バレンタインデー・前編
今回は幕間のコメディ回です。
政治は硬い話が多いので、本話は楽しく、柔らかく作りました。
前半・後半の二話構成になります。
それは、バレンタインデーを一週間後に控えた夜のことだった。
『今年のバレンタインは、手作りチョコで大切な人に思いを伝えてみてはいかがでしょうか』
首相公邸の居間に置かれたテレビから、明るい女性アナウンサーの声が流れていた。
画面には、ハート形のチョコレートや、色鮮やかな包装紙に包まれた菓子が次々と映し出されている。
ソファに腰を下ろしていた政朝は、膝の上の資料から顔を上げた。
その隣では、サザレがテレビに食い入るように見入っている。
「毎年この時期になると耳にするが、ばれんたいんとは何だ?」
「好きな人や、普段世話になっている人に、チョコレートを渡す日だな」
「ほう」
サザレの目が、わずかに輝いた。
「もっとも、今は友達同士で渡したり、自分用に買ったりもするらしいけど」
『手作りなら、贈る相手への気持ちも、きっと伝わります』
アナウンサーが満面の笑みを浮かべ、きれいに盛りつけられたチョコレート菓子を紹介する。
それを見たサザレは、何かを決意したように大きくうなずいた。
「決めたぞ」
「何を?」
「妾も、ばれんたいんちょこを作る」
「……誰に?」
政朝が尋ねると、サザレは意味ありげに横目を向けた。
「それは、出来上がってからのお楽しみだ」
「作るのはいいけど、サザレは料理をしたことがあるのか?」
「無論だ」
「本当に?」
「米を炊こうとしたことがある」
「結果は?」
「釜が燃えた」
「それを料理経験に数えるな」
政朝は深いため息をついた。
しかし、サザレはすでにやる気になっている。
「まずは材料が必要だ。政朝、ちょこれいとを用意せよ」
「どれくらい?」
「作ってみなければ分からぬ。ひとまず、たくさんだ」
このとき、政朝はもう少し慎重に、必要な量を確認するべきだった。
◇
翌日。
衆議院本会議を終えた政朝は、国会内にある売店へ立ち寄った。
買い物かごの中には、板チョコレート、製菓用チョコレート、ひと口サイズのチョコレート、チョコレート菓子が次々と積み上げられていく。
「総理、何か催し物でもあるんですか?」
顔なじみの店員が、山のようになった買い物かごを見ながら尋ねた。
「少し、試作品を作ることになりまして」
「試作品……ですか」
「ええ」
それ以上は説明できなかった。
首相公邸に住む幽霊が、バレンタインチョコを作りたがっている。
正直に答えれば、政権運営とは別の問題が発生する。
「こちらの箱もお願いします」
「全部ですか?」
「……全部です」
店頭に並んでいたチョコレート製品だけでは足りず、売店の在庫にあった分まで、政朝の私費によってすべて購入された。
その約十分後。
官房長官の申界麗が、同じ売店を訪れた。
午後の会議を前に、好物のチョコレートを一つ買うつもりだった。
ところが、いつもチョコレートが並んでいる棚には、何一つ残っていない。
麗は無言で棚を見つめた。
もともと凛々しい顔立ちが、そのときは普段の何倍も険しく見えた。
「あの」
麗が店員に声をかける。
「ここにあったチョコレートは?」
「先ほど、店頭分だけでなく、在庫も含めてすべて売れてしまいまして」
「すべて?」
「はい。総理が」
「総理が?」
麗の声が、一段低くなった。
その日の夕方。
官邸の廊下を歩いていた政朝は、背後から呼び止められた。
「総理」
振り返ると、麗が立っていた。
いつもの冷静な表情である。
ただし、その目は笑っていなかった。
「国会内の売店から、チョコレートが消えた件についてお尋ねします」
「官房長官が扱う問題なのか、それは」
「場合によっては、国民生活に関わる重大な問題です」
「国会内の売店限定だろ」
「総理が買い占めたと聞きました」
「買い占めではない。必要な量を買った結果、なくなっただけだ」
「それを一般的に買い占めと言います」
麗は、政朝が持っている大量の紙袋へ視線を向けた。
袋の中から、板チョコレートの箱がのぞいている。
「何に使うんですか?」
「まだ言えない」
「国家機密ですか?」
「どちらかといえば、個人的な事情だ」
「では、個人的な恨みとして覚えておきます」
「チョコレート一つで!?」
麗は静かに一礼すると、足早に去っていった。
その背中からは、普段とは異なる種類の怒りが漂っていた。
◇
その夜。
首相公邸のプライベートキッチンには、国会内の売店から運び込まれた大量のチョコレートが並べられていた。
そして、その中央には、子供用のエプロンを身につけたサザレが立っている。
淡い桃色の生地に、白い兎が描かれたエプロンだった。
古風な着物姿のサザレには、驚くほど似合っている。
「笑うでないぞ」
「笑ってない」
「口元が緩んでおる」
「似合ってると思っただけだよ」
「そ、そうか」
サザレは少しだけ頬を緩めた。
このエプロンを用意するため、政朝は前日のうちに実家の母親へ電話をかけていた。
『子供用のエプロンを送ってほしい?』
『うん。できれば速達で』
『何歳くらいの子が使うの?』
『見た目は十歳くらいかな』
『見た目は?』
『いや、何でもない』
『政朝』
『何?』
『母さんに隠している子供はいないでしょうね』
『いるわけないだろ!』
『じゃあ、どうして首相公邸で子供用のエプロンが必要なの?』
『ちょっとした事情があるんだよ』
『その事情を説明しなさい』
『説明できない』
『まさか、総理大臣になった途端、隠し子が――』
『違うから! 絶対に違うから!』
数分にわたる押し問答の末、政朝は「知り合いの子供に料理をさせるため」という、半分だけ事実に近い説明で母親を納得させた。
翌日には、実家に保管されていた新品の子供用エプロンが速達で届いた。
ただし、荷物の中には一枚の便箋が入っていた。
『詳しい説明を待っています。母より』
政朝は、便箋を机の引き出しの奥へ封印した。
「では、始めるぞ」
サザレが板チョコレートを手に取った。
「まずは、ちょこれいとを溶かせばよいのだな?」
「テレビでは、湯煎って言ってたな」
「ゆせんとは何だ?」
「鍋にお湯を入れて、その上にボウルを置いて、熱で少しずつ溶かす方法らしい」
「なるほど」
サザレは大きくうなずいた。
「鍋に直接入れて煮るのだな」
「今の説明のどこを聞いていた?」
政朝が止めるより早く、サザレは板チョコレートを小鍋へ放り込んだ。
そのまま火をつける。
「だから、直接火にかけるんじゃなくて――」
政朝が小鍋を取り上げようと手を伸ばす。
だが、サザレは鍋の柄を握ったまま離そうとしなかった。
「待て。まだ形が残っておる」
「残っていていいんだよ! 火から下ろせ!」
「完全に溶けるまで待つべきではないのか?」
「その前に焦げる!」
政朝がようやく火を止めたときには、鍋底から甘さとは程遠い焦げ臭さが立ち上っていた。
「ほら、もう焦げてるだろ!」
「少しくらい焦げた方が、香ばしくなるのではないか?」
「鍋底みたいになるまで焦がしていいわけじゃない!」
最初の試作品は、チョコレートだったものとは思えないほど硬い、黒い塊になった。
サザレはそれを小皿に載せ、政朝の前へ差し出す。
「味見をせよ」
「これを?」
「試作品だからな」
「試作品という言葉は、失敗作を食べさせるための免罪符じゃないぞ」
「一国の総理ともあろう者が、ちょこれいと一つを恐れるのか?」
「一国の総理だからこそ、正体不明の物体を口に入れたくないんだよ」
「よいから食べよ」
逃げられないと悟り、政朝は黒い塊を少しだけかじった。
硬い。
そして、苦い。
チョコレートの苦味ではない。焦げた鍋底を直接かじったような味だった。
「どうだ?」
「苦い」
「大人の味というものだな」
「失敗を格好よく言い換えるな」
二回目。
今度は政朝が、サザレに湯煎の方法を教えた。
とはいえ、政朝も料理に詳しいわけではない。
先ほど慌ててインターネット上の動画を確認し、覚えたばかりの付け焼き刃の知識である。
「鍋のお湯にボウルの底を当てて、熱で少しずつ溶かすんだ。チョコレートを直接火にかけたら駄目だからな」
「先ほどまで知らなかった者にしては、随分と偉そうだな」
「今、調べたんだよ。少なくとも鍋に直接入れるよりは正しい」
「妾とて、失敗から学んでおる」
「だったら、今度は余計なものを入れないでくれよ」
今度はチョコレートを焦がすことなく、無事に溶かすことができた。
ところが、サザレは何を思ったのか、そこへみそ汁用の顆粒だしを入れた。
「待て。今、何を入れた?」
「隠し味だ」
「何でチョコレートにだしを入れたんだよ」
「料理には、うまみが必要なのであろう?」
「すべての料理に必要なわけじゃない!」
出来上がったものは、甘さと塩気と魚介の香りが互いに一歩も譲らない、奇妙な味になった。
三回目。
細かく砕いたクッキーを混ぜるはずが、サザレは力加減を誤り、袋ごと粉砕した。
包装の破片が混入したため、すべて廃棄となった。
四回目。
チョコレートを冷やし固めようとしたサザレが、冷凍庫の温度を可能な限り下げた。
結果、チョコレートは皿に固く張りつき、いくら力を入れても取れなくなった。
「皿ごと割ればよい」
「危ないから駄目だ!」
結局、二人は皿を常温にしばらく置くことにした。
チョコレートが少し柔らかくなったところで、政朝が端から慎重にはがし、どうにか皿を割らずに取り出した。
「待っておれば解決することもあるのだな」
「料理に限らず、力任せに解決しようとするのはやめてくれ」
「妾は、割った方が早かったと思うが」
「だから危ないんだよ、その考え方が」
五回目。
見た目だけは、ようやくチョコレート菓子らしくなった。
サザレは胸を張って政朝へ差し出した。
「今度こそ完璧だ」
「何を入れた?」
「ちょこれいとと、砕いた菓子と、砂糖だ」
「砂糖?」
「甘いものに甘いものを加えれば、さらにうまくなると思ってな」
口に入れた瞬間、強烈な甘さが舌を襲った。
「あっま……!」
「どうだ?」
「甘すぎる!」
「甘い菓子なのだから、正しいではないか」
「限度があるんだよ!」
六回目。
七回目。
八回目。
そのたびに、政朝が味見をさせられた。
焦げたもの。
塩辛いもの。
硬すぎるもの。
柔らかすぎて形を保てないもの。
原形をとどめないほど砕かれたもの。
甘いのか苦いのか判別できないもの。
幸い、使ったのは常温保存できる市販品ばかりで、生卵や生クリームといった傷みやすい材料は含まれていなかった。
少なくとも、味以外の理由で政朝が倒れる可能性は低そうだった。
しかし、政朝の胃と血糖値は、確実に危機へ近づいていた。
「もう無理だ……」
椅子の背にもたれた政朝が、腹を押さえる。
「あぁ……胃が痛い」
「まだ八つしか食べておらぬぞ」
「八つも食べたんだよ!」
「総理大臣とは、思ったより軟弱なのだな」
「総理大臣を何だと思ってるんだ」
「国で最も丈夫な者」
「そんな選び方はしてない」
サザレは不満そうに頬を膨らませた。
「妾の作ったものを、もう食べたくないと申すか?」
「そういう言い方をされると、罪悪感がすごいな……」
政朝は、テーブルの上に並んだ失敗作を見渡した。
さすがに、このままではまずい。
味もそうだが、調理の基本を知らないまま続ければ、いつ本当に危険な失敗をするか分からない。
「分かった。きちんと作り方を教わろう」
「誰にだ?」
「料理ができる人に」
「妾だけでは不満か?」
「不満というより、命の危険を感じている」
「大げさな男だ」
「鍋を一つ焦がして、皿を一枚割ろうとした人に言われたくない」
「割ってはおらぬぞ」
「割ろうとはしただろ」
政朝は携帯電話を手に取った。
画面に表示された二人の名前を見つめる。
「こうなったら、ちゃんとできる人に教えてもらうしかない」
「妾は認めぬぞ。これは敗北ではない」
「料理を習うだけで、どうして勝ち負けになるんだよ」
「妾の再戦に向けた、戦略的撤退だ」
「はいはい」
政朝は諦めたように息を吐き、最初の一人へ電話をかけた。




