内閣支持率
『卯月内閣の支持率は、四十三パーセント。不支持は三十四パーセントとなりました』
朝のニュース番組から流れてきた数字に、卯月政朝は箸を止めた。
二月中旬の首相公邸、その食事室。
テーブルの上には、半分ほど食べた白米とみそ汁が残っている。
室内にいるのは、政朝とサザレだけだった。
黒いおかっぱ髪に、古めかしい着物をまとった少女は、政朝の向かい側に座り、テレビ画面へ目を向けている。
卯月内閣が発足してから、およそ一か月。
四十三パーセントという数字は、政朝が予想していたよりも高かった。
「四十三……」
政朝は、思わず数字を繰り返した。
大崎前内閣が総辞職する直前、その支持率は二十パーセントを大きく下回っていた。
「思っていたより、悪くないな」
「喜ぶには早いぞ、政朝」
向かいに座るサザレが、湯飲みから顔を上げた。
「分かってるよ。内閣が代わって、まだ一か月くらいしか経ってないからだろ」
「それもある。だが、それだけではない」
サザレはテレビへ視線を戻した。
画面では、内閣を支持する理由が紹介されていた。
最も多いのは、政治資金還付問題への対応を評価するという回答だった。
汚職に関与した元閣僚二人について、自由推進党からの除名と議員辞職勧告を決定したこと。
残る六人についても、それぞれの関与の程度を調査しながら、党内で処分手続きが進められていること。
さらに、関係した議員を処分するだけではなく、問題を生んだ党内制度そのものを見直す方針を示したことも、一定の評価を受けているらしい。
「そなたが評価されておるのは、汚れをすべて落としたからではない」
サザレが言った。
「汚れから目を背けず、落とそうと手を動かし始めたからだ」
「まだ始めただけ、ってことか」
「そうだ。民は、そなたに褒美を与えたのではない」
サザレは、まっすぐに政朝を見た。
「続きを見せよと、しばし待つことにしたのだ」
朝から重い言葉だった。
政朝はみそ汁を一口飲んだ。温かいはずなのに、胃の辺りが少し冷たく感じる。
ニュースは次の項目へ移った。
『一方、自由推進党の政党支持率は十八パーセントにとどまり、政治資金還付問題の発覚前と比べても、低い水準が続いています』
「十八……」
先ほどとは違う意味で、政朝の箸が止まった。
内閣支持率が四十三パーセント。
自由推進党の支持率が十八パーセント。
同じ与党の内閣と政党でありながら、二十五ポイントもの差がある。
「内閣への評価と党への評価が、ここまで分かれるのか」
政朝がつぶやくと、サザレは小さくうなずいた。
「そなたが進めていることには期待する。されど、そなたの属する党を信じたわけではない。その差が数字に表れたのであろう」
「随分とはっきり言うな」
「数字の方が、妾よりもはっきり申しておるではないか」
政朝は反論できなかった。
テレビでは、自由推進党を支持しない理由も紹介されていた。
政治と金の問題への不信。
長期政権による緩み。
処分や調査が、まだ完了していないこと。
一方、卯月内閣を支持しない理由としては、政朝の経験不足を不安視する回答が最も多かった。
続いて、制度見直しの成果がまだ表れていないことや、党執行部を相手に今後も独自の判断を貫けるか分からないことが挙げられている。
政朝は、汚職対応を井上剛幹事長に任せきりにはしなかった。
関係者の処分を進め、党内制度の見直しにも踏み込んだことで、党の重鎮に遠慮せず対応した姿勢は評価されている。
ただし、同じ姿勢を今後も貫けるかどうかまでは、まだ判断されていない。
「今回だけじゃなく、これからも続けられるか見られてるのか」
政朝がつぶやくと、サザレは当然のように答えた。
「一度正しいことをした者が、次も正しいことをするとは限らぬからな」
「少しくらい慰めてくれてもいいんじゃないか?」
「慰められて総理の務めが果たせるなら、いくらでも慰めてやる」
サザレは湯飲みに口をつけた。
中身は、政朝が用意したほうじ茶だった。
「支持率とは、積み上げた石ではない。波の上に浮かぶ舟のようなものだ。今は高く持ち上げられておっても、風向きが変われば、すぐに落ちる」
「朝から縁起でもないな……」
「ならば、落ちぬよう数字ばかり眺め続けるか?」
「それは違うだろ」
政朝が答えると、サザレはわずかに口元を緩めた。
「分かっておるならよい」
総理大臣になってからというもの、政朝には新聞やテレビをゆっくり見る時間がほとんどなかった。
それでも、移動中に渡される新聞記事の切り抜きや、秘書官がまとめた報道資料には、毎日のように自分の名前が載っている。
評価する記事もあれば、批判する記事もある。
支持率という数字は、それらを一つにまとめて示しているようでいて、実際には何を意味しているのか分かりにくい。
高ければ安心してよいのか。
下がれば政策を変えるべきなのか。
そもそも、どの数字を気にするべきなのか。
「あぁ……胃が痛い」
政朝が腹を押さえると、サザレがみそ汁へ目を向けた。
「まだ朝食も終わっておらぬぞ」
「朝食が原因じゃないよ」
政朝は残っていたご飯を口へ運んだ。
◇
午前九時過ぎ。
首相官邸の総理執務室では、週末に発表された世論調査の結果を確認する打ち合わせが始まっていた。
政朝の正面には、官房長官の申界麗が座っている。
麗の隣には、内閣総理大臣秘書官の化女沼真帆代。
政策秘書の後藤守三も、つば付きの帽子を後ろ向きにかぶり、手元の資料に目を通していた。
サザレは姿を現さず、政朝の中にいる。
サザレの声は政朝に聞こえるが、政朝が声に出さなければ、返事を伝えることはできない。
「各社で多少の差はありますが、傾向は同じです」
麗が資料をめくった。
「内閣支持率は四割台前半。自由推進党の支持率は二割前後。総理の汚職対応は評価されていますが、党全体への不信は残っています」
「俺を支持している人が、自由推進党も支持しているとは限らないんだな」
政朝が言うと、麗はうなずいた。
「政党への支持と、その時々の内閣への評価は別です。無党派層だけでなく、野党支持者の一部も内閣を支持しています」
「野党支持者の一部まで?」
「政治資金還付問題への対応については評価する、ということでしょう」
麗に続き、真帆代が資料の一か所を太い指で示した。
「ただ、支持理由として『今後に期待する』という回答が目立ちます」
「期待されるのは、いいことじゃないんですか?」
政朝が尋ねると、真帆代は首を横に振った。
「悪いことではありません。ただ、これまでの成果よりも、これからの行動を見られている状態です」
真帆代は政朝を見た。
「まだ合格点をもらったわけではありませんよ」
「それでも、前の内閣よりはかなり高いですよね」
政朝がわずかな希望を込めて言うと、麗が即座に答えた。
「比較対象が低すぎます」
「やっぱり、麗はそう言うと思った」
「大崎前内閣の末期は、支持率が下がりきっていました。そこから新しい総理へ代われば、ある程度は回復します」
麗は表情を変えないまま、政朝の前にある資料を指先で軽く叩いた。
「今回の数字が、すべて総理の実力によるものだとは考えないでください」
「分かってるよ……」
「分かっている顔には見えませんでしたので」
政朝は助けを求めるように、後藤へ視線を向けた。
後藤は資料から顔を上げ、政朝を見返した。
「わしを誰だと思っているのですか。都合のよい慰めを申す秘書ではありませんぞ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔に書いてありました」
味方がいない。
胸の奥から、サザレが小さく笑う気配が伝わってきた。
麗は、自由推進党の支持率が記された資料へ視線を落とした。
「問題は、党への不信が残っていることです」
「処分は進めています」
政朝は反射的に答えた。
元閣僚二人への除名と議員辞職勧告。
残る六人についても、関与の程度に応じた処分手続きが進んでいる。
第三者による調査の準備も始めた。
政治資金を扱う党内制度についても、全面的な見直しを指示している。
何もしていないわけではない。
「それは国民にも伝わっています」
麗は政朝の言葉を否定しなかった。
「しかし、自由推進党への不信は、関係した議員を処分するだけで消えるものではありません」
「長年の積み重ねがあるからか」
「ええ。今回の問題は、一部の議員だけが突然始めたものではない。長年続いていた仕組みを、党全体が見逃してきたのではないか。国民はそう疑っています」
「制度を見直しても、すぐには信用されないってことか」
「信用を取り戻すには、時間と実績が必要です」
麗がそう答えたとき、政朝の胸の奥からサザレの声が聞こえた。
『ゆえに、焦るな』
政朝は反応しそうになり、口を閉じた。
『民に気に入られようとして、喜ばれそうなことばかりを選べば、かえって信用を失う』
サザレは続けた。
『数字を上げることを目的とするな。必要なことを選び、その結果として数字がついてくるようにせよ』
政朝は返事をせず、その言葉を受け止めた。
声に出せば、麗たちには独り言にしか聞こえない。
「総理?」
黙り込んだ政朝を、麗が見つめている。
「いや、何でもない」
「そうですか」
完全には信じていない顔だったが、麗は追及しなかった。
「本日午後、党本部で臨時役員会が開かれます」
麗が予定表へ視線を落とした。
「井上幹事長から、総裁にもご出席いただきたいとのことです」
「支持率の件で?」
「おそらくは」
麗の答えを聞いた政朝の胃が、さらに重くなった。
◇
自由推進党本部の会議室には、重い空気が漂っていた。
世論調査の結果は、党所属議員にとって、内閣以上に深刻な問題だった。
内閣支持率が四割を超えていても、政党支持率は二割に届いていない。
選挙になれば、すべての候補者が政朝と同じように支持されるわけではない。
むしろ、自由推進党の看板が不利に働く選挙区も出てくるだろう。
最初に口を開いたのは、選挙対策委員長の定義道彦だった。
「処分そのものに異論はありません。ただ、地方組織からは、進め方が急ではないかという声も届いています」
定義は、井上の様子をうかがうように一度言葉を切った。
「処分対象者の地元では、後援会や支援団体に動揺が広がっています。このままでは、これまで党を支えてきた層まで離れる可能性があります」
定義の発言に続き、総務会長の日暮里駿が、資料へ目を落としたまま口を開いた。
「地方の反発には、丁寧に対応する必要があります。ただし、処分を先送りにすれば、党全体が問題を隠そうとしていると受け取られかねません」
日暮里は、定義を否定するのではなく、補足するような口調だった。
「処分を進めながら、地方組織の理解も得る。その両方が必要でしょう」
「簡単に両立できればよいのですが」
定義は小さく息を吐いた。
それ以上、日暮里と議論を続けようとはしなかった。
二人とも、自分の意見を強く押し通そうとしているわけではない。
会議室にいる者の多くは、井上がどのように話をまとめるのかを待っていた。
政務調査会長の鴇田静は、手元の資料を見つめたまま、無言を貫いている。
意見がないわけではないだろう。
ただ、井上の方針が示される前に、自分の立場を明確にするつもりはないようだった。
政朝も、黙って役員たちの様子を見ていた。
処分への反対意見が噴き出しているわけではない。
かといって、全員が政朝の方針に心から賛同しているわけでもない。
井上の意向を無視できない者たちが、許される範囲で懸念を口にしている。
それが、この役員会の実情なのだろう。
やがて、井上剛が机を軽く叩いた。
大きな音ではなかったが、室内の視線が一斉に井上へ集まった。
「地方組織への説明は必要です」
井上は、まず定義の意見を受け止めた。
「処分を決めて終わりではありません。党本部から各都道府県連へ説明を行い、混乱を抑えてください」
「承知しました」
定義がすぐに答えた。
井上は続けて、日暮里へ視線を向けた。
「ただし、処分方針を後退させることはありません。総務会としても、その点を党内へ徹底してください」
「承知しました」
日暮里も異論を挟まなかった。
井上は、最後に出席者全体を見渡した。
「内閣支持率が回復したこと自体は、評価すべきでしょう。総理が政治資金還付問題への対応を進めた。その姿勢を国民が見ていることは、今回の数字からも明らかです」
政朝は、わずかに意外に思った。
井上は、政朝の対応を否定しなかった。
「しかし、内閣支持率と党の支持率が大きく離れている状態を、喜んでばかりはいられません」
そう言って、井上は政朝へ視線を向けた。
「総理個人だけが支持され、党が支持されない状態では、政権は長く持たない。国会を支えるのも、選挙を戦うのも、総理一人ではできません」
「分かっています」
政朝が答えると、井上は静かな声で問い返した。
「本当に分かっていますか?」
責めるような口調ではない。
だが、会議室にいる役員たちの視線が、政朝へ集まった。
ここで井上に反論する者はいない。
答えを求められているのは、政朝だけだった。
「党を悪者にして、自分だけ改革する側に立つつもりはありません」
政朝は井上を見返した。
「でも、党を守るために問題を見逃すつもりもありません」
定義と日暮里は何も言わなかった。
鴇田も、顔を上げない。
井上の前で政朝の言葉を支持する者も、否定する者もいなかった。
井上だけが、表情を変えずに答えた。
「結構です」
その短い言葉によって、役員会の空気が再び井上の下へ戻っていく。
「ならば、次も同じ判断ができるか、見せていただきましょう」
「次?」
政朝が聞き返すと、井上は答えた。
「新年度予算案です」
その言葉に、政朝の背筋がわずかに伸びた。
「予算案の大部分は、大崎前内閣の下で編成されました。しかし、国会へ提出するのは卯月内閣です」
「はい」
「予算には、党の各部会、所属議員、地方組織、業界団体から寄せられた要望が反映されています」
井上は机の上の資料へ手を置いた。
「何かを変えれば、それによって利益を得る者と、不利益を受ける者が出る。処分とは違い、善悪だけで決められるものではありません」
「それでも、問題があれば直します」
政朝が答えると、井上は目を細めた。
「予算案では、その言葉を金額によって示していただきます」
政朝の胃が、はっきりと痛み始めた。
◇
役員会を終えて首相官邸へ戻ると、総理執務室の机の上に、分厚い資料が積まれていた。
一冊や二冊ではない。
机のかなりの面積を占領している。
表紙には大きく、
『新年度予算案 説明資料』
と記されていた。
「これ、全部?」
政朝が尋ねると、隣に立つ真帆代が答えた。
「概要版です」
「概要で、この量なんですか?」
「各省庁別の資料は、別室に用意しています」
真帆代の返事を聞き、政朝は質問したことを後悔した。
麗が一冊目の資料を開いた。
「明日から、財務大臣と財務省による説明を始めます。その前に、総理には大まかな構成を把握していただきます」
「今夜中に?」
政朝が恐る恐る聞くと、麗は平然と答えた。
「可能な範囲で構いません」
麗の言う「可能な範囲」が、どこまでを意味するのか分からない。
政朝は一番上の資料を手に取った。
歳入。
歳出。
国債。
社会保障。
地方交付税。
防衛。
公共事業。
目を通し始めて数秒で、数字の波に飲み込まれそうになる。
「おおぅ……」
思わず、うめき声が口から漏れた。
「もう少し、初心者向けの資料はないのか?」
政朝が麗に尋ねると、麗は即座に答えた。
「総理大臣向けの資料です」
「つまり、これが一番簡単なのか……」
政朝が肩を落とす横で、真帆代が資料の中ほどに付箋を貼った。
「特に確認していただきたい事業を抜き出しています」
「何か問題があるんですか?」
政朝が真帆代へ尋ねた。
真帆代は、すぐには答えなかった。
「現時点で、違法性が確認されたわけではありません」
その前置きだけで、政朝は嫌な予感を覚えた。
「ただし、政治資金還付問題で処分対象となった議員が、予算の増額や継続を強く求めていた事業が複数含まれています」
政朝は、付箋の貼られたページを開いた。
事業名の横には、見慣れないほど大きな金額が並んでいる。
「処分対象になった議員が進めていた事業に、来年度も金を出すのか?」
政朝が麗へ顔を向けると、麗は落ち着いて答えた。
「議員に問題があったことと、事業そのものが不要であることは同じではありません」
「でも、そのまま認めていいわけでもないだろ」
「そのとおりです」
麗は、付箋の貼られたページを指した。
「事業を止めれば、地方自治体や国民生活に影響が出る可能性があります。一方、そのまま認めるなら、利益を受ける企業や団体に問題がないか確認する必要があります」
政朝は、机の上に積み上がった予算資料を見渡した。
党を守ること。
党を正すこと。
国民生活を守ること。
汚職を生んだ仕組みを断つこと。
どれか一つだけを選べばよい問題ではなさそうだった。
胸の奥から、サザレの声が聞こえた。
『早速、試されるようだな。数字ではなく、必要なものを選べるか』
政朝は返事をせず、その声に耳を傾けた。
『疑わしい者を遠ざけるために、民に必要なものまで捨てるのか。あるいは、必要なものを守るという理由で、汚れた仕組みまで残すのか』
「あぁ……胃が痛い」
政朝が漏らすと、麗が冷静に答えた。
「まだ説明は始まっていませんよ」
「始まる前だから痛いんだよ……」
「今夜は、まず付箋を貼った箇所を確認してください」
麗はそう告げると、開いていた資料を閉じた。
「詳細については、明日、財務大臣と財務省から説明があります」
「まだ詳細じゃなかったのか……」
政朝が肩を落とす横で、真帆代が豪快に笑った。
「総理、これから嫌というほど数字を見ることになりますよ」
「今の時点でも、もう嫌なんですけど」
守三は、机に積まれた資料と政朝の顔を交互に見比べた。
後ろ向きにかぶった帽子へ手を添え、同情するように小さく肩をすくめる。
「後藤さん。今、他人事だと思ったでしょ」
「まさか。わしも明日の説明には同席します」
守三は平然と答えた。
「しかし、今夜この資料を読むのは総理ですからな」
「やっぱり他人事じゃないか……」
真帆代が再び笑い、麗は政朝の嘆きを聞き流すように立ち上がった。
三人は政朝へ一礼すると、そろって総理執務室を出ていった。
扉が閉まり、室内に政朝一人だけが残される。
政朝は、付箋の貼られたページをもう一度開いた。
国民が自分に与えたのは、絶対的な信任ではない。
続きを見せるための猶予だ。
その猶予を使って、何を決めるのか。
新年度予算案を前に、卯月政朝の新たな仕事が始まろうとしていた。




