雪の国会
井上との通話を終えてから、十分ほどが過ぎていた。
政朝は処分方針を記したファイルを鞄へ入れ、総理大臣執務室を出た。
廊下では、内閣総理大臣秘書官の化女沼真帆代と警護官が待っていた。
化女沼は四十七歳。恰幅のよい身体を濃灰色のスーツに包み、腕には分厚い予定表を抱えている。
「総理、そろそろ出ますよ。国会は待ってくれませんからね」
「分かってるよ」
「その割には、出てくるのが遅かったですねえ」
「井上幹事長との電話が長引いたんだよ。あとはその……もろもろやってた」
電話が終わったあと、少女の姿をした幽霊と話していたなど、到底言えるはずがない。
「もろもろ、ですか」
「いろいろあるんだよ、総理には」
「便利な言葉ですねえ」
「深く聞かないでくれ」
「ええ、承知していますよ。それと、官房長官には通話が終わったことだけ伝えておきました」
「仕事が早いな」
「総理が遅いんです」
化女沼は豪快に笑い、政朝を正面玄関へ促した。
自動扉を抜けたところで、政朝は思わず足を止める。
「雪……?」
灰色の空から、小さな白い粒が舞い落ちている。
「今日、降るなんて言ってたか?」
「天気予報を見ていなかったんですか?」
「そういえば最近、ニュースも天気予報もろくに見ていなかった」
総理に就任してからというもの、目の前の予定と問題を追うだけで一日が終わってしまう。
今朝も、国会の勢力図を確認し、八人の処分を決め、第三者機関の設置について考え、井上幹事長と電話で話した。
まだ朝だというのに、すでに一日分以上の仕事をしたような気がする。
「ニュースを見るのも、総理の仕事ですよ」
「分かってるけど、見る時間がないんだよ」
「時間は誰にでも一日二十四時間です」
「総理になったら増えると思ってた」
「そんなわけないでしょう」
官邸の車寄せや植え込みにも、うっすらと白いものが積もり始めていた。
東京都心で雪が降ること自体、まったくないわけではない。
それでも、近年では珍しい光景だった。
首相官邸の屋根や周囲の木々が、ゆっくりと白く染まっていく。
「総理、眺めている場合ではありませんよ。足元に気をつけてください」
「ああ、分かった」
化女沼に促され、政朝は黒塗りの公用車へ乗り込んだ。
化女沼も続いて車内へ入り、分厚い予定表を膝の上へ置く。
扉が閉まると、外の冷気と騒音が一気に遠ざかった。
運転席には運転手、助手席には警護官が座っている。
政朝は何も言わず、窓の外へ視線を向けた。
フロントガラスに落ちた雪は、ワイパーに払われても、すぐに次の白い粒へ覆われていく。
故郷の宮城では、この程度の雪で驚く者はほとんどいない。
だが、東京では数センチ積もっただけでも、交通機関や物流へ大きな影響が出る。
政朝は窓へ映る自分の顔を見ながら、先ほど交わした井上との電話を思い返した。
言葉の上では、井上は方針を受け入れた。
だが、あの男があれほど簡単に従うとは思えない。
今後の行動を見るしかない。
そう考えた途端、胃の奥が鈍く痛んだ。
政朝は声を漏らさないよう、静かに息を吐いた。
「総理、午前の予算委員会が終わったら、昼休憩は三十分です。その間に党本部から連絡が入る可能性があります」
化女沼が予定表を見ながら告げた。
「ああ」
「午後の審議が終わったら官邸へ戻ります。夕方には官房長官会見がありますから、その前に発表内容の最終確認をお願いします」
「今日の予定、少し詰め込みすぎじゃないか?」
「総理になってから、予定が空いていた日なんてありませんよ」
「まだ就任して二週間くらいなのに、よく分かってるな」
「二週間もあれば十分です」
化女沼は豪快に笑い、予定表を閉じた。
車列は警護車両に囲まれ、ゆっくりと官邸を離れていく。
官邸から国会議事堂までは近い。
歩いて向かうこともできそうな距離だが、総理大臣が雪の中を気軽に歩いて移動するわけにはいかない。
やがて、雪の向こうに国会議事堂の中央塔が見えてきた。
屋根には、薄く雪が積もっている。
灰色の空を背にした国会議事堂は、いつも以上に重々しく見えた。
◇
国会議事堂内の総理大臣室へ入ると、すでに官房長官である申界麗が待っていた。
濃紺のスーツを着た麗は、政朝が部屋へ入るなり、腕時計へ目を落とした。
「おはようございます、総理。井上幹事長との話は、どうなりましたか?」
「おはよう。最終的には、俺の方針を受け入れたよ」
麗の表情が僅かに変わった。
「受け入れたのですか?」
「やっぱり、そこに引っかかるよな」
「井上幹事長が、何の抵抗もせずに従うとは思えません」
「何の抵抗もなかったわけじゃないよ。議席が減るとか、野党に利用されるとか、俺を総理にしたのは誰かとか、いろいろ言われた」
「最後のものは、ほとんど脅しですね」
「本人は事実を確認しただけだと言うだろうけどな」
政朝は鞄から処分方針を記したファイルを取り出し、麗へ渡した。
「元閣僚二人は除名と議員辞職勧告。ほかの六人は離党勧告で、従わなければ除名。第三者機関も設置する」
麗は立ったまま、資料を素早く確認した。
「井上幹事長も調査対象ですか」
「うん。委員の選定や調査方針には関与させない。幹事長室の資料も保全して、本人にも聞き取りを受けてもらう」
「それでいて、幹事長の職には残す」
「八人の処分と、党内改革を実行してもらうためにね」
「反発は覚悟しておいた方がよさそうですね」
「もう覚悟できる量を超えてるよ」
政朝が答えると、麗は小さく息を吐いた。
「それで、発表はいつにしますか?」
「井上幹事長から、党執行部と関係する地方組織に説明する時間が欲しいと言われた」
「どれくらいです?」
「正午まで。午前中に資料を保全して、党執行部と地方組織の責任者へ説明するらしい」
「その時間を認めたのですか?」
「認めた。報道で初めて処分を知れば、地方組織の反発が強くなる。それに、公表を先にしたら資料を持ち出す人間が現れるかもしれないと言われた」
麗はファイルを閉じた。
「理屈は通っています」
「だから認めたんだ。でも、処分内容を変えるための交渉は認めない。資料の移動や廃棄も禁止すると伝えた」
「分かりました。井上幹事長側の説明と資料保全が終わり次第、処分手続きを進めましょう」
「この件だけど、夕方の会見で、麗から発表してほしい」
「私がですか?」
「党本部から正式な文書も出す。その上で、官房長官会見では、総理としての俺の方針を説明してほしい。政府と党の区別は明確にして」
「承知しました。党の処分内容そのものは、自由推進党が公表したものとして扱います。私は、総理の政治姿勢と政府への影響について説明します」
「頼むよ」
麗は時計へ目を向けた。
「もうすぐ予算委員会です。今日の質疑で、この問題を聞かれる可能性があります」
「まだ公表できないんだよな。思わず口が滑りそうだ」
「滑らないでください」
「分かってるよ。正式な手続きが終わるまでは、『検討を加速させている』で通す」
「お願いします。中途半端に公表すれば、井上幹事長に時間を与えた意味がなくなります」
麗はファイルを政朝へ返した。
「総理」
「何?」
「検討中だと答えるとき、申し訳なさそうな顔をしないでください」
「そんな顔してる?」
「今もしています」
「まだ何も答えてないのに……」
「総理は顔に出やすいので」
「自分では隠してるつもりなんだけどな」
「隠せていません」
麗は容赦なく言い切った。
「時間です。行きましょう」
政朝は資料を抱え、麗とともに総理大臣室を出た。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
◇
衆議院予算委員会室には、すでに多くの国会議員が集まっていた。
政府側の席には、政朝をはじめ、麗や関係閣僚が並んでいる。
向かい側には野党議員。
傍聴席や記者席にも、多くの人が詰めかけていた。
今日の主な議題は、新年度予算案だった。
社会保障。
物価高対策。
地方交付税。
防衛費。
エネルギー政策。
本来ならば、それらについて審議する場である。
だが、自由推進党の政治資金問題を、野党が取り上げないはずはなかった。
「次に、連帯民主党、未岡昭彦君」
委員長に指名され、野党第一党・連帯民主党の党首である未岡昭彦が立ち上がった。
机の上には、分厚い資料の束が積まれている。
未岡は眼鏡の位置を直すと、政朝を正面から見据えた。
「総理にお尋ねします」
「はい」
「自由推進党の政治資金還付問題について、党内調査では、八人の国会議員が問題となった資金を受け取っていたことが確認されていますね」
「党内の調査報告書には、そのように記載されています」
「その八人に対する処分は、いつ決めるのですか?」
来た。
政朝は隣に座る麗へ視線を向けそうになり、寸前で止めた。
「現在、自由推進党として、事実関係の確認と処分についての検討を加速させています。方針が決まり次第、党として国民の皆様へ説明します」
未岡は手元の資料へ目を落とした。
「検討を加速させている。大崎前総理も、辞任前に同じような説明を繰り返していました」
委員会室が僅かにざわついた。
「総理は、前政権と同じ答弁を繰り返すのですか?」
「同じ言葉であっても、検討している内容まで同じとは限りません。現在、具体的な処分と再発防止策について検討を加速させています」
「具体的な処分と言いましたね」
未岡の目が鋭くなる。
「除名も検討しているのですか?」
「処分内容については、現在検討中です」
「議員辞職勧告は?」
「処分内容については、現在検討中です」
「問題の制度を知りながら黙認していた疑いがある井上幹事長も、処分の対象に含まれますか?」
井上の名が出た瞬間、委員会室の空気が変わった。
与党席から、小さな声が漏れる。
政朝は机の下で手を握った。
「井上幹事長を含め、関係者について必要な確認を行い、処分と再発防止策の検討を加速させています」
「総理」
未岡は政朝から目を逸らさなかった。
「処分をするのか、しないのか。それすら答えられないのですか?」
「確認されている事実と、それぞれの立場に応じて判断する必要があります。疑惑だけで処分することも、疑惑があるのに調べないことも、どちらも適切ではありません」
「では、井上幹事長も調査するのですね?」
政朝は一瞬、言葉を選んだ。
夕方まで公表しない。
だが、調べないとは言えない。
「現在、関係者に対する事実確認を進めています」
「井上幹事長が関係者に含まれるのかと聞いています」
「処分と調査の具体的な対象については、方針が決まり次第説明します」
「いつですか?」
「現在、検討を加速させています」
「今日中に発表するのですか?」
「方針が決まり次第、速やかに説明します」
「今日中かどうかも答えられない?」
「同じ答弁になりますが、現在、検討を加速させています」
野党席から、「また検討か」「答えていないぞ」と声が上がった。
政朝の胃が、強く締めつけられる。
それでも、表情を崩さないように前を向いた。
未岡は資料を閉じた。
「総理。国民が見ているのは、言葉ではありません。実際に何をするかです」
「承知しています」
「新しい総理になっても、自由推進党が何も変わらなかったと判断されないよう、今日の答弁を忘れないでいただきたい」
「忘れません」
短い言葉だったが、政朝ははっきりと答えた。
未岡は僅かに目を細め、次の質問へ移った。
◇
午前の審議が終わる頃になっても、雪は静かに降り続いていた。
国会議事堂の窓から見える道路や植え込みは、朝よりも白さを増している。
昼の休憩に入り、政朝が総理大臣室へ戻ると、麗と化女沼も続いて入ってきた。
「何とか通しましたね」
「どうにか、『検討を加速させている』で通したよ」
「最後は少し踏み込みましたけど」
「疑惑だけで処分しない。でも、調べないわけでもない。あれくらいは言わないと、何も考えてないと思われるからな」
「結果的には悪くありません」
麗がそう言ったところで、机の電話が鳴った。
化女沼が受話器を取り、短く応答してから政朝へ差し出した。
「自由推進党本部からです。井上幹事長の秘書ですよ」
政朝は受話器を受け取った。
「卯月です」
『総理、井上幹事長よりお預かりした伝言です。党執行部と関係する地方組織への説明、ならびに関係資料の保全措置が完了しました』
「資料は移動されていませんね?」
『保全対象として指定し、持ち出しと廃棄を禁止しました。電子資料についても、複製と保存の作業を始めています』
「分かりました。井上幹事長に、予定どおり処分手続きを進めると伝えてください」
『承知しました』
電話を切ると、政朝は麗へ向き直った。
「説明と資料保全が終わったそうだ」
「では、進めます」
「うん。党紀委員会と総務会へ正式に処分案を提出する。第三者機関の設置準備も始めてくれ」
「夕方の会見までに、党本部から文書を公表できるよう調整します」
「頼むよ」
麗はすぐに携帯電話を取り出し、関係者への連絡を始めた。
化女沼も予定表を開き、官邸や党本部との調整事項を書き込んでいく。
政朝は窓の外へ目を向けた。
白い雪が、途切れることなく国会議事堂へ降り続いていた。
◇
午後の審議を終えた政朝が首相官邸へ戻ると、廊下の向こうから公設第一秘書の奥平希超呂が歩いてきた。
いつもどおりのリーゼント。
黒いスーツ。
ただし、今日は肩や靴に、溶けかけた雪が付着している。
「総理、お疲れさまです」
「希超呂。その頭、雪が積もりやすそうだな」
「リーゼントを屋根扱いしないでください」
「実際、少し白くなってるけど」
奥平は慌てて頭へ手を伸ばし、雪を払い落とした。
二人はそのまま総理大臣執務室へ入った。
「それより、化女沼さんから連絡です」
「連絡? 俺には来てないけど。……あ、メッセージは来てた」
政朝は携帯電話の画面を確認した。
「審議中で見られないだろうからって、こっちにも連絡が来たんです。『奥平ちゃん、総理に言伝よろしくー』だそうです」
「化女沼さんらしいな……。それで、何の連絡?」
「日米首脳会談の日程が決まりました」
政朝の表情が固まった。
「いつ?」
「三月二十七日です。現地時間の二十七日午後、ワシントンで行う方向で、アメリカ側と最終調整がついたそうです」
「三月二十七日……」
政朝は壁に掛けられた予定表へ目を向けた。
三月下旬。
新年度予算案を年度内に成立させるため、国会審議が最も緊迫する時期である。
「その頃って、予算は?」
「参議院予算委員会の締めくくり質疑と採決が、二十六日か二十七日になる可能性があります」
「重なってるじゃないか」
「完全に重なるかは、国会審議の進み方次第です。ですが、二十七日にワシントンで会談するなら、日本を二十六日には出発しなければなりません」
「予算委員会に出られない可能性があるな」
「かなり高いです」
奥平は手帳を開いた。
「野党は、総理が予算審議から逃げたと言うでしょうね」
「逃げるわけじゃないよ」
「知ってます。総理が逃げるような人じゃないことくらい。でも、野党は事情なんて関係なく、『予算審議から逃げた』と攻めてきますよ」
「嫌なことを言うなあ……」
「後藤さんの教えです。最悪の質問を先に考えろ、と」
「後藤さんらしい」
政朝は三月二十七日の欄を見つめた。
日米首脳会談は、新政権にとって最重要の外交日程である。
大統領との関係を築き、安全保障や経済政策について協議しなければならない。
一方で、翌年度予算は国内政策の根幹だ。
どちらかを軽く扱うことはできない。
「あぁ……胃が痛い」
「まだ二か月あります」
「二か月しかないんだよ」
「総理なら、予算も首脳会談も両方やれますよ」
「随分簡単に言うなあ……」
「簡単じゃないから、俺たちがついてるんでしょうが」
奥平は真っすぐに政朝を見た。
「後藤さんも、百々歌も、俺もいます。化女沼さんや官房長官だっている。総理一人で全部背負う必要はないですよ」
「希超呂……」
「まあ、胃の痛みまでは代わってやれませんけどね」
「そこが一番代わってほしいんだよ」
奥平は口元をわずかに緩め、手帳を閉じた。
「今夜の官房長官会見で、首脳会談の日程も公表するそうです」
「今日発表するのか?」
「アメリカ側と同時発表です。日本時間の午後五時半」
「汚職議員の処分発表と重なるな」
「記者会見は荒れるでしょうね」
「麗、大丈夫かな……」
「申界官房長官ですよ。あの人なら、これくらいの会見は問題なく乗り切ります」
「それもそうか」
奥平は力強く頷いた。
「総理は、会見の前にコメントを確認してください。汚職問題と日米首脳会談、どちらも一言間違えれば大きく報じられます」
「分かった」
政朝は再び予定表へ目を向けた。
三月二十七日。
まだ遠いはずの日付が、すでに重い予定として政朝の肩へ載り始めていた。
◇
午後五時三十分。
首相官邸の記者会見室には、多くの記者が集まっていた。
午前中から降り続いていた雪は、夕方になっても止んでいない。
道路には白い雪が積もり、官邸周辺では職員が足元を確認しながら歩いていた。
記者会見室の壇上へ、麗が姿を現した。
いつもどおり、落ち着いた足取りだった。
演台の前に立ち、記者席を見渡す。
「それでは、臨時の記者会見を始めます」
記者たちが一斉に顔を上げる。
「初めに、本日の降雪について申し上げます」
麗は手元の資料へ僅かに目を落とした。
「現在、東京都心を含む関東地方の広い範囲で雪が降り続いています。今後、道路の凍結や公共交通機関の遅延、運休が発生する可能性があります。国民の皆様におかれましては、最新の気象情報や交通情報をご確認いただき、不要不急の外出を控えるなど、安全の確保に努めてください。政府としても、関係省庁や自治体、交通事業者と連携し、情報収集と必要な対応に当たっています」
麗は一度言葉を切り、記者席を見渡した。
「続いて、自由推進党所属議員の政治資金還付問題について申し上げます」
室内にカメラのシャッター音が響いた。
「本日、自由推進党は、問題となった資金を受け取っていた国会議員八人に対する処分方針を決定しました」
麗は手元の資料へ僅かに目を落とした。
「大崎内閣で閣僚を務め、制度の廃止について国民へ説明する立場にあった二人については、党からの除名処分を党紀委員会へ諮るとともに、議員辞職を勧告します」
記者席がざわつく。
「そのほかの六人については、期限を定めて離党を勧告します。勧告に従わない場合には、除名処分を党紀委員会へ諮ります。また、離党または除名によって、説明責任が失われるものではありません。八人全員に対し、受け取った資金とこれまでの説明について、国民へ明らかにするよう求めます」
記者たちは一斉に文字を打ち込んでいる。
「さらに、自由推進党は、外部の専門家による独立した第三者機関を設置します。元裁判官、弁護士、公認会計士、政治資金制度の研究者などに参加を求め、資金の流れ、制度決定の経緯、関係者の責任を調査します」
麗の声は、室内のざわめきに揺らぐことなく続いた。
「委員候補は複数の外部団体から推薦を受け、党が恣意的に選定できない仕組みとします。調査結果は、個人情報などを除き、原則として公開します。三か月以内に中間報告、半年以内に最終報告を求めます」
麗は一度、言葉を切った。
「党幹事長である井上剛議員についても、第三者機関の調査対象とします。井上幹事長は、委員の選定、調査方針の決定、調査関係者への指示には関与しません」
それまで以上に大きなざわめきが起こった。
「現時点では、井上幹事長が制度の継続を指示、または黙認していたことを示す客観的な証拠は確認されていません。このため、直ちに処分は行いません。一方、調査への妨害や協力拒否があった場合は幹事長を辞任させ、関与が確認された場合は厳正に処分します」
記者席の複数の手が上がった。
「これは、自由推進党の党務に関する発表です。政府としても、国会から必要な資料提出や参考人招致、証人喚問への協力を求められた場合には、真相究明を妨げることがないよう対応します」
麗は資料を一枚めくった。
「続いて、日米首脳会談について申し上げます」
政治資金問題について質問しようとしていた記者たちの動きが、一瞬止まった。
「卯月内閣総理大臣は、三月二十七日、アメリカ合衆国のワシントンを訪問し、アメリカ合衆国大統領との首脳会談を行う予定です」
再び、シャッター音が響く。
「会談では、日米同盟のさらなる強化、安全保障環境への対応、経済および先端技術分野での協力、エネルギー政策などについて意見交換を行う予定です。詳細については、今後、両国間で調整します」
麗は顔を上げた。
「私からは以上です」
直後、記者たちの手が一斉に上がった。
「それでは、幹事社から質問をお願いします」
司会役の職員に促され、記者席の前方にいた男性記者が立ち上がった。
「井上幹事長を処分しないのは、身内に甘い判断ではありませんか?」
「客観的な証拠が確認されていない段階で、疑惑のみを理由に処分することは適切ではないと判断しました。ただし、党運営の中枢にある幹事長であっても、調査の例外にはしません」
「井上幹事長が調査対象でありながら、幹事長職へ残るのはなぜですか?」
「八人への処分と、第三者機関の提言に基づく党内改革を実行する責任を負わせるためです。改革内容を井上幹事長本人が決めることはありません」
「総理と井上幹事長の間で、対立が起きているのではありませんか?」
「処分と調査方針について、井上幹事長から協力するとの回答を得ています」
「日米首脳会談の日程が、参議院の予算審議や採決と重なる可能性があります。総理が国会審議を欠席するのですか?」
「国会日程は、国会において決められるものです。政府としては、国会審議に最大限配慮し、総理の出発時刻や答弁体制について、国会側とも相談しながら適切に対応してまいります」
「予算案の成立より、アメリカ訪問を優先するのですか?」
「どちらも国政上、極めて重要です。現時点で一方を軽視するという考えはありません」
質問は途切れない。
汚職議員の処分。
井上幹事長への疑惑。
第三者機関の独立性。
日米首脳会談。
年度末の予算審議。
麗は一つずつ、言葉を選びながら答えていった。
◇
政朝は総理大臣執務室のテレビで、その会見を見ていた。
化女沼をはじめとする秘書官たちは、会見対応や関係各所との連絡で席を外している。
執務室には、政朝一人だけが残っていた。
窓の外はすでに暗い。
官邸の照明に照らされた雪が、夜空の中を白く流れている。
『あの女、まるで怯えておらぬな』
胸の内側から、サザレの声が聞こえた。
「麗だからな」
『そなたとは大違いだ』
「悪かったな」
画面の中では、麗が予算審議と日米首脳会談の関係について答えている。
三月二十七日。
それまでに、新年度予算案を成立させなければならない。
第三者機関の設置も進める。
党内の反発も抑える。
井上の動きにも注意しなければならない。
その上で、アメリカ大統領との会談に備える。
「あぁ……胃が痛い」
『まだ二月以上先なのであろう?』
「希超呂にも似たようなことを言われたよ」
『ならば、今から痛む必要はあるまい』
「そう思って痛くなくなるなら苦労しないんだよ」
政朝はテレビ画面から、窓の外へ視線を移した。
雪は東京の街を静かに白く染めている。
だが、政朝の前に積み上がっていく問題は、雪のように溶けて消えてはくれそうになかった。




