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首相公邸の幽霊  作者: シッピー&樽
新年度予算案編
12/16

バレンタインデー・後編

 次の土曜日。


 首相公邸のプライベートキッチンには、百々歌(とどうた)(さち)と、内閣総理大臣秘書官の化女沼(けじょぬま)真帆代(まほよ)が立っていた。


「それで、総理」


 化女沼が太い腕を組んだ。


「休日の公邸に呼び出してまで、あたしたちに教わりたいことっていうのが、チョコレート作りですか」


「日頃お世話になっている人たちに、バレンタインの菓子を配ろうと思いまして」


「お兄が手作りで?」


 幸が、驚いたように政朝(まさとも)を見た。


「うん」


「どういう心境の変化?」


「いろいろあったんだよ」


 政朝は視線をそらした。


 幸たちが公邸へ来る直前、サザレは子供用のエプロンを外し、キッチンの戸棚の奥へしまっていた。


 そのうえで、二人に気づかれないよう政朝の体内へ避難している。


 幸や化女沼には、サザレの姿も声も認識できない。


 しかし、サザレが調理器具に触れれば、道具だけがひとりでに動いているように見えてしまう。


 そのため、講習中は政朝の中から作り方を見学することになっていた。


『化女沼まで呼んだのか。あの者ならば、料理にも容赦がなさそうだな』


 胸の内側から、サザレの声が響いた。


 政朝は返事をせず、わずかに眉を動かした。


『何だ、その顔は。妾は褒めておるのだぞ』


「お兄?」


 幸が不審そうに、政朝の顔をのぞき込む。


「今、変な顔してたけど」


「何でもないよ」


「本当に?」


「うん。チョコレート作りに緊張してるだけ」


「国会答弁では、そこまで緊張してないよね?」


「国会答弁でも緊張してるよ」


 政朝が答えると、化女沼が豪快に笑った。


「総理が休日まで緊張してるってんなら、少しくらい肩の力を抜かせてやりましょう。チョコ作りくらい、いくらでも教えますよ」


「助かります」


「ただし」


 化女沼は政朝の目の前に、人さし指を立てた。


「人様に配る以上、衛生管理は徹底します。味より先に安全です」


「もちろんです」


「まず、あれば腕時計と指輪を外す。袖をまくる。手を洗う。爪は短く。調理台と器具は洗浄、消毒。材料の賞味期限とアレルギー表示も確認します」


「はい」


「髪も落ちないようにします」


 幸が調理用の帽子を差し出した。


「お兄、これかぶって」


「俺もかぶるの?」


「総理大臣の髪の毛だからって、食品に入っていいわけじゃないから」


「ごもっともです」


 政朝は素直に帽子をかぶった。


『まるで菓子職人だな。似合っておらぬが』


 サザレの声が聞こえたが、政朝は何も答えなかった。


 今ここで反論すれば、幸と化女沼から、誰もいない場所へ話しかけていると思われてしまう。


「お兄、どうして急に黙ったの?」


「集中してるんだよ」


「まだ帽子をかぶっただけだけど」


「今から集中してるんだ」


「怪しい……」


 幸は疑うような目を向けたが、それ以上は追及しなかった。


 今回作るのは、市販の板チョコレートと個包装のビスケット、加熱済みのシリアルだけを使ったチョコレートクランチだった。


 生卵や生クリーム、傷みやすい果物は使用しない。


 材料はすべて未開封のものを使い、使用した商品の原材料とアレルギー表示も控えておく。


 作った菓子は一つずつ袋に入れ、製造日と原材料を書いた小さな紙を添えることになった。


「ずいぶん本格的だな」


「お兄の作ったものを食べて、誰かが体調を崩したら大騒ぎになるからね」


 幸が淡々と答える。


「新聞の見出しは、『総理の手作りチョコで閣僚集団食中毒』ですかね」


 化女沼が笑う。


「やめてください。想像しただけで胃が痛くなります」


「でしたら、なおさら手順を守ってください」


「はい」


 まずは、板チョコレートを細かく割る。


 政朝が一枚ずつ慎重に折っていると、化女沼が首を傾げた。


「総理、ずいぶんと慎重ですな」


「前に鍋を焦がしたので」


「総理が?」


「……知り合いが」


「その知り合い、料理に向いていないんじゃないですか?」


 政朝の胸の内側から、不満そうな声が響いた。


『無礼な女だな』


 政朝は聞こえなかったふりをして、板チョコレートを割り続けた。


『何か言い返してやらぬか』


 もちろん、返事はできない。


『薄情な男だ』


 割ったチョコレートを、湯煎でゆっくりと溶かしていく。


「湯気や水滴が入らないようにしてね」


 幸が説明する。


「チョコレートに水分が入ると、分離して扱いにくくなるから」


「なるほど」


『初めから、そう教えてくれればよかったのだ』


 サザレの声が聞こえた。


 政朝は何も答えず、口元だけを引きつらせる。


「お兄、どうしたの?」


「何でもない」


「さっきから、その返事ばっかり」


「本当に何でもないんだよ」


 チョコレートが滑らかに溶けたところで、細かく砕いたビスケットとシリアルを加える。


 全体を均等に混ぜ、スプーンで一口大に分けていく。


「お兄、形が大きすぎる」


 幸が指摘した。


「これくらい?」


「まだ大きい」


「じゃあ、これで」


「今度は小さすぎる」


「難しいな……」


「国会答弁より苦戦してない?」


「国会答弁には、だいたい答弁資料があるから」


「チョコレート作りにもレシピがあるよ」


「正論だ」


 隣では、化女沼が迷いのない手つきで、ほぼ同じ大きさのクランチを並べていた。


「化女沼さん、上手ですね」


 政朝が感心して言うと、化女沼は得意げに胸を張った。


「こう見えて、菓子作りは得意なんですよ」


「こう見えて、は余計じゃないですか?」


 政朝が苦笑すると、化女沼はにやりと笑った。


「おや。総理が先に言おうとした顔をしていたもので」


「言ってませんよ」


「本当ですか?」


「思ってもいません」


『思っておったな』


 サザレの声が追い打ちをかける。


 政朝は否定したかったが、黙って作業を続けるしかなかった。


 数時間後。


 調理台の上には、形のそろったチョコレートクランチが並んでいた。


 政朝が作ったものには多少の大小があるものの、少なくとも人に渡せる見た目にはなっている。


 幸が一つを割り、中まで固まっていることを確認する。


 続いて、化女沼が試食した。


「うん。これなら大丈夫ですな」


「本当ですか?」


「焦げ臭くもないし、だしの味もしません」


 政朝の動きが止まった。


「どうして、だしのことを知っているんですか?」


「え?」


「俺は言っていませんよね」


「総理の台所に、チョコレートのついた顆粒だしの袋がありましたから」


「見られてた……」


 胸の内側から、サザレの声が聞こえた。


『片づけが甘かったな』


 使ったのはサザレだろう。


 政朝はそう言い返したかったが、ぐっとこらえた。


 幸が、使用した材料の商品名と原材料を一覧にまとめていく。


「配る相手のアレルギーも、事前に確認してね。確認できない人には渡さない方が安全だから」


「分かった」


「保存は冷暗所。暖房の近くや、直射日光の当たる場所には置かないで」


「はい」


「それから、私費で購入した材料だと分かるように、領収書は公務関係のものと分けておいてね」


「そこまで?」


「お兄は総理だから」


「チョコレート一つ作るのも大変だな……」


「総理じゃなくても、人に食べ物を渡すなら大変だよ」


 幸の言葉に、政朝は小さくうなずいた。


「二人とも、今日はありがとう」


「私は秘書だから、これくらいはいいよ」


「困ったときは、お互いさまですよ」


 化女沼は豪快に笑うと、余ったチョコレートクランチを一つつまんだ。


「ところで、総理」


 化女沼が政朝へ視線を向けた。


「何ですか?」


「これだけ練習して、誰か特別な相手に渡すんですか?」


「特別な相手?」


「本命というやつですよ」


「いませんよ」


 胸の内側から、低い声が響いた。


『ほう』


 政朝は反応しないよう努めた。


「本当に?」


 今度は幸が、政朝の顔をじっと見つめた。


「本当にいないよ」


「今、一瞬だけ目が泳いだ」


「気のせいだ」


「怪しいですなあ」


 化女沼がにやりと笑う。


「いないって言ってるでしょう!」


 首相公邸のキッチンに、政朝の声が響いた。


 ◇


 幸と化女沼が帰った後。


 政朝は玄関の扉が閉まったことを確認してから、サザレを体外へ出した。


「もういいぞ」


 政朝の胸元から淡い光があふれ、サザレが姿を現す。


 サザレはキッチンの戸棚を開け、奥へしまってあった子供用のエプロンを取り出した。


 そして、慣れない手つきで身につける。


「随分と待たされたぞ」


「二人の前で出てきたら、大騒ぎになるだろ」


「妾の姿は見えぬのであろう?」


「調理器具がひとりでに動いたら、見えるのと同じだよ」


「細かい男だ」


「安全のためだ」


 二人は、幸と化女沼が教えてくれた手順を最初から確認した。


 時計を外す。


 袖をまくる。


 手を丁寧に洗う。


 調理台と器具を清潔にする。


 未開封の材料を用意し、賞味期限と原材料を確認する。


「よし。始めよう」


「妾が主導する」


「手順は俺が確認する」


「妾を信用しておらぬのか?」


「八回分の実績があるからな」


「過去にとらわれる者は、大成せぬぞ」


「料理では、過去の失敗から学んでくれ」


 サザレは不満そうにしながらも、今度はきちんと板チョコレートを細かく割った。


 湯煎の温度も、政朝の指示どおりに調整する。


「水を入れてはならぬのだな」


「そう」


「だしも?」


「絶対に入れるな」


「砂糖は?」


「入れなくていい」


「みそは?」


「何で候補に残ってるんだよ」


 何度か危うい場面はあったものの、昼間の講習の成果もあり、作業は順調に進んだ。


 溶かしたチョコレートに、砕いたビスケットとシリアルを混ぜる。


 同じくらいの大きさになるよう、スプーンで丁寧に分ける。


 冷やし固めた後は、二人で一つずつ包装した。


 政朝が袋を押さえ、サザレが細いリボンを結ぶ。


「もっときつく結ばぬか」


「袋が破れる」


「では、これくらいか?」


「うん。ちょうどいい」


 作業は深夜まで続いた。


 テーブルの上には、小分けにされた大量のチョコレート菓子が並んでいる。


 一つ一つに、使用した材料と製造日を書いた紙が添えられていた。


「壮観だな」


「妾の力作だからな」


「幸と化女沼さんのおかげでもあるけど」


「そなたも、少しは役に立ったぞ」


「俺の公邸で、俺が買った材料を使って、俺が半分以上作ったんだけど」


「細かいことを気にするでない」


 サザレは完成した袋を満足そうに眺めた。


「皆、喜ぶであろうか」


「たぶん驚くとは思う」


「喜ばぬのか?」


「現職の総理大臣から手作りチョコを渡される経験なんて、普通はないからな」


「よいことではないか」


「いいのかな……」


 政朝は、原材料を記した紙が足りないことに気づいた。


「書斎に予備があったはずだ。取ってくる」


「うむ」


 政朝がキッチンを離れる。


 その足音が遠ざかったことを確認すると、サザレは調理台の隅へ残しておいた少量のチョコレートと、砕いたビスケットを手元へ引き寄せた。


 昼間、幸と化女沼が政朝に教えていた手順を思い出しながら、自分の手だけで丁寧に混ぜる。


 そして、三つだけ小さく形を整え、ほかとは別の皿へ載せた。


「これならば……」


 形は少しいびつだった。


 それでも、先ほどまで二人で作っていたものより、時間をかけて丁寧に仕上げた。


 政朝が戻ってくる前に、サザレはその皿を冷蔵庫の奥へ隠した。


 しばらくしてチョコレートが固まると、政朝が完成品の数を確認している隙に、一つの小袋へ収める。


 そして政朝に気づかれないよう、そっと自分の袖の中へ隠した。


 ◇


 バレンタインデー当日。


 政朝は朝から、大きな紙袋を抱えて議員会館の事務所へ入った。


「おはようございます」


「おはようございます、先生」


 政策秘書の後藤(ごとう)守三(もりぞう)が、立派なひげを撫でながら紙袋へ目を向ける。


「その大荷物は何ですかな?」


「日頃のお礼です」


 政朝は、小分けにしたチョコレート菓子を差し出した。


「皆さんでどうぞ」


 後藤は袋と政朝の顔を交互に見た。


「先生が買ってきたのですか?」


「作りました」


「先生が?」


「はい」


 後藤の視線が、わずかに険しくなった。


「毒見は済んでおりますか?」


「毒なんて入ってないよ!」


「冗談です」


「目が本気だったぞ」


 公設第一秘書の奥平(おくだいら)希超呂(きっころ)も、チョコレートを受け取った。


「先生、マジで作ったんすか?」


「マジで作った」


「すげえっすね。俺、先生にこういう才能があるとは思ってませんでした」


「今まで、俺をどういう目で見てたんだ?」


「政治以外は何もできねえ人かと」


「政治も満足にできている自信がないんだけど」


「そこは自信持ってくださいよ!」


 幸にも、改めて一袋を手渡す。


「先日はありがとう」


「私は作り方を教えただけだよ」


「それでも助かったよ」


 幸は袋の中を確認した。


「原材料表示も入れたんだ」


「言われたとおりにした」


「合格」


「司法試験より緊張したな」


「私は司法試験を受けたとき、そこまで緊張しなかったけど」


「比べた俺が悪かった」


 次に、政朝は官邸へ向かった。


 総理秘書官室では、化女沼が書類の束を整理している。


「化女沼さん」


「おや、総理。どうしました?」


「先日のお礼です」


 政朝は、チョコレート菓子の入った袋を差し出した。


「おお。完成しましたか」


「何とか」


 化女沼は袋を受け取ると、ラベルを確認した。


「製造者、卯月(うづき)政朝(まさとも)


「幸が必要だと言うので」


「総理大臣の名前が製造者欄に書いてある菓子なんざ、世界に一つでしょうな」


「転売しないでくださいよ」


「値がつきますかね?」


「やめてください」


 化女沼の豪快な笑い声が、秘書官室に響いた。


 昼前。


 政朝は官房長官室を訪れた。


「麗、少しいい?」


「何でしょうか」


 机に向かっていた麗が顔を上げる。


 政朝が小袋を差し出すと、その表情がわずかに変わった。


「これは?」


「チョコレート」


「見れば分かります」


「日頃のお礼。手作りだけど、衛生面には十分気をつけている。原材料も書いてあるから」


 麗は袋を受け取った。


「これを作るために、国会内の売店からチョコレートを買い占めたんですか?」


「買い占めではない」


「必要な量を買った結果、棚だけでなく在庫まで空になっただけ?」


「そう。それだ」


「それを買い占めと言います」


 麗は相変わらず厳しい表情をしている。


 しかし、袋を机へ置く手つきは妙に丁寧だった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


「味は保証されているんですか?」


「幸と化女沼さんが確認した」


「総理自身は?」


「味見しすぎて、しばらくチョコレートを見たくない」


「何個食べたんですか?」


「それは国家機密だ」


「個人的な事情ではなかったんですか?」


「細かいところを覚えてるな……」


 麗は袋の中から一つ取り出すと、政朝の目の前で口へ運んだ。


 何度かかみしめる。


「どう?」


「普通においしいです」


「普通に、は必要か?」


「総理が作ったものとしては、非常においしいです」


「評価が下がってない?」


 麗は答えず、二つ目へ手を伸ばした。


 政朝は、それを見なかったことにした。


 午後には、日頃直接世話になっている閣僚や、自由推進党の役員にも配った。


 誰もが最初は驚き、次に袋のラベルを確認し、最後に政朝の顔を見た。


「本当に総理が作ったんですか?」


「公務ではありませんよね?」


「まさか、税金で材料を?」


 同じ質問が繰り返された。


 政朝は、そのたびに説明した。


「私費です。政治資金も公費も使っていません」


 最後に訪れたのは、自由推進党幹事長の井上(いのうえ)(つよし)の部屋だった。


「井上幹事長」


「総理。何かございましたか」


 井上は、いつもの落ち着いた表情で政朝を迎えた。


 政朝は、小さな袋を差し出した。


「日頃のお礼です」


「……これは?」


「チョコレート菓子です」


「総理から、私に?」


「はい」


「本日が、バレンタインデーだからですか?」


「それもあります」


「総理ご自身が?」


「作りました」


 井上は袋を受け取った。


 製造者欄に書かれた「卯月政朝」の名前を確認する。


 井上の目が点になった。


 政朝から袋へ。


 袋から政朝へ。


 もう一度、袋へ。


 井上の視線がゆっくりと移動する。


 そのまま、完全に動きを止めた。


「井上幹事長?」


「……」


「どうしました?」


「……いえ」


「食べたくなければ、無理にとは言いませんけど」


「いただきます」


「本当に?」


「総理から直接いただいたものですから」


 井上はいつもの冷静さを取り戻そうとしていた。


 しかし、明らかに処理が追いついていない。


「失礼します」


 政朝は一礼し、部屋を出た。


 扉が閉まる直前、井上が再び袋を見つめ、深く考え込んでいる姿が見えた。


 廊下に人影がないことを確認すると、政朝の胸元からサザレの声が聞こえた。


『あの男、ずいぶんと驚いておったな』


「驚くとは思ったけど、思考が停止するとは思わなかった」


 政朝は、周囲を気にしながら小声で答えた。


『効果は絶大であった』


「何の効果だよ」


『次は、もっと大きなものを渡してみるか』


「党内人事に影響が出そうだからやめてくれ」


 ◇


 その日の夜。


 すべての仕事を終えて公邸へ戻った政朝は、居間のソファに深く腰を下ろした。


 朝からチョコレートを配り続け、行く先々で驚かれ、疑われ、ときには妙な誤解までされた。


 特に井上が、小袋を手にしたまま十秒近く動きを止めていた姿は、しばらく忘れられそうにない。


「あぁ……別の意味で胃が痛い」


「皆、喜んでおったではないか」


 政朝の胸元から淡い光があふれ、サザレが姿を現す。


「井上幹事長は喜んでいたのかな、あれ」


「少なくとも、珍しいものを見る目をしておったぞ」


「それは喜んでいると言わない」


 政朝がネクタイを緩めていると、サザレが落ち着かない様子で居間を歩き回り始めた。


 何度も政朝を見ては視線をそらし、袖の中に手を隠している。


「どうした?」


「何でもない」


「何でもない人は、そんなに同じ場所を往復しないだろ」


「気にするでない」


 そう言いながらも、サザレは再び政朝の前を横切った。


 五往復目(ごおうふくめ)を数えたところで、ようやく足を止める。


「政朝」


「うん?」


「目を閉じよ」


「どうして?」


「よいから閉じよ」


 政朝が言われたとおりに目を閉じると、包装紙の擦れる音が聞こえた。


「もうよいぞ」


 目を開ける。


 サザレの両手には、小さな包みが載っていた。


 昼間に配ったものとは違う、淡い紺色の紙で丁寧に包まれている。


 形は少しいびつだったが、赤い細紐が結ばれていた。


「これは?」


「……そなたの分だ」


 サザレは政朝と目を合わせようとしなかった。


「皆に配ったものとは別に、三つだけ、妾が一人で仕上げた。そなたのためにな」


「一人で?」


「案ずるな。昼間、幸と化女沼がそなたに教えていた手順を守った。手も洗った。器具もきれいにした。生ものは使っておらぬ。作った後は、すぐに冷やした」


「すごく念を押すな」


「そなたが食中毒、食中毒とうるさかったからだ」


「総理大臣が手作りチョコで倒れたら、国会で何を言われるか分からないからな」


「心配するところが少し違わぬか?」


 包みの中には、ひと口大のチョコレート菓子が三つ入っていた。


 形はそろっていない。


 一つは丸く、一つは四角く、もう一つはどちらとも言えない形をしている。


 それでも、昼間に配った菓子より、ずっと丁寧に作られていることは分かった。


 政朝は一つをつまみ、口へ運んだ。


 サザレが、じっと見つめている。


 その表情は、予算委員会で野党議員の追及を受ける政朝よりも緊張していた。


「どうだ?」


 政朝はゆっくりとかみしめた。


 甘さは控えめだった。


 中には細かく砕かれたビスケットが混ぜられ、少し不格好ながらも、きちんとチョコレート菓子の味がする。


「おいしい」


「本当か?」


「ああ。ちゃんとおいしいよ」


 サザレの顔が、ぱっと明るくなった。


「そうか。そうか!」


 嬉しそうに笑うその姿を見て、政朝も自然と頬を緩めた。


「それなら、俺からも渡すものがある」


「妾に?」


「目を閉じて」


「なぜだ?」


「さっき俺にやらせただろ」


 サザレは不思議そうな顔をしながらも、素直に目を閉じた。


 政朝は冷凍庫から小さなカップを取り出し、テーブルの上へ置いた。


 さらに、ソファの陰に隠していた細長い箱を運んでくる。


「もういいぞ」


 サザレが目を開ける。


 最初に見つけたのは、チョコレートアイスだった。


「これは……!」


「バレンタイン限定って書いてあったから、買ってみたんだ」


「妾のためにか?」


「サザレはチョコレートに興味を持っていただろ。作るだけじゃなくて、ちゃんとおいしいものも食べさせてあげようと思って」


 サザレは目を輝かせ、カップを両手で抱えた。


「気が利くではないか!」


「公邸の職員に見つからないように持ち込むのが大変だったけどな」


 サザレはすぐに、その隣に置かれた箱へ気づいた。


「こちらは何だ?」


「開けてみて」


 サザレが箱のふたを持ち上げる。


 中には、新しい着物が収められていた。


 淡い桜色の生地に、小さな白い花と霞の模様があしらわれている。


 派手すぎず、それでいて春を感じさせる、柔らかな色合いだった。


 その下には、新しい白足袋と、着物の色に合わせた淡い紫色の鼻緒の草履が並べられている。


 さらに箱の端には、生成り色の靴下と、焦げ茶色の編み上げ式ショートブーツまで収められていた。


 サザレは何も言わず、箱の中を見つめた。


「今着ているものしか持っていないみたいだったから。着物だけじゃなくて、足袋と履き物も一緒に用意したんだ」


「この白いものと草履は分かる」


 サザレは白足袋を手に取った後、隣の靴下とブーツへ視線を移した。


「だが、こちらの短靴は何だ?」


「ブーツ。今は着物に合わせて履く人もいるらしい」


「着物に、このような靴を?」


「意外と似合うと思うぞ。草履より歩きやすいだろうし」


「妾は幽霊だ。歩きやすさを気にする必要はない」


「そこは雰囲気の問題だよ」


 サザレはブーツを持ち上げ、しげしげと眺めた。


「随分と重そうだな」


「履いてみて気に入らなかったら、草履にすればいい。どっちを選ぶかはサザレに任せるよ」


「なるほど。妾に二通りの装いを楽しめと申すのだな」


「そういうこと」


「なかなか気が利いておるではないか」


 わずかに弾んだ声で言いながら、サザレはもう一度、桜色の着物へ目を戻した。


 そっと生地に触れる。


「このように美しい着物をもらったのは、久しぶりだ」


 いつもの尊大な口調とは違う、かすかな声だった。


「私費だからな。税金は使っていない」


「この場で、その説明は必要か?」


「一応、大事なことだから」


 サザレが噴き出した。


 笑いながらも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「政朝」


「何?」


「妾は、そなたと契約してよかった」


 政朝は一瞬、言葉を失った。


 二人の契約の対価を思えば、素直に喜んでよい言葉なのかは分からない。


 それでも、今だけは難しいことを考えるのをやめた。


「俺も、サザレがいてくれてよかったと思ってるよ。死んだ後は不安だけど」


「余計なひと言を付け加えるでない」


 サザレは頬を膨らませた。


 しかし、桜色の着物を抱く腕は、決して離そうとしなかった。


「でも、本当にそう思ってるよ」


「……そうか」


「ああ」


 サザレは小さく笑うと、新しい着物を大切そうに抱えたまま、チョコレートアイスのふたを開けた。


 ひと口食べる。


 その瞬間、目を大きく見開いた。


「うまい!」


「俺のチョコより大きな反応だな」


「当然だ。これは菓子職人が作ったものだからな」


「そこは気を遣ってくれよ」


「そなたも食べるか?」


「今日はもう、チョコレートを見たくない」


「ならば、妾が全部いただく」


「一度に食べすぎるなよ」


「幽霊は腹を壊さぬ」


「都合がいいな、幽霊」


 公邸の外では、まだ冷たい風が吹いていた。


 けれども、その夜の居間には、春を先取りしたような温かな空気が流れていた。


 テーブルの上には、形の不ぞろいな手作りチョコレート。


 サザレの腕には、桜色の新しい着物。


 箱の中には、白足袋と草履、そして少し風変わりな靴下とショートブーツ。


 彼女の手には、少しずつ減っていくチョコレートアイス。


 政朝はその光景を眺めながら、静かに思った。


 来年もまた、こうして二人でバレンタインを迎えられればいい。


 総理大臣と幽霊ではなく、ただの政朝とサザレとして。


 口に出せば、きっと笑われる。


 だから政朝は何も言わず、幸せそうにアイスを食べるサザレを、静かに見守っていた。

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