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首相公邸の幽霊  作者: シッピー&樽
新年度予算案編
11/16

バレンタインデー・前編

今回は幕間のコメディ回です。

政治は硬い話が多いので、本話は楽しく、柔らかく作りました。

前半・後半の二話構成になります。

 それは、バレンタインデーを一週間後に控えた夜のことだった。


『今年のバレンタインは、手作りチョコで大切な人に思いを伝えてみてはいかがでしょうか』


 首相公邸の居間に置かれたテレビから、明るい女性アナウンサーの声が流れていた。


 画面には、ハート形のチョコレートや、色鮮やかな包装紙に包まれた菓子が次々と映し出されている。


 ソファに腰を下ろしていた政朝(まさとも)は、膝の上の資料から顔を上げた。


 その隣では、サザレがテレビに食い入るように見入っている。


「毎年この時期になると耳にするが、ばれんたいんとは何だ?」


「好きな人や、普段世話になっている人に、チョコレートを渡す日だな」


「ほう」


 サザレの目が、わずかに輝いた。


「もっとも、今は友達同士で渡したり、自分用に買ったりもするらしいけど」


『手作りなら、贈る相手への気持ちも、きっと伝わります』


 アナウンサーが満面の笑みを浮かべ、きれいに盛りつけられたチョコレート菓子を紹介する。


 それを見たサザレは、何かを決意したように大きくうなずいた。


「決めたぞ」


「何を?」


「妾も、ばれんたいんちょこを作る」


「……誰に?」


 政朝が尋ねると、サザレは意味ありげに横目を向けた。


「それは、出来上がってからのお楽しみだ」


「作るのはいいけど、サザレは料理をしたことがあるのか?」


「無論だ」


「本当に?」


「米を炊こうとしたことがある」


「結果は?」


「釜が燃えた」


「それを料理経験に数えるな」


 政朝は深いため息をついた。


 しかし、サザレはすでにやる気になっている。


「まずは材料が必要だ。政朝、ちょこれいとを用意せよ」


「どれくらい?」


「作ってみなければ分からぬ。ひとまず、たくさんだ」


 このとき、政朝はもう少し慎重に、必要な量を確認するべきだった。


 ◇


 翌日。


 衆議院本会議を終えた政朝は、国会内にある売店へ立ち寄った。


 買い物かごの中には、板チョコレート、製菓用チョコレート、ひと口サイズのチョコレート、チョコレート菓子が次々と積み上げられていく。


「総理、何か催し物でもあるんですか?」


 顔なじみの店員が、山のようになった買い物かごを見ながら尋ねた。


「少し、試作品を作ることになりまして」


「試作品……ですか」


「ええ」


 それ以上は説明できなかった。


 首相公邸に住む幽霊が、バレンタインチョコを作りたがっている。


 正直に答えれば、政権運営とは別の問題が発生する。


「こちらの箱もお願いします」


「全部ですか?」


「……全部です」


 店頭に並んでいたチョコレート製品だけでは足りず、売店の在庫にあった分まで、政朝の私費によってすべて購入された。


 その約十分後。


 官房長官の申界(しんかい)(うらら)が、同じ売店を訪れた。


 午後の会議を前に、好物のチョコレートを一つ買うつもりだった。


 ところが、いつもチョコレートが並んでいる棚には、何一つ残っていない。


 麗は無言で棚を見つめた。


 もともと凛々しい顔立ちが、そのときは普段の何倍も険しく見えた。


「あの」


 麗が店員に声をかける。


「ここにあったチョコレートは?」


「先ほど、店頭分だけでなく、在庫も含めてすべて売れてしまいまして」


「すべて?」


「はい。総理が」


「総理が?」


 麗の声が、一段低くなった。


 その日の夕方。


 官邸の廊下を歩いていた政朝は、背後から呼び止められた。


「総理」


 振り返ると、麗が立っていた。


 いつもの冷静な表情である。


 ただし、その目は笑っていなかった。


「国会内の売店から、チョコレートが消えた件についてお尋ねします」


「官房長官が扱う問題なのか、それは」


「場合によっては、国民生活に関わる重大な問題です」


「国会内の売店限定だろ」


「総理が買い占めたと聞きました」


「買い占めではない。必要な量を買った結果、なくなっただけだ」


「それを一般的に買い占めと言います」


 麗は、政朝が持っている大量の紙袋へ視線を向けた。


 袋の中から、板チョコレートの箱がのぞいている。


「何に使うんですか?」


「まだ言えない」


「国家機密ですか?」


「どちらかといえば、個人的な事情だ」


「では、個人的な恨みとして覚えておきます」


「チョコレート一つで!?」


 麗は静かに一礼すると、足早に去っていった。


 その背中からは、普段とは異なる種類の怒りが漂っていた。


 ◇


 その夜。


 首相公邸のプライベートキッチンには、国会内の売店から運び込まれた大量のチョコレートが並べられていた。


 そして、その中央には、子供用のエプロンを身につけたサザレが立っている。


 淡い桃色の生地に、白い兎が描かれたエプロンだった。


 古風な着物姿のサザレには、驚くほど似合っている。


「笑うでないぞ」


「笑ってない」


「口元が緩んでおる」


「似合ってると思っただけだよ」


「そ、そうか」


 サザレは少しだけ頬を緩めた。


 このエプロンを用意するため、政朝は前日のうちに実家の母親へ電話をかけていた。


『子供用のエプロンを送ってほしい?』


『うん。できれば速達で』


『何歳くらいの子が使うの?』


『見た目は十歳くらいかな』


『見た目は?』


『いや、何でもない』


『政朝』


『何?』


『母さんに隠している子供はいないでしょうね』


『いるわけないだろ!』


『じゃあ、どうして首相公邸で子供用のエプロンが必要なの?』


『ちょっとした事情があるんだよ』


『その事情を説明しなさい』


『説明できない』


『まさか、総理大臣になった途端、隠し子が――』


『違うから! 絶対に違うから!』


 数分にわたる押し問答の末、政朝は「知り合いの子供に料理をさせるため」という、半分だけ事実に近い説明で母親を納得させた。


 翌日には、実家に保管されていた新品の子供用エプロンが速達で届いた。


 ただし、荷物の中には一枚の便箋が入っていた。


『詳しい説明を待っています。母より』


 政朝は、便箋を机の引き出しの奥へ封印した。


「では、始めるぞ」


 サザレが板チョコレートを手に取った。


「まずは、ちょこれいとを溶かせばよいのだな?」


「テレビでは、湯煎って言ってたな」


「ゆせんとは何だ?」


「鍋にお湯を入れて、その上にボウルを置いて、熱で少しずつ溶かす方法らしい」


「なるほど」


 サザレは大きくうなずいた。


「鍋に直接入れて煮るのだな」


「今の説明のどこを聞いていた?」


 政朝が止めるより早く、サザレは板チョコレートを小鍋へ放り込んだ。


 そのまま火をつける。


「だから、直接火にかけるんじゃなくて――」


 政朝が小鍋を取り上げようと手を伸ばす。


 だが、サザレは鍋の柄を握ったまま離そうとしなかった。


「待て。まだ形が残っておる」


「残っていていいんだよ! 火から下ろせ!」


「完全に溶けるまで待つべきではないのか?」


「その前に焦げる!」


 政朝がようやく火を止めたときには、鍋底から甘さとは程遠い焦げ臭さが立ち上っていた。


「ほら、もう焦げてるだろ!」


「少しくらい焦げた方が、香ばしくなるのではないか?」


「鍋底みたいになるまで焦がしていいわけじゃない!」


 最初の試作品は、チョコレートだったものとは思えないほど硬い、黒い塊になった。


 サザレはそれを小皿に載せ、政朝の前へ差し出す。


「味見をせよ」


「これを?」


「試作品だからな」


「試作品という言葉は、失敗作を食べさせるための免罪符じゃないぞ」


「一国の総理ともあろう者が、ちょこれいと一つを恐れるのか?」


「一国の総理だからこそ、正体不明の物体を口に入れたくないんだよ」


「よいから食べよ」


 逃げられないと悟り、政朝は黒い塊を少しだけかじった。


 硬い。


 そして、苦い。


 チョコレートの苦味ではない。焦げた鍋底を直接かじったような味だった。


「どうだ?」


「苦い」


「大人の味というものだな」


「失敗を格好よく言い換えるな」


 二回目。


 今度は政朝が、サザレに湯煎の方法を教えた。


 とはいえ、政朝も料理に詳しいわけではない。


 先ほど慌ててインターネット上の動画を確認し、覚えたばかりの付け焼き刃の知識である。


「鍋のお湯にボウルの底を当てて、熱で少しずつ溶かすんだ。チョコレートを直接火にかけたら駄目だからな」


「先ほどまで知らなかった者にしては、随分と偉そうだな」


「今、調べたんだよ。少なくとも鍋に直接入れるよりは正しい」


「妾とて、失敗から学んでおる」


「だったら、今度は余計なものを入れないでくれよ」


 今度はチョコレートを焦がすことなく、無事に溶かすことができた。


 ところが、サザレは何を思ったのか、そこへみそ汁用の顆粒だしを入れた。


「待て。今、何を入れた?」


「隠し味だ」


「何でチョコレートにだしを入れたんだよ」


「料理には、うまみが必要なのであろう?」


「すべての料理に必要なわけじゃない!」


 出来上がったものは、甘さと塩気と魚介の香りが互いに一歩も譲らない、奇妙な味になった。


 三回目。


 細かく砕いたクッキーを混ぜるはずが、サザレは力加減を誤り、袋ごと粉砕した。


 包装の破片が混入したため、すべて廃棄となった。


 四回目。


 チョコレートを冷やし固めようとしたサザレが、冷凍庫の温度を可能な限り下げた。


 結果、チョコレートは皿に固く張りつき、いくら力を入れても取れなくなった。


「皿ごと割ればよい」


「危ないから駄目だ!」


 結局、二人は皿を常温にしばらく置くことにした。


 チョコレートが少し柔らかくなったところで、政朝が端から慎重にはがし、どうにか皿を割らずに取り出した。


「待っておれば解決することもあるのだな」


「料理に限らず、力任せに解決しようとするのはやめてくれ」


「妾は、割った方が早かったと思うが」


「だから危ないんだよ、その考え方が」


 五回目。


 見た目だけは、ようやくチョコレート菓子らしくなった。


 サザレは胸を張って政朝へ差し出した。


「今度こそ完璧だ」


「何を入れた?」


「ちょこれいとと、砕いた菓子と、砂糖だ」


「砂糖?」


「甘いものに甘いものを加えれば、さらにうまくなると思ってな」


 口に入れた瞬間、強烈な甘さが舌を襲った。


「あっま……!」


「どうだ?」


「甘すぎる!」


「甘い菓子なのだから、正しいではないか」


「限度があるんだよ!」


 六回目。


 七回目。


 八回目。


 そのたびに、政朝が味見をさせられた。


 焦げたもの。


 塩辛いもの。


 硬すぎるもの。


 柔らかすぎて形を保てないもの。


 原形をとどめないほど砕かれたもの。


 甘いのか苦いのか判別できないもの。


 幸い、使ったのは常温保存できる市販品ばかりで、生卵や生クリームといった傷みやすい材料は含まれていなかった。


 少なくとも、味以外の理由で政朝が倒れる可能性は低そうだった。


 しかし、政朝の胃と血糖値は、確実に危機へ近づいていた。


「もう無理だ……」


 椅子の背にもたれた政朝が、腹を押さえる。


「あぁ……胃が痛い」


「まだ八つしか食べておらぬぞ」


「八つも食べたんだよ!」


「総理大臣とは、思ったより軟弱なのだな」


「総理大臣を何だと思ってるんだ」


「国で最も丈夫な者」


「そんな選び方はしてない」


 サザレは不満そうに頬を膨らませた。


「妾の作ったものを、もう食べたくないと申すか?」


「そういう言い方をされると、罪悪感がすごいな……」


 政朝は、テーブルの上に並んだ失敗作を見渡した。


 さすがに、このままではまずい。


 味もそうだが、調理の基本を知らないまま続ければ、いつ本当に危険な失敗をするか分からない。


「分かった。きちんと作り方を教わろう」


「誰にだ?」


「料理ができる人に」


「妾だけでは不満か?」


「不満というより、命の危険を感じている」


「大げさな男だ」


「鍋を一つ焦がして、皿を一枚割ろうとした人に言われたくない」


「割ってはおらぬぞ」


「割ろうとはしただろ」


 政朝は携帯電話を手に取った。


 画面に表示された二人の名前を見つめる。


「こうなったら、ちゃんとできる人に教えてもらうしかない」


「妾は認めぬぞ。これは敗北ではない」


「料理を習うだけで、どうして勝ち負けになるんだよ」


「妾の再戦に向けた、戦略的撤退だ」


「はいはい」


 政朝は諦めたように息を吐き、最初の一人へ電話をかけた。

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