている政朝に向かって、真帆代が呆れたように言う。
「それくらい疲れてるんだよ……」
麗は申し入れ書を手に取った。
「三時まで、残り一時間半です」
「少しくらい休めない?」
「役員会への説明資料を確認します」
「さっきまで予算委員会だったんだけど……」
「次は党本部です」
「予算委員会の次は、党役員会か……」
「総裁の仕事です。それに『俺も出席します』と、ご自分で仰ったではありませんか」
「そうだけどさ……」
その時、コンコンと控室の扉が控えめにたたかれた。
真帆代が扉を開けると、政策秘書の後藤守三が、いつもの帽子をかぶったまま立っていた。
「おっと……だいぶお疲れのようですな」
「ああ。でも、今からが本番だよ。党本部で緊急役員会だ」
「はっはっは! 見事にあやつの戦法にはまりましたな」
「あやつって、井上幹事長のこと?」
「ほかに誰がおりますかな」
守三は遠慮なく室内へ入り、抱えていたファイルを机の上へ置いた。
守三には、衆議院議員だった過去がある。総務大臣と農林水産大臣を務めた経験もあり、井上とは長年、国会で渡り合ってきた間柄だった。
「あの答弁を材料に党内の反対をまとめ、今度は総裁としての責任を問う。相変わらず、相手を自分の土俵へ引きずり込むのが上手い男です」
「感心してる場合じゃないんだけど……」
「感心しているのではありません。あの男がどう動くかを知っておくべきだと言っているのです」
「じゃあ、役員会ではどうすればいい?」
「正面から押し返すだけでは、向こうの思うつぼですな」
守三は、机の上の申し入れ書へ目を落とした。
「まずは、彼が何を守ろうとしているのか。それを見極めることです」
守三はファイルを開いた。
「党役員会に向け、四百三十億円を維持する根拠を整理しておきました」
「早いな」
「このような展開になる可能性は考えておりましたので」
「俺以外は、みんな予想してたの?」
「総理が率直に答弁すれば、党内が騒がしくなるだろうとは」
守三が答えた。
「止めてくれてもよかったのに……」
「お止めしたところで、総理は聞いてくださいましたかな」
「たぶん聞いたと思う」
麗と真帆代が同時に政朝を見る。
「……少しは聞いたと思う」
守三が小さく笑った。
「役員会では、予算を見直しても事業を続けられることを示す必要があります。それから、党の面子を潰すことが目的ではないということも」
「そんなつもりはないよ」
「総理にそのつもりがなくとも、そう受け取る者はおります」
政朝は、四十三人の署名が並ぶ申し入れ書を見た。
その全員が敵ではない。
全員が不正な金を守ろうとしているわけでもない。
だからこそ、難しい。
『いつの世も、外より身内の方が厄介だな』
サザレの声が聞こえた。
政朝は小さく息を吐き、守三が用意したファイルを手元へ引き寄せた。
総理として始めた予算の見直しを、総裁として党に説明する。
その二つが同じ人物の仕事であることを、政朝は今さらながら思い知らされていた。
最近忙しく、毎日投稿ができておりません。
申し訳ないです。




