バレンタインデー・後編
次の土曜日。
首相公邸のプライベートキッチンには、百々歌幸と、内閣総理大臣秘書官の化女沼真帆代が立っていた。
「それで、総理」
化女沼が太い腕を組んだ。
「休日の公邸に呼び出してまで、あたしたちに教わりたいことっていうのが、チョコレート作りですか」
「日頃お世話になっている人たちに、バレンタインの菓子を配ろうと思いまして」
「お兄が手作りで?」
幸が、驚いたように政朝を見た。
「うん」
「どういう心境の変化?」
「いろいろあったんだよ」
政朝は視線をそらした。
幸たちが公邸へ来る直前、サザレは子供用のエプロンを外し、キッチンの戸棚の奥へしまっていた。
そのうえで、二人に気づかれないよう政朝の体内へ避難している。
幸や化女沼には、サザレの姿も声も認識できない。
しかし、サザレが調理器具に触れれば、道具だけがひとりでに動いているように見えてしまう。
そのため、講習中は政朝の中から作り方を見学することになっていた。
『化女沼まで呼んだのか。あの者ならば、料理にも容赦がなさそうだな』
胸の内側から、サザレの声が響いた。
政朝は返事をせず、わずかに眉を動かした。
『何だ、その顔は。妾は褒めておるのだぞ』
「お兄?」
幸が不審そうに、政朝の顔をのぞき込む。
「今、変な顔してたけど」
「何でもないよ」
「本当に?」
「うん。チョコレート作りに緊張してるだけ」
「国会答弁では、そこまで緊張してないよね?」
「国会答弁でも緊張してるよ」
政朝が答えると、化女沼が豪快に笑った。
「総理が休日まで緊張してるってんなら、少しくらい肩の力を抜かせてやりましょう。チョコ作りくらい、いくらでも教えますよ」
「助かります」
「ただし」
化女沼は政朝の目の前に、人さし指を立てた。
「人様に配る以上、衛生管理は徹底します。味より先に安全です」
「もちろんです」
「まず、あれば腕時計と指輪を外す。袖をまくる。手を洗う。爪は短く。調理台と器具は洗浄、消毒。材料の賞味期限とアレルギー表示も確認します」
「はい」
「髪も落ちないようにします」
幸が調理用の帽子を差し出した。
「お兄、これかぶって」
「俺もかぶるの?」
「総理大臣の髪の毛だからって、食品に入っていいわけじゃないから」
「ごもっともです」
政朝は素直に帽子をかぶった。
『まるで菓子職人だな。似合っておらぬが』
サザレの声が聞こえたが、政朝は何も答えなかった。
今ここで反論すれば、幸と化女沼から、誰もいない場所へ話しかけていると思われてしまう。
「お兄、どうして急に黙ったの?」
「集中してるんだよ」
「まだ帽子をかぶっただけだけど」
「今から集中してるんだ」
「怪しい……」
幸は疑うような目を向けたが、それ以上は追及しなかった。
今回作るのは、市販の板チョコレートと個包装のビスケット、加熱済みのシリアルだけを使ったチョコレートクランチだった。
生卵や生クリーム、傷みやすい果物は使用しない。
材料はすべて未開封のものを使い、使用した商品の原材料とアレルギー表示も控えておく。
作った菓子は一つずつ袋に入れ、製造日と原材料を書いた小さな紙を添えることになった。
「ずいぶん本格的だな」
「お兄の作ったものを食べて、誰かが体調を崩したら大騒ぎになるからね」
幸が淡々と答える。
「新聞の見出しは、『総理の手作りチョコで閣僚集団食中毒』ですかね」
化女沼が笑う。
「やめてください。想像しただけで胃が痛くなります」
「でしたら、なおさら手順を守ってください」
「はい」
まずは、板チョコレートを細かく割る。
政朝が一枚ずつ慎重に折っていると、化女沼が首を傾げた。
「総理、ずいぶんと慎重ですな」
「前に鍋を焦がしたので」
「総理が?」
「……知り合いが」
「その知り合い、料理に向いていないんじゃないですか?」
政朝の胸の内側から、不満そうな声が響いた。
『無礼な女だな』
政朝は聞こえなかったふりをして、板チョコレートを割り続けた。
『何か言い返してやらぬか』
もちろん、返事はできない。
『薄情な男だ』
割ったチョコレートを、湯煎でゆっくりと溶かしていく。
「湯気や水滴が入らないようにしてね」
幸が説明する。
「チョコレートに水分が入ると、分離して扱いにくくなるから」
「なるほど」
『初めから、そう教えてくれればよかったのだ』
サザレの声が聞こえた。
政朝は何も答えず、口元だけを引きつらせる。
「お兄、どうしたの?」
「何でもない」
「さっきから、その返事ばっかり」
「本当に何でもないんだよ」
チョコレートが滑らかに溶けたところで、細かく砕いたビスケットとシリアルを加える。
全体を均等に混ぜ、スプーンで一口大に分けていく。
「お兄、形が大きすぎる」
幸が指摘した。
「これくらい?」
「まだ大きい」
「じゃあ、これで」
「今度は小さすぎる」
「難しいな……」
「国会答弁より苦戦してない?」
「国会答弁には、だいたい答弁資料があるから」
「チョコレート作りにもレシピがあるよ」
「正論だ」
隣では、化女沼が迷いのない手つきで、ほぼ同じ大きさのクランチを並べていた。
「化女沼さん、上手ですね」
政朝が感心して言うと、化女沼は得意げに胸を張った。
「こう見えて、菓子作りは得意なんですよ」
「こう見えて、は余計じゃないですか?」
政朝が苦笑すると、化女沼はにやりと笑った。
「おや。総理が先に言おうとした顔をしていたもので」
「言ってませんよ」
「本当ですか?」
「思ってもいません」
『思っておったな』
サザレの声が追い打ちをかける。
政朝は否定したかったが、黙って作業を続けるしかなかった。
数時間後。
調理台の上には、形のそろったチョコレートクランチが並んでいた。
政朝が作ったものには多少の大小があるものの、少なくとも人に渡せる見た目にはなっている。
幸が一つを割り、中まで固まっていることを確認する。
続いて、化女沼が試食した。
「うん。これなら大丈夫ですな」
「本当ですか?」
「焦げ臭くもないし、だしの味もしません」
政朝の動きが止まった。
「どうして、だしのことを知っているんですか?」
「え?」
「俺は言っていませんよね」
「総理の台所に、チョコレートのついた顆粒だしの袋がありましたから」
「見られてた……」
胸の内側から、サザレの声が聞こえた。
『片づけが甘かったな』
使ったのはサザレだろう。
政朝はそう言い返したかったが、ぐっとこらえた。
幸が、使用した材料の商品名と原材料を一覧にまとめていく。
「配る相手のアレルギーも、事前に確認してね。確認できない人には渡さない方が安全だから」
「分かった」
「保存は冷暗所。暖房の近くや、直射日光の当たる場所には置かないで」
「はい」
「それから、私費で購入した材料だと分かるように、領収書は公務関係のものと分けておいてね」
「そこまで?」
「お兄は総理だから」
「チョコレート一つ作るのも大変だな……」
「総理じゃなくても、人に食べ物を渡すなら大変だよ」
幸の言葉に、政朝は小さくうなずいた。
「二人とも、今日はありがとう」
「私は秘書だから、これくらいはいいよ」
「困ったときは、お互いさまですよ」
化女沼は豪快に笑うと、余ったチョコレートクランチを一つつまんだ。
「ところで、総理」
化女沼が政朝へ視線を向けた。
「何ですか?」
「これだけ練習して、誰か特別な相手に渡すんですか?」
「特別な相手?」
「本命というやつですよ」
「いませんよ」
胸の内側から、低い声が響いた。
『ほう』
政朝は反応しないよう努めた。
「本当に?」
今度は幸が、政朝の顔をじっと見つめた。
「本当にいないよ」
「今、一瞬だけ目が泳いだ」
「気のせいだ」
「怪しいですなあ」
化女沼がにやりと笑う。
「いないって言ってるでしょう!」
首相公邸のキッチンに、政朝の声が響いた。
◇
幸と化女沼が帰った後。
政朝は玄関の扉が閉まったことを確認してから、サザレを体外へ出した。
「もういいぞ」
政朝の胸元から淡い光があふれ、サザレが姿を現す。
サザレはキッチンの戸棚を開け、奥へしまってあった子供用のエプロンを取り出した。
そして、慣れない手つきで身につける。
「随分と待たされたぞ」
「二人の前で出てきたら、大騒ぎになるだろ」
「妾の姿は見えぬのであろう?」
「調理器具がひとりでに動いたら、見えるのと同じだよ」
「細かい男だ」
「安全のためだ」
二人は、幸と化女沼が教えてくれた手順を最初から確認した。
時計を外す。
袖をまくる。
手を丁寧に洗う。
調理台と器具を清潔にする。
未開封の材料を用意し、賞味期限と原材料を確認する。
「よし。始めよう」
「妾が主導する」
「手順は俺が確認する」
「妾を信用しておらぬのか?」
「八回分の実績があるからな」
「過去にとらわれる者は、大成せぬぞ」
「料理では、過去の失敗から学んでくれ」
サザレは不満そうにしながらも、今度はきちんと板チョコレートを細かく割った。
湯煎の温度も、政朝の指示どおりに調整する。
「水を入れてはならぬのだな」
「そう」
「だしも?」
「絶対に入れるな」
「砂糖は?」
「入れなくていい」
「みそは?」
「何で候補に残ってるんだよ」
何度か危うい場面はあったものの、昼間の講習の成果もあり、作業は順調に進んだ。
溶かしたチョコレートに、砕いたビスケットとシリアルを混ぜる。
同じくらいの大きさになるよう、スプーンで丁寧に分ける。
冷やし固めた後は、二人で一つずつ包装した。
政朝が袋を押さえ、サザレが細いリボンを結ぶ。
「もっときつく結ばぬか」
「袋が破れる」
「では、これくらいか?」
「うん。ちょうどいい」
作業は深夜まで続いた。
テーブルの上には、小分けにされた大量のチョコレート菓子が並んでいる。
一つ一つに、使用した材料と製造日を書いた紙が添えられていた。
「壮観だな」
「妾の力作だからな」
「幸と化女沼さんのおかげでもあるけど」
「そなたも、少しは役に立ったぞ」
「俺の公邸で、俺が買った材料を使って、俺が半分以上作ったんだけど」
「細かいことを気にするでない」
サザレは完成した袋を満足そうに眺めた。
「皆、喜ぶであろうか」
「たぶん驚くとは思う」
「喜ばぬのか?」
「現職の総理大臣から手作りチョコを渡される経験なんて、普通はないからな」
「よいことではないか」
「いいのかな……」
政朝は、原材料を記した紙が足りないことに気づいた。
「書斎に予備があったはずだ。取ってくる」
「うむ」
政朝がキッチンを離れる。
その足音が遠ざかったことを確認すると、サザレは調理台の隅へ残しておいた少量のチョコレートと、砕いたビスケットを手元へ引き寄せた。
昼間、幸と化女沼が政朝に教えていた手順を思い出しながら、自分の手だけで丁寧に混ぜる。
そして、三つだけ小さく形を整え、ほかとは別の皿へ載せた。
「これならば……」
形は少しいびつだった。
それでも、先ほどまで二人で作っていたものより、時間をかけて丁寧に仕上げた。
政朝が戻ってくる前に、サザレはその皿を冷蔵庫の奥へ隠した。
しばらくしてチョコレートが固まると、政朝が完成品の数を確認している隙に、一つの小袋へ収める。
そして政朝に気づかれないよう、そっと自分の袖の中へ隠した。
◇
バレンタインデー当日。
政朝は朝から、大きな紙袋を抱えて議員会館の事務所へ入った。
「おはようございます」
「おはようございます、先生」
政策秘書の後藤守三が、立派なひげを撫でながら紙袋へ目を向ける。
「その大荷物は何ですかな?」
「日頃のお礼です」
政朝は、小分けにしたチョコレート菓子を差し出した。
「皆さんでどうぞ」
後藤は袋と政朝の顔を交互に見た。
「先生が買ってきたのですか?」
「作りました」
「先生が?」
「はい」
後藤の視線が、わずかに険しくなった。
「毒見は済んでおりますか?」
「毒なんて入ってないよ!」
「冗談です」
「目が本気だったぞ」
公設第一秘書の奥平希超呂も、チョコレートを受け取った。
「先生、マジで作ったんすか?」
「マジで作った」
「すげえっすね。俺、先生にこういう才能があるとは思ってませんでした」
「今まで、俺をどういう目で見てたんだ?」
「政治以外は何もできねえ人かと」
「政治も満足にできている自信がないんだけど」
「そこは自信持ってくださいよ!」
幸にも、改めて一袋を手渡す。
「先日はありがとう」
「私は作り方を教えただけだよ」
「それでも助かったよ」
幸は袋の中を確認した。
「原材料表示も入れたんだ」
「言われたとおりにした」
「合格」
「司法試験より緊張したな」
「私は司法試験を受けたとき、そこまで緊張しなかったけど」
「比べた俺が悪かった」
次に、政朝は官邸へ向かった。
総理秘書官室では、化女沼が書類の束を整理している。
「化女沼さん」
「おや、総理。どうしました?」
「先日のお礼です」
政朝は、チョコレート菓子の入った袋を差し出した。
「おお。完成しましたか」
「何とか」
化女沼は袋を受け取ると、ラベルを確認した。
「製造者、卯月政朝」
「幸が必要だと言うので」
「総理大臣の名前が製造者欄に書いてある菓子なんざ、世界に一つでしょうな」
「転売しないでくださいよ」
「値がつきますかね?」
「やめてください」
化女沼の豪快な笑い声が、秘書官室に響いた。
昼前。
政朝は官房長官室を訪れた。
「麗、少しいい?」
「何でしょうか」
机に向かっていた麗が顔を上げる。
政朝が小袋を差し出すと、その表情がわずかに変わった。
「これは?」
「チョコレート」
「見れば分かります」
「日頃のお礼。手作りだけど、衛生面には十分気をつけている。原材料も書いてあるから」
麗は袋を受け取った。
「これを作るために、国会内の売店からチョコレートを買い占めたんですか?」
「買い占めではない」
「必要な量を買った結果、棚だけでなく在庫まで空になっただけ?」
「そう。それだ」
「それを買い占めと言います」
麗は相変わらず厳しい表情をしている。
しかし、袋を机へ置く手つきは妙に丁寧だった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「味は保証されているんですか?」
「幸と化女沼さんが確認した」
「総理自身は?」
「味見しすぎて、しばらくチョコレートを見たくない」
「何個食べたんですか?」
「それは国家機密だ」
「個人的な事情ではなかったんですか?」
「細かいところを覚えてるな……」
麗は袋の中から一つ取り出すと、政朝の目の前で口へ運んだ。
何度かかみしめる。
「どう?」
「普通においしいです」
「普通に、は必要か?」
「総理が作ったものとしては、非常においしいです」
「評価が下がってない?」
麗は答えず、二つ目へ手を伸ばした。
政朝は、それを見なかったことにした。
午後には、日頃直接世話になっている閣僚や、自由推進党の役員にも配った。
誰もが最初は驚き、次に袋のラベルを確認し、最後に政朝の顔を見た。
「本当に総理が作ったんですか?」
「公務ではありませんよね?」
「まさか、税金で材料を?」
同じ質問が繰り返された。
政朝は、そのたびに説明した。
「私費です。政治資金も公費も使っていません」
最後に訪れたのは、自由推進党幹事長の井上剛の部屋だった。
「井上幹事長」
「総理。何かございましたか」
井上は、いつもの落ち着いた表情で政朝を迎えた。
政朝は、小さな袋を差し出した。
「日頃のお礼です」
「……これは?」
「チョコレート菓子です」
「総理から、私に?」
「はい」
「本日が、バレンタインデーだからですか?」
「それもあります」
「総理ご自身が?」
「作りました」
井上は袋を受け取った。
製造者欄に書かれた「卯月政朝」の名前を確認する。
井上の目が点になった。
政朝から袋へ。
袋から政朝へ。
もう一度、袋へ。
井上の視線がゆっくりと移動する。
そのまま、完全に動きを止めた。
「井上幹事長?」
「……」
「どうしました?」
「……いえ」
「食べたくなければ、無理にとは言いませんけど」
「いただきます」
「本当に?」
「総理から直接いただいたものですから」
井上はいつもの冷静さを取り戻そうとしていた。
しかし、明らかに処理が追いついていない。
「失礼します」
政朝は一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる直前、井上が再び袋を見つめ、深く考え込んでいる姿が見えた。
廊下に人影がないことを確認すると、政朝の胸元からサザレの声が聞こえた。
『あの男、ずいぶんと驚いておったな』
「驚くとは思ったけど、思考が停止するとは思わなかった」
政朝は、周囲を気にしながら小声で答えた。
『効果は絶大であった』
「何の効果だよ」
『次は、もっと大きなものを渡してみるか』
「党内人事に影響が出そうだからやめてくれ」
◇
その日の夜。
すべての仕事を終えて公邸へ戻った政朝は、居間のソファに深く腰を下ろした。
朝からチョコレートを配り続け、行く先々で驚かれ、疑われ、ときには妙な誤解までされた。
特に井上が、小袋を手にしたまま十秒近く動きを止めていた姿は、しばらく忘れられそうにない。
「あぁ……別の意味で胃が痛い」
「皆、喜んでおったではないか」
政朝の胸元から淡い光があふれ、サザレが姿を現す。
「井上幹事長は喜んでいたのかな、あれ」
「少なくとも、珍しいものを見る目をしておったぞ」
「それは喜んでいると言わない」
政朝がネクタイを緩めていると、サザレが落ち着かない様子で居間を歩き回り始めた。
何度も政朝を見ては視線をそらし、袖の中に手を隠している。
「どうした?」
「何でもない」
「何でもない人は、そんなに同じ場所を往復しないだろ」
「気にするでない」
そう言いながらも、サザレは再び政朝の前を横切った。
五往復目を数えたところで、ようやく足を止める。
「政朝」
「うん?」
「目を閉じよ」
「どうして?」
「よいから閉じよ」
政朝が言われたとおりに目を閉じると、包装紙の擦れる音が聞こえた。
「もうよいぞ」
目を開ける。
サザレの両手には、小さな包みが載っていた。
昼間に配ったものとは違う、淡い紺色の紙で丁寧に包まれている。
形は少しいびつだったが、赤い細紐が結ばれていた。
「これは?」
「……そなたの分だ」
サザレは政朝と目を合わせようとしなかった。
「皆に配ったものとは別に、三つだけ、妾が一人で仕上げた。そなたのためにな」
「一人で?」
「案ずるな。昼間、幸と化女沼がそなたに教えていた手順を守った。手も洗った。器具もきれいにした。生ものは使っておらぬ。作った後は、すぐに冷やした」
「すごく念を押すな」
「そなたが食中毒、食中毒とうるさかったからだ」
「総理大臣が手作りチョコで倒れたら、国会で何を言われるか分からないからな」
「心配するところが少し違わぬか?」
包みの中には、ひと口大のチョコレート菓子が三つ入っていた。
形はそろっていない。
一つは丸く、一つは四角く、もう一つはどちらとも言えない形をしている。
それでも、昼間に配った菓子より、ずっと丁寧に作られていることは分かった。
政朝は一つをつまみ、口へ運んだ。
サザレが、じっと見つめている。
その表情は、予算委員会で野党議員の追及を受ける政朝よりも緊張していた。
「どうだ?」
政朝はゆっくりとかみしめた。
甘さは控えめだった。
中には細かく砕かれたビスケットが混ぜられ、少し不格好ながらも、きちんとチョコレート菓子の味がする。
「おいしい」
「本当か?」
「ああ。ちゃんとおいしいよ」
サザレの顔が、ぱっと明るくなった。
「そうか。そうか!」
嬉しそうに笑うその姿を見て、政朝も自然と頬を緩めた。
「それなら、俺からも渡すものがある」
「妾に?」
「目を閉じて」
「なぜだ?」
「さっき俺にやらせただろ」
サザレは不思議そうな顔をしながらも、素直に目を閉じた。
政朝は冷凍庫から小さなカップを取り出し、テーブルの上へ置いた。
さらに、ソファの陰に隠していた細長い箱を運んでくる。
「もういいぞ」
サザレが目を開ける。
最初に見つけたのは、チョコレートアイスだった。
「これは……!」
「バレンタイン限定って書いてあったから、買ってみたんだ」
「妾のためにか?」
「サザレはチョコレートに興味を持っていただろ。作るだけじゃなくて、ちゃんとおいしいものも食べさせてあげようと思って」
サザレは目を輝かせ、カップを両手で抱えた。
「気が利くではないか!」
「公邸の職員に見つからないように持ち込むのが大変だったけどな」
サザレはすぐに、その隣に置かれた箱へ気づいた。
「こちらは何だ?」
「開けてみて」
サザレが箱のふたを持ち上げる。
中には、新しい着物が収められていた。
淡い桜色の生地に、小さな白い花と霞の模様があしらわれている。
派手すぎず、それでいて春を感じさせる、柔らかな色合いだった。
その下には、新しい白足袋と、着物の色に合わせた淡い紫色の鼻緒の草履が並べられている。
さらに箱の端には、生成り色の靴下と、焦げ茶色の編み上げ式ショートブーツまで収められていた。
サザレは何も言わず、箱の中を見つめた。
「今着ているものしか持っていないみたいだったから。着物だけじゃなくて、足袋と履き物も一緒に用意したんだ」
「この白いものと草履は分かる」
サザレは白足袋を手に取った後、隣の靴下とブーツへ視線を移した。
「だが、こちらの短靴は何だ?」
「ブーツ。今は着物に合わせて履く人もいるらしい」
「着物に、このような靴を?」
「意外と似合うと思うぞ。草履より歩きやすいだろうし」
「妾は幽霊だ。歩きやすさを気にする必要はない」
「そこは雰囲気の問題だよ」
サザレはブーツを持ち上げ、しげしげと眺めた。
「随分と重そうだな」
「履いてみて気に入らなかったら、草履にすればいい。どっちを選ぶかはサザレに任せるよ」
「なるほど。妾に二通りの装いを楽しめと申すのだな」
「そういうこと」
「なかなか気が利いておるではないか」
わずかに弾んだ声で言いながら、サザレはもう一度、桜色の着物へ目を戻した。
そっと生地に触れる。
「このように美しい着物をもらったのは、久しぶりだ」
いつもの尊大な口調とは違う、かすかな声だった。
「私費だからな。税金は使っていない」
「この場で、その説明は必要か?」
「一応、大事なことだから」
サザレが噴き出した。
笑いながらも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「政朝」
「何?」
「妾は、そなたと契約してよかった」
政朝は一瞬、言葉を失った。
二人の契約の対価を思えば、素直に喜んでよい言葉なのかは分からない。
それでも、今だけは難しいことを考えるのをやめた。
「俺も、サザレがいてくれてよかったと思ってるよ。死んだ後は不安だけど」
「余計なひと言を付け加えるでない」
サザレは頬を膨らませた。
しかし、桜色の着物を抱く腕は、決して離そうとしなかった。
「でも、本当にそう思ってるよ」
「……そうか」
「ああ」
サザレは小さく笑うと、新しい着物を大切そうに抱えたまま、チョコレートアイスのふたを開けた。
ひと口食べる。
その瞬間、目を大きく見開いた。
「うまい!」
「俺のチョコより大きな反応だな」
「当然だ。これは菓子職人が作ったものだからな」
「そこは気を遣ってくれよ」
「そなたも食べるか?」
「今日はもう、チョコレートを見たくない」
「ならば、妾が全部いただく」
「一度に食べすぎるなよ」
「幽霊は腹を壊さぬ」
「都合がいいな、幽霊」
公邸の外では、まだ冷たい風が吹いていた。
けれども、その夜の居間には、春を先取りしたような温かな空気が流れていた。
テーブルの上には、形の不ぞろいな手作りチョコレート。
サザレの腕には、桜色の新しい着物。
箱の中には、白足袋と草履、そして少し風変わりな靴下とショートブーツ。
彼女の手には、少しずつ減っていくチョコレートアイス。
政朝はその光景を眺めながら、静かに思った。
来年もまた、こうして二人でバレンタインを迎えられればいい。
総理大臣と幽霊ではなく、ただの政朝とサザレとして。
口に出せば、きっと笑われる。
だから政朝は何も言わず、幸せそうにアイスを食べるサザレを、静かに見守っていた。




