前政権の予算案
翌朝、首相官邸の会議室では、新年度予算案に関する説明が行われていた。
卯月政朝の正面には、財務大臣の上岡雄吾と財務省の主計局長が座っている。
官房長官の申界麗と内閣総理大臣秘書官の化女沼真帆代も同席し、政策秘書である後藤守三は少し離れた所で資料をめくっていた。
「予算案の全体像については、以上です」
一通りの説明を終えた上岡が、手元の資料を閉じた。
「本予算案は、大崎前内閣の下で編成作業の大部分が進められました。しかし、政府案として国会へ提出した以上、その内容を説明し、執行する責任は現内閣にあります」
「その点は理解しています。全体像も分かりました」
政朝は、机の上に並ぶ資料へ目を落とした。
「ここからは、最終調整で大きく変わった事業を中心に確認させてください」
上岡に促され、主計局長が新たな資料を配った。
財務省による査定後の金額と、最終的に予算案へ計上された金額を比較した一覧だった。
政朝は数字を追いながら、ページをめくっていく。
各省庁との折衝を経て減額された事業。
政策判断によって復活した事業。
地方自治体や与党からの要望を受け、増額された事業。
その中の一項目に、真帆代が太い指を置いた。
「総理、こちらをご覧ください」
項目名は、地方行政共通基盤整備事業。
自治体ごとに異なる行政システムを共通化し、情報連携を円滑にするための事業だった。
災害時の給付金支給や福祉サービスの申請、自治体をまたぐ行政手続きの迅速化を目的としている。
「財務省の査定後より、最終的な計上額が増えていますね」
守三が、自分の資料に記された金額を確認した。
「七百億円の増額ですな」
「七百億円……」
政朝は数字の桁を確かめた。
見間違いではない。
財務省が一度査定した金額に、最終調整で七百億円が上積みされている。
「何のために増額されたんですか」
「対象自治体の拡大、既存システムからの移行支援、職員向けの研修、運用開始後の支援体制などです」
主計局長は、増額理由を記したページを開いた。
「自治体側から、当初の計画では移行費用が不足するとの意見が寄せられました。それを踏まえ、対象範囲と支援内容が見直されています」
守三が資料から顔を上げた。
「自治体からの要望だけで、七百億円増えたのですか」
「自治体からの要望に加え、与党から重点的な予算措置を求める申し入れがありました」
「与党のどこからです?」
「自由推進党のデジタル行政推進本部です」
主計局長は、そこでわずかに言葉を切った。
「当時の推進本部長は誰ですか」
政朝が尋ねると、主計局長に代わって上岡が答えた。
「政治資金還付問題で、現在処分手続き中の議員です」
会議室の空気が変わった。
昨日、真帆代が挙げた確認対象の一つだった。
ただ、処分対象となった議員が推進本部長として、七百億円もの増額を求めていたことまでは知らなかった。
とはいえ、その事実だけで不正があったとは決められない。
必要な政策を進めるため、自治体からの要望を取りまとめただけかもしれない。
『人を見るだけでは、何も分からぬぞ』
サザレの声が胸の奥から聞こえた。
『誰が求めた金かではなく、何に使われ、どこへ流れる金なのかを見よ』
「増額された七百億円について、具体的な内訳はありますか」
「事業区分ごとの内訳はこちらです」
主計局長が示した資料には、移行支援費やシステム改修費などの項目が記されていた。
だが、それぞれの費用が最終的にどの組織へ支払われるのかまでは読み取れない。
「増額分は、国から自治体へ直接交付されるのですか」
「すべてではありません。自治体への補助金のほか、国が整備する共通システムの開発費、運用支援を行う団体への委託費などが含まれています」
「運用支援を行う団体は、もう決まっているんですか」
「正式な選定は、予算成立後に行う予定です」
政朝は、事業の実施体制を示した図を確認した。
国から関係省庁へ。
関係省庁から管理団体へ。
そこから、システム開発会社や運用支援会社へ委託される。
業務によっては、さらに再委託が行われる可能性もある。
「選定方法は?」
「原則として一般競争入札を予定しています。一部の業務については、専門性や既存システムとの継続性を考慮し、別の契約方式を採用する可能性があります」
「その『一部』がどこなのか、資料を出してください」
政朝は実施体制の図を指した。
「競争入札になる業務と、別の契約方式を採る可能性がある業務を分けて確認したいです」
主計局長はうなずき、手元の資料に書き留めた。
「増額を求めた経緯と、党と関係省庁の協議記録もお願いします。七百億円が、どの段階で、どこへ支払われる予定なのかも分かるようにしてください」
「関係省庁に資料を提出させます」
上岡の返答を聞き、政朝は麗へ向き直った。
「麗。党側の記録も確認できないか」
「何を調べますか」
「処分手続き中の議員と、この事業を受注する可能性がある企業や団体との関係だ。献金や政治資金パーティー券の購入、人的なつながりがないか、党の調査資料と照合してほしい」
「党の調査委員会と連携して確認します」
麗は資料へ視線を落としたまま続けた。
「ただし、受注先はまだ決まっていません。現時点では、選定条件を満たす可能性がある企業や団体との関係を調べることになります」
「それで構わない」
政朝は再び上岡を見た。
「選定条件を満たし得る事業者や共同事業体の一覧もお願いします」
「承知しました」
上岡はうなずいたものの、すぐに言葉を続けた。
「ただし、この事業は複数の自治体が、来年度からの開始を前提に準備しています」
「事業を止めろとは言っていません」
「増額分に手を入れれば、開始時期に影響が出る可能性があります」
「必要な事業なら進めるべきです。でも、必要だという理由だけで、七百億円の増額まで無条件に認めることはできません」
麗が資料の金額欄を指した。
「増額部分と、当初から予定されていた部分を分けて確認した方がよいでしょう」
「そうだな。増額しなかった場合、どの自治体に、どのような影響が出るのかも出してください」
主計局長は、指示された内容をメモへ加えた。
「それから、自治体側からも直接話を聞きたい」
政朝が告げると、麗はすぐに予定表を確認した。
「規模や地域の異なる自治体を選びます。事業を急いでいる自治体だけでなく、導入に不安を抱えている自治体からも話を聞きましょう」
「頼む」
政朝は麗に任せ、上岡へ視線を戻した。
上岡が資料を閉じた。
「必要な資料は、可能な限り早く提出させます」
「可能な限り、では困ります」
真帆代が口を挟んだ。
「予算審議は進んでいるのでしょう。いつまでに提出できるのか、ここで決めてください」
口調は穏やかだったが、曖昧な返答を許すものではなかった。
上岡が主計局長を見る。
「協議記録と増額の内訳は、本日中に提出します」
主計局長は手元の予定を確認した。
「選定条件を満たし得る事業者の一覧と、契約方式については、明日の午前中までに整理します」
「自治体への聞き取り結果も、可能な範囲で明日の確認に間に合わせます」
麗が付け加えた。
「分かりました」
政朝はうなずいた。
「明日の午前中に、もう一度確認します」
◇
上岡と主計局長が退出すると、会議室には政朝、麗、真帆代、守三が残った。
「どう思う?」
守三は、七百億円の欄を指で軽く叩いた。
「今の段階では、不正があるとも、ないとも言えませんな。ただ、調べない理由もありません」
「明日提出される資料で、増額の根拠と金の流れを確認します」
麗は資料を閉じた。
「その結果を基に、何を残し、何を見直すのか決めましょう」
「時間はないんだよな」
「ありません」
麗は即答した。
「だからこそ、確認する範囲を絞りました」
政朝は、七百億円の数字へ目を落とした。
「まずは、この増額の中身を見る」
「それでよろしいかと」
守三がうなずく。
「届いた資料はこちらで整理しておきます。総理が数字の海で溺れないように」
真帆代が腕を組み、満足そうに笑った。
「もう片足くらいは沈んでるよ……」
「片足なら、まだ助けられます」
守三が小さく笑った。
麗は腕時計を確認し、席を立つ。
「午後は国会日程があります。そろそろ移動してください」
「もう少し、この資料を見ておきたいんだけど」
「戻ってからにしてください」
「戻るのは何時?」
「順調に進めば、夜です」
「あぁ……胃が痛い」
「時間がありません。移動しながら痛がってください」
麗が会議室を出ていく。
真帆代と守三も、必要な資料を抱えて後に続いた。
扉が閉まり、政朝一人になる。
胸元からにじみ出た淡い光が床の上へ集まり、サザレが姿を現した。
「前の者が決めたことに手を入れるのは、怖いか?」
唐突な問いに、政朝は机へ目を戻した。
「怖くないと言ったら嘘になる」
「なぜだ?」
「予算を変えれば、予定していた事業が遅れるかもしれない。困る自治体や、行政サービスを待っている人が出るかもしれないだろ」
「ならば、変えぬ方がよいのか?」
「そうとも限らない。おかしな金の流れを残したら、別の誰かが損をする」
「どちらを選んでも、誰かに影響が出るということか」
「そうみたいだな」
サザレは机の上の資料を見つめた。
「前の主が決めたことを、そのまま受け継ぐのも一つの判断だ」
「何もしなくても、判断したことになる?」
「そなたが決められる立場にありながら変えなかったのなら、そうであろう」
政朝は返事に詰まった。
大崎前内閣が作った予算だから、自分は決めていない。
そんな言い訳は、もはや通用しない。
「変えるにしても、変えないにしても、俺の責任になるのか」
「今の主は、そなたなのだからな」
サザレは当然のように答えた。
「相変わらず、重いことを簡単に言うな……」
「ふん。もう慣れたであろう?」
「慣れたくはないんだけどな……」
政朝は資料を閉じ、立ち上がった。
明日の朝には、増額の内訳と、金の行き先を示す資料が届く。
前政権が残した予算に手を入れるかどうか。
次に判断するのは、大崎善二ではなく、卯月政朝だった。




